2021年4月8日木曜日

ひときわ感じる「雑談」の不足

ある個人ブログに「私はテレワークに向いていませんでした」という記事がありました。

一人暮らしの男性でしたが、始めの頃は自分ほどテレワークに向いている人間はいないと思っていて、通勤がなく時間に余裕ができ、上司と顔を合わせずに済み、自由を満喫できると喜んでいたそうです。

ただ実際にやり始めると、部屋が静かなのが落ち着かないため音楽をかけたりするものの、かえって仕事に集中できない時間が増え、人の目が届かない場所で集中するのは自分にとっては難しく、散漫な集中力で効率の悪い長時間作業が慢性化していったそうです。

仕事をしようと思えばすぐに始められる環境自体が憂鬱の原因になり、自宅のパソコンが目に入っただけで暗い気持ちになりました。平日と休日の境界線が消えてしまった気がして、自宅がくつろげる場所でなくなってしまったといいます。

 

さらに他人と話せないのが一番の苦痛の原因で、ようやく出社できるようになって同僚と交わした趣味に関する雑談が何よりも楽しく、自分にとって会社はそんなことができる唯一の場所だったことに気づいたといいます。

家族や親友が身近にいればともかく、人と会話する機会が持てなかった自分は、場合によっては何日もまったく会話することなく、会社に行かないと人とおしゃべりもできないのだと気づいてしまい、さらに落ち込んだそうです。仕事の合間に交わすちょっとした雑談をはじめとした周囲との関係が、自分の生活をまともにしてくれていたといっています。

 

リモートワークについては、私自身もこれと似たような感覚があります。もう10年以上前から自宅でも仕事をしていて、そのこと自体には慣れていますし、自宅には家族もいて会話があるので、この人ほど深刻ではありませんが、コロナが始まってからの不快感の大きな原因が「雑談の不足」ではないかということを、この人の話をきっかけに思っています。対面する機会が減って、近くにいる人とのどうでもいい会話や雑談は大きく減りました。

 

調べてみると、「雑談の効用」に関する記事があり、その効果には

・アイデアのもとになる

・チームワークや愛社精神を作る

・心理的な距離が近づく

などが挙げられていて、「どうでもいい話」と思われていた雑談が、実は「どうでも良くはなかった」とされていました。

 

雑談は相手や場の雰囲気によって内容が大きく変わるので、いろいろな人といろいろな話をすることに意義があります。家族には家族の雑談があり、そこで自分のしたい話ができるとは限りません。趣味の話ができる相手、仕事の話ができる相手、その他いろいろな雑談相手がいて、どれもみんな必要な話です。思いつきや息抜きの話もあるので、そんな話は誰かが近くにいて相手をしてもらわなければなりません。

 

こんなことから、良い仕事をするためにはやはり対面で場を共有することも重要ですし、リモートに置き換えるとしても、雑談ができる環境や機会を意識的に設けることが必要になります。

「不要不急」という言葉がよく言われ、雑談はまさに不要不急の象徴みたいなものですが、そうやってないがしろにされてきた反動が、今になってはっきりしてきたように思います。

やはり人間は「群れで生活する生き物」なのだと、あらためてつくづく思います。

 

 

2021年4月5日月曜日

「チャンス」をつかむことと与えること

最近ちょっと気になったことです。

プロ野球が開幕しましたが、いくつかのチームでコロナの陽性反応の選手が出て、主力クラスが試合に出られなくなるケースが出ています。もちろんそれは良くないことで、感染した選手には何事もなく回復してほしいと思いますが、そんな中で代役となっている選手は、相当コアなファンでなければ知らない、一軍での出場経験がほぼないような無名選手が抜擢されています。しかもそういう選手がそれなりに活躍して、メンバー編成に苦労したチームの方が勝っていたりします。

どんなに無名でも、少なくともプロに入団できるだけの実力がある人たちですから、チャンスさえあればそれなりに活躍できる選手が、実は大勢いるのだと再認識しました。

 

先日あったサッカーの日本代表戦は、やはりコロナで招集が難しい事情がたくさんあったり、一度は招集した選手がケガで参加できなくなったりして、結構多くの初代表選手が選ばれていました。そしてゴールキーパーの一人を除いた全員が試合に出場し、みんなそれなりに自分の持ち味を発揮していました。相手チームとの戦力差が大きいことなどはありますが、チャンスさえ与えれば委縮せずに自分の力を発揮できる選手が大勢いることがわかります。

 

コロナ禍は不幸なことですが、そのおかげで通常だったらなかなかチャンスをもらえなかったような人たちが自分の力を見せる機会を得られ、しかもそこでしっかり実力を見せていることが、さすがプロフェッショナルだと感心し、そんな埋もれた優秀な人材が大勢いることもわかりました。

 

「チャンスは自らつかみ取るもの」とは言うものの、やはり周りが「いかにチャンスを与えるか」が重要だということを、あらためて強く感じます。

企業をはじめとした人材育成でも、「技術は自分で盗むもの」「見て覚えろ」とか「まだ早い」「まだ無理」「まだできない」などといって経験させる機会を与えていなかったり、その理由に「上がつかえている」など実力とは違う年功序列の障壁があったり、「チャンスを与える」ということをおろそかにしているように感じることが多々あります。考え直さなければならないところでしょう。

 

ただ、だからといってチャンスは“みんな均等に”与えられるものかというと、決してそうはいきません。前述のプロアスリートたちも、もともとの能力を常に磨いて努力を続けています。そうやっていつ巡ってくるかわからないチャンスに向けた準備をし、チャンスに巡り合う確率を上げるために鍛錬を続けています。天才的な力を持った人たちがさらに努力をしているわけで、実際にチャンスを得られるかは別にして、チャンスを与えられるだけの資格は持っています。

そういう部分では「チャンスはつかむもの」ということができるでしょう。

 

「チャンスが与えられない」と不満をいう人には、本当にその資格があるのかという問題があります。満たされていないならば本人の努力が必要ですが、もしそれが満たされているのであれば、置かれた環境の良し悪しを考えなければなりません。

チャンス自体の総数が少なく伸びしろのない環境なのか、上司との相性が悪くて認められづらいのか、序列が固定化していて抜擢される可能性がないのか、これらはいずれにしても、チームや会社を変わるなど、自分の置かれた環境を変えることも考えなければなりません。

チャンスを与える側にいてそれができていないのであれば、それは多くの才能をつぶしているかもしれないことを認識しなければなりません。「チャンスを与えること」は人材育成の上ではとても重要です。

 

チャンスというのはつかむものでもあり、与えるものでもあるという両面のことを感じます。

 

 

2021年4月1日木曜日

「身の丈」に合わない取り組み

人事制度をはじめとした様々な人事に関する施策に関する支援をすることは、私の仕事の主要な部分ですが、これを実施するときに常に考えるのが、その企業にとっての「身の丈」です。

 

これらの取り組みは、少なくとも何かしらの変革を求めておこなうことですが、そのことに対する考え方は会社や社員、経営者や管理者など、それぞれの立場、個人の性格や価値観などによってまちまちです。

「一気に大きく変えなければダメだ」という人がいたと思えば、「それは無理」「簡単には変えられない」という人もいます。問題意識の差やスピード感の違い、現状不満の度合、保守的か否かといったさまざまな点が絡み合って、それぞれの意見が出てきます。

 

私が見ている限りですが、これは業界による特性であったり、経営者が前向きで社員が後ろ向きというようなは立場による違いであったり、男女差や年齢差であったり、その違いに一貫した傾向はありません。これは人によって「身の丈」のとらえ方が違うということであり、企業という人の集まりに対する「身の丈」を定義するのはとても難しいということでもあります。

 

ここからはあくまで私のやり方で、必ずしもそれが正解ではありませんが、私はこの「身の丈」をわりと現状に近い、ちょっと良くない言い方をすればレベルが低いところに合わせる方法を取ります。

理由は単純で、「イヤイヤ取り組んでも良くなるわけがないから」です。

 

もう少し追加して言えば、「みんなの総意」がどのあたりにあるかによって、その会社の「身の丈」を測っていて、それによって取り組む内容やプロセスを考えています。「イヤイヤ」ではないが「楽勝」でもない、ギリギリの線を探します。


例えばアスリートの個人トレーニングのように一人もしくは少人数に対する「身の丈」であれば、一人一人の体力や技術といったレベルと、その人の性格をはじめとしたパーソナリティーによって、取り組み方を変えることができます。

一方、数十人規模以上の人が集まった組織の「身の丈」というのは、そこで運用される制度や仕組みなどは、基本的に全体が一律の形で取り組まなければなりません。そうなると全員がその仕組みを実施する意義をある程度納得できて、取り組むことが可能な最低限の知識やノウハウがあることが前提になります。

 

ここで「他社では普通のこと」とか「できて当たり前のレベル」といったことで「身の丈」を決めるのは、「隣の人が走れるのだから、それと同じタイムで走れ」と言っているようなものです。当たり前だからと言って背伸びをしても、目指すレベルが適切でなければできないのは当然で、それでは多くの人の納得を得るのは難しいでしょう。

ただ、こういうアプローチを「チャレンジ」「成長」との言い方で強いる経営者やコンサルタントは、結構よく目にします。もちろんこのやり方がうまくいくことはありますが、それはその会社の「身の丈」に合っていたからできたということにすぎません。

 

逆に、新しい取り組みに対して、ことごとく「うちの会社には無理」「時期尚早」「うちは他社と違って特殊」などといって拒んでくる人もいます。経営者や上位のマネージャー等、組織の中心にいる人の中に、意外にこういうタイプを見かけます。

私からはその会社にとって必要なことだと見れば、いろいろな形で働きかけをしますが、それでも前向きにならないのだとすれば、それ以上無理に進めることはせず、受け入れ可能でできそうなことから手をつけていきます。その受け入れの度量も含めて組織全体の「身の丈」だからです。

もちろん時間はかかりますが、特に中心メンバーの考え方は、本人たちが納得しきれていない状態で取り組みを進めても、どこかで必ず「やっぱり無理」「やっても無駄」など、元に戻ろうとする反動が起こります。この状態に陥ってしまうと、そこから再度立て直して改革を進めることは一層難しくなります。

 

思い込みや先入観にとらわれずに取り組むことが変革につながりますが、「当たり前」や「無理」という思い込みと先入観は、そう簡単に排除することはできません。

「身の丈」というと志が低い、甘やかしなどと批判する人もいますが、受け入れられることに少しずつでも取り組んで、少しずつでも現状を変えていくには、自分たちの「身の丈」がどこかを考えなければ決してうまくいきません。

組織改革には、多くの人の感情が複雑に絡み合います。より一層「身の丈」を見極めることが大事だと思います。

 

2021年3月29日月曜日

変えられない「上意下達」の人材育成

ある新聞記事で、人材育成に関係する興味深いものが目に留まりました。自身が立ち上げたサッカークラブから多くのプロ選手を輩出するなど、実績豊富なサッカー指導者が語っていたエピソードです。

 

ご自身が20代半ばのまだ若かった頃、外部指導者としてある中学サッカー部の監督をしていました。

ある日の練習試合で大敗して頭に血が上り、部員に「ダッシュ50本」を命令したそうですが、ある少年が動こうとしなかったそうです。「なぜ走らない!」と声を荒げると落ち着いた口調で「負けた罰として走るなら、監督にも原因があるのだから一緒に走ってください」と言われたそうです。感情のままでしごきを科した愚かさに気づいて返す言葉もなく、足ががくがくになりながら一緒に走りました。

ちなみにこの時意見を言ってきた中学生が、のちの日本代表になった中田英寿さんだったそうです。

 

ご自身はこれをきっかけに指導方法を学び直さなければと海外にサッカー留学し、還暦を迎えた今も指導者として成長したいと学び続けています。「みんながヒデのように言えるわけではない」「俺たちに怒鳴りつけられて潰れた才能がいくつもあったかもしれないと考えるとゾッとする」と言っています。

記事は「サッカーがうまくなかったり気が弱かったりしても、選手と指導者が気兼ねなく意見を言い合える環境を整えるべき」「まず歩み寄るべきは大人の方から」と締めくくられていました。

 

この話には、企業での人材育成で近年言われていることとの共通点がいくつもあります。

「気兼ねなく意見を言い合える環境」というのは、グーグルが自社の生産性向上の調査をしている中で見出した「心理的安全性」と同じで、これは職場で誰に何を言っても、拒絶されたり罰せられたりする心配もないオープンで穏やかな状態をいいます。

「サッカーがうまくなかったり気が弱かったりしても・・・」という点は、一律に同じ指導をするのではなく、その人の特性に合わせた指導が必要だとする「個別化」の方向性と共通します。

「まず歩み寄るべきは大人の方から」という点も、ただ「見て覚えろ」というような相手任せの姿勢でなく、上司をはじめとした教える側から働きかけをしていくことが重要とされるところと似ています。

 

最近ある会社で「部下の能力不足」という話が出ました。教えているのになかなか仕事が身につかないそうですが、指導方法を聞くと「初めは説明するが、それ以降は自分から聞きに来い」という姿勢だそうです。教える側の上司は、「自分たちはそうやって自ら考えて仕事を覚えてきたのだから、同じようにできるはず」だそうで、さらに「そうしてもらわなければ困る」「できないならば仕事に向いていないのではないか」と言います。

 

どこの会社にもわりとありがちな話で、一見すると正論のようにも思えますが、ここで言っているのは「自分たちのやり方に合わせられない、ついて来られない部下の側に問題がある」ということで、近年言われている望ましい人材育成の進め方とは正反対の話です。

前述の新聞記事に、「30年前の話が今でも新鮮に聞こえるのは、上意下達の指導方法が今も変わっていない現実の裏返し」とありました。

 

企業の人材育成については、新たなツールやカリキュラム、その他の手法が様々に提示されていますが、まずは教える側の意識変革が、最も重要なことなのかもしれません。

 

 

2021年3月25日木曜日

「リアル」と「リモート」を使い分ける考え方の違い

在宅勤務をはじめとしたリモートワークが一般的になってきた中で、また感じ方と判断基準の差が人ぞれぞれで大きく、どう判断するかが難しい事柄が増えてしまいました。

それが直接対面する「リアル」と、ウェブ会議などによる「リモート」の使い分けに関することです。

 

現場で悩んでいる話としてよく聞くのは、上司と部下の関係でのことです。たまには表情を見たり近況を聞いたり、「リアル」で対面して様子を確認したいと考える上司と、そんなことは不要で「リモート」で十分と考える部下との認識ギャップです。

 

上司が「たまには対面でミーティングをしたい」と部下に出社を要請しても、「なぜそれが必要か」「リモートではダメな理由がわからない」などと反論され、なかなか会って話すことができません。

コロナに関係して、外出に対する危険認識の個人差もからむので、何かルールでもない限りは、無理強いすることもできません。

 

部下と対面する時間が極端に少なくなり、心理的距離がどんどん離れてしまうような不安を持つ上司が増えていますが、「別に仕事上の支障はない」とビジネスライクに割り切っている部下とは、コミュニケーションの取り方が難しくなっているという話をよく聞きます。

もともとどんな関係だったかにも左右されるところですが、コミュニケーションが取りづらかった部下ほど、「リモート」が増えることでさらに疎遠になってしまう傾向があり、上司が心配になる気持ちはよくわかります。一方、部下の気持ちとして、苦手な人との接触を必要最低限にとどめたいと思ってしまうのは、仕方がないところがあります。

実際に上司と部下のどちらが正しい、間違っていると、一概に言えることではありません。

 

この「リアルが必要」、「いやリモートで十分」という分かれ目の基準は、本当に千差万別です。

あくまで私が聞いていて個人的に感じていることでは、どちらかと言えば「シニア」「男性」の方がリアルを求め、「若手」「女性」の方がリモートで問題なしと考える傾向が強いように思います。

そこにはこれまでの経験、ITリテラシー、コロナ禍への考え方、対人関係に関する価値観、その他いろいろなことが関係していますし、さらに業種や職種といったことでの違いや、同じ業界でも基準は正反対ということまでありますから、単純に類型化することはほぼできません。

 

理解しておかなければいけないのは、こういうことはコミュニケーションツールのバリエーションが増えるたびに、常に起こるものだということです。

以前、ビジネスで電子メールが使われ始めた頃も、本来は電話するべき、会いに行くべきといった批判や、隣の席同士でメールしていることへの驚きや嫌悪といった話がありました。

つい最近でも若手社員がクレームへの謝罪をメールでおこなって、先方の怒りを買って取引停止になったなどというエピソードがありました。「メールでの謝罪なんて非常識」という声があった一方、若手社員は「電話で相手の時間を奪うのは失礼」と考えた上での対応だったことへの同意や、「この程度のことで取引停止なんて感情的でやりすぎ」という相手企業への批判もありました。

 

こういう話は、一つの答えが出ることはたぶん永久になく、そのばらつきが問題だと考えるならば、会社としての基準を決めるしかありません。そして、基準を決めたとしてもすべてを制御することはできませんから、ある程度の違いは許容するしかありません。

 

ここで一つだけ思うのは、自分の価値観をもとにした一方的な批判だけはするべきでないということです。一概に善し悪しは言えないという前提を共有したうえで、お互いの価値観をすり合わせるように話し合っていくしかありません。決めつけることは絶対に避けなければなりません。