2013年11月29日金曜日

改めて実感したリアルの大切さ


私は仕事でもそれ以外のことでも、関係する人にはできるだけ直接お会いし、直接お話して、直接現場を見ることの大切さをいつも思っています。

あるきっかけで、九州地方の地元の事業者との交流会を経験したことがあります。農業や地元産品にかかわるお仕事の方々が多かったですが、自分勝手に思っていた「農家」のイメージに反して、若手の「経営者」というのがふさわしい方々が実はたくさんいらっしゃいました。地方ならではの苦労やハンディはあっても、それぞれが工夫し、IT技術など新しいものも活用し、できることから粛々と、でもイキイキと取り組んでいらっしゃいました。

こういう事情は、やっぱり実際に見て、お会いして、お話しないとわかりませんでした。また一度お会いすると親近感もわくし、知り合いということで情も出てくるし、人と実際につながることは本当に大事だと思いました。

ある会社の新入社員の女性から、学生の卒業旅行に関する話の中で聞いたのですが、彼女たちの同世代で特に男子は、「ネットで見ればわかる」とか「日本より不便だからイヤだ」などといって、海外旅行にはあまり行きたがらないそうです。

実際には見ていないのに、バーチャルの世界でわかったつもりになり、それで満足してしまっているということなので、何かとてもマズイ傾向ではないかと感じてしまいます。

確かに直に経験できることには限りがあるし、書物や映像やネットを通じての知識や経験も大事です。
でもやっぱり、それらはあくまで直接の経験を補完するものでしかないということを、あらためて意識しなければいけないのではないかと思いました。

リアルの大切さをあらためて感じた一件でした。


2013年11月27日水曜日

「その場しのぎ」は結局自分が損をする


 猪瀬東京都知事の現金受け取り問題で、ご本人が釈明している内容が二転三転するなどして、どんどん信頼感が薄れてしまっている気がします。道義的な責任は間違いなくあるでしょうが、罪になるほどかどうかは、まだわからないような状態にもかかわらずです。

ご自身がまったく把握していなかったのかもしれませんが、発言が「その場しのぎ」のウソに見えてしまうので、世間からの見られ方としては、ずいぶん損をしていると感じます。

皆さんの会社の中や自分自身の仕事上のことでも、「その場しのぎ」の対応というのは、どんな人でも一度や二度はやったことがあるかもしれませんが、ウソが後からバレて問題になったり、その場限りと思っていた人に再び出会って気まずい思いをしたり、信頼を失ったり、人間関係を壊したりと、結局自分が損することが多いはずです。

ただ、中には「その場しのぎ」の対応に終始するタイプの人がいます。
これは私の知り合いの話ですが、セールスに何でも嘘をついて断る人がいます。牛乳屋さんには「牛乳飲みません」、ふとん屋さんには「うちはベッドです」、畳屋さんには「畳の部屋がありません」という感じです。

一見その場をうまくやり過ごしているように見え、本人もそれで困ったことがないからそうするのでしょうが、もしかすると後々事情が変わって、その業者を利用しないとも限りません。同業者同士でつながっていて、巡り巡ってウソがばれるかもしれません。
バレたとしても大したことがないウソなので、どうでも良いことなのかもしれませんが、初めから余計なウソをつかずに、普通に「いりません」と断っていれば、こんなことを気にする必要すらないはずです。

「その場しのぎ」を多用する人というのは、私はちょっと想像力が欠けていると思っています。後でどんなことが起こる可能性があるのか、それが問題になるのかならないのかを考えることができていません。本人が知らない場所でトラブルになることもあります。
逆に想像力が十分に行き届いた「その場しのぎ」というのは、その時点でもうすでに「その場しのぎ」ではありません。

やっぱり「その場しのぎ」は結局自分が損をすると思います。


2013年11月25日月曜日

スキル向上につながる「人の真似」


楽天イーグルス元監督の野村克也氏のインタビュー記事に、ある大打者を真似することで、自分の打撃技術の向上につなげたというエピソードが出ていました。
初めにある名選手を真似してみたが、あまりしっくりこないので、別の大打者の真似に切り替えたらしっくりきたのだそうです。

また、これもある方からうかがったことですが、賞金王になったこともある有名なプロゴルファーの話で、なかなか芽が出ず成績も上がらなかった時期に、ある日自分で「この人を師匠にしよう」と見定めて頼み込み、ゴルフだけに限らず服装やしぐさから、レストランでオーダーするメニューまで、師匠のありとあらゆることを真似したそうです。
真似というより「本人に成り切ろうとした」と言った方が良いかもしれませんが、そうこうするうちに徐々に成績は上がり、ついには賞金王をとるほどまでになったそうです。

最近は、例えば就職先企業の条件に「教育研修の充実」を求めたり、上司が指導してくれない、教えてくれないという不満の声を聞いたりします。
もちろん会社の立場として、社員に教えるべきことは教えなければならないとは思いますが、一方で、「見て盗む」「人を真似する」ということを通じてこそ身に付けられることもあります。

昔ながらの職人さんや料理人は、「見て覚えろ」が基本だったと思います。それが理不尽で非効率な面はあったと思いますが、逆に手取り足取り指導したとしても、実際の手本となる人がおらず、見て学ぶことができなかったとしたら、その技術やスキルを身に付けることは難しいと思います。

自分より優れた相手を真似すれば、自分との違いが実感としてわかり、何が大事なのかということを自分で気づいていくことができます。自分はこうなりたいという目標や向上心を持つ人ほど、人の真似から学ぶことができるように思います。

意識を持って人を真似すれば、自分のスキル向上につながることはたくさんあります。教えてもらうことを待つばかりでなく、「教えてくれないなら見て盗む」という姿勢は、成功者の体験から見ても大事なことだと思います。


2013年11月22日金曜日

「評価段階の数」を議論した時の話


会社での人事評価の方法で、よくあるのは「5段階評価」ですが、会社によってその考え方は無限にあり、各社が工夫をしながらやっています。

例えば、
●何でも標準、普通、まん中と評価しがちなので、それをさせないために4段階評価(または6段階評価)
●標準、普通と評価される人数が多いが、その中には良い普通と悪い普通があるから、それを分けて全部で7段階評価
●評価段階の境目に近い人に損得が出るから100点満点の点数制(要するに100段階評価)

など、内容はいろいろですが、その多くは、一般的な評価誤差としていわれる「寛大化傾向(評価全般が甘くなる傾向)」「中心化傾向(何でも中心に評価して差をつけない傾向)」を改善しようと考えています。

ではそれが効果的なのでしょうか?
これは私が経験した例ですが、ある会社でまん中を無くす4段階評価を導入したところ、評価平均が上がってしまう「評価のインフレ化」が起こってしまいました。今までまん中についていた人の評価が、上にシフトしてしまったということです。
それではダメだということで、様々な指導や通達をしたところ、今度は評価平均が下の段階にシフト。結局評価がしにくいという話になって、もともとやっていた5段階評価に戻したということがありました。

他の例でも、変えてみたが思ったような評価分布にはならず、結局元に戻したり、さらに試行錯誤を続けたり、ということが多かったです。
あくまで私の経験の範囲なので、参考程度に捉えて頂ければと思いますが、私自身は、「結局どれも大差ないし、画期的な効果もない」と考えています。なので、私が人事制度構築をする際には、一般的な「5段階評価」とすることが多いです。

評価結果の偏りというのは、基本的に「評価基準のあいまいさ」「評価者のスキル不足」「部下の仕事内容やパフォーマンスの理解不足」などが原因で起こります。これを放置したまま、評価段階の数で分布を操作しようとしても、結局裏読みのばかし合いのようになってしまいます。

評価誤差の中には、結果ありきで考える「逆算化傾向」というものがありますが、こんなことも含めて、小手先の制度の操作ではあまり効果がないということでしょう。

・・・ということで、ありきたりの結論ではありますが、起こっている現象についての原因をしっかり把握し、その原因に見合った対処を制度と運用の両面から行うことが大切だということです。
“評価段階の数”の議論も必要なことではありますが、小手先の駆け引きにならないように、くれぐれもご注意ください。


2013年11月20日水曜日

ある意味納得されなくて当然の人事評価結果


この時期、ボーナスに向けた人事考課もそろそろ終わり、評価結果が確定したという会社も多いと思います。

人事制度では「評価への納得性」ということはとても重視される項目です。様々な基準や手順を決めて公正さを担保する、個別に結果説明をする機会を設けるなど、納得性を高めるために、いろいろな取り組みを行います。

しかしその結果として、必ずしも納得が得られる訳ではありません。どちらかといえば納得を得られないことの方が多いのではないかと思います。

先日もある知人から、自分の評価に対する不満の愚痴を聞きました。
自分を評価する上司に対して
「現場を見ていないくせに・・・」
「技術を知らないから大変さが理解できない」
「自分ができないくせに人には要求する」
「えこひいき」
「自分の保身」・・・・

いろいろ言っていましたが、こんな話は他の方々もきっとたくさんの経験があると思います。

この知人の境遇や心情にはとりあえず同情しますが、第三者として冷静に見た時、例えばこの上司がしっかり現場を見ていたとしたら、評価結果に納得するのかというと、たぶんそうはなりません。
技術を勉強して知識豊富になったとしても、たぶん納得はしないでしょう。そもそも本当に現場を見ていないのかも、技術を知らないのかも、評価された本人の言い分だけなので、実際のところはわかりません。

そもそも「評価への納得性」を得ることが難しいのは、それが本人の主観や感情に左右される部分がとても大きいからです。

人間は褒められるとうれしく、叱られることには基本的に耐えられないと言われます。人事考課の中でいえば、自己評価よりも高く評価されれば、それは褒められたことと同じ、自己評価よりも低く評価されれば、それは叱られたこと、けなされたこと、ダメだしと同じです。

心理学では有名な「ロサダの法則」というものがあり、それによるとポジティブなこととネガティブなことの比率が3:1以上であると、人間はポジティブな感情を持ち続けられるのだそうです。「3回褒めたら1回叱っても良い」というような感じです。

人事考課での評価結果がこの比率になることはほとんどないでしょうから、評価結果をポジティブにとらえることはとても少ないということになります。こんな心理学の側面から見ても、人事考課の結果には納得できないのが、ある意味当然ということになります。

これを少しでも良い方向に向けるには、評価結果にまつわるポジティブな要素を増やしながら、本人へのフィードバックを行っていくしかありません。
「納得されなくて当然」という前提のもとに、制度面でも運用面でも、できることを少しずつやっていくしかないように思います。


2013年11月18日月曜日

「発言力」の根源は正当か


権威ある美術展覧会の日展(日本美術展覧会)で、不正な審査が行われていた疑いが出ています。
書道界の重鎮が「書」の一部門で、有力会派に入選者数を割り振るよう審査主任に指示していたということです。

この報道に関して、ちょっと興味深く感じたコメントがありました。
それは「芸術家には一般的に純粋な人が多いので、少数の野心家に牛耳られやすい」というお話でした。不正など考えもしないような純粋な人たちの集団では、不正を画策するような人をチェックする周りの目も、牽制して張り合うような人もいないので、そういう行為が助長されやすいということだと思います。草食動物の集団の中に混じった肉食獣のような感じかもしれません。

これと同じようなことは、集団や組織という中では、いろいろな所であるような気がします。
例えば、女性同士のちょっと陰湿な関係は、当事者の女性でも多くの人が嫌がりますが、ごく一部にそんな動きを取る人がいると、その雰囲気が全体に波及してしまうことがあります。

会社であれば、経営者や上位の管理職など、発言力が強い人の意見に全体が引きずられてしまうことがあります。経営者の発言力が強いのはある意味当たり前ですが、よく見受けられるのは、「業績を上げている」「結果を出している」という理由で、経営者や上司に一目置かれている人が強い発言力を持っているような場合です、

「業績を上げている」ということも「結果を出している」ということも、とても重要で素晴らしいことですが、往々にしてあるのは、そういう人は自部門や自分が関わることには一生懸命ですが、必ずしも会社の全体最適という視点では物事を見ていないことがある点です。

ある会社でのことですが、やはり業績を上げ、結果を出しているという理由で上司から認められ、順調に昇進していった人物がいましたが、ある時期からその人が担当する部門の業績が徐々に下がっていきました。
そもそも業績というのは浮き沈みがあるものですが、その人は自分の発言力の低下を恐れて、業績低下を自分の部下のせいにし始めました。

部下の心は離れてしまい、その部門の業績はさらに下がっていきましたが。経営陣はその人の言い分を受け入れ続けたために、結果的に問題解決を先送りすることとなってしまい、その後会社全体が危機的な状況に陥ってしまいました。

発言力がある人の意見が正解とは限りませんし、そもそも発言力の根源が正当なものとも限りません。そんなことも考えながらの組織運営が必要だと感じた一件でした。


2013年11月15日金曜日

面接でわかった適性テスト結果の矛盾


新卒採用を行う中で、最近あったエピソードです。

ある応募学生の適性テスト結果が、ちょっと不思議な結果でした。基本的な素養が総じて高い人でしたが、唯一「積極性」という項目の点数が、あまり見たことがないくらい、やけに低いのです。

一般的な例であれば、そういうタイプの人は、「積極性」とつながりが深い、「行動力」「活動性」といった指標も比例して低いことが多いのですが、その人についてはそんな関連性がまったくありません。一見、矛盾しているように見えてしまう結果です。

テスト結果だけからすると、次の選考には進めない可能性もありましたが、話を聞いてみようと面接にお呼びすることになりました。

実際にお会いしてお話を伺ってみると、ハキハキしていて受け答えも的確で、なかなか優秀な印象の方です。しばらくお話を伺った後、ストレートに適性テストの結果のことを聞いてみると、一瞬「ああやっぱり・・・」という表情をして、そこでお話してくれたのは、「初めの一歩が苦手」ということでした。

全面委任で「何かやれ」と言われたり、自分でまったく経験のないようなことがいきなり降ってくるような状況だと、初めはものすごく躊躇してしまうのだそうです。ただ、それに対して自分でいろいろ調べたり、人に聞くなどして、どうすれば良いかが自分なりに整理できると、その後はどんどん自分から行動していくことができるのだそうです。

適性テスト結果で矛盾に見えたことが、お話を聞くとまさにテスト結果の通りで、「なるほど!」と納得してしまいました。その方とは最終的には残念ながらご縁がありませんでしたが、選考する立場としてはとても勉強になりました。

新卒採用の中では、ともすれば適性テスト結果や応募書類を見ただけで、自分の過去の経験に基づいて、その人物をわかった気になってしまうような採用担当者がいます。
企業側の時間的な制約から、書類選考という形も取らざるを得ないので、多少はやむを得ない部分がありますが、どんなに経験豊富な担当者であっても、会わなければわからないことは確実にあります。

良い人材に出会いたければ、やはり「可能な限り直接会う」ということが大事だと、あらためて感じた一件でした。


2013年11月13日水曜日

会社と社員は「お互い様」のはずだが・・・


「自分の食いぶちくらい自分で稼げ!」というハッパのかけ方をする社長さんや管理職っていますよね。すこぶる正論だとは思うのですが、もし私が社員としてこう言われたとしたら、たぶん確実に言い返したと思います。「だったら独立して自分でやりますよ!」って・・・。

会社に入る、組織に属するということは、自己判断や自分の裁量の一定部分、要は自立心の一部を会社に提供するのと引き換えに、一定の生活安定や報酬を得るということです。だから仕事があってもなくても決まった時間に出社しなければならないし、仕事時間中に自分勝手に抜け出してはいけないし、会社、組織、上司の指示に基づいて働かなければなりません。あまり良い言い方ではありませんが、「自分の食いぶちを稼ぎきれなくても、他の誰かに稼いでもらう」というリスクヘッジのための会社勤めということがあるでしょう。

もちろん組織に属することで得られる、自分にとって都合の良いこともたくさんあります。
「自分だけでは作れない仕事環境を用意してもらえる」
「会社の看板やブランド、人脈が使える」
「会社に蓄積されたノウハウが使える」
「会社が予算を用意してくれる」など、
 会社にいるおかげで自分の仕事が成り立つという面があります。「会社にいれば自分の食いぶちは稼げるが、自分一人だけではそう簡単には稼げない」ということです。

私が考える会社と社員の関係というのは「お互い様」の関係だと思っています。会社は社員がいるから稼げるわけだし、社員だって会社があるから仕事ができるわけだし、それぞれの立場で、組織のおかげで一人ではできない大きなビジネスができます。

経営者や管理職の「自分の食いぶちくらい自分で稼げ!」という言い方は、他人に頼りすぎないという心構えとしてはアリですが、これを本気で社員に要求しているとしたら、組織に属していること自体を否定しているように聞こえてしまいます。会社は社員を“雇ってやっている立場”で、社員はそれに報いるために“働かなければならない立場”という主従関係の考え方です。「お互い様」ではありません。

最近は“ブラック企業”など、「お互い様」の精神ではない企業が増えているようです。でも会社と社員の「お互い様」の関係を軽く見ていると、いつか大きなしっぺ返しが来るように思います。


2013年11月11日月曜日

変化の中で相対的に得られた付加価値


仕事の移動中のすきま時間に、よくカフェを利用します。
最近はスターバックスのシアトルスタイルをはじめとした新しい形態の店が増え、昔ながらのフルサービスの喫茶店はずいぶん減りました。

ただ、このところ私は、この昔ながらの喫茶店も結構利用しています。値段は多少割高であっても、何となく落ち着き感が違うので、たまにそういう空間を求める時があります。昔ながらのスタイルに付加価値であるという感じです。

客層を見ていると、懐古志向だろうと思われる年配世代がいる一方、昔のことなんてたぶん知らないであろう若い世代もたくさん来店しています。“古さ”が逆に新鮮な感覚なのかもしれません。

ちょっと考えてみると、この付加価値は、自分たちで作り上げたというよりは、自分たち以外の周りがどんどん変化、多様化し、いろいろなスタイルが出てくる中で、つらさや困難を克服しながら今まで通りの形を守ってきたら、結果的に付加価値が生まれてきたというように感じます。

自分たちで仕掛けた付加価値というよりは、工夫と努力で淘汰を生き残ってきたら、全体の環境の中で、相対的に付加価値がついてきていたということです。

もちろん古いスタイルの店でも、メニューが今風にアレンジされていたり、内装が工夫されていたりしますから、基本的なスタイルは「変えないもの」として貫きながら、新しいものを導入していったということだと思います。

事業の成功の秘訣として、ある人は「常に変化すること」といい、ある人は「あきらめずに続けること」といったりします。
たぶんどちらも正解で、「常に変化すること」とおっしゃる方にも、きっと変えずに守って来たものがあるでしょうし、「あきらめずに続けること」とおっしゃる方でも、同じく変化を求めて見直してきたことがあるはずです。

結局は「状況に応じた適切な判断が大事」ということになってしまうのでしょうが、何でもかんでも自分たちから仕掛けるばかりでなくとも、周りが変化していく中で、相対的に自分たちの付加価値が上がっていくこともあるんだと確認した一件でした。


2013年11月8日金曜日

ある会社で思い起こした「北風と太陽」の話


ある会社でうかがったお話ですが、その会社の運営の中では、何かと基準、ノルマ、罰則が多いのだそうです。中には子供のしつけにあたりそうな内容のものまであるようです。

厳格な社長様の考え方に由来するようですが、社員の立場としては、わりと細かいことまで決め事や報告義務があったりするので、相応の締め付け感もあり、上司からは褒めることもしづらかったりするなど、何かと弊害があるのだそうです。

この話を聞いていて、私はイソップ童話の「北風と太陽」の話を思い出しました。
ご存知の方は多いでしょうが、北風と太陽が力比べで、旅人の上着を脱がせることができるかという勝負をすることになり、北風は力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとするが、旅人は寒さのために上着を押さえてしまって北風は脱がせることができず、太陽がさんさんと照りつけると、旅人は暖かさのために、自分から上着を脱いで勝負は太陽の勝ちになったという話です。

この会社では、まさに北風的な罰する態度での施策が多いと感じ、もう少し太陽的な寛容さを持った施策があっても良いと感じました。

当初私が思ったのはここまでだったのですが、ちょっと調べてみたところ、この童話には私も知らなかった、また別の話があるのだそうです。

北風と太陽の最初の勝負は旅人の帽子をとることで、太陽がさんさんと照り付けると、旅人はあまりの日差しで帽子をしっかりかぶって決して脱がず、北風が力いっぱい吹くと帽子は簡単に吹き飛んでしまい、勝負は北風の勝ちだったそうです。旅人の上着を脱がす勝負は、実はその次に行った勝負だったのだそうです。

この話の本当の教訓は、「一度うまくいったからといって他でも同じようにうまくいくとは限らないから、しっかり状況を見据えて適切な手段を選ぶ必要である」ということなのだそうです。

この教訓を知った上であらためて、お話を伺った会社の話題に戻って考えてみると、確かに締め付けが良くないといって、それをただ緩めるだけでは、きっと違う面で新たな問題が出てしまうようにも思います。今行われていることにも、何かそれなりの理由があるのでしょう。

「何事も一面的に見て判断してはいけない!」
小さなきっかけから、良い勉強をさせて頂いた気がします。


2013年11月6日水曜日

不採用者ほど必要な気づかい


採用活動の中では、どんな企業でも「良い人に巡り合いたい」「優秀な人を採用した」という気持ちで取り組んでいると思います。ごく自然な感情でしょう。

ただ、人を採用しようとする中では、数十人の応募者に対して採用は数人というように、採用する人数以上の不採用者を出すことが多いのではないでしょうか。しかし、この不採用になった応募者への対応に気をつかっている会社というのは、案外少ないと感じます。

例えば、特に新卒採用などでありがちなのが、「合格の場合だけ連絡します」というものです。「ある期限までに連絡が無かったら、不合格だと思って下さい」ということで、不合格者には通知しないということですが、私はこれは大変に失礼なことだと思います。

まず、この「不合格者には通知しない」というのは、採用担当者の手間を省くということ以外に理由はなく、会社側の一方的な理由にしかすぎません。
しかし、採用試験への応募者というのは、わざわざ自社のことを調べ、労力も時間もお金も使ってわざわざ来てくれた人達です。こちらの都合で結果連絡すらしないというのは、あまりに礼を失していると思います。

もう一点、採用される人というのは、これから社員として時間をかけて関係作りをしていくことができる相手です。不平不満や誤解があったとしても、それを解消できるだけの時間的余裕があります。

これに対して、不採用者は社員ではありません。先方からのアクションが無い限り、何かあってもフォローすることはできませんし、あくまで社外の人ですから、将来の顧客や取引先になることをあり得ます。

そう考えると、実は不採用者に対する方が、より多くの気づかいをする必要があるということです。非礼や不満、誤解を解く機会はありませんから、そういうことが起こらないようにしなければなりません。誰が採用で誰が不採用になるかはわかりませんから、採用選考中の応募者には分け隔てなく、丁寧な接し方を心掛ける必要があります。

不採用者への気づかいというのは、例えば一般消費者を相手にしているような企業では、「応募者である前にお客様である」という意識が徹底しています。顧客対応に準じる小まめな対応をしています。

また、私が知っているある企業では、最終面接での不採用通知については、必ず不採用理由と評価していたポイントを記した手紙を送っているところがあります。本当に紙一重の差での判断であり、自社基準の勝手な判断なので、くれぐれも自信喪失をしないでほしいという気持ちを伝えたいからということです。またそういう姿勢は、採用活動全体を通じて応募者にも伝わり、会社への志望度を高める効果につながっています。

入社してくる「社員」にチヤホヤし、不採用にした「社外の人」をないがしろにするというのは、顧客に向けたビジネスをする姿勢としておかしいはずですが、採用活動では今でも平気で行われるところがあります。

今一度、自社の「不採用者への気づかい」を見直して頂けると良いと思います。


2013年11月4日月曜日

誰にでも同じに接する謙虚な社長


以前、「私には尊敬する人がいないし、座右の銘もない」と書いたことがありますが、「尊敬できるところがある人」にはたくさん出会っています。自分なりに「こうありたい」という理想として、影響を受けたこともあります。

今までお会いしたことがある方で、結構有名な企業の社長様の何人かから、同じような印象を受けたことがあります。それは、相手が年上だろうと年下だろうと、誰にでも同じ接し方をされ、謙虚でいばらないという姿勢です。

どんなに知り合いであっても、基本的には敬語でお話をされ、自社の新入社員でも、みんな「さん付け」で呼びます。いろいろな人がいる公の場だからという意識もあるかもしれません。
これを他人行儀、フレンドリーじゃない、なんていう人がいるかもしれませんが、ご本人の表情や雰囲気が、そんなことをまったく感じさせません。

いつも相手からの話を聞いていて、意見を求められればそれについての考えは話しますが、それを押し付けるような言い方はしません。自分の話ばかりを一方的にすることもないし、聞かれていないのにああすべきこうすべきというような事も言いません。
威圧感がなく、温和で穏やかですが、自分から周囲の人たちにどんどん声をかけ、その場での存在感は絶大です。

人間というのは、どこかで他人に認めて欲しいし、注目もされたいし、褒められもしたいものです。私自身も謙虚な聞き上手でいたいと思っていますが、気づけばそうなっていないこともたくさんあります。ついつい自分の自慢や一方的な考えを話していることがあります。

この社長様たちも、もっと深く付き合っていけば、もしかしたらそういう面もあるのかもしれません。経営者というのは、ただでさえ「俺が俺が」となりがちな人も多いですから、むしろそちらの方が当たり前でしょう。

ただこの社長様たちを見ている限り、本当に自然体でそういう面がまったく感じられず、またそういう雰囲気を醸し出さないという次元が、今まで私が見てきたものや経験してきた感覚とはまったく違っていました。

こういう方々の様子を見ていて、実はこんなところこそが、リーダーになる上での必要な素養なのかもしれないと感じました。

経営者、社長、リーダーというと、概して主張が強く、強引さも持ちながら、周りを巻き込んでぐいぐい引っ張っていく、先頭に立って走る、俺について来いというタイプを想像しがちですが、そんなスタイルだけがリーダーシップではありません。

この社長様たちは、ご自分の人格、振る舞いによって周りの人たちから得る尊敬と信頼をもとにしたリーダーシップではないかと思います。そうやって周りの人を巻き込み、協力者を増やし、やる気を与えていくことで、いろいろなビジネスを成功させているのだと思います。

たぶん誰にでもできることではありませんが、こういう素養や一人の人間としての態度には憧れを持ちますし、私もできることなら少しでも近づきたいと思います。
まずはそういう心構えを持つことと、行動を真似することから始めていきたいと思っています。


2013年11月1日金曜日

「無気力なリーダー」の無気力な理由


ある日の昼食時、私の隣の席にサラリーマンらしき二人組が座りました。同じ部門の先輩と後輩のようです。

どうも自分たちの同僚らしい他のリーダー(仮にAさんとします)の話が始まりました。

後輩:「この間、Aさんの部下のBが『これも調べるんですか?』って聞いてきましたよ」
先輩:「そこ自分で調べなきゃ、できるわけないじゃん・・・。Aがちゃんと指示してないんだろ?」
後輩:「そもそも期限とか、どこまでやるとか、いつもちゃんと指示してないですよね・・・」
先輩:「だいたいやる気がないんだよ。無気力だし・・・」
後輩:「そう見えちゃいますよね」
先輩:「こんなやり方してたらうまくいくわけないんだよなぁ・・・」

一方的な話なので真偽のほどはともかく、お二人の話からすれば、どうもAさんはリーダーとしてやるべきことをやらない、無気力な人のようです。
このリーダーAさんは、なぜそんなにやる気がなくて無気力なのか、思いつくままに理由を挙げてみました。

● 本人としては一生懸命やっているつもりだが、周りからはそう見えない。
● もともと能力不足だったのに、過大評価やその他の事情でリーダーにしてしまった。
● リーダーかどうかに関わらず、そもそも無気力でやる気がない人だった。
● 何かをきっかけにして、無気力になってしまった。

本人の能力不足と周囲の見込み違いが大半なのかもしれませんが、私がいろいろな企業の組織改革をお手伝いする中で、「原因がある無気力」という問題に行き当たることがあります。
「やろうとすればできるのに、あえて手を出さない」
「直接責任があること以外のよけいなことはしない」
「どうせやっても変わらない」
「そこまで関わる気力はない」
「もうあきらめている」
といった発言、振る舞いを見ることは、どんな組織でも多かれ少なかれあります。
「学習性無気力」といわれるものです。

これに関しての有名な話は「カマスの実験」です。
水槽のカマスとエサの間をガラス板で仕切り、カマスがエサを見つけて食べようとしても、ガラス板にぶつかってエサを食べられないことを繰り返すうちに、エサを見ても反応しなくなる。その後ガラス板を外してもカマスはエサを取ろうとせず、「どうせやってもムダだ」ということを学習して行動しなくなります。

そしてこの解決方法は、「新しいカマスを水槽に入れること」だそうで、彼らは普通にエサを取ろうとし、それを見た“無気力なカマス”は、「なんだ、食べられるのか!」それまでの学習から解放されるのだそうです。

「言ってもやってもムダ」という環境にいると、気力は少しずつ低下し、やがて完全な無気力状態になってしまいます。これはカマスも人間も同じです。

この話の中のAさんがどんな状況かはわかりませんが、もしも学習性無気力ならば、“やればできる”、“無気力は損をする”ということを、周りの誰かが見せつけることで改善されることもあるように思います。

話していた同僚のお二人にも、できることがあるかもしれません。