2016年5月25日水曜日

「あきらめる」には「明らかに見る」という意味がある



先日、何となく見ていたテレビ番組で、興味深い話がありました。

その時のテーマは依存症についてで、薬物だけでなくギャンブル、ネット、スマホなど、依存の対象になるものは無数にあって、誰でも何かしらに依存しながら生活しているのだということでした。

それが度を越した「依存症」になってしまうのは、「目の前の現実を受け入れられないから」なのだそうです。過去の実績や影響にすがる、そのための現実逃避をするために何かに依存するのだそうです。

そこで出てきたのが表題の話でした。
依存から脱却するためには「あきらめる」ということが必要で、「あきらめる」というのは、「明らかにする」「明らかに見る」「つまびらかにする」というのが本来の意味なのだそうです。決して「途中で投げ出す」という意味ではないそうです。
今の自分を明らかに見て、己の限界を知り、そこから新たなステップに進むことができれば、依存症は克服していけるということでした。

私自身、今まで「あきらめる」は「途中でやめること」だと思っていたので、自分を「あきらめない人間」と言いたい気持ちがありました。
ただ、この話を聞いて、今までの自分を冷静に考えてみれば、「最後までやり遂げる」という意味であきらめなかったことは、実際にはほんのいくつかのことしかないように思います。興味がないということも含めて、はじめからやろうとしなかった「あきらめ」か、ちょっと手掛けて面白くないのでやめてしまった「あきらめ」が多いように思います。

しかし、「あきらめ」が「明らかに見る」だったとすれば、その時の自分のスキルとメンタルから、「身にならない」と自分を客観視した結果だということもできます。私自身、物にも人にも依存性が低いと思っていますが、こういう思考があるせいなのかもしれないと思いました。

「あきらめる」という言葉は、ネガティブなニュアンスで使われることが多いですが、「あきらめる」が「明らかに見る」という意味であれば、まったくイメージが変わると思います。そうなると「あきらめが肝心」も「あきらめが悪い」も、感じ方がずいぶん違います。

「あきらめる」というのは決して悪いことではない、人の精神衛生上でも必要なことなのだと知りました。


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