2018年8月31日金曜日

障害者雇用率の水増しで思った「モラル」と「ルール」の違いの話


中央省庁の約8割で、障害者の雇用者数を水増ししていたことが発覚し、人数の半分以上が水増しされたものであったなど、「数合わせ」が横行していた実態が明らかになりました。
本来は率先して障害者雇用を進めなければならない立場の国の機関が、法令を無視したような状況だったことから、大きな問題になっています。
「算入範囲の解釈が違った」などと弁明されていますが、おこなわれていた範囲や規模からしても意図的としか考えられず、これは言い訳でしかないでしょう。

私はこの「数合わせ」という言葉を聞いて、「モラル」と「ルール」の話を思い出していました。

以前あるところで読んだ記事でしたが、それによると、組織を動かすには「モラル」と「ルール」の問題があり、「モラル」というのは目指すべき中心点のことで、中心に近ければモラルは高く、離れれば低くなります。
これに対して「ルール」というのは、中心点からこれ以上離れてはいけないという限界の境界線のことで、これを超えたらアウトになる一線です。

そして、「ルール」を設けると、その境界線ぎりぎりで動こうとする者が多くなり、もしもそれが「モラル」からはかなり離れていたとしても、「ルールを守っていれば問題ない」となるのだとされていました。
「ルール」を強調すると「モラル」を軽視し始め、「ルール」が増えると手続きが増えて、組織の運営効率が落ちていくという話でした。

これを今回の障害者雇用の問題に当てはめると、「障害者雇用率」というのは、最低でもこれだけは雇わなければならないという、まさに「ルール」であり、その「ルール」さえ満たしていれば、それ以上は雇う必要はないということになります。
しかし、本来の「モラル」からいえば、より多くの障害者が働ける社会が理想であり、中心点になります。

以前、私も障害者を採用する立場で活動したことがありますが、企業側では軽い障害の人、配慮が少なくても済む人を求める傾向がありました。雇用率だけを満たして、罰金を避ければよいという考え方です。
これでは重い障害の人は当然不利になり、それを保護するためにまた「ルール」が追加されます。そしてまた、その「ルール」ぎりぎりの攻防になるわけですが、まさに手続きばかりが増え、本来あるべき「モラル」からは離れていっています。

しかし、「ルール」を作って縛らなければ、こういうことはなかなか進まないのもまた事実であり、「モラル」を言い続けるだけでは解決しません。
それでも今一度、この障害者雇用率という「ルール」が、果たして適切なのかを見直すには、良い機会だと思います。

最近は通信インフラやIT機器の進歩により、かなり重度の障害を持った人が、それまではかかわることが難しかった仕事でも、できる部分が増えています。障害による個人差は大きいですが、工夫次第で環境は作れます。
また、障害者に仕事を発注すれば、それは障害者の働く場づくりに貢献していますし、自分で起業できるような障害者をサポートすることでも、同じ効果が考えられます。
そうであれば、ただ「企業が雇う人数」というルールとは、違う考え方が出てくるでしょう。

そもそも「ルール」を破るということは、それが可能なスキがどこかにあります。そして、なぜそんなスキを探すのかと言えば、実施の難しさや無意味さがあるという証明でもあります。
障害者雇用に限らず、こんなことをきっかけに、「ルール」だけでなく、本来の「モラル」に立ち返って、考え直す必要もあるのではないでしょうか。


2018年8月29日水曜日

「パワハラ“的な”研修」には価値がないと思う理由


ある新聞に、「パワハラ研修」に関する記事がありました。
一般的に「パワハラ研修」と言えば、「パワハラ“防止”研修」を指していることが多く、「パワハラ研修」と検索すれば、こちらの話ばかりが出てきますが、この記事で言っているのは、「パワハラ的で過酷な社員研修」のことです。
この記事によれば、その特徴は「肉体的負荷をかける」「自己否定させて価値観を破壊する」「外部と遮断する」の3つがあるとのことです。

私の新入社員時代はずいぶん前になりますが、その頃でもこういう研修は確かに存在していました。ただし、私自身は「パワハラ“的な”研修」を受けた経験はありません。その理由は、単純に嫌で無駄で役に立つとは思っていなかったからで、そういう研修をやりそうな会社は避けていたからです。

今は、どちらかといえば講師の側に立つ機会の方が多くなりましたが、それでも「パワハラ“的な”研修」が、少なくとも企業研修の範疇においては、無駄で無意味だと思う気持ちは変わりません。
しかし、そんな私の周りでも、「パワハラ的」としか思えない研修を、未だにやっている会社がありますし、そういう研修プログラムを提供している会社もあります。

そんな会社を見ていると、経営者の性格や組織風土に共通点があるように見えます。
典型的な例でいえば、社長は創業者かオーナー、年令高めの男性がほとんどで、会社では圧倒的に男性比率が高く、販売、サービス、ほか営業的な仕事が中心です。起業間もないことはほぼなく、比較的歴史があって、伝統的にその手の研修をやり続けています。

内容は多岐に渡りますが、駅前で大声で怒鳴り続けさせるような、パワハラ的に作り込まれた研修プログラムの場合もありますし、座禅や滝行といったものも聞いたことがあります。
何人かの社長に、それをやる目的を聞いたことがありますが、皆さん異口同音に、「非日常での不快でつらい体験が、その後に起こり得る仕事上の逆境に活きる」との考えを語っていました。

私は、これらが人生経験としてまったく無意味とは思いませんが、こと企業研修でおこなうことについては、理論的な背景に照らしても、ほとんど意味がないと思っています。

例えば、「学習の機会」を考えるガイドラインとして、702010フレームワーク」というものがあります。
これは、
・学習の70%は、「実際の仕事経験」によって起こる
・学習の20%は、「他者との社会的なかかわり」によって起こる
・学習の10%は、「公的な学習機会」によって起こる
というものですが、ここでは10%しかない「公的な学習機会」(企業であれば研修やOFFJTなど)を中心に考えるのではなく、「実際の仕事経験(企業であればOJT)」と「他者との社会的なかかわり(上司、先輩後輩、取引先ほか周囲との関係)」を含めた、統合的でOJTとして継続可能な枠組みで、学習機会を考える必要があるとされています。
「パワハラ“的な”研修」は、実務を含めたOJTにつながりませんから、学習効果は非常に薄いことになります。

また、ドイツの心理学者エビングハウスの実験による、人間の記憶の忘却曲線というものがあります。
それによれば、 人間の記憶は「20分後には58%」「1時間後には44%」「1日後には26%」「1週間後には23%」「1か月後には21%」しか保持していないそうです。
記憶の定着には反復が重要とのことですが、「パワハラ“的な”研修」は反復することができません。

さらに、一流アスリートは自らに厳しいトレーニングを課しますが、それは体力をつけ、技術を高め、成績につなげるには、自身の限界に極めて近い、ギリギリの厳しいものになるということで、決して厳しい体験をすること自体が目的ではありません。
その厳しい経験が、本番で最後のひと踏ん張りのよりどころになることはあるでしょうが、すべてのトレーニングは本番に直結するOJTのようなものだといえます。

私はこういった背景から、ただ厳しい体験を目的とした「パワハラ“的な”研修」には意味がないと思っています。
ただの異文化体験、精神修養としてはありなのかもしれませんが、それはあくまで個人の趣味や嗜好として取り組めばよいことであり、少なくとも企業が社員の能力向上のためにおこなうものではありません。

ここまでの話に反論する人はきっといらっしゃるでしょうが、そもそも企業研修にもかかわらず「パワハラ的」と言われてしまう段階で、もうすでに許容されない世の中になっているということを知るべきだと思います。

2018年8月27日月曜日

ラグビー平尾誠二さんの「人を叱るときの4つの心得」


これはすでにいろいろなところで取り上げられていて、多くの人に共感されているものなので、ご存知の人も多いかもしれません。
私もたまたまテレビで流れているのを見て思い出したところです。

この「人を叱るときの4つの心得」は、ラグビー日本代表として活躍し、2016年に53歳の若さで亡くなった平尾誠二さんを偲ぶ会で、親友でノーベル賞受賞者の山中伸弥博士がおこなったスピーチの中で紹介されました。
その内容は、以下のようなものです。

(1)  プレー(行動)は叱っても人格は責めない。
(2)  後で必ずフォローする
(3)  他人と比較しない
(4)  長時間叱らない

見ればみんなが納得できる内容で、「ああその通り」という感じだと思いますし、こうやってポイントを絞って的確に整理しているのもすばらしいです。

ただ、これらすべてを実践するのは、そう簡単なことではありません。
私自身が自己評価をしてみると、(3)の「他人と比較しない」と(4)の「長時間叱らない」は何とかできていると思いますが、(1)と(2)は、一応意識はしているものの、相手が触れられたくないことに触れていることもあり得ますし、フォローすることが漏れてしまっている可能性もあります。
これはあくまで自己評価なので、もしも他人が評価したら、もっと低い点数になってしまうかもしれません。

これらを実践することが難しい一番の理由は、受け止め方の基準すべてが、叱られている相手の感じ方次第だからです。
人格を責められたと感じていないか、フォローしてもらったと思っているか、ちょっとしたニュアンスで誰かと比較されたと感じていないか、どのくらいの時間だと長時間にあたるのか、それぞれのとらえ方は人によって違うはずです。
そして、たぶん平尾さんもそうだったと思うのですが、この4つの心得を基本に置きつつ、選手一人一人がどんな捉え方をしているのかを常に観察していたはずです。

例えば、他人との比較には敏感な人も鈍感な人もいますから、相手に応じて言い方を変えるでしょうし、フォローのしかたによっては、叱ったことの打消しやご機嫌取りになりかねないので、言い方や言う時期、内容にはいろいろ気を配ったことでしょう。

叱ることによって、本人の気づきや認識の変化があり、行動改善や能力アップにつながればよいですが、この方向を間違うと、萎縮や迎合、モチベーション低下といったことも起こり得ます。
「4つの心得」という旗を掲げ、その上で各メンバーへの対処をして、最適解を得ようとしていたのは、まさに優れたリーダーだと言えます。

この山中伸弥博士のスピーチの最後に、「君のようなリーダーと一緒にプレーでき、一緒に働けた仲間は本当に幸せです」と話されていました。本当にその通りと思いますし、リーダーの役割がいかに大事かという証でもあるでしょう。
リーダーの言動や行動、態度の一つ一つが、メンバーたちに大きな影響を与えていることを、リーダー自身は十分に認識しなければなりません。