2023年10月30日月曜日

「効率化」と「手抜き」の紙一重

それぞれの企業が抱えている課題は様々なものがあり、その内容は企業によって違いがあるものの、生産性向上や業務効率化といった課題では、それを考えない企業はないでしょう。

 

「効率化」には、IT化や自動化、省力化、省人化、ペーパーレス化、業務プロセスの定型化、設備の高機能化や高速化、提供サービスの統合や廃止、その他ここには挙げきれない多くの手法があります。

特に人手不足が深刻になってきている昨今では、人手をかけなくても仕事が回るように、まずは身近なITツールの活用や、省人化の前段として、無駄な作業をなくすなどの業務見直しが盛んに行われています。

実は人手不足がより深刻な中小企業の方が、前例踏襲の手作業や非効率な人海戦術に頼っていることも多く、業務効率化は必須の取り組みとなっています。

 

しかし、これはある会社でのことですが、数名のベテラン社員が、これらの取り組みに対して「手抜き」という否定的な発言をしていました。顧客サービスの低下や社員の能力低下につながっているとの主張です。

 

顧客サービスの低下と言っているのは、文字通り提供サービスの内容が見直されて、昔からの流れで個別対応していたようなものが、一律の内容に統一されたことを指しています。

「顧客が困る」と言い、その言い分はわかりますが、そもそもこれまでやってきたという個別対応が、コスト除外の過剰サービスと見ることができ、私のような第三者から見れば、効率化の対象になるのは当然の部分です。

 

もう一つ、社員の能力低下と言っているのは、自動化やシステム化によって、特に若手社員が業務プロセスの詳細を知る機会がなくなってしまうため、人材育成上で問題があるとのことです。

「書類を手書きすることで覚えていく仕事もある」などと言いますが、こちらも言いたいことはわかるものの、例えば帳簿類を手書きしなげれば簿記が覚えられないかと言えばそんなことはなく、転記などは会計ソフトに任せておけば良いことです。プログラミングであれば、必ずしもソースコードを知らなくても作成できるツール類があります。

どちらも基礎知識を持っておくに越したことはありませんが、これから昔のやり方に戻ることは、ほぼ考えられません。これを手抜きというのは少し論点がずれている感じがします。

 

「効率化」と「手抜き」の差を説明すると、時間短縮や省力化によって質が向上、もしくは低下が起こらないのが効率化で、合わせて質の低下も起こってしまうのが手抜きということができます。

ただ、その境目を具体的に詰めていくと、サービス統合を質の低下と見ることもできますし、システム化などで知識を持たずに済んでしまうことを能力の低下と見ることもできます。

 

結局は「効率化」の取り組みによって得られるものと失うもののとらえ方であり、それは立場や役割によって違うものになるでしょう。

 

こうして見ていくと、「効率化」と「手抜き」の境界線は、意外に紙一重のように思います。

「効率化」を進めていく中では、いろいろなとらえ方があることを認識し、「手抜き」とならないように調整していくことが必要ではないでしょうか。

 

2023年10月16日月曜日

仕事を「抱え込む人」と「丸投げする人」

 マネージャー人材に関して、最近正反対の問題を投げかけられました。

部下に仕事を任せようとせずに、自分だけで「抱え込む」マネージャーと、相手のレベルを考慮せず、必要な情報もあまり与えずに、任せたなどといって仕事を「丸投げする」マネージャーです。

 

どちらも困った問題であることは間違いありませんが、どちらが多いかというと「抱え込む人」が問題とされることが多い気がします。仕事を「丸投げする人」の場合、部下が優秀だとサポートが少なくても仕事をこなしてしまうので、問題としてあまり表面化しないからです。それでも仕事の効率が上がらないとか、上司部下の関係性が悪くなるとか、必ず問題はあります。

ただ、「抱え込む人」の場合は、それ以外に仕事の属人化部下が育たないという問題がプラスされるので、組織上の問題としてはより深刻な場合があるかもしれません。いずれの場合も、どこまで部下に任せて、どこから自分でやるのかという権限委譲の線引きなので、個人的な感覚に左右されていることも多いです。

 

私自身がいろいろな人と接してきて思うのは、「抱え込む人」も「丸投げする人」も、決して悪気はなく、どちらかといえば良かれと思ってそうしている人が多いということです。本人にそういう自覚があまりありません。

 

「抱え込む人」には、真面目で責任感の強い人が多く見られます。深層心理の中には「自分の存在意義を保ちたい」などの気持ちがあるかもしれませんが、目の前の仕事を自分が責任をもってやり遂げるという意志の強さを感じます。その結果として任せられない、抱え込む、属人化するといったことが起こっていますが、本人は会社を辞める気が一切ないので、たぶん自分がやることが会社への貢献と思っています。

一方の「丸投げする人」も、実は人材育成のためと思ってそうしていたりします。自分はできるだけ手を出さず、余計な口を出さず、本人が考えて仕事を経験することが大事だと思っていますが、部下にとってはそれが行き過ぎていて、「放置」「丸投げ」ととらえられてしまっています。相手のレベルに合わせて権限委譲するという点で問題があります。

 

なので、こういう場合に最初にやることは、抱え込み、もしくは丸投げの状況を本人に自覚してもらうことです。そのためにはただあるべき論を伝えるだけでは難しく、実際の業務の中で「この仕事は任せられるのでは?」「今の言い方で伝わる?」「この説明も必要では?」など、具体的に指摘していくことが必要になってきます。

身近な上司や同僚がその都度話したり、私たちのような社外人材が第三者の立場から指摘したりすることが有効であり、本人にはそもそも悪気がないので、自覚すれば改善するスピードは速くなります。

 

組織内で上の立場になるほど、周りから自分の仕事ぶりを指摘されることは少なくなり、問題があっても自覚することができにくくなっていきます。まずは周りから伝えることが重要です。

 

2023年10月2日月曜日

効果が実感しづらい?「メンター」たちの自己評価

「メンター制度」は、先輩社員が新入社員などに定期的な面談をおこない、不安や悩みなどを聞いてサポートする仕組みですが、これを行っているある会社で、ほんのちょっとのことですが、その環境づくりの支援をしています。

当初は現場の無理解があって実施しにくいなどの問題がありましたが、それらはもう解決して、私が今やっているのは、たまにメンター役の人たちから実施状況などの話を聞いて、困りごとや心配事があれば解決を手助けする程度のことです。

 

先日久しぶりに話を聞いたところ、ちょっとだけ気になることがありました。意外に重たい相談をされた人が何人かいて、それぞれ「自分の対応で良かったのだろうか」「もっとしてあげられることがあったのではないか」など、どちらかといえば反省ばかりしています。

他の人たちも、「いろいろ話してくれるようになったと思うが、本音がどうなのか」「信頼されているのかわからない」などといい、「役に立っているのかという実感はあまりない」といいます。

 

ただ、私が説明を聞く限りでは、以前よりも気軽にコミュニケーションできる関係づくりは進んでいるし、重たい相談事というのも、たぶんメンターがいなければ聞き出せなかったと思えることです。その後の対応でも、どうするかは私から見ても結構気を遣う難しいものですが、とても適切に処理しています。それでもメンター本人は「あれでよかったのだろうか」「もう少し良い方法があったのではないか」と自己評価は低いままです。

 

そんなことで、私からはあくまで見えている事実をもとに、メンターの存在意義を感じる良い対応だったことや、お互いの良い関係づくりが順調に進んでいるように見えることなどを伝えていくと、メンターたちの表情は少しずつ緩んでいきました。

 

私がしたのは、メンターたちが確信を持てずにいたことを、客観的な立場から「それで大丈夫」と伝えただけですが、考えてみれば、常に1対1の関係で行われるメンター制度の特性で、自分によほど自信があるか、もしくは相手から直接的な感謝の言葉でもない限りは、メンター自身が自分の存在価値を確信できることは少ないかもしれません。他の誰かからのちょっとした後押しや承認で、メンターの意識はずいぶん変わるように思います。

小さなことですが、実はこういうことがメンター制度の成否を左右しているのかもしれません。

 

2023年9月25日月曜日

「在宅勤務」をしたい、したくない、させたい、させたくない

 コロナ禍を機に一気に広まった在宅勤務やテレワークですが、状況が落ち着くとともに、以前のような出社勤務の比率を徐々に戻している企業が増えてきています。

NTTのように「原則在宅」とする企業から、ホンダのように「原則週5日出社」とする企業までありますが、すべて元に戻すのではなく、在宅勤務やテレワークを一定の比率で維持するハイブリットな働き方を考える企業が多いようです。

 

コロナ以前からテレワークが進んでいたアメリカでは、対面の重要性が見直されて、どうやって社員を出社させるかが議論となっているといいますが、テレワークと出社の間での揺り戻しはこれまで何度も起きているとのことで、今は大きく増えた在宅勤務やテレワークから、少しずつ出社に戻そうという方向性なのだと思います。

 

個人的意見としては、出社もテレワークも一長一短があるので、それぞれの長所を活かすために組み合わせていくのが良いと思っていますが、これも一つの揺り戻し現象なのか、在宅勤務やテレワークへの否定的な話と、それに基づく動きが増えてきている感じがします。

 

企業で意思決定する人たちは、在宅勤務やテレワークなどあり得なかった時代を過ごしてきた人が多いと思われ、その人たちからは、自分たちの時代はこうだった、だからやっぱり対面で仕事をしなければだめだと言われることがよくあります。

ただ、いかにも正当のような理由をいろいろ挙げるものの、本音では「一日家にいるのが嫌だ」など、結局「自分たちがずっと続けてきた働き方との違いになじめない」ということを強く感じます。経営層にそういう考えの人が多い会社ほど、できるだけ多くの時間を出社勤務に戻そうとする動きが強いようです。

ここでは、在宅勤務になじんでうまく活用している人たちからの反発が増えて、会社と社員、上司と部下などの間で対立が生まれています。

 

また、働き手の中にも「在宅勤務をしたくない」という人は存在します。

先日話を聞いた人は、在宅勤務をしたくない理由として「仕事の生産性が上がらないから」と言っていました。ただ、なぜ生産性が上がらないのかという具体的な話を聞いていると、必ずしも理屈が通らないことが出てきます。

例えば、「他人の目がないとサボりがちになる」と言っていますが、その人はチームに属さず特命の作業を単独でやっている専門職の人なので、出社しても常に他人の目がある場所で仕事をしているわけではありません。「資料が会社にしかない」と言いますが、よく聞くと同じ情報をネットなどで見ることはできるそうです。「気持ちの切り替えができない」と言い、確かにそういう面はあるでしょうが、それがどのくらい生産性に影響があるのかはわかりません。

結局は「自分の今までの仕事の仕方を変えたくない」という感覚の部分が大きいように感じます。在宅勤務でメンタルダウンが増えたという話がありますが、このような心理的な要因が大きいのかもしれません。

 

出社勤務に回帰しなければならない理由に感覚的なものが多いのに対して、「在宅勤務がしたい」という人たちは、育児や介護などの家庭の事情、遠距離通勤の問題など、その理由とニーズがわりと具体的です。このこともお互いの不満や対立を生んでいる一因のように思えます。出社勤務を求める理由には、もう一歩の具体性や客観性が必要と考えられます。

 

在宅勤務と出社勤務のせめぎあいは、それぞれの会社が、自分たちの価値観に合わせてバランスを考えていくのだろうと思います。どちらが良いと明確に言うことはできませんが、個人のとらえ方は多様になっており、今後ますます企業選びの条件として大きくなっていくように感じます。

 

 

2023年9月11日月曜日

「2-6―2の法則」のとらえ方の話

 「2-6-2の法則」とは、組織や集団において、優秀とされる人が2割、中くらいもしくは普通の人が6割、成績不振や働かないなど、パフォーマンスが悪い人が残り2割の割合で存在するというものです。明確な裏付けがあるのかはわかりませんが、多くの人が経験的に納得しているようなところがあります。

 

この法則は、「働きアリの法則」とも言われることがあります。働きアリの集団を観察していると、よく働くアリが2割、ほとんど何もせず働いていないアリが2割程度、残りの6割が普通程度の働きで、この集団から働かない2割のアリを排除しても、残ったアリからまた2割程度の働かないアリが現れることから、集団の中でのバランスの根拠のように扱われています。

様々な会社の経営者や管理者の中には、この法則から2割の戦力外がいるのは仕方がなくあきらめるしかない、上位の2割が組織を引っ張らなければならないという人たちがいます。

 

しかし、私が最近読んだ記事で、このようなものがありました。

働いているアリでも、時間が経つと徐々に疲労して働けなくなってくるそうで、そうするとそれまであまり働いていなかったアリが、代わりに働き始めるそうです。すべてのアリが疲労して働けなくなってしまうと集団が維持できないので、集団を維持、継続するために余力として持っているのが、働かない2割のアリではないかという話でした。

 

企業においては、最近は効率化重視という観点から、無駄を省いたギリギリの組織運営を求められることが増えています。一方で、組織を安定的に機能させてそれを継続していくためには、一定程度の余裕、余力は必要です。働かない2割は、その中でただの無駄な人材というわけではないと見ることができます。結局は役割の与え方や働かせ方のほうに問題があるように思います。

 

また、「2-6-2の法則」というと、優秀とされる2割ばかりに注目して、その人たちを中心に組織運営を組み立てようとする傾向があります。役職や処遇、人事評価などでその人たちを優先し、普通に働く6割の人は、働かない2割の人とあまり変わらない評価がされていたりします。

 

ただ、「2-6-2の法則」が真実であれば、2+6の8割の人は普通以上の仕事をしているという見方ができ、そのおかげで組織が成り立っているとも言えます。

にもかかわらず、普通の6割の人をあえて相対評価などで序列付けしていることがあります。普通に働いているのに序列付けの結果でマイナス評価が下されていたりしますが、それでやる気が出る人はたぶんいませんから、そういう評価をすること自体に意味があるのだろうかと思います。

 

「2-6-2の法則」を安易にとらえ、2割が優秀で2割が使えない人など決めつけるのは、組織運営としてあまり得策ではないように思います。

組織を構成するすべての人は、何かしらの役割を持っているという考え方が、実は「2-6-2の法則」なのではないでしょうか。

 

 

2023年9月4日月曜日

安易な「二分割思考」に陥らないために

 「二分割思考」と言われるものがあります。

好きか嫌いか、敵か味方か、良いか悪いかなど、白黒をはっきり区別して、どちらかの極端に捉えてしまう考え方です。 6、7割くらいのほどほどなことや、白でも黒でもないグレーなことは認められないという、完全主義的な考え方でもあります。

 

最近目にした記事によれば、加齢とともに、この「二分割思考」にとらわれやすくなる傾向があるそうです。理由は前頭葉の萎縮が進んでいくためだそうで、前頭葉が衰えると無意識のうちに物事の決めつけが激しくなり、白か黒か、善か悪かで考えやすくなるそうです。

例えば、長年親しく付き合ってきた友人でも、ささいな誤解や行き違いから決裂して疎遠になってしまうようなことが起こるのは、こんなところに一因があるそうです。

自分が完璧主義者になりやすく、他人を敵に回しやすくなるので、孤立しやすくなるとも言います。思考の偏りが強いためうつを発症しやすく、かかると治りにくい傾向があるといいます。

 

このことは加齢だから仕方がないということではなく、「二分割思考」に陥らない思考法を身につけることで、防止や緩和ができるそうです。

それは「曖昧さへの耐性」で、グレーな部分があることを認めていくことだといいます。

「3割は自分と違うが、7割は同じ」「嫌なこというが、よいところもある人」などと思うことで、相手にいちいち腹を立てずに済みます。思考のグレーの度合いをその時に応じて柔軟に変えていけると、心が成熟していると言えるそうです。

このように「二分割思考」に陥るのは、あまり良いことがなさそうに思えますが、最近は加齢などと関係なく、白か黒か、敵か味方かという極端な議論がされるケースが多いように感じます。

例えば企業内でも、どうも話が一方的で適切な議論がされているのか疑問に感じることがあります。そんな時に議論の様子を聞いてみると、声の大きい一部の意見だけで話が進められていたり、上司が一方的に指示していたり、安易に多数決で決めていたりします。グレーな部分を明らかにして埋めようとはしていなかったり、多様な考え方を調整しようとしていなかったりすることが往々にしてあります。

どちらかというと、グレーな部分を認めないという「二分割思考」を、若いうちから訓練しているようにも見えてしまいます。

 

「二分割思考」の一因に、加齢による前頭葉の衰えがあるとのことでしたが、今の様子を見ていると、白か黒かで考えることが普通になっていて、グレーさや多様さを受け入れたり判断したりする経験が少ないため、そもそも前頭葉が未熟なのではないかと思うことがあります。

極端な思考が敵を作り、孤立を生んでしまうのは、特に同じ組織の中ではまったく好ましいことではありません。

 

今のように情報が大量で多様な時代だからこそ、グレーな部分を認めて受け入れていく「曖昧さへの耐性」が重要になっているように思います。

 

2023年8月28日月曜日

人を育てるための「許容」と「責任」という言葉

 ある企業で今のマネージャーに続く、次世代リーダー人材の育成を進めようという取り組みをしています。人材育成に悩みがない企業に出会うことはほぼなく、その中でもリーダー、マネージャーといった中核人材をレベルアップしたいと考える企業は非常に多いです。

 

人材が育たない理由には様々なものがあり、例えば「仕事は見て覚えるもの」などと言われて、自分が上司から教わった経験もないために、同じことを部下にしているようなことがあります。それでもみんな自分で何とかしようと努力するので、何となくつじつまが合ったような結果になることはありますが、育成と称した放置なので、理にかなった効率的な人材育成ということはできません。

 

多くの企業の現場を見ていて、人材育成が進まない大きな原因の一つに「経験させていない」「任せていない」という権限委譲の問題があります。その理由は上司が「自分でやった方が早い」と考えていたり、「任せるだけの信用がまだできない」「失敗されると困る」と思っていたりするなど様々です。

もちろん、まったく理不尽ということはなく、上司もいろいろ考えていますが、どちらかというと任せることに慎重で、部下がいつの間にか年令ばかりを積み重ねていたりします。

 

今の支援先で実施しているのは、権限移譲を計画的に進めて、その進捗状況を確認しながら、目標見直しと実践を継続していくことですが、そんな取り組みを進めている中で目についた言葉に、「許容」と「責任」というものがありました。

最近話題になった髪型自由など、高校野球のあり方について書かれた記事の中にあったものです。

 

チーム作りに関する考え方にはいろいろなものがあり、「監督の指示通りに動く選手の育成」という方法もあるが、それではこれからの時代に通用する人材育成という面で足りておらず、一人一人の個性や主体性、多様性などをもっと追求する必要があるとされていました。

その中で、ただ何でも自由にした方がいいということではなく、選手主体で自分たちの置かれた環境ではこれがいいと決めて、前に進めていくことが大事であり、そこからもたらされるのは「許容」と「責任」だという話でした。

指導者が選手らに自由を与えて「許容」し、その代わりに選手たちは「責任」を持った行動を求められるとのことでした。

 

この「許容」と「責任」は、前述の企業における人材育成でも同じことがあります。

どこまで「許容」して、どこまで「責任」を持たせるのかは、まさに権限委譲のさじ加減を指していますが、今見ている中で多いのは、やはり指導する側の「許容」が足りず、育成される側に「責任」が生まれていないことです。

「指示通りに動く人材」の方が、目先の結果が想定しやすく指導する側の安心感もあるため、どうしてもそちらに偏りがちになっています。短期的な目標達成のプレッシャーがきついなど、全社的な環境の問題もあるかもしれません。

 

多くの企業で自律人材を求めていると言いながら、実際には自律させようとしていないかのように見えることが多々あります。特に次世代人材を育成していくためには、この「許容」と「責任」のバランスを考えていかなければならないと思います。