2015年2月27日金曜日

“失敗体験”や“修羅場体験”を持っている不運と幸運


ここ最近、リーダー人材やイノベーション人材の育成の話がテーマになることが良くあり、ここで出てくるのは、“失敗体験”や“修羅場体験”という話です。

ここで“修羅場”と言っているのは、究極の大きな失敗の恐れがあったり、生活基盤が脅かされるような身の危険があったりするような、極限に近く追い詰められた状況で、このような中で、いろいろな事を想定しながら実際に事業を回した経験がないと、本当の意味での事業リーダーにはなかなかなり切れないということが言われていました。

こういう経験は、特に中小零細企業の経営者であれば、かなり多くの人がしているのではないかと思います。会社の危機はそれほどなかったというような人の方が、たぶん希少でしょう。

これが一定規模以上の企業に属している人の場合、この手の修羅場体験は、なかなかする機会がないと思います。
例えば、海外事業所を一から立ち上げろと放り出されたり、ありえない目標を押し付けられたりというような状況は、一種の“修羅場”ではありますが、それでも、自分の生活基盤が明日から失われるかもしれないほどまでに追い込まれることは、たぶんないでしょう。

この“失敗体験”や“修羅場体験”は、いろいろな研修会社などが工夫したプログラムの中で、疑似的に体験させるような取り組みもあるにはありますが、しょせんはフィクションなので、なかなか実践的なところまでには至らないという話を聞きます。

要はこの手の経験は、その人の置かれた立場上で偶然に出くわすものであり、教えるとか研修するとかいうような、意図的にコントロールできるものではないということです。まさに運次第ということです。

“失敗体験”や“修羅場体験”というのは、一般的に見れば不運な体験です。しないで済むならしたくないし、あったとしてもできるだけ短期間にほどほどで終わって欲しいことです。
 ただ、このような経験が事業リーダーとして重要な人材要件で、なおかつそう簡単にはできない経験だとしたら、この“失敗体験”や“修羅場体験”は、幸運な体験ということになります。

将来に活きない経験はないし、もしもそれがなかなかできない貴重な経験であったとすれば、それができたことは自分の大きな財産です。
ある時の不運は、後から幸運になることもあるのだと思った一件でした。


2015年2月25日水曜日

最近話題の格差の話と、企業の給与制度の話


格差に関する問題がいろいろな形で注目されています。
私は読んでいませんが、最近話題の経済学者ピケティ氏の著作には、経済格差の固定や拡大に関する記述があり、この解決策として、ストックである資本への累進課税強化などが提唱されているようです。

いろいろな人の書評を見ていると、「確かにその通り」とか「いやこれは日本には合わない」など、肯定、否定それぞれの意見を含めていろいろな記述があります。
ただ、今の社会には看過できない格差が存在し、それが徐々に拡大しつつあるという認識は共通しているのではないかと思います。

これとは少し視点が違いますが、企業の給与制度にも、必ず何らかの格差があります。全員が一律で同じ給料という会社はありません。

これは、あくまで私が関わったことがある企業の範囲内だけでの個人的な主観ですが、業界事情や社内制度の特性、その他さまざまな事情から、良くも悪くも安定して変化が少ない会社や、会社間や社員間での競争原理が弱かったり、差がほとんどなかったりするような会社は、やはりあまり活気を感じることはなかったように思います。
社員の働く様子を見ていると、適度な競争やそれに伴う良い意味での格差は必要なことではないかと思います。

ではどんな競争が適度で、どの程度の格差なら良い意味と言えるのかと問われると、そこにはっきりした見解を示すことはなかなか難しいことです。
しいていえば、「適度な水準は必ずあるが、それは個人や会社ごとにすべて違う」という感じです。

給与制度の設計などをしていると、経営者や管理職から「できる者ほど厚く処遇する制度を!」と言われることがあります。頑張って成果を残した人への実入りを多くしたいということで、その気持ち自体は理解できますが、これを実現しようとした場合は、それに見合う給与原資が必要になってきます。

これを無条件に積み増してくれる太っ腹の会社であればよいですが、そんな会社はめったになく、多くは今の給与原資の範囲内で「配分を変える」という意識です。給与原資は、給与の「水準」に直結しますが、これを上げるには会社全体の業績が伴わなければ難しくなります。

ですから、「できる者に厚く処遇する」ということは、視点を変えると「できない者の処遇を減らす」ということです。実は上級職で経営を意識しているはずの方でも、意外にこのあたりを意識しないで、評価が上位の出来の良い社員の様子を見て、「給与水準が低い」などと批判していたりします。

そういう方に、「では、給料を減らしても良いような出来が悪い社員はいるのか」と尋ねると、そこで名前が上がるような人は、いたとしてもほんの数人で、たぶん1%もいないでしょう。一般的に行われる評価の中での比率は、どんな会社でもだいたいがこんなもので、給与配分のバランスは取れないことがほとんどです。

私たちが給与に関する制度設計をする際の一つのやり方として、「最も評価が悪い人でも保障される最低限はどこか」というところから積み上げて考えることがあります。
よく、給与格差が大きいことを、「評価に見合ったメリハリのある処遇」と自慢する会社がありますが、これは給与水準自体が高い会社が多く、最低評価という人でも、給与水準としては一般的であったりします。逆にいえば、社会通念として許される最低水準が保たれるからこそ、格差の大きさが受け入れられるというところがあります。

最近見られる社会的な動きからは、どちらかというと「できる者に厚く処遇する」という部分ばかりが強調されがちな感じがします。
格差を受け入れやすくするには、最低限度を保障するということも必要です。両面でバランスの取れた動きができることが望ましいと思っています。


2015年2月23日月曜日

良薬か劇薬か、使い方次第で効果が二極化する「部下→上司評価」


あるテレビ番組の取材で、「部下→上司評価」に関するコメントを求められました。

そもそもの題材は、茨城県の大子町が、昨年末の選挙で返り咲き当選した町長の発案で、部下が上司を評価する「新たな勤務評定」を取り入れたということでした。
「進行管理力」「折衝調整力・対応力」「指導統率力」「責任性」「協調性」の項目を5段階で評価し、記名で封筒に入れてのり付けし、所属長に提出するとのことです。結果は町長のみが見ることができ、人事異動や昇給・昇格の参考資料として活用されるそうです。

導入の目的は、「行政サービスの向上」とのことで、町長によると、行政に対する苦情、不満が多かったということで、「管理職に緊張感を持って仕事をしてもらうのが狙い」「職員同士のコミュニケーションも活性化させて、行政サービスの質を高めていきたい」とのことでした。

 「部下→上司評価」や「360度評価」と呼ばれる制度は、ある調査によると、大企業での導入が25%を超えるなど、最近ではわりと一般的なものです。

「部下→上司評価」や「360度評価」のメリットとしては、
・結果のフィードバックで上司の自己認識が高まるなど、上司の能力開発につながる
・様々な人から多面的に評価されることで客観性が得られる
・部下とのコミュニケーションが活性化する
など。

逆にデメリットでは、
・評価に不慣れな部下から、評価基準のバラつきや印象評価など客観性のない評価がされる
・苦手な上司を追い出すような懲罰的評価がされる
・嫌われたくない意識から、上司が部下となれあいになる
などがあります。

実際に導入している企業でも、処遇反映に使うようなところはごく一部で、多くの場合は上司の能力開発を補完するような活用をしています。比較的マイルドな使い方が多いといえるでしょう。

その理由はなぜかというと、このような制度は、実施目的や組織風土、誰が誰を評価するか、結果を何に使うかといった運用方法、その他多様な要件によって、制度のメリット、デメリットが極端に出やすいということがあるからです。
例えば、メリットとデメリットの両方に「評価の客観性」に関するものがありますが、導入する環境や条件によって、まったく正反対の結果になる可能性があるということです。

今回話題の大子町でいくつか見てみると、まず“組織風土”として、行政組織は年次へのこだわりが比較的強い傾向があるので、下の者から評価されることへの抵抗感が、民間企業よりも強い可能性があります。この制度で抵抗感が強まるかもしれないですし、反対に壊す事ができるかもしれません。

次に実施目的が“不満や苦情が多かった行政サービスの向上”ということをみると、何か問題事象があったのかもしれないですし、このあたりは外部からはわかりませんが、多少懲罰的であったり、危機感を植え付けたいというイメージを持っているように感じます。これをきっかけに、危機感を持った自発的な取り組みがされるかもしれないですし、反対に現場が萎縮してしまうかもしれません。

さらに“運用方法”として、「記名する」ということで、報復を恐れて本音で評価しない懸念、「封筒のりづけで町長のみ閲覧」「異動、昇級昇格の参考にする」ということで、活用方法にブラックボックスの部分がく、現場の萎縮や疑心暗鬼を生む懸念がありますが、個別の上司・部下間の関係については、何か情報が得られるかもしれません。

 「部下→上司評価」や「360度評価」のような制度は、このように良薬にも劇薬になる制度です。
この大子町でも、きっとこれからいろいろ試行錯誤がされることだと思いますが、運用の中での些細な情報にも敏感にアンテナを張り、そもそもの目的である「行政サービスの向上」につながっていけば良いと思います。


2015年2月20日金曜日

いろいろ似ている“過重労働防止の議論”と“野球の登板制限の話”


少し前から、高校野球での投手の投球制限に関する話題が出ています。投球過多による酷使や故障、選手寿命の短縮を防ぐ目的で、連盟もいろいろな内容を検討しているようですが、まだはっきりとした結論は見えていないようです。

この野球に関する議論の内容を見ていて気づいたのが、ここ最近の残業制限緩和の動きと合わせて議論されている過重労働防止に関する内容と、意外に共通点があるということです。

過重労働対策として挙がるものの中に、時間キャップ制とインターバル規制があります。時間キャップ制はすでにあるような労働時間や残業時間の上限規制、インターバル規制は一定時間数を働いた後、次の勤務開始までの時間間隔に関する規制ですが、これを野球の話題と重ねてみれば、時間キャップ制は投球数制限、インターバル規制は登板間隔制限に当たるのだと思います。

また、これを実際に行おうとした時に考えられる問題点もよく似ています。
 野球の場合、メジャーリーグなどでは先発投手の球数制限や登板間隔制限が確立していますが、これは相応の実力がある投手の人数が、チーム内にそろっているということがあります。
もしこれが日本の高校野球などであれば、一チームに力のある投手を複数そろえることはなかなか難しく、結果を得たいと考えれば、どうしてもエースに投げさせたいとなるので、結果として酷使するような状況が出やすくなります。弱小チームが結果を求めるには厳しくなります。

これはビジネスの世界でも同じで、大企業のように企業体力があるところであれば、そこには多くの人材がいますから、時間数やインターバルに規制があっても、それなりに守ることができるでしょう。  
しかし、これが人材豊富とはいえない中小企業であれば、なかなかそうはいきません。大企業に比べても、より属人的な傾向が強く、何人かの中核人材がいて、その人たちが中心で動かなければ仕事が回らないということが往々にしてあります。その人たちに頑張ってもらわなければ業績は保てませんから、一部のコア人材やエース人材に仕事が集中することとなります。
同じ規制でも、それぞれのチーム事情、会社事情でインパクトが違ってくるところはそっくりです。

このように野球とビジネスという異なる世界であっても、「人の酷使を防ぐ」という観点から出てくるものは、意外に似た内容であるということです。

ちなみに中学生の硬式野球を統括する団体では、すでに投球制限に関するガイドラインを昨年4月に出しています。主には投球数と登板間隔に関するもので、他にも練習を含めた全力投球数の目安なども示され、今年度は周知期間として、次年度から完全適用するそうです。成長期の子供が対象なので、「最優先は酷使を防ぐこと」だと考えた結果なのだと思います。
 
一方、労働環境に関する議論で、厚生労働省の取り組みとして最近出てきているのは、このような姿勢とは少し違ったものになってきています。私が最も違和感があるのは、“成長戦略”“過重労働防止”という、本来は別の目的であるものが混在して議論されているように感じることです。

そのせいなのか、出されている施策自体にも妥協やブレがある印象ですし、そもそも成果主義的な報酬制度や裁量労働制が成長戦略だといっている点もいまいちしっくりきません。前述の時間キャップ制やインターバル規制の話は、それが良いかどうかは別にして、議論されていません。

本来の目的がブレてしまうと、より良い結論にはなかなか達しません。
労働環境に関する議論は、多くの人の働き方に影響することです。私の専門分野に関わることなので、このあたりの今後のなりゆきは、しっかりウォッチしていきたいと思います。


2015年2月18日水曜日

信じていてはバカを見る?そんな兆しが見え始めた今年の就活ガイドライン


来春2016年入社の新卒者の就職活動のスケジュールが、これまでと大きく変わっていることについては、すでにご存じの方が多いと思います。
経団連が示すガイドラインでは、会社説明会の解禁を3月、面接などの選考開始は8月として、昨年より説明会は3カ月、選考は4カ月遅らせることになっています。

就活の早期化・長期化による学業への悪影響などが理由ですが、これが決まった当初から、経団連の未加盟企業が早めに採用活動をする状況は変わらないだろうし、逆に選考期間が短くなることで、かえって学生さんにとっては厳しい状況になるのではないかという懸念がありました。
 
私もここ数年の就活状況の中で、あまりに長期に渡る活動で疲弊している学生さんを見て、これではいけないという思いはありました。
ただその一方では、就活期間を通じて内面的に大きく成長した様子を見ることもあり、逆に早々に内定した人は入社後でもなかなか学生気分が抜けない様子があったりするので、こういう経験をする時間は必要だと思うこともありました。

 今はいよいよ会社説明会が解禁されようかという時期ですが、現段階での企業側の採用活動の様子を見ていると、ガイドラインが目的としていた効果は限定的で、懸念していた部分の方が現実になって来たような感じがしています。

企業側の動きとして、説明会の開始時期までは何となく様子を見ていたものの、求人倍率など企業側に厳しい状況が見えてきたこともあり、選考についてはなりふり構っていられないという雰囲気を感じます。経団連の加盟企業以外は、どんどん前倒しで動くところもかなりあるのではないでしょうか。

今年の状況を例えると、通勤ラッシュが昨年より一段と激しくなったというイメージで、学生という乗客に対して発着する電車の数が昨年以上に多く、なおかつそれが昨年以上に同じ時間帯に集中するというような感じです。
企業側は何とかして自分の電車に乗せて、内定という目的地まで連れて行こうとするでしょうし、学生さんが選考辞退という途中下車をしても、他の乗りたかった電車はすでに発車した後なんてことになりかねません。

学生さんが企業訪問をしながらいろいろ体験し、試行錯誤をしながらも自分の進路を見つけていくという時間的余裕は、今年の場合はあまりなさそうです。「時間がかかって厳しかったけど、就活で成長できた」という人も今年は減るのではないかでしょうか。

とにかく早く囲い込もうとする企業とそれに流される学生という構図は、まさにバブル期の採用に近く、ここで最も恐れるのは「ミスマッチの増幅」です。
ミスマッチは会社にとっても学生にとっても不幸なことです。ミスマッチを防ぐ一番の方法は、できるだけ多くの企業と多くの学生が出会い、お互いの理解を深め合うことですが、今年は例年以上に短期間で行動しなければそれが難しくなります。

特に今年は、世の中で言われている就活スケジュールを鵜呑みにしない方が良いと感じます。こういう時にあてになるのは、直接得られる生の情報です。
自分自身が実際に感じたことはもちろん、周りの友人からの情報、就職支援の方々からの情報など、お互いに十分な情報交換をして、状況確認をしながら就職活動に臨むことが賢明ではないかと思います。、


2015年2月16日月曜日

「ロールモデル」がいる幸せと、いないことの当たり前


「お手本にしたい上司がいない」
「目標にしたい先輩がいない」
いろいろな会社で良く聞く話です。ロールモデル(お手本になる人)になる人が身近にいないということです。

最近聞く話でさらに問題と思うのは、「身近にお手本がいないから自分が成長できない」「目標になる人がいないから仕事がつまらない」など、自分の身近にロールモデルがいないことを、転職や異動希望の理由として聞く機会が増えたことです。

かく言う私自身も、特に社会人になりたての頃は、「“この人なら!”と尊敬ができて目標になるような人が身近にいれば良いなぁ・・・」とは思っていました。ただ、今はこの考えとはかなり違ってきています。

もちろんロールモデルが身近にいれば、それはそれで良いことですが、実際にそんな人に出会えるチャンスはめったにあるものではありません。現実にはロールモデルと呼べる相手がいない人の方が多数派であり、そもそもロールモデルというのは、必要ならば自分で見つけ出すものだと思うようになったからです。

私の場合、書籍や読み物を通じての情報収集は当然しますが、どちらかというと他の人の経験談や様々な話の内容、態度や言動、行動パターンや食べ物やお勧めのお店など、他人から直接得た情報や実際に見たその人の振る舞いなどを、参考にしたりマネしたりすることの方が圧倒的に多いです。

やはり、文字で見るよりは人から話を聞く方がリアリティがあり、自分の意識に深く刻まれるということがあると思うからで、自分でロールモデルを見つけようとしていることは間違いありません。

一方で、私には「尊敬する人」や「座右の銘」というものがありません。理由は単純で、そんな全人格的に尊敬できるような人はいないし、良い言葉は世の中にいっぱいあるので一つだけには決められないからです。ロールモデルは特定個人ではないし、ロールモデルになる言葉もたくさんあるということです。

 つい先日、あるホテルの和食の料理長さんのお話を聞く機会がありました。自分を仕込んでくれた尊敬できる師匠がいらっしゃり、どんなに年齢を重ねても師匠は師匠、弟子は弟子だとおっしゃっていました。

まさに自分のロールモデルといえるような存在があることはうらやましいと思いましたが、同時にそれはめったに出会うことができない、幸せなことなのだろうとも思いました。

「ロールモデルがいない」と言って、それを自分が行動しない理由にしている人には、「この人に付いて行けば間違いない」という個人を見つけて、その人に頼ることで安心しようという依存心や他責のようなものを感じてしまいます。

 ロールモデルはなりゆきで現れるものではなく、自分で見つけ出すものだと思います。
自分が意識さえすれば、いま隣にいる同僚でも家族でも友人でも、もちろん上司や先輩でも、何かお手本になることは必ずあるはずだと思います。


2015年2月13日金曜日

はっきりとしたライバルがいることのメリット


これは業界によっていろいろだと思いますが、自社のライバルをはっきりと見定めている会社とそうでない会社があります。

私が属していたIT業界では、あるレベルまで達した中堅企業や大手企業の場合は、それなりに同等レベルのライバルを見据えているところもありますが、企業数では中小零細の業者が圧倒的に多いということもあり、あまりライバル企業とか競合企業ということを考えていない傾向があるように思います。

そのせいもあってか、私自身の意識としても、誰がライバルとかどこと競合というようなことをあまり考えないというところがあります。
また最近の傾向として、これはスポーツ選手などでもそうですが、誰がライバルと位置付けるような他人との比較はせず、あくまで自分自身で定めた目標に対する取り組みをすることで、自分を高めていこうという人が増えているように思います。

私の個人的な考え方としても、他人の事情に左右されたり、他人との関係で勝った負けたと一喜一憂するより、自分次第の目標に対する取り組みを積み重ねていく方が望ましいと考えていましたし、できるだけそうするように努めてきたつもりです。

ただ、私のクライアントの中のある会社で、はっきりとしたライバル会社がいて、常にその会社を上回ることを目標にしているところがあります。

こちらの会社の様子を見ていると、まず自社の目標やサービスを考える際に、必ずライバル会社の動向をチェックします。勝負できるところと難しいところを切り分け、それに見合った戦略を練ります。

また、実際の営業活動でバッティングすることも多いので、価格設定やサービス内容などもライバル会社の動向を見ながら対策を考えます。ライバル会社と直接接触することはありませんが、当然さまざまな駆け引きもあります。かといって相手との比較で一喜一憂していることはほとんどありません。

こういう環境で仕事をしている人はたくさんいるでしょうが、ライバルを意識していない人たちと、ライバルがはっきりしている人たちとを比べて思うのは、ライバルがいた方が自分たちの目標がはっきりしやすく、答えをあいまいにせずに常に何らかの実行が求められ、なおかつそれが習慣づいているということです。

これは人それぞれのタイプがあると思いますが、自分だけで立てた目標というのは、その取り組みも含めて概して甘くなりがちで、それなりの意志の強さがないと、なかなか達成できないことも多いように思います。
一方、明確なライバルがいて競わなければならない相手がはっきりしていると、それぞれの社員がやらざるを得ない環境に置かれ、目標への取り組みが実行されやすいという面があるように思います。個々の意志の強さに関わらず、実行力が上がるように感じます。

目標に対する自律的な取り組みができればそれが最善ですが、人間はどこかでついついサボってしまうものです。
組織運営において、もしも実行力に不足を感じるような場合には、あえてライバルを明確化するというやり方もあるのではないかと思います。


2015年2月11日水曜日

あなたは大丈夫? 組織の雰囲気を壊す「ムードブレイカー」が共通して言う決まり文句


組織作り、チーム作りの中で、“ムードメーカー”と呼ばれる人の存在は大切です。

例えばプロ野球で、今期も米大リーグのブルージェイズでプレーする川崎宗則選手は、ベンチでも大きな声を出して雰囲気を盛り上げるなど、その明るい性格と真摯なプレーぶりでチームに貢献する典型的な“ムードメーカー”といわれます。

また、よく言われる明るく元気な人でなくとも、例えばホテルのバーなどでは落ち着いた空間であることが大切ですから、そのお店にあった雰囲気を醸し出すということでは、そこで働く人たちも同じく“ムードメーカー”であるといえるでしょう。

これに対して、組織の雰囲気を悪い方向に変えてしまう「ムードブレイカー」という人も、残念ながら存在します。
仕事をしない管理職、文句ばかり言って行動しない後ろ向きの人、心配ばかりの悲観論者、ネガティブ発言ばかりの人、その他いろいろなタイプの人たちがいて、雰囲気の壊し方もいろいろです。

組織を率いるリーダーの立場であれば、こういう人に手を焼いた経験のある人は大勢いるでしょうし、中にはリーダー自身が「ムードブレイカー」になっている場合もあり、こうなってしまうと組織を立て直すことはなかなか難しくなります。

私も自分の仕事柄として、多くの「ムードブレイカー」に出会ってきました。いろいろなタイプがいるとはいうものの、私が見てきた「ムードブレイカー」の誰もが、これだけは必ず言っていた決まり文句のようなものがあります。

「この書類はそもそも必要があるの?」
「この研修はそもそも何のためにやるの?」
「こんな仕事はそもそも受けるべきじゃなかった」
「そもそもなぜアイツがリーダーなんだ」
など、とにかく「そもそも論」を出してくるのです。

原点に立ち戻るという意味では必要な場合もあるでしょうし、一見では正論のように感じてしまいがちですが、「そもそも論」は議論の矛先をすり替えただけであり、目の前の問題解決につながることは絶対にありません。そして、「そもそも論」が出されると解決策が見えなくなるので、その場の雰囲気は確実に悪くなります。

まさに「ムードブレイカー」の決めゼリフのようなものですが、実はこの「そもそも論」を言い出す人は、意外に多いように感じます。ついつい出てくる無意識の愚痴かもしれませんが、「そもそも論」が組織の雰囲気を壊すことに違いはありません。

これは、本人が無意識のうちに、組織の雰囲気を壊す「ムードブレイカー」になってしまっている恐れがあるということです。
「ムードブレイカー」の決まり文句である「そもそも論」を持ち出すことには、十分な注意が必要だと思います。


2015年2月9日月曜日

ベテラン社員を「お荷物」ではなく「長老」にする


“働かないオジサン”、“やる気がない中高年”など、ベテラン社員に関する良くない話を、最近耳にする機会が増えた気がします。

実際にそう言われても仕方がないような仕事ぶり、態度、振る舞いの人は、人事の現場では確かに目にすることがあります。また、ある年齢層以上の人同士で、「再就職は無理だからとにかく組織にしがみつく」「追い出される口実になるような余計なことはできるだけしない」などと話しているのを聞いたこともあります。

給料に見合った成果があるならまだしも、相応の仕事をしないということになると、会社にとってはまさに「お荷物」でしょうし、またそう言われてしまうベテラン社員からも、逆に言いたいことはいろいろあるでしょう。

 ベテラン社員に対する「お荷物」という表現は、物事の足を引っ張る、下位が常連になっているという意味で言っていると思いますが、これと正反対に、ベテランを敬う意味合いの表現で、「長老」という言葉があります。特に経験が豊かでその社会で指導的立場にある人、年長で徳の高い僧侶、キリスト教会などで信徒の訓練にあたる代表者などを指して言うようです。

最近この「長老」的な立場で活躍している人を見かけるのは、主に経営者もしくはその経験者、商店主や自営業者など自分で事業をしている人、技術や経験が必要な職人さんなどが多く、企業の中で、なおかつ現場に近い場所で、「長老」と呼べるような人に出会うことはあまりありません。また大企業になるほど、そんな傾向があるように感じます。

ベテランが「長老」になるか、「お荷物」になるかの違いは、私は一点だけ、“周囲からの期待があり、その期待を本人が自覚しているか”だと思っています。周囲の期待がなかったり、自分はできると独りよがりで思い込んでいたりするのはダメで、期待と自覚の両立が必要です。
企業の現場で「長老」が少ない理由も、このあたりにあるのではないかと思っています。

例えば、役職定年制などがあれば、能力に関わらず一律に役職から退かなければなりませんが、いかにも「会社からあなたへの期待は終えました」と言っているような感じです。
さらにゼネラリストのキャリアでは、急に現場で何かするといっても、できそうなことが少なかったり、何をして良いのかわからなかったりします。何ができるかと質問されて、「部長ができます」などと答えてしまうのは、この典型だと思います。

自分に対する周囲からの期待が感じられず、できそうなことも見つからないとなれば、「長老」ではなく「お荷物」の意識に陥ってしまうのも無理はないでしょう。、

ベテランが「お荷物」扱いされてしまう要因には、年功的な賃金体系の問題、年齢構成のいびつさの問題、ポスト不足の問題、年長者に不利な業務特性の問題、組織風土の問題、その他いろいろあり、すぐに解決できるようなものではありません。

ただ、ベテラン社員に対する向き合い方に問題があるのは確かです。社員であるならば戦力として活躍してもらった方が良い訳で、その入り口として何らかの役割を与え、期待を伝えることは絶対に必要なことです。一人ひとりを良く見れば、何か「長老」として活かせる能力、経験があるはずです。

組織にぶら下がろうとするだけのベテラン社員を、甘やかす必要はありません。
ただ、「お荷物」として追い出そうとしたり、若年者と同列で評価するばかりでなく、「長老」に転換する方法を考えることも必要ではないかと思います。


2015年2月6日金曜日

似て非なるものと思う「マネジメント」と「管理」


マネジメントやリーダーシップというのは、どんな企業でも課題になるテーマです。自社の状況を称して、「うちの部課長たちには管理能力がない」「部下の管理ができない」などという話を良く聞きます。

このような表現に代表されるように、組織における「マネジメント」イコール「管理」というようなニュアンスで語られることが多いですが、実際には「マネジメント」と「管理」は似て非なるものです。

辞典で「管理」を調べると、
1.ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。
2.事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。
3.法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などを図ること。
とあります。

「決まった枠組みに合致させ、それを維持継続させる」という意味合いが強いと思いますが、会社における事業推進のための活動には、これだけでは足りません。

「マネジメント」という言葉も、辞典で調べる中では、確かに“管理”や〝経営“そのものという形で出てきますから、単語の和訳としてはそういうことなのでしょうが、別のところでもう少し調べていくと、以下のような定義がありました。

・主にビジネス上における様々な資源や資産・リスクなどを管理し、経営上の効果を最適化しようとする手法。
・“管理”という意味合いの他にも、”評価・分析・選択・改善・回避・統合・計画・調整・指揮・統制・組織化”など様々な要素を含んでおり、これらを総合した概念。

現場の実態から見れば、こちらの方がよりフィットしている感じがします。

なぜこんな切り分けをしてみたかというと、「マネジメント」のことを「管理」と表現している会社では、実際の取り組みにおいても、辞典に書いてあるような意味合いに近い「管理」の動きが多いということです。
“部下が計画通りに動いているか”、“指示通りにことが運んでいるか”、“ルールを守っているか”などを確認するといった意味での「管理」で、これは言い換えると、“監視”や“見張り”となってしまいます。

もちろん、実際の現場では必要なことですが、本来の「マネジメント」は、これだけではありません。決められたルールが不都合ならば見直さなければならないし、それがさらに上からの指示ならば、それなりの調整をしなければなりません。過去データの分析も、計画や人員配置の見直しも、プロセスの改善も、物事の優先順位の見極めも、その他仕事の成否に関わることは、すべてやらなければなりません。これは「管理」というよりは「やりくり」に近いと思います。

「マネジメント」は「管理」ではなく、「経営資源として与えられたリソースの中でのやりくり」と考えると、行動そのものが変わってくるのではないかと思います。


2015年2月4日水曜日

方針を立てて突き進むリーダーに、本当について行きたいか?


リーダーという立場にいると、いろいろな形でメンバーから批判を浴びることがあると思います。

先日、ある会社であったのは、メンバーたちからリーダーに対して、「いつも方針が曖昧だ」「目標が不明確」「実行力が足りない」といった内容の批判でした。

批判されたリーダーは、どちらかといえばおとなしめで優しそうな感じの人です。一般的なイメージで言われる「リーダー的な人」ではなく、確かにリーダーとしては頼りなさそうに見えます。

ご本人には言いにくいことでしたが、このメンバーたちからの批判を伝えてみると、「う~ん・・・」と考え込み、「確かによく言われることなんですが・・・」とおっしゃいます。

お話を聴くと、このリーダーご自身が考えるに、一番大事なのはメンバーたちが仕事をやりやすくすることだと思っていて、そのためにはできるだけメンバーたちの意見を聴き、それを取り入れて行くことが良いと考えているとのことです。

かつて自分の上司から、ほとんど意見を聴いてもらえずに詰められるばかりだったという経験があり、その時はとても仕事がやりづらかったので、自分の部下にはそういう思いをさせたくないのだそうです。

そのため、メンバーたちに意見を求めたり、合議制で決めようとすることが多いようですが、そういう部分を「リーダーとして物足りない」と捉えられての批判のようです。
リーダーご本人も、「そういうやり方ではリーダーとしてはダメなんですよね・・・」などとおっしゃいます。

ただ、見方を変えれば、リーダーとしてこういうチーム運営のしかたも、方針といえば方針です。私にしてくれたこの話は、メンバーたちにしたことはないそうです。

その後、私からこのチームのメンバーたちに投げかけたのは、以下のようなことでした。
私:「明確な方針があって、的確な指示のもとに実行するリーダーが望ましいのですか?」
メンバー:「それは当然そうです」
私:「では、その提示された方針に納得ができなくても?」
メンバー:「いや・・・、それは困ります・・・」

結局は、「リーダーとはかくあるべき」というイメージのもと、自分たちのリーダーに不足しているところばかりにフォーカスし、それを批判していたということです。

もしも彼らが言う通りの「方針を立てて突き進む実行力に満ちたリーダー」に率いられたとして、納得できる方針のもとに、納得できる指示が出されて仕事ができるなら、それは良いことなのでしょうが、そんなにうまくいくことばかりとは限りません。特に、自分の信念があるリーダー、自分で方針を示すリーダーは、他からの意見をあまり受け入れないという傾向もあります。

最も望ましいリーダーシップは、納得された方針や目標のもとに、適度な指示と適度な自己裁量をからめた、機能的かつ一体感があるチーム運営という感じなのでしょうが、そんなカリスマリーダーはめったにいません。

その後、このリーダー批判をしたメンバーたちは、このリーダーの考え方を聞いて納得し、リーダー自身のリーダーシップの不足を、より一層フォローしてくれるようになったそうです。

経営者や管理職といったリーダーに対する批判で多いのは、教科書的なリーダー像との差異に関する部分です。
ただ私は、「自分の信念のもとに、方針を立てて突き進むリーダーに、本当について行きたいのか?」と問いかけてみたいです。


2015年2月2日月曜日

ホークス工藤監督の「禁止語ルール」に通じる、組織人事での言葉イメージの大切さ


福岡ソフトバンクホークスの工藤公康監督が決めた、選手への禁止事項が話題を集めているそうです。
行き過ぎた茶髪やひげ、試合中のガムやツバ吐きに加え、「できません」や「わかりません」といったネガティブな言葉もNGなのだそうです。
選手たちはルールに従う意向とのことですが、ファンの間では、特に「わかりません」の指定には納得できないという人がいるなど、その効果を疑問視する人もいるとのことです。

この「わかりません」のNGが妥当なのかどうか、これは人によって捉え方が違うでしょうし、チーム事情や監督の考え方を確かめることができない私としても、このあたりは何とも言えないところです。

ただ、私が今まで経験してきたことと共通するのは、チームを束ねるということでの組織人事の中でも、どんな場面でどんな言葉を使うかということは、実は非常に大事なことで、実際にもかなり気を遣っているということです。

これは最近あった例ですが、役職呼称を「○○マネージャー」などと横文字表現をしていた会社が、「課長」「部長」などの一般的な呼称に変更したということがありました。
「○○マネージャー」というと、どうしても現場に近いフラットな立場をイメージしてしまいがちで、この立場にいる人たちの責任感が希薄になったり、リーダーシップが低下したりという様子が見え、あえて権威付けしたイメージを強めるために、、「課長」「部長」と呼ぶことにしたのだそうです。

また、これは私が以前書いたことですが、自社の人事評価制度のことを、「評価」と呼ぶところ、「考課」と呼ぶところ、「査定」と呼ぶところの、三つの呼び方に出会います。
(『「評価」と「考課」と「査定」の違い』 http://unity-support.blogspot.jp/2012/12/blog-post_27.html
当事者は同じような意味で使っているようですが、言葉が違えば厳密な意味は違い、それぞれの言葉のニュアンスが、実際の制度運用の中にも出てきます。

社内で一般的に使っている言葉や何気なく使っている言葉が、実は企業風土や組織のムードを象徴していたりします。
ですから、組織風土改革に取り組む中での一つの手法として、企業理念、社内制度、上司のスピーチや訓示などを通じて、“日常使っている言葉から変える”というような方法をとることもあります。

 組織の中で使われる言葉は、そこに属する人たちの価値観を無意識のうちに表現しています。もしも良くない雰囲気や好ましくない行動が見受けられたとしたら、その周辺で使われている言葉を見直してみることも一つの方法です。
組織風土の中で、言葉の持つイメージが影響していることは、意外に多いはずです。