2022年5月16日月曜日

また「ムダな会議」が増えてきている?

数年前の調査ですが、日本企業が社内会議に費やしている時間は、メンバークラスで週に3時間超、係長級で6時間、部長級になると8.6時間になったそうです。年間で推計すると、メンバークラスでは154時間、部長級では434時間を超え、さらに従業員規模が多いほど上司の会議時間は伸びていて、1万人を超える大企業では630時間にもなるそうです。顧客など社外との打ち合わせは含まれていないとのことなので、ずいぶん長い時間を使っていることがわかります。

 

これがムダだと思う人は当然いるわけで、この調査ではメンバーでは23.3%、それ以上の上司層の平均では27.5%の方が会議にムダが多いと感じているとのことでした。経営視点があって参加意識も高いはずの上司の方がムダが多いと感じているのは、やはり問題があります。

 

調査結果からの推計では、ムダな社内会議時間が、1500人規模の企業で約46人分の年間労働時間に相当する年間9万2000時間、1万人規模の企業では約332人分の年間労働時間に相当する年間約67万時間となりました。損失額にすると、それぞれ年間で約2億円と15億円になるそうです。

ムダが起こる原因には、「会議が終わっても何も決まっていない」「終了時刻が延びる」「些細な議題で会議を開く」といったことが挙げられており、ムダを減らすには「所要時間の制限」「司会者による決定事項の明確化」が効果的だったとのことでした。

 

多くの会社でムダな会議を減らす取り組みは行われていますが、現場の様子を見ていると、そんな意識が全く感じられないこともあります。経営者、幹部社員、管理職の意識に左右されているように見え、「とりあえず集まって話し合おう」という感じですぐ会議をしたがる管理職は、相変わらず見かけます。

 

これは最近現場の人たちから聞くことですが、会議の回数や時間が増えているという話があります。その理由がオンラインでの会議です。会議が効率的に開催できるようになった反面、移動時間などのインターバルが不要であることや、会議室の大きさなどの物理的制限がないことなどから、間断なく会議が設定されたり、必要があるのかないのかわからないような会議への参加を求められることが増えたといいます。会議のはしごがしやすくなり、それを見越してスケジュールが詰め込まれてしまい、一日中会議ばかりに終始してしまうこともあるそうで、会議のムダも増えているように感じるそうです。

 

コロナ禍によってオンラインでも仕事ができる環境作りが進み、みんながそれを経験しながら徐々に定着してきましたが、効率化ができた一方、逆の現象も見られるようになりました。会議の問題もその一つといえるでしょう。

リモートワークでは、コミュニケーションの取りづらさが一番大きな問題として言われますが、その反動として会議が増えていることもあるでしょうし、開催が容易になったことでの詰め込みが起こっていることもあるでしょう。今までとは異なる新たな対策が必要になっています。

 

こんなことからも、働く環境や働き方がこれまでとは大きく変化していることと、それに伴って起こる課題も変わってきていることを感じます。変化対応力がますます重要になってきています。

 

 

2022年5月9日月曜日

ブラックでもホワイトでもないグレー企業

「ブラック企業」という言葉が定着してから、もうずいぶん時間が経ちます。

統一された定義はないようですが、厚生労働省がその特徴として挙げているのは

・労働者に対し極端な長時間労働やノルマを課す

・賃金不払残業やパワーハラスメントが横行するなど企業全体のコンプライアンス意識が低い

・このような状況下で労働者に対し過度の選別を行う

といった内容です。

 

ブラック企業に対する対義語として生まれたのは、「ホワイト企業」という言葉です。

こちらも明確に定義されたものはありませんが、その特徴としては

・給与が高い

・残業が少ない

・福利厚生が充実している

・有給休暇が取得しやすい

・女性も働きやすく活躍できる

・離職率が低い

などが挙げられています。

 

世の中のすべてがホワイト企業であれば、それが一番好ましいのかもしれませんが、そうなることはたぶんあり得ません。

また、ブラック企業がなくならないのは、だまされたとか他に選択肢がなかったとか、事情はいろいろあったとしても、結局はそこで働く人がいるからです。こちらも簡単になくすのは難しいでしょう。

 

その理由として、まず一つは、実在する企業をブラック企業とホワイト企業の二つに単純に分類することはできないからです。

それぞれで挙げられた特徴のすべてに回答するような企業は決して多くはなく、例えば仕事はきつくてパワハラ的だが給料は高いとか、反対に仕事は楽で働きやすいが、業績は低くて給料が上がらないといったことがあります。

「ノルマ」も「目標」と言い換えてしまえば普通のとらえ方となり、その達成度に対する厳しさは一概に言い切れるものではありません。

 

もう一つは、ブラック企業とホワイト企業それぞれで挙げられている特徴は、その人によって感じ方の違うものが多いということです。「高い」「低い」「多い」「少ない」「充実」「活躍」「極端」「過度」などは、主観によってとらえ方が違う言葉です。労働時間や休暇の取得率には世間一般の指標があるので、それに照らして評価することはできますが、例えば休暇の取得しやすさと言われて、まったく同じ環境でも休みにくさを感じる人からそうではない人まで様々です。休みにくい人にとってはブラックでしょうし、気にしない人にとってはホワイトとなるのでしょうが、その時の業務状況などによっても様子は変わるはずです。

サービス残業についても、基本的には法律違反なのであってはならないことですが、特に中小企業では、過去からの経緯などで、社員も特に不満を持たずに納得して従っていることがあります。実質的にはブラック企業かもしれませんが、働いている人たちはあまりそうとは思っていません。

 

こうやって見ると、ほぼすべての会社は、ブラックとホワイトの中間のグレーなところに位置していることになります。大手の優良企業でもどこかにブラックな要素を持っていることがあるでしょうし、ブラックだと批判されるような企業でも、どこかにホワイトな要素を持っていたりします。

 

大半の企業はブラックとホワイトだけでは分けられないグレーな職場です。また、そのとらえ方が人によって異なるということで言えば、周囲の評判や噂だけでは、自分にとってブラックかホワイトかという判断はつきません。

転職に際して「ブラック企業の見分け方」などの情報がありますが、あくまで自分なりの基準で見極めることも必要です。

どんな企業にも、ブラックさとホワイトさが必ず共存しています。

 

 

2022年5月2日月曜日

「適切な余力」と「無駄」

生活用品企画、製造、販売のアイリスオーヤマで、あらゆる設備の稼働率を7割以下にとどめているという経営手法に関する記事がありました。

 

経営上の一般的な常識では、設備稼働率は高いほどよく、そのためには持っている資産を無駄なく目いっぱい使うことが良しとされますが、アイリスオーヤマでは「効率」よりも「ビジネスチャンス」「瞬発力」を優先する考え方で、何かで需要の急増があったときに、それに瞬時に対応できる体制とするために、「稼働率7割以下」というルールにしているとのことです。

震災後のLED照明、コロナ禍でのマスクは、それぞれ需要拡大に対応した急速な大量生産を行ったことでシェアを獲得しています。

 

例えば、受注から出荷までの時間を極限まで短縮する「ジャスト・イン・タイム」では、「在庫は悪」として、設備も倉庫も作業人員もギリギリにして効率を上げようとしますが、需要が安定しているときはそれで良くても、今のような不安定な時代に起こりがちな需要変動には弱いと言っています。

このような「適切な余力」を持つ経営に追随する企業も、少しずつ増えているといいます。

 

特に中小企業では、「そんな余裕は持てない」「無理」という声を聞く一方で、私の周りにもずいぶん前から「稼働率7割」と似たようなことを言っていた経営者は何人もいました。何かあったときにすぐに対応するにはある程度の余裕、余力が必要という点は共通していましたが、そのニュアンスは二通りあって、一つはまさにビジネスチャンスをつかんで先行者利益を得るためということと、もう一つは災害なども含めた急なトラブルなどに対応するためとのことでした。

 

日常生活の中でも、最近は自分に必要最小限の持ち物だけで暮らす「ミニマリスト」のように、無駄なものをできるだけ持たないという考え方が注目される一方、特に食料品や身の回り品は、できるだけストックしておくことが災害時の備えとして重要という話もあります。

社会機能が通常通りであれば、特に物も持たなくても生活は成り立ちますが、もしものことがあったときに、一定以上の余力を持っておいた方がよいというのは、似たような話だと感じます。

 

ある程度の余裕、余力が必要という話は、たぶん多くの人が肯定的にとらえると思いますが、問題は「適切な余力」と「無駄」の境目はどこにあるのかということです。特に「無駄」ということでは、ある人にとっては無駄と感じることが、別の人にとっては無駄ではない必要なことであったりします。バランスの取り方は非常に難しいですが、注意しなければならないのは、「それは本当に“無駄”なのか?」という点です。

 

私が企業の現場を見てきた中で多かった「無駄」の判断間違いは、「誰でもできる仕事」「簡単な仕事」などの理由で、担当者を変えたり外したり、要員補充をしなかったりしたときに、それまで順調だった仕事が急に立ち行かなくなり、実はその人たちが目には見えづらいが重要な役割を持っていたと初めて気づくことです。仕事の属人化は良いことではありませんが、「無駄」に見えたことが、実は効率的な仕事で生み出された「適切な余力」であったりします。それに気づかず「無駄」と切り捨ててしまうことは大きな問題です。

 

一見「無駄」に見えても、実はそうでないことがたくさんあります。注意して見極める必要があります。

 

 

2022年4月25日月曜日

在宅勤務を「する」「しない」の二極化

コロナ禍をきっかけに急速に広まった在宅勤務ですが、ウィズコロナやアフターコロナと言われるようになるとともに、以前のような出社勤務に戻す企業が増えています。

在宅勤務は残す前提のところ、徐々に戻しながら将来的なことはまだ決めていないところ、完全に元通りにするところなど、企業によって取り組み方はいろいろですが、肯定的なニュアンスが強いかそうでないかは、はっきりと二極化している感じがします。

 

最近も先進的なイメージがある某大手企業が、全社的に実施してきた在宅勤務を取り止めて、全従業員がコロナ前と同じ週5日の出社勤務に切り替える方針を発表して話題になりました。対面によって社内コミュニケーションを活性化させたい意図のようです。

確かにそういう判断もありうるのだろうと思います。

 

一方で、これまでの在宅勤務から元の出社勤務になることで、会社に対して働きづらさや時代遅れな感じを持ってしまい、転職を考える人が出始めているという話がありました。出社した方が効率が良い仕事があることは認めつつ、一度在宅勤務のメリットを享受した身としては、すべて元通りにすることにはまったく納得できず、多様な勤務体系がある会社への転職を考え始めているとのことです。

そう思ってしまう気持ちは理解できます。

 

在宅勤務を「する」「しない」の判断は、直接接客するしかない仕事や社内設備を使わなければできない仕事など、どうしようもない会社ではもともとやっていないので、これまで実施してきたのは在宅勤務でこなせる仕事が必ず何かある会社ですが、規模や業種、社歴の長さといったことで判断基準を類型化することが難しいように見えます。

大手企業や先進的なIT系企業など、在宅勤務に適応できそうな会社が出社勤務を求めていたり、反対に中小規模でITリテラシーが高いとは言えない老舗企業がフルリモートに転換していたりします。

「する」「しない」の判断基準は、まさにその企業の価値観によって行われていて、対面すること、同じ場を共有することが、どのくらい仕事に重要かという感じ方の違いです。その判断は二極化している印象です。

 

一方、働く側の社員たちが、出社体制に戻ることをネガティブに思う理由は、わりと共通しているように思います。それは「通勤による負荷」に関するものです。混んだ電車での通勤で体力を消耗すること、往復の移動によって自分で使える「可処分時間」が減ってしまうことです。特に子育て世代では、子供と物理的に近い距離でいられることと、可処分時間が増えて有効に使えることは大きなメリットになります。

 

これに対して、以前ある地方企業で話を聞いた時、在宅勤務を希望する社員はほぼ皆無という事でした。ほぼ全員が片道30分以内の車通勤で通勤の負担はほとんどなく、中高年ばかりの社員構成で子育て世代はほぼおらず、家に仕事を持ち込むことの抵抗感の方が強いので、社員から希望が出ることは一切ないとのことでした。

仕事環境はその地域や会社ごとに大きく違い、社員が快適だと感じるものも違うのだと、私自身も認識をあらためたものです。

 

これからも在宅勤務をはじめとした働き方の試行錯誤は続くでしょう。ITツールはこれからも進歩して、今までできなかったことができるようになります。通勤の問題もサテライトオフィスの設置などで改善する動きがありますし、シェアオフィスやコワーキングスペースなどのサービスも増えています。副業やフリーランス、さらに業務委託や個人請負など、企業と働く人との関係性も多様になっています。

 

働き方の変化はこれからも続くと考えれば、在宅勤務は「しない」など、一時的に退化したように見えることもあるでしょう。今はまだそんな時期のように思います。もう少し試行錯誤が続く中で、初めてその企業の本質が見えてくるのではないでしょうか。

 

 

2022年4月18日月曜日

あらためて「運が良い人とは?」という話

ネットで検索してみると、「運が良い人とは?」という記事は本当にたくさん見つかります。

宝くじに当たるような人知を超えた運はともかくとして、どの記事にもわりと共通した条件が書いてありました。その中で一番目についたのは「運が良い人は“自分は運が良い”と思っている」というものです。

 

ちょっとの良いことでも「ツキがある」などと肯定的にとらえ、何か良くないことに出会っても、「自分は運が良いから大丈夫」と思っているので、たぶん精神的にも安定していて、それがいろいろな行動にも表れるのでしょう。心が落ち着いていれば行動も穏やかになり、他人にとっては接しやすい人となり、周りに人が集まりやすくなるのでしょう。

 

他に出てきた条件には、「明るい」「笑顔」「社交的」「楽天的」「前向き」「優しい」「気遣い」「悪口を言わない」など、ほとんどが他人との接し方にかかわるようなものばかりでした。そう考えると、どの項目が入口になっているかは人それぞれでしょうが、運にまつわるすべてのことは、何となく全部がつながっているように感じます。

反対に運が悪い人の特徴には「愚痴」「ネガティブ」「頑固」「他責」「優柔不断」など、周りの人にとっては付き合いづらく、近寄りにくくなるものばかりが挙がっていました。こちらも同じく他人との接し方に関するものがほとんどでした。

 

私が思っている「運」というのは、運という漢字が「はこぶ」とも読まれるように、自分の力というよりも、すべては家族、友人、知人から赤の他人まで、周りの誰かが自分のもとに「運んできてくれるもの」だということです。

周りの人たちから好かれ、認められ、接していて楽しく、心地よく、そういう相手であれば何かつながりを持ちたい、協力したい、支援したいという気持ちになります。こんな他人の気持ちこそが運であり、そういう気持ちを持ってくれる人が周りに大勢いる人ほど、「運が良い」ということになります。

運を切り開くために自分なりの努力をすることは必要だと思いますが、その運は自分で勝ち取るというより、努力する姿を見ていた誰かが、そのことを認めたり共感したりして、何かチャンスを与えてくれるから運がつかめるのです。

 

そうであれば、自分の運を良くする方法は、「自分の周りの他の人たちと誠実に接する」ということに尽きるはずです。ここで言う「他の人たち」とは、友人や知人などの面識がある人たちばかりでなく、お店の人や通りすがりの人など、自分とのかかわりが少ない人やもう二度と会わないかもしれない人も含みます。

また、孤独が運気にとってあまり良くないこともわかります。人づきあいが苦手な人、一人が好きな人はいると思いますが、自分なりの方法で他人や社会とのかかわりを持ち続けないと、運気はどんどん下がってしまいます。

私の知人の一人ですが、寡黙でほとんどしゃべらないにもかかわらず、なぜかいつもみんなの輪の中にはいて、いつもニコニコして話を聞いているだけという人がいます。積極性もポジティブさも感じませんが、常に誰かから声をかけられたり誘われたりして、本人は楽しそうに過ごしています。こんな些細な幸せがあることも、一種の運ではないでしょうか。

 

私も自分では「運が良い」と勝手に思っている方ですが、その理由のほとんどは「周りの人たちに恵まれているから」と感じています。

「運が良い人」には、運を運んできてくれる人が周りにたくさんいるのだと思います。

 

 

2022年4月11日月曜日

「セクショナリズム」は本能的なものという話

特に日本における組織上の問題として、部門間のコミュニケーション不足、自部署以外に責任を押し付ける他責、自分たちだけに都合が良い仕事の囲い込み、その他縦割組織りの弊害である「セクショナリズム」の問題がよく挙げられます。

部門や社員個人が自身の権限や利害関係にこだわって、他者との協力を拒んだり、極端な安全志向で変化を嫌ったり、組織全体の利益を考慮せずに行動したりすることで、事なかれ主義、官僚主義などと表現されることもあります。

これは全く珍しいことではなく、どこでも何らかの形でほぼ確実に起こっていると考えてよいことです。ただし、当事者たちがそのことに気づいていない場合はあります。

 

この「セクショナリズム」を改善するためには様々な取り組みがされ、私たちのようなコンサルタントもそのお手伝いをします。

社内の制度改革、組織風土改革、権限移譲の促進といったことが多いですが、それぞれ簡単に進むものではなく、活動をやめるとすぐ元に戻ってしまいます。

 

この「セクショナリズム」については、「生き物としての本能である」という話を聞いたことがあります。地球上の多くの生き物には「縄張り」があり、これを守ることが食料を得ることや子孫を残すことで重要だからです。身近で言えば犬や猫、ちょっと離れて猿や鹿には縄張り意識があるそうです。

 

「縄張り」というのは自分の居場所の既得権ともいえるもので、これを侵されることは身の安全や命の危険にもかかわるため、強い不安を持ったり強烈な怒りを感じたりします。ですから自分の居場所の安定を求めるのは、本能として当然のこととなります。

 

「セクショナリズム」が本能によるものとなってしまうと、これを覆すのは難しくなりますが、ここで必要なのは理性です。動物は基本的に理性を持たず本能に基づいて行動するので、「縄張り」という「セクショナリズム」をなくすことはできませんが、人間は「理性」によって本能を制御することができます。

お互いを敵視せずに良好な協力関係を作ること、職種転換や異動などの様々な変化に順応すること、不安や怒りをコントロールすることなどは、理性があってこそできることです。

 

そうなると、「セクショナリズム」が起こる組織は理性が欠けていることになってしまいますが、これが明確に当てはまらない組織は数多くある一方、そう感じてしまう組織に出会うこともあります。その多くは「リーダーの行動に理性的ではないものが含まれている」という場合です。

仕事や人員の囲い込み、責任回避、押しつけ、他部署攻撃など、その内容と程度は様々ですが、やはり根本はリーダー自身の不安や怒り、守りの姿勢など、生き物の「縄張り」に由来する本能のように見えます。これを解決するには、リーダーの理性が大きく高まるか、リーダーを別の人に変えるかの二つの方法しかありません。しかし、前者は相当長い時間や偶然が必要であり、少なくとも私は実際に見たことはなく、ほとんどが後者の「リーダーを変える」という方法です。

 

「セクショナリズム」は本能的なものという視点で考えると、これを防ぐためには「リーダーが理性的」ということが重要になります。それがなかなか難しいために、「セクショナリズム」がなくならないとも言えるでしょう。

これからのリーダーの資質として、理性的という点は考えておかなければならないのではないでしょうか。ちなみに今起こっている戦争でも、同じようなことを感じてしまいます。

 

2022年4月4日月曜日

言った?言わない?確認しない?関係ない?

4月は異動や昇格の季節ですが、ある会社でこんなことがありました。

主任クラスまでの昇格は、担当課長の申請を会社が承認して決まることになっており、その昇格の決裁、承認はほぼ部長権限でおこなっています。正式な発令は4月1日に文書で発表されますが、本人にはその前に内示で昇格する旨を課長から伝え、それに向けた意識づけなどを行うことになっています。

 

ある社員の昇格申請に対して、部長は担当課長に「最終決定ではないが、ほぼ問題ない」と伝えていたそうですが、その件について、その後は特にやり取りをしていなかったといいます。

発令日の1週間前になり、通常は内示後の本人の様子などを課長が部長に報告してくるそうですが、この時は全くそれがなかったため、部長は担当課長に「来週に正式発令だが、本人の状況はどうなのか」と尋ねたところ、課長は昇格に関しての意識づけどころか本人への内示もしていませんでした。

「最終決定ではないと言われたからその後あらためて通知があるものだと思っており、それがないから昇格は見送られたと思っていた」とのことです。

 

部長からすれば、社内でこれまで主任昇格が却下された前例はないそうで、それも含めて課長は昇格決定の時期やその後のスケジュールも知っていたはずなのに、申請をしたまま放置していた担当課長の怠慢という認識です。部長は「なぜ確認しにこなかったのか」「昇格申請した当事者で、部下を指導する立場なのに無責任ではないか」と課長を責めました。確かに課長としてやるべきこと、確認すべきことはあったと思います。

これに対して課長は、「正式決定と言われていないから、昇格するかどうかわかりようがない」「きちんと話をしてこなかった部長が悪い」という態度で終始していたそうです。部長の側にも、「これくらい知っているはず」「これくらいはやって当たり前」といった思い込みや決めつけがあって、きちんとコミュニケーションを取っていなかったという問題はあります。

 

このようなコミュニケーションエラーの問題は、対象となる事柄は違っても、わりと普通にどこの会社でも起こっていることです。

ここでの最も大きな問題は、「お互い思い込みで確認をせずにそのまま放置していた」という点です。昇格のような重要なことは、「空気を読む」や「以心伝心」ではなく、きちんとコミュニケーションを取って確認し合わなければなりません。「これくらいは常識」「普通はわかっているはず」と思い込んで確認しないことで、多くのエラーが起こります。ただ、こういうことは、もうみんなわかっているはずのことです。

 

ここではもう一つ、「ではなぜ確認しようとしないのか」という問題があります。その理由を私は「当事者意識」にあると考えています。自分の責任ではないと考えているから、そのことを確認しようとしないのです。

前述の例でいえば、部長は担当課長からの申請を追認するだけの役割と思っていて、直接的な対応はすべて課長がやるものだと思っています。

一方で課長の方では、自分が申請まではするけれども決めるのは部長であり、自分はその結果を待っているしかないと考えています。本人の意識づけなど部下育成についても、あくまで本人次第など、自分の責任とまでは思っていないかもしれません。

 

コミュニケーションにかかわる問題は、「こうした方が良い」「こうするべき」と知っているにもかかわらず、それが実行できていないことがあります。今回は「当事者意識」を挙げましたが、他にも好き嫌いのような感情の問題、ツールやシステムを含めた環境の問題など様々な理由があります。

そこではあるべき形を教えるだけでなく、それが実行できない理由を見つけて改善することや、実行できるような環境作りも考えなければなりません。

 

本質的な理由を見つけて改善しなければ、コミュニケーションの問題は解決しません。