2023年9月25日月曜日

「在宅勤務」をしたい、したくない、させたい、させたくない

 コロナ禍を機に一気に広まった在宅勤務やテレワークですが、状況が落ち着くとともに、以前のような出社勤務の比率を徐々に戻している企業が増えてきています。

NTTのように「原則在宅」とする企業から、ホンダのように「原則週5日出社」とする企業までありますが、すべて元に戻すのではなく、在宅勤務やテレワークを一定の比率で維持するハイブリットな働き方を考える企業が多いようです。

 

コロナ以前からテレワークが進んでいたアメリカでは、対面の重要性が見直されて、どうやって社員を出社させるかが議論となっているといいますが、テレワークと出社の間での揺り戻しはこれまで何度も起きているとのことで、今は大きく増えた在宅勤務やテレワークから、少しずつ出社に戻そうという方向性なのだと思います。

 

個人的意見としては、出社もテレワークも一長一短があるので、それぞれの長所を活かすために組み合わせていくのが良いと思っていますが、これも一つの揺り戻し現象なのか、在宅勤務やテレワークへの否定的な話と、それに基づく動きが増えてきている感じがします。

 

企業で意思決定する人たちは、在宅勤務やテレワークなどあり得なかった時代を過ごしてきた人が多いと思われ、その人たちからは、自分たちの時代はこうだった、だからやっぱり対面で仕事をしなければだめだと言われることがよくあります。

ただ、いかにも正当のような理由をいろいろ挙げるものの、本音では「一日家にいるのが嫌だ」など、結局「自分たちがずっと続けてきた働き方との違いになじめない」ということを強く感じます。経営層にそういう考えの人が多い会社ほど、できるだけ多くの時間を出社勤務に戻そうとする動きが強いようです。

ここでは、在宅勤務になじんでうまく活用している人たちからの反発が増えて、会社と社員、上司と部下などの間で対立が生まれています。

 

また、働き手の中にも「在宅勤務をしたくない」という人は存在します。

先日話を聞いた人は、在宅勤務をしたくない理由として「仕事の生産性が上がらないから」と言っていました。ただ、なぜ生産性が上がらないのかという具体的な話を聞いていると、必ずしも理屈が通らないことが出てきます。

例えば、「他人の目がないとサボりがちになる」と言っていますが、その人はチームに属さず特命の作業を単独でやっている専門職の人なので、出社しても常に他人の目がある場所で仕事をしているわけではありません。「資料が会社にしかない」と言いますが、よく聞くと同じ情報をネットなどで見ることはできるそうです。「気持ちの切り替えができない」と言い、確かにそういう面はあるでしょうが、それがどのくらい生産性に影響があるのかはわかりません。

結局は「自分の今までの仕事の仕方を変えたくない」という感覚の部分が大きいように感じます。在宅勤務でメンタルダウンが増えたという話がありますが、このような心理的な要因が大きいのかもしれません。

 

出社勤務に回帰しなければならない理由に感覚的なものが多いのに対して、「在宅勤務がしたい」という人たちは、育児や介護などの家庭の事情、遠距離通勤の問題など、その理由とニーズがわりと具体的です。このこともお互いの不満や対立を生んでいる一因のように思えます。出社勤務を求める理由には、もう一歩の具体性や客観性が必要と考えられます。

 

在宅勤務と出社勤務のせめぎあいは、それぞれの会社が、自分たちの価値観に合わせてバランスを考えていくのだろうと思います。どちらが良いと明確に言うことはできませんが、個人のとらえ方は多様になっており、今後ますます企業選びの条件として大きくなっていくように感じます。

 

 

2023年9月11日月曜日

「2-6―2の法則」のとらえ方の話

 「2-6-2の法則」とは、組織や集団において、優秀とされる人が2割、中くらいもしくは普通の人が6割、成績不振や働かないなど、パフォーマンスが悪い人が残り2割の割合で存在するというものです。明確な裏付けがあるのかはわかりませんが、多くの人が経験的に納得しているようなところがあります。

 

この法則は、「働きアリの法則」とも言われることがあります。働きアリの集団を観察していると、よく働くアリが2割、ほとんど何もせず働いていないアリが2割程度、残りの6割が普通程度の働きで、この集団から働かない2割のアリを排除しても、残ったアリからまた2割程度の働かないアリが現れることから、集団の中でのバランスの根拠のように扱われています。

様々な会社の経営者や管理者の中には、この法則から2割の戦力外がいるのは仕方がなくあきらめるしかない、上位の2割が組織を引っ張らなければならないという人たちがいます。

 

しかし、私が最近読んだ記事で、このようなものがありました。

働いているアリでも、時間が経つと徐々に疲労して働けなくなってくるそうで、そうするとそれまであまり働いていなかったアリが、代わりに働き始めるそうです。すべてのアリが疲労して働けなくなってしまうと集団が維持できないので、集団を維持、継続するために余力として持っているのが、働かない2割のアリではないかという話でした。

 

企業においては、最近は効率化重視という観点から、無駄を省いたギリギリの組織運営を求められることが増えています。一方で、組織を安定的に機能させてそれを継続していくためには、一定程度の余裕、余力は必要です。働かない2割は、その中でただの無駄な人材というわけではないと見ることができます。結局は役割の与え方や働かせ方のほうに問題があるように思います。

 

また、「2-6-2の法則」というと、優秀とされる2割ばかりに注目して、その人たちを中心に組織運営を組み立てようとする傾向があります。役職や処遇、人事評価などでその人たちを優先し、普通に働く6割の人は、働かない2割の人とあまり変わらない評価がされていたりします。

 

ただ、「2-6-2の法則」が真実であれば、2+6の8割の人は普通以上の仕事をしているという見方ができ、そのおかげで組織が成り立っているとも言えます。

にもかかわらず、普通の6割の人をあえて相対評価などで序列付けしていることがあります。普通に働いているのに序列付けの結果でマイナス評価が下されていたりしますが、それでやる気が出る人はたぶんいませんから、そういう評価をすること自体に意味があるのだろうかと思います。

 

「2-6-2の法則」を安易にとらえ、2割が優秀で2割が使えない人など決めつけるのは、組織運営としてあまり得策ではないように思います。

組織を構成するすべての人は、何かしらの役割を持っているという考え方が、実は「2-6-2の法則」なのではないでしょうか。

 

 

2023年9月4日月曜日

安易な「二分割思考」に陥らないために

 「二分割思考」と言われるものがあります。

好きか嫌いか、敵か味方か、良いか悪いかなど、白黒をはっきり区別して、どちらかの極端に捉えてしまう考え方です。 6、7割くらいのほどほどなことや、白でも黒でもないグレーなことは認められないという、完全主義的な考え方でもあります。

 

最近目にした記事によれば、加齢とともに、この「二分割思考」にとらわれやすくなる傾向があるそうです。理由は前頭葉の萎縮が進んでいくためだそうで、前頭葉が衰えると無意識のうちに物事の決めつけが激しくなり、白か黒か、善か悪かで考えやすくなるそうです。

例えば、長年親しく付き合ってきた友人でも、ささいな誤解や行き違いから決裂して疎遠になってしまうようなことが起こるのは、こんなところに一因があるそうです。

自分が完璧主義者になりやすく、他人を敵に回しやすくなるので、孤立しやすくなるとも言います。思考の偏りが強いためうつを発症しやすく、かかると治りにくい傾向があるといいます。

 

このことは加齢だから仕方がないということではなく、「二分割思考」に陥らない思考法を身につけることで、防止や緩和ができるそうです。

それは「曖昧さへの耐性」で、グレーな部分があることを認めていくことだといいます。

「3割は自分と違うが、7割は同じ」「嫌なこというが、よいところもある人」などと思うことで、相手にいちいち腹を立てずに済みます。思考のグレーの度合いをその時に応じて柔軟に変えていけると、心が成熟していると言えるそうです。

このように「二分割思考」に陥るのは、あまり良いことがなさそうに思えますが、最近は加齢などと関係なく、白か黒か、敵か味方かという極端な議論がされるケースが多いように感じます。

例えば企業内でも、どうも話が一方的で適切な議論がされているのか疑問に感じることがあります。そんな時に議論の様子を聞いてみると、声の大きい一部の意見だけで話が進められていたり、上司が一方的に指示していたり、安易に多数決で決めていたりします。グレーな部分を明らかにして埋めようとはしていなかったり、多様な考え方を調整しようとしていなかったりすることが往々にしてあります。

どちらかというと、グレーな部分を認めないという「二分割思考」を、若いうちから訓練しているようにも見えてしまいます。

 

「二分割思考」の一因に、加齢による前頭葉の衰えがあるとのことでしたが、今の様子を見ていると、白か黒かで考えることが普通になっていて、グレーさや多様さを受け入れたり判断したりする経験が少ないため、そもそも前頭葉が未熟なのではないかと思うことがあります。

極端な思考が敵を作り、孤立を生んでしまうのは、特に同じ組織の中ではまったく好ましいことではありません。

 

今のように情報が大量で多様な時代だからこそ、グレーな部分を認めて受け入れていく「曖昧さへの耐性」が重要になっているように思います。