2014年11月28日金曜日

「変えられない人」の3つのタイプ


自分の行動を「変えられない人」がいます。
周りの人たちを見ていると、軸は持ちながらも柔軟性があって、いろいろな意見を取り入れながら変革していく人がいる一方、あまり他人の意見に耳を貸さず、自分の考えを変えようとしない人がいます。私はこの多くの場合、「変えない」のではなく「変えられない」のだと思っています。

「変えられない人」には3つのタイプがあります。
一つ目は、文字通り「頑固な人」です。
説明するまでもありませんが、他人に指図されるのはイヤ、自分の考えることがすべてというような人です。ご本人は「他人に左右されない筋が通った人間」で、「変えない人」と思っているかもしれませんが、本質的には性格、資質として「変えられない人」なのだと思います。

二つ目は「思い込みの強い人」です。
一つのことに対して、「これだ!」と思い込んでいるので、他の選択肢は眼中になく、そのことだけに固執していて変えることができません。その反面、自分にこだわりがないことや興味がないこと、自分にとってどうでもいいと思っていることに関しては人任せなので、一見すると柔軟さがあるように見えますが本質は違います。やはり視野が狭いということになるのでしょう。

三つ目は「変えることを怖がる人」です。
これは環境変化や変革、その他変えることそのものが怖いという人です。保守的ともいえますが、そう見える人の中には、意図的に「変えない」という選択をした人がいますから、その人たちを除くと、「怖がりで変えられない人」が残ります。

これには、例えば資料の見直しや再検討を指摘して、その場では「わかりました」と持ち帰るものの、次に確認すると結局直していないという人がいます。持ち帰って考えてみたがやはり元のままが良いと言い、その理由をいろいろと並べます。またそういうことが頻繁にあります。

初めから変える気がない人は、簡単には持ち帰ろうとせず、それなりの議論になりますが、「変えることを怖がる人」は、その場ではあまり反論もせず、納得したかのように持ち帰ります。
しかし、結局はほとんど何も変えずに、ほぼ同じものをまた持ち出してきます。自分の経験範囲が狭かったり、経験度が浅かったりするために、結果の見通しを立てる事ができず、変えることが怖いのだと思います。

仕事をしている中で見ていると、この「変えることを怖がる人」が実は一番多いのではないかと思っています。そしてこちらの意図したことをやってもらえないということでは、3タイプの中でも最も行動が読めず、困ることが多いのではないかと思います。

「変えられない人」を良く観察していると、こんな三つのタイプが見えてきます。いくつかが合わさっている人もいるでしょう。
そしてこうやって分類してみると、それぞれのタイプごとの対処方法が違ってくるのではないかと思います。「変えられない人」はただ頑固なだけではありません。


2014年11月26日水曜日

嘘をつくつもりがなくても、嘘になってしまう時がある


 「嘘も方便」などといい、それを実践するかのようにうまく立ち回る人がいます。
幸か不幸か、私の周りにはいませんが、そういう人に関するうわさ話を聞くと、やはりどこかで恨みをかったりトラブルを起こしたりして、結局は縁が切れてしまうことが多いようです。

顧客、社員、その他関係者からの信頼を失い、周りから人が離れていき、少なくともその当事者間では、ビジネスそのものが成り立たなくなってしまいます。中長期での安定した関係が築けないということで、やはりビジネスの上での嘘は禁物だと思います。

国内の商慣習であれば、嘘を言ってまでも儲けようという人に出会うことはほとんどありません。正直にビジネスをしている人が9割以上だと思います。
そんな中で、ある会社の社長さんが新入社員にされていた講話で、「嘘をつくつもりがなくても、結果的に嘘になってしまうことがある」というお話をされていました。

例えば、相手の言うことを深く確認せずに思い込んだまま、「わかりました」などと安請け合いをしてしまい、もしも意図が食い違ったままに物事が進んで行って、その食い違いがどこかで発覚すると、初めに言った「わかりました」という言葉が、「実はわかっていなかったじゃないか!」と、相手にとっては嘘をつかれたことになってしまう、というようなお話でした。

本人には嘘をつくつもりは全くなく、相手も嘘をつかれるとはまったく思わず、お互いにまったく悪気はなくとも、少しのコミュニケーションギャップを放置しただけで、それが嘘につながってしまうようなことがあるということです。

この話を聞いた時、私自身もドキッとしてしまいました。お互いの思い込みによる行き違いというのは、大きなことから小さなことまで、いろいろな場面で経験していますが、それが「結果的には嘘をついたことになる」とは、思ったこともなかったからです。

単にコミュニケーションの行き違いだと軽く考えていると、それが意図していなかったとしても結果的に嘘となり、嘘はそこから信頼を失い、人との縁が切れ、ビジネスが成り立たなくなる恐れがあるということです。

一つ一つは小さなことでも、コミュニケーションギャップや勝手な思い込みが起こらないように、認識合わせを細かく行なうことの重要性を、あらためて感じた一件でした。


2014年11月24日月曜日

「森林の手入れ」と「組織作り」に共通する世代交代の話


テレビでコメンテーターなども務められている、東京都市大学教授で造園家の涌井史郎氏が講演で話されていたことが印象に残りました。

森林の世代交代という話をされていて、それは「森林で古い木が幅を利かせていると、木の世代交代が行われない」ということでした。
古株の大きな木が枝を張っていると、下まで光が届かないために、新しい木が育たないのだそうです。
この古くて大きな木の枝を適度に剪定することで、下まで光が届くようになり、森林の世代交代ができるようになって、林業で持続的に森林を利用することができるのだそうです。
里山などに適度に人の手を入れることで、多様な生態系を保つことができるという話を聞いたことがありますが、これと同じことのように思います。

涌井氏はこれを企業の組織作りにもあてはめ、実は同じようなことがあるのではないかとおっしゃっていました。世代交代ができていない組織は、古株の社員や幹部社員が権限を独占して、森林でいえば下に届く光にあたる、若手社員や部下に渡すべき権限や業務上の経験をする機会を遮っているのではないかということでした。

私も最近いろいろな企業で、若手社員が育たない、成長が遅いという話を聞くことがあります。「今どきの若者は・・・」的なニュアンスで、若手社員を批判する声も聞きますが、これは一概に本人たちだけの問題ではないように思います。

例えば今の企業の人員構成は、特に大企業ではバブル期などで採用人数が多かった時期に入社した、40代中盤から後半の世代が多くなっています。
本来は自分たちの後進を育成しなければならない立場の人たちですが、組織上のポストの問題や本人たちの能力的な問題などから、相応の立場を与えられていない人たちが大勢います。

それが意味するところは、年令を重ねていっても、若い頃とあまり変わりばえのしない仕事をし続ける人がたくさんいるということです。本来は若手社員たちに経験させてもよい仕事を自分たちがし続けるということは、まさに下に届く光を遮っている状態になりますから、世代交代が滞ってしまうのも当然でしょう。

ただしこれも、いびつな人員構成に原因があるのだとすれば、中高年社員だけに責任を押し付けるのは、少しかわいそうに思います。どの木を切るのか、どの枝を選定するのかは、その時期や方法も含めて、企業全体として慎重に進めていかなければならないことなのだと思います。

これとは別の話で、日本の企業は一種類の木しか育てていない「単純林」のところが多いとおっしゃっていました。異質な人や変わった人は避け、均質化された同じようなタイプの人材を好みますが、それではイノベーションは産まれづらく、グローバル展開を進めていくには、多様性を持った「混交林」が必要だろうということでした。

木の集まりである森林と、人の集まりである組織という違いはありますが、その原理原則には共通した部分が結構あるように感じました。


2014年11月21日金曜日

素直すぎるマネージャーと頑固すぎるマネージャー


世の中には素直な人も頑固な人も、いろいろいます。
もしも相手が自分の部下や後輩だったとしたら、やっぱり頑固な人よりは素直な人の方が良いと思うのではないでしょうか。

ただ、これがマネージャークラスとなってくると、必ずしもそうではないように思います。
私もいろいろな会社でいろいろな方々とお会いしますが、その中には若いメンバークラスの方も経験豊富なベテランの方もいらっしゃいます。

ここでは感じるのは、やはり年令が上の人の方が、頑固な傾向が強いということです。あまりにも聴く耳を持っていないと、それはそれで困りますが、人生経験を積むほどに自分のこだわりが強まり、自分なりの考え方が固まり、頑固さが増していくのは自分自身に照らしてみてもわかる気がするところです。

マネージャークラスの人には、程度の差はあれ、こんな傾向の人が多いのではないかと思いますが、人生経験に基づく良い意味での頑固さなら、それは悪いことではないと思います。もちろん頑固すぎるマネージャーは、組織の中では問題なので、個人の意識も含めて気をつけなけれなならないところだと思います。

これとは反対に、素直なマネージャーというのは、実際にはあまり見かけません。マネージャーを担う人たちの年令的にも経験的にも当然なのだと思いますが、やはりそれでも時々出会うことがあります。

この素直なマネージャーというのは、一見よさそうに見えますが、実は困ることが多々あります。一言で言ってしまうと、上司に対しても部下に対しても優柔不断で、自分では決めようとしない傾向があるということです。

例えば上司として何か指示をすると、「わかりました!」といい感じで受けていきますが、そこから先がなかなかすんなりとは行きません。

よくあるのは、「部下からこんな意見が出た」「こんな反発があった」などと言って、「どうしましょうか・・・」などと相談をされます。それに対して提案したり指示したりすると、その時は明るい顔をして受けていきますが、しばらくするとまた違う話を持ち帰ってきます。

まさに上司と部下の板挟みになる中間管理職なので、かわいそうな立場とも言えますが、ここで一番問題なのは、その場その場で相手の言うことを素直に受け入れるだけで、自分の意志を持って物事をまとめるということを、一つもしていないということです。

新人クラスの一般社員であれば、上司は自分より上の立場の一方向にしかいませんから、そこに対して素直に対処することで、特に問題が起こることはありません。
しかしこれがマネージャーとなれば、自分の上下両方向に関係者がいます。この間に立つということは、当然のように調整能力が必要となる訳ですが、「素直すぎるマネージャー」は、それぞれの話を素直に聞いてそれぞれの話に共感してしまうため、この調整ができません。

人間性として、素直というのは良いことだと思いますが、組織のマネージャーという役割を考えると、何でも受け入れてしまうような素直すぎは考えものです。

素直すぎも頑固すぎも、偏りが大きいのはどちらも良いことではありませんが、マネージャーという役割から考えると、素直すぎるマネージャーというのは、なかなか厄介な存在のように思います。

「素直になるな!」とはなかなか言いづらいですが、マネージャーである限り、最低限の頑固さは必要のように思います。


2014年11月19日水曜日

「好ましいオフィス環境」で聞いた男女の感性の違い


ある会合で、シェアオフィスの運営会社の方からうかがったお話が、とても興味深いものでした。

シェアオフィスは、起業したての会社や個人事業主、小規模法人などが、複数の会社で同じスペースを共有するオフィスをいいますが、お話をうかがった運営会社は、主に女性を対象としたシェアオフィスを運営していて、最近は男性を対象にしたオフィスもやっているのだそうです。

そこで「シェアオフィスに対する希望で、何か男女に差があるのか?」と尋ねたところ、実はその視点は全く違うのだということでした。

まず男性の場合は、一人ひとりの区切られたスペースで、机やイスなど備品の環境、インターネットの環境、その他作業する上での使いやすさや機能の高さを望む傾向があるのだそうです。
あまり面識がないような人と共有するようなオフィスであれば、知らない人とは接しないで済む、仕事に集中できるような、パーソナルなオフィス環境を望む人が多いのだそうです。

これに対して女性は、一人きりにならない、みんなで話しやすい雰囲気であることが望まれるのだそうです。シェアオフィスというよりコワーキングスペースのような共働空間で、机やイスもそのような配置がされていて、周囲とのコミュニケーションが取りやすいかどうかが重視されるのだそうです。
男性の感覚とは正反対で、「仕切られていて話せないようなオフィスは嫌だ」というのだそうです。

私は男なので、男性の感覚には「なるほど、そうだな」と共感し、女性の感覚には「へぇ、そうなんだ」と驚きます。これが女性であれば、きっと私と反対の感じ方をすることが多いのでしょう。

ここで思ったのは、シェアオフィスに限らず、世の中のオフィス環境というのは、どちらかというとこの男性的な感覚で作られているケースの方が多いのではないかということです。

最近は、オフィスでのコミュニケーションを活発にする目的で、できるだけパーテーションを減らしてオープンな環境にしたり、ちょっとしたミーティングができるスペースを、細かくいろいろな場所に設置したりといったことがされています。

結果としては女性の感覚と同じ“コミュニケーションしやすい環境”なのですが、これは女性が言う「話せないようなオフィスは嫌だ」ということより、「もっとコミュニケーションを取らなければならない」という義務感のようなところから来ている感じがします。
本音では「取り立てて話す必要がないならそれで良い」という男性的な感覚に対して、「それでは仕事上好ましくない」といって引き戻しているような、そもそもの発想の起点が違っているように思います。

このところ、女性の活躍推進がいろいろな場面で言われていますが、こんな気づきづらい所にも、男性目線が主体の部分があるのだとあらためて思い、男女間でお互いに認識を深めていかなければならないことがまだまだあると感じました。

異性がお互いの気持ちや感性を理解するということは、本当に永遠のテーマのようです。


2014年11月17日月曜日

「女子アナ内定取消」に感じた会社と応募者の「入社前」への過剰な反応


日本テレビからアナウンサーとして入社内定をもらっていた女子大生が、その内定を取り消されたために裁判を起こしたという話題を見ました。

取消の理由が、「知り合いが経営する銀座の小さなクラブで短期間アルバイトをしていたこと」だそうで、「夜のクラブでのバイトがアナウンサーにふさわしくないのか」「バイト歴を就職活動時の自己紹介シートに書かなかったのは取消の理由になるのか」などを、会社の人事部と話し合ったものの不調に終わり、結局裁判に至ってしまったようです。

数年前には、新卒の内定取り消しをしながら即戦力の中途採用を行うなど、かなり乱暴な内定取り消しが問題になりました。今はこれほど極端な例はなくなりましたが、それでも主に直近の業績を理由にした内定取り消しは時々耳にすることがありますから、まったくの他人事とは言えないでしょう。

企業側からの内定取り消しというのは、そう簡単にできることではありませんから、会社が採用内定に関して慎重になるのは当然です。ただ最近は、そのためのチェックが少し過剰ではないかと感じることがあります。これは主にツイッターやフェイスブックなど、SNSの存在によるものが多いようです。

応募者のSNSに投稿されたパーソナルな情報について、それを閲覧している企業の話は結構な頻度で聞きます。投稿内容から面接時の話にウソはないか、仕事への姿勢や性格といったことの判断につながる内容をチェックしたりします。
「おかしな人を採らずに済んだ」などという話がある一方、掲示板への書き込み、SNSなどネット上でチェックする情報が多くなりすぎて、仕事が増えてしまったなどという嘆きも聞きます。

これは応募者の側でも、例えば新卒の就職活動であれば、以前のアカウントを削除して過去の素行が調べられることを防いだり、投稿内容によって見られる人を限定したりします。就職活動で不利に扱われてしまうかもしれない情報は、できるだけ隠そうとします。

採用担当者は、応募者に関する情報があるならば、できるだけ多くのことを調べたいと思うでしょうし、応募者からすれば、やましいことは何もなくても、何が好ましくないととられるかがわかりづらいならば、そんな情報は隠しておきたいと思うでしょう。そもそも自分のすべてが暴かれてしまうようなことが、うれしいはずはありません。

SNSなどネット情報のチェックは、お互いのミスマッチを減らすことにつながる面もあるので、すべてを否定はしませんが、どうも会社と応募者の間で、粗探しの化かし合いをしているような気がしてなりません。

ウソ偽りや犯罪行為はともかく、「入社前」の行動に対して、そこまで過剰な反応をすることが、果たして必要なのだろうかという疑問も感じてしまいます。


2014年11月14日金曜日

ピントがずれた積極性の扱いづらさ


最近耳にすることが多い企業内の人材に関する悩みは、「消極的で自分から行動することが少ない」「受け身」「指示待ち」という話です。

少し抽象的なニュアンスで“自律人材”“人間力”といったキーワードが出てきますが、要は「もっと自分から行動を!」ということのようです。
できることならいちいち指示をしなくても、自分で決めることと上司に相談することを適切に切り分け、自己判断のもとに行動ができるという人材が、望ましい人物像なのだと思います。

しかし、これはある会社で伺ったお話ですが、自分から積極的に行動し、自分からどんどん働きかけては来るものの、「適切な判断」という点で問題がある人材がおり、この人の上司がおっしゃっていたのは、「消極的な方がよっぽど良い」ということでした。どう指導するかということにかなり苦労している様子でした。

この人は他人からの指示を待たずに、とにかく自分から動き、周囲に対しても「ああしましょう、こうしましょう」と、自らいろいろな提案や働きかけをしてくるようです。
しかし残念ながら、そのどれもが今一つピントがずれているそうです。そのためにその人の提案を採用したり、仕事上の判断を任せたりということはなかなかできないそうです。

お話を聞いて思ったのは、「行動しない人を動かすより、行動する人を制御する方が難しい」ということです。

行動が消極的な人は、指示しなければ動かない代わりに、よけいなことをする懸念は少なくてすみます。
やるべきことが理解できていないために行動できないことはもちろんありますが、頭は働いていてやるべきことはある程度理解しているものの、慎重になりすぎていて行動できないという部分が数多くあります。行動する後押しをして、それがパターンとして身に付けば、その後はある程度自分から行動することができるようになります。

一方、自分から積極的に行動するがピントがずれている人は、そもそもやるべきことの理解や結果の想定など、考えていなかったり考え自体が浅いことが多いように感じます。
また、何をどこまでするかを周囲から見極めきれないところがあり、上司が気がついた頃には先走って取り返しがつかなくなっていたり、話がおかしな方向に進んでいたりします。途中経過が報告されればよいですが、ピントがずれているので、そのあたりもままなりません。

本人は、何が悪いのかを今一つ理解できていないので、何かことが起こる度に、考え方や行動の仕方をその都度指導するしかありません。また、先回りして行動を止めるようなことも必要になるので、上司も気が気ではありません。

前者は考えていること自体はそれほど間違っておらず、本人の意識や自信の問題も大きいので、経験させれば比較的早く解決することがありますが、後者は考え方や方法が間違っている訳ですから、業務能力そのものの問題になります。指導するには当然手間も時間もかかります。

日ごろは「なぜ動かない」「なぜ気が利かない」と嘆くことが多いかもしれませんが、これとは正反対の、ピントがずれた積極性を持った人材を扱う方がよほど大変です。
人材に関するお悩みの多くは、まだマシな部類なのかもしれません。


2014年11月12日水曜日

「活気がある会社とない会社」の間で見える一つだけの違い


いろいろな会社におうかがいしていると、活気があると感じる会社、活気がないと感じる会社の両方に出会います。やはり現場の活気の度合いは、業績にも比例していると思います。

活気の感じ方というのはあくまで主観になりますが、私が活気の有無を感じている大きな要素はたった一つだけ、周囲の人たちとの「コミュニケーションの量と質」です。

まず「コミュニケーションの量」に関して言えば、例えば私のような社外の人間が訪問した時、頻繁に挨拶される会社があるかと思えば、目も合わさず完全に無視される会社があります。
挨拶というのは、「存在を認識したと相手に伝える行為」なので、コミュニケーションの最も入口の部分ですから、挨拶のない会社では全体的なコミュニケーションの量が少ない場合がほとんどです。

しかし、挨拶されるから良いかというとそうでもなく、それだけを口うるさく指導され、義務的にこなしていると思われる会社があります。こういう会社も挨拶以外のコミュニケーションの量は不足する傾向なので、やはり活気があるとは言えない雰囲気になります。

また、静かで声が聞こないからコミュニケーションの量が足りないかというと、これも必ずしもそうではありません。今はネットを通じたコミュニケーションもありますし、各社員が仕事に集中していて静かな場合もあります。

ただ、コミュニケーションの量が十分で、活気があると感じる会社を見ていると、やはり何らかの適度な会話がされていることが多いと感じます。集中によって静かな場合は、個人個人の仕事が完全に独立しているということなので、一部の職種に限られるのではないかと思います。

では、会話を交わしていれば活気があるかというと、これまたそうでもありません。今度は「コミュニケーションの質」の問題があります。

職場での会話の内容を聞いていると、仕事に関する確認や認識合わせなど、業務に関係がある話をしていることもあれば、完全な世間話や雑談ということもあります。
雑談はお互いの関係を円滑にする効果もあるので、悪いことではありませんが、中に四六時中雑談ばかりという会社があります。

会話の様子だけを見ると活気があるように見えますが、度が過ぎた雑談は、仕事場の雰囲気としては緩み過ぎになります。気が散って手が遅くなる、ミスが増えるなど、生産性が低いことがありますが、やはりこれは「コミュニケーションの質」が悪いということになるでしょう。

活気というのは、その場の空気感でもあります。初めは強制されたものであっても、徐々にそれが定着し、「コミュニケーションの量と質」が伴って活気が出てくるということがあります。現場の状況に合わせて適切に対処すれば空気感が変わり、活気がある会社に変えられるということです。
逆に勤務時間中のムダ話が多いということで、雑談を制限したら他の必要な会話も減ってしまったというような例もあります。対処のしかたを間違うと、活気を失わせることがあるということです。

私がお手伝いするような人事施策の中には、こんな小さな取り組みも数多くあります。小さくて身近なことではありますが、現場の状況を客観的に見て、より良い対処をするのは意外に難しいことです。
活気があって業績が上がる組織作りにおいて、実はこのあたりが一番大切な部分ではないかと思っています。


2014年11月10日月曜日

罰を受けることが「責任を取ること」なのか?


大阪観光局が今年4月に開催した国際音楽イベントで、約9400万円の赤字を出してしまい、うち2700万円を実行委員長だった局長が、自費で補填していることがわかったそうです。
イベント計画や収益予想などは外部業者任せで、チケット収入が見通しの2割に低迷するなど、チェック機能が働いていない面があったようで、「税金には手をつけられない」というのが自費補填した理由のようです。

この大阪観光局は、大阪府と市、地元財界が出資して設立された組織とのことで、大阪市長などは今回の件を、「すごい責任の取り方だ」などと評価しているようですが、議会からは「自己負担したからといって責任を取ったことにはならない」などと批判する声も上がっているようです。

人間が社会生活をする中で、何か行動を起こせば、そこには何かしらの責任が発生します。それに対して「失敗したら責任が取れるのか」などと問いかけられたり、起きてしまった失敗や不祥事に対して、「責任を取れ!」と責められたりすることがありますが、具体的に何をどうしたら「責任を取ること」になるのかを考えると、意外に難しい気がします。

例えば、会社で仕事上の失敗をしてしまったとして、「責任を取ること」を考えたとしたら、いったいどんな方法があるでしょうか。

一般的にみられるのは、まず謝罪から始まり、以降は失敗の情状に応じて減俸や降格、左遷のような異動、それでもだめなら最終的には辞職となることが多いと思います。この流れというのは、実は就業規則などに書かれている懲戒処分の流れと、とても良く似ています。「責任を取ること」イコール「自分自身に課す懲戒処分」のようになってしまっていると思います。

しかし、これが本当の意味で「責任を取ること」になっているのかを考えると、私はどうもしっくりきません。

自分の行動で引き起こした失敗に対しては、金銭的な損失を補てんしなければならないことも確かにあるでしょうし、自分がいなくなることでしか解決できない状況であれば、辞職することもやむを得ないでしょう。

ただ、本来あるべき「責任を取ること」というのは、それだけではないと思います。
「責任を取ること」の中には、「失敗を反省すること」「失敗から学ぶこと」「失敗を次に活かすこと」など、失敗にどう向き合うかという内面的、精神的な部分があります。そこに向き合う姿勢や態度といった、周りの人たちから見た主観的な部分もあります。

どうも最近は、罰を受ければそれで責任を取ったことにしてしまう傾向が強く、謝ればよい、お金を払えばよい、辞めればよいというような、「罰さえ受ければ責任は取った」と開き直ってしまう風潮を感じることがあります。

したくてもできない状況はもちろんあるでしょうが、自分の失敗に真摯に向き合い続けることこそが、本当の意味で「責任を取ること」になるのではないかと思います。


2014年11月7日金曜日

誰もが陥るかもしれない「自覚なきプラック社員」


ブラック企業という言葉はもう定着した感がありますが、これに対して、まったくやる気がない、仕事をしようとしない、ハラスメントのような問題を起こすなど、周囲に悪影響を及ぼす、組織に不利益をもたらすような人たちを指して「ブラック社員」と言うことがあるようです。
自分の周りにいる具体的な顔が浮かんでしまうような人も、結構いらっしゃるかもしれません。

会社にとって、この「ブラック社員」は悩みの種ですが、私がいろいろな会社を見ていて気になるのは、本人の自覚がないままで、結果的に「ブラック社員」的な行動をしている人を見かけることが、結構多いということです。

会社に雇われる立場であれば、会社への文句や愚痴は、多少なりとも誰でもあると思いますし、私自身の行動を振り返ってみても、そうやって思っていたことはずいぶんたくさんありました。

ただ、この会社への文句や愚痴が、度をこして過剰と思える人がいます。社外の場所で、仲間同士の間で言い合っているうちはまだ良いですが、これを社内で、しかも仕事中であっても構わず、あからさまに言い始める人がいます。

管理職の立場であるにもかかわらず、部下に対して会社批判を露骨に話したり、新たに入社した人に対して、「自社ではいかに問題が多いか」という話を延々として同意を求めたりします。

もちろん実際に存在する問題なのかもしれませんが、そうやって「うちの会社がいかにダメか」という話を聞き続けていれば、人の意識はどんどんそれに洗脳されていきます。やる気の火は徐々に消え、行動する意欲は減り、会社に対する信頼はなくなっていきます。
一言で言ってしまえば「会社のムードを悪くする」ということですが、これはまさに「周囲に悪影響を及ぼす」「組織に不利益をもたらす」という行動にほかなりません。しかし、本人は正論を言っている意識なので、何も問題とは思っていません。

私は、会社への文句や批判、愚痴というのは、それを解決しなければならないという問題意識の裏返しであり、組織変革のための活力でもあると思っています。
しかし、過剰な会社批判をする人というのは、概して問題解決のための行動を取ろうとしません。ただ批判をし続けて、周りの賛同を得ようとします。その行動が、最終的には組織の不利益につながって、自分にかえってくるということに気づいていません。

会社の愚痴というのは誰でも持っているからこそ、その誰もが「自覚なきプラック社員」に陥る恐れがあります。

あなたの会社への愚痴は、何かを良くしたい気持ちの裏返しですか? それともただ組織のムードを悪くしているだけですか?
気をつけないと、自分がいつの間にか「ブラック社員」になってしまっているかもしれません。


2014年11月5日水曜日

「起死回生を望む会社」で遠ざかってしまう課題解決


私たちのように企業を支援するコンサルタントの役割というのは、クライアント企業が持っている何らかのテーマ、問題、課題に対して、専門性を持って解決するということです。
まぁ課題が何もないような企業というのは、世の中にはたぶんないでしょうから、そう考えれば世の中に存在するすべての企業が、ご支援の対象になる可能性があるということでしょう。

そんな訳ですから、企業から頂くご相談や仕事の引き合い、ご要望というのは、実際に対応させて頂くか否かに関わらず、いろいろなお話をうかがいます。

私の専門は組織、人事なので、人に関わる何らかの課題になりますが、その中身を大きく分けると、「終わりの見える課題」「終わりの見えない課題」の二つがあります。

「終わりの見える課題」は文字通りゴールがはっきり見える課題で、定型的な生産物作り、スポットで行う研修などはこちらにあたるでしょう。

一方で「終わりの見えない課題」というのは、継続的にPDCAを回していかなければ、解決に向かっていかないような課題です。実際にはこちらの方が圧倒的に多く、人事制度構築のような一見すると前者にあたりそうなものも、運用と制度見直しのPDCAを回しながら継続していくことが必須になりますので、実はこちらにあたります。

ただ、お話をいただく会社の中には、発生している課題が「終わりの見えない課題」にもかかわらず、それを「終わりの見える課題」のように捉えていると感じることがあります。
要は、社外の専門家を入れて何かしらの取り組みをすれば、それまでの課題がきれいさっぱり解決するだろうというような、まさに起死回生の一発逆転を望んでいるような印象です。

もちろん、そのようにできることが一番ですし、そのあたりはコンサルタントの力量次第ともいえますが、「終わりの見えない課題」というのは、その会社の歴史とともに、なかなか解決できないまま積み上がってきた課題であることがほとんどです。場合によっては十数年来の課題などということもあり、いくら社外の専門家が入ったからといって、一筋縄でいくものではありません。

にもかかわらず、すでに我々が答えを持っているかのように考えていて、その答えだけを要求するような会社があります。こういう会社の方々は、今抱えている課題が「終わりの見えない課題」であるということを、あまり受け入れて頂けません。起死回生がある前提で、「何か方法があるでしょう!」と言われてしまいます。

「終わりの見える課題」であれば、すでにある答えを知ることで良いでしょうが、「終わりの見えない課題」では、いくら専門家といっても、その会社の事情をよくうかがい、その会社の方々と一緒に解決策を作り出していく必要があります。ほとんどの場合で起死回生も一発逆転もありません。

「起死回生を望む会社」では、課題の解決が逆に遠ざかっていってしまうように感じます。


2014年11月3日月曜日

最適な仕組みは常に変化する


組織の仕組み作りとして、私がお手伝いさせて頂くことが多いのは、人事制度とその周辺の施策作りです。
人事制度だけに関わらず、組織の仕組み作りで大切なのは、「自社に合った制度構築を行うこと」と「制度と運用のバランスを考えること」であると考えています。
さらにもう一つ意識しているのは、この「自社に合った制度」「制度と運用のバランス」も、その時々の状況や時間の経過に伴って“常に変化していくもの”だということです。

この変化というのは、会社規模、事業内容、業績、組織構成、年齢構成や男女比ほか人員構成などの内部的なものから、業界構造や市場、景気動向といった外部的なものまで、企業の周辺では常に起こっています。そしてこれらの変化は人事制度ほかの仕組み作りと無縁ではなく、その状況によって“自社に合うもの”も“最適なバランス”も変わってきます。

しかし、例えば人事制度作りに関わる方々は、主に管理部門、間接部門に所属していることが多いですが、顧客に直接接することが少ないせいか、このあたりの環境変化への関心の薄く、現場の事情にうとかったり、市場の変化を捉えられていなかったりということがあります。
人事制度のような仕組み作りを「頑丈な建物を建てること」と同じような感覚でいて、一度完成すると「これで当分の間は大丈夫」と思っているような様子が見えます。

しかし、昨今の企業を取り巻く環境変化は、思いのほか激しいものがあります。企業内の仕組みも、その変化に合わせて様々な改革、改善が求められますし、それが必要な頻度は確実に増しています。

組織をパソコンやコンピューターシステムに例えたとして、人事制度などの仕組みを「ハードウェア」、制度運用を「ソフトウェア」という捉え方をすることがあります。
しかし、企業を取り巻く環境変化の現状を考えると、「ハードウェア」は企業組織の基幹部分のみであり、制度はその上で動作する「ソフトウェア」にあたるのではないかと思います。さらに制度運用が、「操作、オペレーション」というような位置づけになるのではないでしょうか。

ある目的に応じた結果を得るために、「ソフトウェア(制度)」を作って、その「操作、オペレーション(運用)」を行います。
そこで想定した結果が得られないならば、「操作、オペレーション(運用)」工夫するか、「ソフトウェア(制度)」改修を考え、その時点で必要な結果を得られていたとしても、「ハードウェア(組織)」進化を考えながら、「ソフトウェア(制度)」更なるバージョンアップを図っていく、というような関係です。

人事制度のような仕組み作りも、制度運用の改善や見直しも、「これで完了!」というような最終的なゴールはありません。常に環境変化に感度を働かせ、継続した取り組みを心掛けることが大切だと思います。