2019年1月31日木曜日

「希望と違う仕事」に向き合うための三つのこと


ある会社の若手社員の女性から相談をされました。今の仕事が自分の希望とは違っていて、面白味を感じられないでいるそうです。
何か以前から取り組んでいたことがあるようで、それとつながりがある仕事に関わりたい希望があるそうです。過去に感じた充実感と現状とにギャップがあるようで、セルフモチベーションについて悩んでいます。すぐに辞めたいなどということではないですが、それほど面識があるわけではない私に話すほどなので、真剣に悩んでいると思います。

そうやってあらためて問われると、会社の中で「やりたい仕事」という自分の希望をかなえるのは、考えれば考えるほど難しいことです。
私自身も、広い意味ではそれに耐えられなくて、辞めて独立したようなところがあるので、あまり助言する資格がありません。

ただ、話を聞いて、一緒に考えてあらためて思ったのは、以下の三つのことです。
一つ目は「希望を言い続けること」です。
会社の場合、社員の希望を受け入れるかどうかを決めるのは会社、もっと言えば上司です。他人に認めてもらうには適性や実績、熱意などで「彼、彼女を応援しよう」「やらせてみよう」と思ってもらわなければなりません。理解してもらうには、伝え続けるしかありません。

二つ目は、「今の環境を否定的せずに、面白味を見つけること」です。
もし、仮に実際に希望した仕事に変われたとしても、それを本当に面白いと感じるかはわかりません。それよりは、すでに様子がわかっている今の環境の中で考えた方が確実です。
仕事というのは、つまらないと思うと限りなくつまらないですが、ちょっとしたことで気分が変わります。「誰かに感謝された」「その仕事がうまい、向いているなどといわれた」「役得を感じることがあった」など、事柄はいろいろですが、「つまらない」と「面白い」はどちらも主観なので、自分の気持ち次第で何とでも変わります。

三つ目は、「時間がないなら環境を変えるしかないこと」です。
前の二つは、どちらとも保証も期限もありません。あまり可能性が見いだせない環境に、無理やりい続けても時間の浪費です。それは見切りをつけるしかありません。
では、前に挙げた二項目の取り組みから、見切るタイミングはいつなのかと言う話ですが、結局それも自分で決めるしかありません。いろんな人の話を聞いたり、他社の状況を調べたり、できるだけ幅広く情報を集めた方がいいとは思いますが、それでも最後に決めるのは自分です。

こうやってあらためて考えると、企業の中で自分のキャリアを主体的に決めようとしても、それはとても難しいことがわかります。
会社と社員がお互いに歩み寄って、より良い形が実現できればと思いますし、実際にそういう動きをし始める企業も出始めています。

難しいことであったとしても、「自分のキャリアは自分で考えなければならないもの」と強く思います。


2019年1月28日月曜日

「良いもの」「良い会社」の定義はいろいろ


伝説的ロックバンド「クイーン」のボーカリスト、フレディ・ マーキュリーの伝記映画の「ボヘミアン・ラプソディー」が大ヒットですが、見た人はみんな「良かった」といいます。
私も同じ感想ですが、驚いたのは観客の世代の幅がものすごく広かったことです。絶対にリアルを知らない若い世代もたくさんいて、同じく「良かった」といっています。

ただ、その「良かった」の中身は、昔がよみがえったり懐かしかったりする感情があるかと思えば、純粋に映画のストーリーに感動した人、とにかく楽曲が好きな人、ライブシーンのリアルさ、その他本当にいろいろです。みんなが口々に「良かった」と言っても、それを具体的に感じるツボは千差万別です。
音楽や商品などで人気が出るものは、より多くの人が“総論”として「良いもの」と思うからですが、細かく見ると、その良さの見方はいろいろです。

これは会社でも同じです。このところの人手不足で採用に力を入れる会社が増えていますが、応募者から選ばれるには、自社が「良い会社」と思われなければなりません。そして「良い会社」の定義は、個人個人でいろいろです。「良い会社」といわれるために、刺さるツボが人それぞれということは、そのすべてに対応しなければなりません。

「良い会社」かどうかの判断材料となるのは、「業績」「仕事内容」「給与」「労働時間」「勤務地」「企業規模」「福利厚生」「職場環境」「人間関係」などの一般的な項目から、「社長や社員の人柄」「ちょっとのご縁」「直観」のようなコントロールができないものまでありますが、誰からも「良い会社」といわれるようになるためには、これらすべての項目を高めなければなりません。

ただ、何でもやらなければならないとは言いながら、実際にできることには限度があります。物理的に無理なことや予算的に難しいこと、感情としてやりたくないことやできないこともあるでしょう。
そこでは自分たちにできることを、できる限りの範囲でやるしかありません。

そんな中で、最近は給与アップやオフィス環境の整備、福利厚生の充実といった取り組みがよく見られますが、そのことにもちろん意味はあるものの、だからといってそれで「良い会社」と見られるとは限りません。「良い会社」になるためにと計算しておこなったようなことは、だいたい人の心には刺さらないものです。
「良い会社」と見られて人が集まるようになるための給与アップが、会社の身の丈を超えたことによる「人手不足倒産」などの話も聞きますが、それはまさに「良い会社」と見られたいがために、相手の顔色をうかがった結果での失敗といえます。

「良い会社」となるためにできることを考える上で、大事なのは理念やポリシーといわれるものです。それをもとに、自分たちなりの考えで「良い会社」を定義し、できることをできる限り進めます。
取り組みは多い方が良いですし、範囲も広い方が良いのは確かですが、自分たちの「良い会社」の定義をもとに取り組みを進めていけば、すべてやられているとはいえなくても、その良さに共鳴する人は必ず出てきます。

クイーンがデビューしたての頃は、評論家からは何かと酷評されていましたが、その音楽性、ルックス、パフォーマンスで人気を高めて批判を封じ、その後の成功へとつなげていきます。そこでは自分たちのポリシーに基づいて、やりたいことやできることを優先していました。もちろん「売れる」ということを意識はしていたでしょうが、あくまで自分たちのスタイルを貫いています。
これは「良い会社」を作る上でも同じではないでしょうか。

安易に真似せず、流されず、制約条件は受け入れた上で、自分たちのポリシーと基づいて「できることをやる」のが、より多くの人から「良い会社」と認められる近道ではないでしょうか。


2019年1月24日木曜日

「制約」「制限」「自粛」「連帯責任」の逆効果


ある高校の野球部員が、同じ学校のダンス同好会の有料イベントに参加したことを高野連が問題視し、野球部長の処分を検討しているとの報道を見ました。
入場料500円のダンス発表会に、引退した3年生部員が甲子園での応援に対する感謝として参加し、ユニホーム姿で踊るなどしたとのことです。
日本高野連は「イベント参加は問題ないが、有料であることが問題で商業的利用にあたる」といっているようですが、これに対してスポーツ庁の長官は「もう少し寛容になってもいいのでは」と述べています。
私も会場使用料にあてるくらいとしか思われない程度の金額の入場料でおこなった、学生たちの純粋な気持ちに基づくイベント参加を、商業利用などとクレームをつけることにどんな意味があるのかと思います。

そういえば昨夏の甲子園大会でも、某高校の「侍ポーズ」と呼ばれたいささやかなパフォーマンスが「試合に関係ない」として注意を受けていました。
非紳士的であったり相手を挑発、侮辱したりするような行為は禁止されてしかるべきですが、この件については、基準があまりにも時代に即していないと感じました。

あるプロ野球チームは、今年から所属選手のSNS使用を原則禁止する方針だと言います。過去の選手の不適切投稿が問題になったためですが、今の時代に野球という興行が収益の中心で、そんな人気商売に身を置く選手たちが、自らの情報発信を止められるというのは、どこにメリットがあるのだろうと思います。
禁止や制限するのではなく、適切な使用方法を教育するのが本来ではないでしょうか。

悪質タックル問題で公式戦への資格停止処分となっている日大アメフト部ですが、問題の元凶は監督やコーチなど指導者側にあり、しかも一部の人間の行為です。しかし、処分はチームに対してされており、最も大きな制裁を受けているのは選手たちという形になっています。
チーム全体の問題で関係者全員に何らかの責任はあると考えれば、これもやむを得ないことだと思う反面、一番つらいのは監督やコーチよりも学生、選手たちであり、ここまでの「連帯責任」が必要なのかとも思ってしまいます。

以前、ある自治体職員が飲酒運転で事故を起こし、その自治体では当面の間、飲酒を伴う会合の開催をすべて禁止しましたが、これが果たして良い方法だったのだろうかと思います。自粛し続けることはできませんし、いずれ解禁されたときに、かえって反動があったり、気が緩んでしまうようなことも考えられます。それぞれの家庭内では飲酒するかもしれませんし、飲酒運転撲滅につながるとは思えません。見せしめや世間体のための自粛といわれても仕方ないでしょう。

ここまでの話で何が言いたいかというと、これは特に日本人の場合は習性に近いのかもしれませんが、何か問題が起こった時、問題行動があった時に、その対策が「制約」「制限」「自粛」「連帯責任」など、一律にひとまとめで締め付けるパターンがあまりに多いことです。
しかし、これらのやり方はすべて「問題になったことを取りやめて遠ざけること」で、「よりよく改善すること」にはつながりません。当事者は「反省して改善する」、他の周りの者は「その失敗から学ぶ」ということが大事であり、ただ行動を止めればいい、やめればいい、おとなしくしておけばいいというものではありません。

包丁を使わせなければ怪我をすることはありませんが、包丁の使い方を覚えることはできません。どうも最近、いろいろなところで「やらせない」「遠ざける」という安易な姿勢が目につきます。
罰する主旨や基準、対象や方法がずれていると思うことも多々あります。何のためで誰に向けた処分なのかがよくわかりません。

「制約」「制限」「自粛」「連帯責任」では、逆効果になることがたくさんあります。