2023年10月30日月曜日

「効率化」と「手抜き」の紙一重

それぞれの企業が抱えている課題は様々なものがあり、その内容は企業によって違いがあるものの、生産性向上や業務効率化といった課題では、それを考えない企業はないでしょう。

 

「効率化」には、IT化や自動化、省力化、省人化、ペーパーレス化、業務プロセスの定型化、設備の高機能化や高速化、提供サービスの統合や廃止、その他ここには挙げきれない多くの手法があります。

特に人手不足が深刻になってきている昨今では、人手をかけなくても仕事が回るように、まずは身近なITツールの活用や、省人化の前段として、無駄な作業をなくすなどの業務見直しが盛んに行われています。

実は人手不足がより深刻な中小企業の方が、前例踏襲の手作業や非効率な人海戦術に頼っていることも多く、業務効率化は必須の取り組みとなっています。

 

しかし、これはある会社でのことですが、数名のベテラン社員が、これらの取り組みに対して「手抜き」という否定的な発言をしていました。顧客サービスの低下や社員の能力低下につながっているとの主張です。

 

顧客サービスの低下と言っているのは、文字通り提供サービスの内容が見直されて、昔からの流れで個別対応していたようなものが、一律の内容に統一されたことを指しています。

「顧客が困る」と言い、その言い分はわかりますが、そもそもこれまでやってきたという個別対応が、コスト除外の過剰サービスと見ることができ、私のような第三者から見れば、効率化の対象になるのは当然の部分です。

 

もう一つ、社員の能力低下と言っているのは、自動化やシステム化によって、特に若手社員が業務プロセスの詳細を知る機会がなくなってしまうため、人材育成上で問題があるとのことです。

「書類を手書きすることで覚えていく仕事もある」などと言いますが、こちらも言いたいことはわかるものの、例えば帳簿類を手書きしなげれば簿記が覚えられないかと言えばそんなことはなく、転記などは会計ソフトに任せておけば良いことです。プログラミングであれば、必ずしもソースコードを知らなくても作成できるツール類があります。

どちらも基礎知識を持っておくに越したことはありませんが、これから昔のやり方に戻ることは、ほぼ考えられません。これを手抜きというのは少し論点がずれている感じがします。

 

「効率化」と「手抜き」の差を説明すると、時間短縮や省力化によって質が向上、もしくは低下が起こらないのが効率化で、合わせて質の低下も起こってしまうのが手抜きということができます。

ただ、その境目を具体的に詰めていくと、サービス統合を質の低下と見ることもできますし、システム化などで知識を持たずに済んでしまうことを能力の低下と見ることもできます。

 

結局は「効率化」の取り組みによって得られるものと失うもののとらえ方であり、それは立場や役割によって違うものになるでしょう。

 

こうして見ていくと、「効率化」と「手抜き」の境界線は、意外に紙一重のように思います。

「効率化」を進めていく中では、いろいろなとらえ方があることを認識し、「手抜き」とならないように調整していくことが必要ではないでしょうか。

 

2023年10月16日月曜日

仕事を「抱え込む人」と「丸投げする人」

 マネージャー人材に関して、最近正反対の問題を投げかけられました。

部下に仕事を任せようとせずに、自分だけで「抱え込む」マネージャーと、相手のレベルを考慮せず、必要な情報もあまり与えずに、任せたなどといって仕事を「丸投げする」マネージャーです。

 

どちらも困った問題であることは間違いありませんが、どちらが多いかというと「抱え込む人」が問題とされることが多い気がします。仕事を「丸投げする人」の場合、部下が優秀だとサポートが少なくても仕事をこなしてしまうので、問題としてあまり表面化しないからです。それでも仕事の効率が上がらないとか、上司部下の関係性が悪くなるとか、必ず問題はあります。

ただ、「抱え込む人」の場合は、それ以外に仕事の属人化部下が育たないという問題がプラスされるので、組織上の問題としてはより深刻な場合があるかもしれません。いずれの場合も、どこまで部下に任せて、どこから自分でやるのかという権限委譲の線引きなので、個人的な感覚に左右されていることも多いです。

 

私自身がいろいろな人と接してきて思うのは、「抱え込む人」も「丸投げする人」も、決して悪気はなく、どちらかといえば良かれと思ってそうしている人が多いということです。本人にそういう自覚があまりありません。

 

「抱え込む人」には、真面目で責任感の強い人が多く見られます。深層心理の中には「自分の存在意義を保ちたい」などの気持ちがあるかもしれませんが、目の前の仕事を自分が責任をもってやり遂げるという意志の強さを感じます。その結果として任せられない、抱え込む、属人化するといったことが起こっていますが、本人は会社を辞める気が一切ないので、たぶん自分がやることが会社への貢献と思っています。

一方の「丸投げする人」も、実は人材育成のためと思ってそうしていたりします。自分はできるだけ手を出さず、余計な口を出さず、本人が考えて仕事を経験することが大事だと思っていますが、部下にとってはそれが行き過ぎていて、「放置」「丸投げ」ととらえられてしまっています。相手のレベルに合わせて権限委譲するという点で問題があります。

 

なので、こういう場合に最初にやることは、抱え込み、もしくは丸投げの状況を本人に自覚してもらうことです。そのためにはただあるべき論を伝えるだけでは難しく、実際の業務の中で「この仕事は任せられるのでは?」「今の言い方で伝わる?」「この説明も必要では?」など、具体的に指摘していくことが必要になってきます。

身近な上司や同僚がその都度話したり、私たちのような社外人材が第三者の立場から指摘したりすることが有効であり、本人にはそもそも悪気がないので、自覚すれば改善するスピードは速くなります。

 

組織内で上の立場になるほど、周りから自分の仕事ぶりを指摘されることは少なくなり、問題があっても自覚することができにくくなっていきます。まずは周りから伝えることが重要です。

 

2023年10月2日月曜日

効果が実感しづらい?「メンター」たちの自己評価

「メンター制度」は、先輩社員が新入社員などに定期的な面談をおこない、不安や悩みなどを聞いてサポートする仕組みですが、これを行っているある会社で、ほんのちょっとのことですが、その環境づくりの支援をしています。

当初は現場の無理解があって実施しにくいなどの問題がありましたが、それらはもう解決して、私が今やっているのは、たまにメンター役の人たちから実施状況などの話を聞いて、困りごとや心配事があれば解決を手助けする程度のことです。

 

先日久しぶりに話を聞いたところ、ちょっとだけ気になることがありました。意外に重たい相談をされた人が何人かいて、それぞれ「自分の対応で良かったのだろうか」「もっとしてあげられることがあったのではないか」など、どちらかといえば反省ばかりしています。

他の人たちも、「いろいろ話してくれるようになったと思うが、本音がどうなのか」「信頼されているのかわからない」などといい、「役に立っているのかという実感はあまりない」といいます。

 

ただ、私が説明を聞く限りでは、以前よりも気軽にコミュニケーションできる関係づくりは進んでいるし、重たい相談事というのも、たぶんメンターがいなければ聞き出せなかったと思えることです。その後の対応でも、どうするかは私から見ても結構気を遣う難しいものですが、とても適切に処理しています。それでもメンター本人は「あれでよかったのだろうか」「もう少し良い方法があったのではないか」と自己評価は低いままです。

 

そんなことで、私からはあくまで見えている事実をもとに、メンターの存在意義を感じる良い対応だったことや、お互いの良い関係づくりが順調に進んでいるように見えることなどを伝えていくと、メンターたちの表情は少しずつ緩んでいきました。

 

私がしたのは、メンターたちが確信を持てずにいたことを、客観的な立場から「それで大丈夫」と伝えただけですが、考えてみれば、常に1対1の関係で行われるメンター制度の特性で、自分によほど自信があるか、もしくは相手から直接的な感謝の言葉でもない限りは、メンター自身が自分の存在価値を確信できることは少ないかもしれません。他の誰かからのちょっとした後押しや承認で、メンターの意識はずいぶん変わるように思います。

小さなことですが、実はこういうことがメンター制度の成否を左右しているのかもしれません。

 

2023年9月25日月曜日

「在宅勤務」をしたい、したくない、させたい、させたくない

 コロナ禍を機に一気に広まった在宅勤務やテレワークですが、状況が落ち着くとともに、以前のような出社勤務の比率を徐々に戻している企業が増えてきています。

NTTのように「原則在宅」とする企業から、ホンダのように「原則週5日出社」とする企業までありますが、すべて元に戻すのではなく、在宅勤務やテレワークを一定の比率で維持するハイブリットな働き方を考える企業が多いようです。

 

コロナ以前からテレワークが進んでいたアメリカでは、対面の重要性が見直されて、どうやって社員を出社させるかが議論となっているといいますが、テレワークと出社の間での揺り戻しはこれまで何度も起きているとのことで、今は大きく増えた在宅勤務やテレワークから、少しずつ出社に戻そうという方向性なのだと思います。

 

個人的意見としては、出社もテレワークも一長一短があるので、それぞれの長所を活かすために組み合わせていくのが良いと思っていますが、これも一つの揺り戻し現象なのか、在宅勤務やテレワークへの否定的な話と、それに基づく動きが増えてきている感じがします。

 

企業で意思決定する人たちは、在宅勤務やテレワークなどあり得なかった時代を過ごしてきた人が多いと思われ、その人たちからは、自分たちの時代はこうだった、だからやっぱり対面で仕事をしなければだめだと言われることがよくあります。

ただ、いかにも正当のような理由をいろいろ挙げるものの、本音では「一日家にいるのが嫌だ」など、結局「自分たちがずっと続けてきた働き方との違いになじめない」ということを強く感じます。経営層にそういう考えの人が多い会社ほど、できるだけ多くの時間を出社勤務に戻そうとする動きが強いようです。

ここでは、在宅勤務になじんでうまく活用している人たちからの反発が増えて、会社と社員、上司と部下などの間で対立が生まれています。

 

また、働き手の中にも「在宅勤務をしたくない」という人は存在します。

先日話を聞いた人は、在宅勤務をしたくない理由として「仕事の生産性が上がらないから」と言っていました。ただ、なぜ生産性が上がらないのかという具体的な話を聞いていると、必ずしも理屈が通らないことが出てきます。

例えば、「他人の目がないとサボりがちになる」と言っていますが、その人はチームに属さず特命の作業を単独でやっている専門職の人なので、出社しても常に他人の目がある場所で仕事をしているわけではありません。「資料が会社にしかない」と言いますが、よく聞くと同じ情報をネットなどで見ることはできるそうです。「気持ちの切り替えができない」と言い、確かにそういう面はあるでしょうが、それがどのくらい生産性に影響があるのかはわかりません。

結局は「自分の今までの仕事の仕方を変えたくない」という感覚の部分が大きいように感じます。在宅勤務でメンタルダウンが増えたという話がありますが、このような心理的な要因が大きいのかもしれません。

 

出社勤務に回帰しなければならない理由に感覚的なものが多いのに対して、「在宅勤務がしたい」という人たちは、育児や介護などの家庭の事情、遠距離通勤の問題など、その理由とニーズがわりと具体的です。このこともお互いの不満や対立を生んでいる一因のように思えます。出社勤務を求める理由には、もう一歩の具体性や客観性が必要と考えられます。

 

在宅勤務と出社勤務のせめぎあいは、それぞれの会社が、自分たちの価値観に合わせてバランスを考えていくのだろうと思います。どちらが良いと明確に言うことはできませんが、個人のとらえ方は多様になっており、今後ますます企業選びの条件として大きくなっていくように感じます。

 

 

2023年9月11日月曜日

「2-6―2の法則」のとらえ方の話

 「2-6-2の法則」とは、組織や集団において、優秀とされる人が2割、中くらいもしくは普通の人が6割、成績不振や働かないなど、パフォーマンスが悪い人が残り2割の割合で存在するというものです。明確な裏付けがあるのかはわかりませんが、多くの人が経験的に納得しているようなところがあります。

 

この法則は、「働きアリの法則」とも言われることがあります。働きアリの集団を観察していると、よく働くアリが2割、ほとんど何もせず働いていないアリが2割程度、残りの6割が普通程度の働きで、この集団から働かない2割のアリを排除しても、残ったアリからまた2割程度の働かないアリが現れることから、集団の中でのバランスの根拠のように扱われています。

様々な会社の経営者や管理者の中には、この法則から2割の戦力外がいるのは仕方がなくあきらめるしかない、上位の2割が組織を引っ張らなければならないという人たちがいます。

 

しかし、私が最近読んだ記事で、このようなものがありました。

働いているアリでも、時間が経つと徐々に疲労して働けなくなってくるそうで、そうするとそれまであまり働いていなかったアリが、代わりに働き始めるそうです。すべてのアリが疲労して働けなくなってしまうと集団が維持できないので、集団を維持、継続するために余力として持っているのが、働かない2割のアリではないかという話でした。

 

企業においては、最近は効率化重視という観点から、無駄を省いたギリギリの組織運営を求められることが増えています。一方で、組織を安定的に機能させてそれを継続していくためには、一定程度の余裕、余力は必要です。働かない2割は、その中でただの無駄な人材というわけではないと見ることができます。結局は役割の与え方や働かせ方のほうに問題があるように思います。

 

また、「2-6-2の法則」というと、優秀とされる2割ばかりに注目して、その人たちを中心に組織運営を組み立てようとする傾向があります。役職や処遇、人事評価などでその人たちを優先し、普通に働く6割の人は、働かない2割の人とあまり変わらない評価がされていたりします。

 

ただ、「2-6-2の法則」が真実であれば、2+6の8割の人は普通以上の仕事をしているという見方ができ、そのおかげで組織が成り立っているとも言えます。

にもかかわらず、普通の6割の人をあえて相対評価などで序列付けしていることがあります。普通に働いているのに序列付けの結果でマイナス評価が下されていたりしますが、それでやる気が出る人はたぶんいませんから、そういう評価をすること自体に意味があるのだろうかと思います。

 

「2-6-2の法則」を安易にとらえ、2割が優秀で2割が使えない人など決めつけるのは、組織運営としてあまり得策ではないように思います。

組織を構成するすべての人は、何かしらの役割を持っているという考え方が、実は「2-6-2の法則」なのではないでしょうか。

 

 

2023年9月4日月曜日

安易な「二分割思考」に陥らないために

 「二分割思考」と言われるものがあります。

好きか嫌いか、敵か味方か、良いか悪いかなど、白黒をはっきり区別して、どちらかの極端に捉えてしまう考え方です。 6、7割くらいのほどほどなことや、白でも黒でもないグレーなことは認められないという、完全主義的な考え方でもあります。

 

最近目にした記事によれば、加齢とともに、この「二分割思考」にとらわれやすくなる傾向があるそうです。理由は前頭葉の萎縮が進んでいくためだそうで、前頭葉が衰えると無意識のうちに物事の決めつけが激しくなり、白か黒か、善か悪かで考えやすくなるそうです。

例えば、長年親しく付き合ってきた友人でも、ささいな誤解や行き違いから決裂して疎遠になってしまうようなことが起こるのは、こんなところに一因があるそうです。

自分が完璧主義者になりやすく、他人を敵に回しやすくなるので、孤立しやすくなるとも言います。思考の偏りが強いためうつを発症しやすく、かかると治りにくい傾向があるといいます。

 

このことは加齢だから仕方がないということではなく、「二分割思考」に陥らない思考法を身につけることで、防止や緩和ができるそうです。

それは「曖昧さへの耐性」で、グレーな部分があることを認めていくことだといいます。

「3割は自分と違うが、7割は同じ」「嫌なこというが、よいところもある人」などと思うことで、相手にいちいち腹を立てずに済みます。思考のグレーの度合いをその時に応じて柔軟に変えていけると、心が成熟していると言えるそうです。

このように「二分割思考」に陥るのは、あまり良いことがなさそうに思えますが、最近は加齢などと関係なく、白か黒か、敵か味方かという極端な議論がされるケースが多いように感じます。

例えば企業内でも、どうも話が一方的で適切な議論がされているのか疑問に感じることがあります。そんな時に議論の様子を聞いてみると、声の大きい一部の意見だけで話が進められていたり、上司が一方的に指示していたり、安易に多数決で決めていたりします。グレーな部分を明らかにして埋めようとはしていなかったり、多様な考え方を調整しようとしていなかったりすることが往々にしてあります。

どちらかというと、グレーな部分を認めないという「二分割思考」を、若いうちから訓練しているようにも見えてしまいます。

 

「二分割思考」の一因に、加齢による前頭葉の衰えがあるとのことでしたが、今の様子を見ていると、白か黒かで考えることが普通になっていて、グレーさや多様さを受け入れたり判断したりする経験が少ないため、そもそも前頭葉が未熟なのではないかと思うことがあります。

極端な思考が敵を作り、孤立を生んでしまうのは、特に同じ組織の中ではまったく好ましいことではありません。

 

今のように情報が大量で多様な時代だからこそ、グレーな部分を認めて受け入れていく「曖昧さへの耐性」が重要になっているように思います。

 

2023年8月28日月曜日

人を育てるための「許容」と「責任」という言葉

 ある企業で今のマネージャーに続く、次世代リーダー人材の育成を進めようという取り組みをしています。人材育成に悩みがない企業に出会うことはほぼなく、その中でもリーダー、マネージャーといった中核人材をレベルアップしたいと考える企業は非常に多いです。

 

人材が育たない理由には様々なものがあり、例えば「仕事は見て覚えるもの」などと言われて、自分が上司から教わった経験もないために、同じことを部下にしているようなことがあります。それでもみんな自分で何とかしようと努力するので、何となくつじつまが合ったような結果になることはありますが、育成と称した放置なので、理にかなった効率的な人材育成ということはできません。

 

多くの企業の現場を見ていて、人材育成が進まない大きな原因の一つに「経験させていない」「任せていない」という権限委譲の問題があります。その理由は上司が「自分でやった方が早い」と考えていたり、「任せるだけの信用がまだできない」「失敗されると困る」と思っていたりするなど様々です。

もちろん、まったく理不尽ということはなく、上司もいろいろ考えていますが、どちらかというと任せることに慎重で、部下がいつの間にか年令ばかりを積み重ねていたりします。

 

今の支援先で実施しているのは、権限移譲を計画的に進めて、その進捗状況を確認しながら、目標見直しと実践を継続していくことですが、そんな取り組みを進めている中で目についた言葉に、「許容」と「責任」というものがありました。

最近話題になった髪型自由など、高校野球のあり方について書かれた記事の中にあったものです。

 

チーム作りに関する考え方にはいろいろなものがあり、「監督の指示通りに動く選手の育成」という方法もあるが、それではこれからの時代に通用する人材育成という面で足りておらず、一人一人の個性や主体性、多様性などをもっと追求する必要があるとされていました。

その中で、ただ何でも自由にした方がいいということではなく、選手主体で自分たちの置かれた環境ではこれがいいと決めて、前に進めていくことが大事であり、そこからもたらされるのは「許容」と「責任」だという話でした。

指導者が選手らに自由を与えて「許容」し、その代わりに選手たちは「責任」を持った行動を求められるとのことでした。

 

この「許容」と「責任」は、前述の企業における人材育成でも同じことがあります。

どこまで「許容」して、どこまで「責任」を持たせるのかは、まさに権限委譲のさじ加減を指していますが、今見ている中で多いのは、やはり指導する側の「許容」が足りず、育成される側に「責任」が生まれていないことです。

「指示通りに動く人材」の方が、目先の結果が想定しやすく指導する側の安心感もあるため、どうしてもそちらに偏りがちになっています。短期的な目標達成のプレッシャーがきついなど、全社的な環境の問題もあるかもしれません。

 

多くの企業で自律人材を求めていると言いながら、実際には自律させようとしていないかのように見えることが多々あります。特に次世代人材を育成していくためには、この「許容」と「責任」のバランスを考えていかなければならないと思います。

 

2023年8月21日月曜日

「自分がされてきたことをしてしまう」という人間の特性

 2023年の夏の甲子園大会の代表校で、坊主でない学校が7校あったそうです。

逆に言えば、未だに8割以上の学校が坊主刈りということであり、世間一般の高校生は坊主でない人が圧倒的に多い世の中にあって、それが話題になることはずいぶん異質な感じがします。

他の競技の名門校などでも、丸刈りのチームを見かけますが、やっぱり野球が明らかに多いと感じます。理由はたぶん昔の軍隊か何かの流れで、競技力などに関する合理的な理由ではないでしょう。

思えば、私たちの子供時代の何十年前までさかのぼっても、野球のうまかった子が「坊主が嫌だ」という理由で野球部には入らないことがありました。野球界はこんな些細なことで、実は良い才能を失っていたのかもしれません。

他にも、ようやく女子マネージャーがベンチ入りできるようになったとか、以前は練習補助も認められていなかったとか、時代錯誤を感じる話がたくさんあります。それで良いと判断する意思決定者たちの存在には、大きな問題があると思います。

 

代表校の中でも、監督や選手間のフラットな関係性も含めて、神奈川県代表の慶応高校が紹介される機会が多いようで、監督はチームの考え方を積極的に発信しています。

坊主頭については、それ自体に問題はないが、「昔からこれが当たり前」と思考停止していることや、「そこから飛び出るのが嫌」という同調圧力の方が罪深いと話しています。

 

この監督のインタビュー記事を見ていて目についたことに、指導者に関するものがありました。それは「高校野球に関わる大人、特に指導者が、なぜエゴイスティックになってしまうか」という話です。

その理由に挙げられていたのは、「“自分がされてきたことをしてしまう”という人間の特性のようなものが現れてしまっていること」でした。自分が現役時代に指導者から体罰を受けたり、高圧的な言動をとられたりすると、それが自分の中のベースになってしまい、自覚がないままに同じ言動をとってしまっているという、負のスパイラルを生んでいると言っていました。

 

まったく同じ話が、企業のマネジメントや人材育成の中でもあります。

パワハラなどは典型で、上司からされて嫌だったはずなのに、自分が上司になると同じことをします。人材育成でも、昔の職人のような「見て覚えろ」という放置プレイが今でもあります。見て覚えることはとても大事ですが、そこにコツや注意点ほかの指導があって、初めて人材育成が成り立ちます。本人の気づきだけに委ねてしまうのは、少なくとも企業で本来やるべき効率的な人材育成とは言えません。

 

こういうことが起こる原因の一つが、前述の「“自分がされてきたことをしてしまう”という人間の特性」と思えます。パワハラ的なことを問題と考えない思考停止で自分も同じ行動を取ることや、自分に教わった経験がなく、同じくそれを問題と考えない思考停止で自分も教えないなどの行為は、まさにこれに当てはまります。負のスパイラル、負の伝承ということができるでしょう。

 

この流れを断ち切るには、「自分がされたこと」に疑問や問題意識を持ち、より良い形に改善していこうと「考えること」「思考停止に陥らないこと」です。高校野球で新たな動きが話題になるのも、思考停止せずに考える指導者が増えている証明の一つと思います。

企業でのマネジメントや人材育成でも、同じことが望まれます。

 

2023年8月7日月曜日

契約したらきっと「パワハラ的」だったと思われる会社の話

 私が独立して仕事をするようになって16年目になりますが、幸いなことに「困ったクライアント」には出会ったことがありません。

しかし、他の人に話を聞くと、意外に困った経験をしている人が多くいます。

 

最も悪質でひどいのは報酬の踏み倒しですが、例えば事業再生など企業のマイナスを食い止めるような仕事をしている人は、結構そういう目にあっている話を聞きます。基本的にお金がない会社、負債がある会社との取引なので、そういうトラブルに巻き込まれやすいのでしょう。

 

もう一つの困りごとは、様々な形で「パワハラ的」な振る舞いをする会社です。多いのは契約にない無償労働の強要とか、事後の一方的な値切りとか、脅しやマウントを取るといったような、まさにパワハラの王道のような話もあります。

 

なぜ私がこういう困ったクライアントに出会わなかったかというと、確かに運はありますが、そういう様子がありそうなクライアントとは、仕事の話があっても断ってきたからです。

 

まず、私の場合は専門分野が人事や組織の改革改善なので、そういうニーズがあるのはビジネスが伸びていて真面目に組織を作ろうと考えている会社です。成長している会社なので、不払いなどの金銭トラブルになる心配はほぼありません。たまにリストラ的な話が来ることはありますが、私の専門ではないので仕事を請けることはありません。

 

もう一つの「パワハラ的」なところでは、相手とやり取りしている中での自分の勘のようなものがあります。単純なものでは、交渉相手が何とか強い立場を取ろうと駆け引きをしてくるときです。強く出たり、反対に急におだてたり、高額報酬の話をしてきたかと思えば、その前段は無償でやるべきだと言ってきたり、ごくまれに恫喝のような態度を取られることもありました。

私の仕事は、お互いのパートナーシップで協働することが重要なので、駆け引きが必要になるような関係では成り立ちません。お話をいただいても結果的にお断りすることになります。

 

なぜこんな話をするかと言うと、某大手中古車販売会社の「パワハラ」の話が連日話題になり、さらに不動産や金融など、他の業種でも同じような経験をした人の話がたくさん出てくるようになり、なぜそんなことが普通に行われて、しかもそれに耐えている人がなぜこんなに大勢いるのだろうかと考えていたことがあります。

 

たぶん私のように、危うい相手を事前に気づく人はきっと大勢いて、ただし自分の上司は私が契約先を選別するように選ぶ自由はなく、解決するには社内異動を待つか転職するかのいずれかしかありません。それまでの一定期間は「パワハラ的」なものを受け入れざるを得ない環境に置かれてしまいます。やはり会社と社員の間には力関係の問題があります。

 

ただ、これから先は少し様子が変わってくるかもしれません。人材の売り手市場が普通となり、転職先の選択肢は増えていくでしょう。それがしやすい環境が進めば、あえて「パワハラ的」な理不尽を我慢しながら働き続ける必要はなくなります。そこで働く人がいなければ、おかしなことをする会社は淘汰されていきます。パワハラが市場原理の中でマイナスであれば、それをするところは減っていくでしょう。私がクライアントを選ぶのと同じことができるようになります。

 

パワハラが起こるのは、それにつながるメリットが何かあるからです。個人の感情を満たすことや会社の利益になることなどいろいろですが、そんなメリットがなくなって逆に損することが増えれば、おかしな行為はかなり減らすことができそうです。すべてなくすのは無理でも、ずいぶん良くなる感じがします。対等な関係というのは、やっぱり重要なことだと思います。

 

 

2023年7月31日月曜日

「定年なりたて」の人たちの働き方を聞いて

 私自身は会社員ではないので、「定年」はまったく関係ありませんが、身近な同世代の人たちが「定年」を迎えるようになり、現状の働き方や境遇の話を聞くことが増えました。

 

まず、そのままスッパリ退職したという人は、私の知人の中にはまだ一人もいません。

会社にそのまま残って再雇用という人が一番多いですが、ほとんどの場合で給料は大きく下がります。

 

ある技術職の人は、会社の再雇用制度を使うとびっくりするくらい低賃金だそうで、いろいろ話し合った結果、業務委託契約に切り替えて仕事をすることにしたそうです。65歳まで働ける保証はなくなりますが、まぁどうにかなるだろうとのことでした。

 

別の人で、結構な技術と経験を要する職種の人は、自分しかできない仕事がまだいろいろあるそうで、定年と言っても仕事内容はまったく同じで、かえって忙しくなっているそうです。にもかかわらず給料だけは下がっていて、結構不満を言っていました。スケジュールと経費使用はわりと自由で任されているので、多少は仕方がないかなとも言っていました。

 

定年の数年前に転職した人がいて、やっぱり給料は安くなり、その代わり仕事内容はずいぶん楽になったそうです。本人は「あんまり期待もされないおまけみたいな仕事」と言っていますが、数字など気にしなくいいのは気楽だとも言っていました。

 

ごく少数ですが、定年になっても一切何も変わらないという人もいました。

ある人は、とにかく全国に出張が多く、それは定年になっても何も変わらず、さすがに体力的にきつくなってきているので、出張だけは減らしてほしいなどと言っていました。

 

ついでに自分のことを言えば、今のところはこれまでのように変わらず仕事をしています。契約がなくなれば仕事はなくなりますが、これは今に始まったことではありません。まだ当分は仕事をするつもりなので、とにかく依頼された仕事で確実に成果をあげていくしかできることはありません。すべては自分次第なので、不満という感覚は一切ありません。

 

こうやって周りのリアルな話を聞くようになると、今まで意識が向いていなかったことに気づくようになります。

思ったのは、「働く能力が結構無駄にされているのではないか」ということです。

同じ仕事で給料だけ下がれば、当然やる気は失われるのでパフォーマンスは上がりにくくなります。

働く気がある人やその能力がある人から、一律に仕事を取り上げているようなところがありますが、それでは立ち行かない現場を目にします。結果として、仕事内容は今までのままやってもらいたいが、会社の制度上で給料だけは下がるという現象になっています。

 

「定年」というのは、その人の仕事能力や希望とはリンクせず、60歳という一律の年令を基準にして、みんな一律にご隠居扱いする仕組みです。この一律の中には、活かせるものを無駄にしていることが結構ある感じがします。

 

今の人手不足の環境下で、シニアを活かそうとする企業は増えている感じがしますが、まだ全体の大きな流れとまでは言えません。また、同世代から見ても、扱いが面倒くさそうなシニアがいることも事実です。定年で区切りがついて、周りがほっとするようなこともあるのかもしれません。一方では、元気で若々しく、能力も高く、謙虚な人も大勢います。本当に人それぞれです。

 

いろいろ話を聞く中で、「定年」という仕組み自体が、そろそろ時代背景に合わなくなってきているのかもしれないと感じています。

 

 

2023年7月24日月曜日

「心理的安全性」に関する勘違いいろいろ

 「心理的安全性」とは、自分の言動や行動による他人の反応から怖さや恥ずかしさを感じることなく、人間関係が壊れたり罰を受けたりする心配もなく、誰もが安心して活動できるような職場環境やチームの状態をいいます。

大手IT企業のGoogle社が、チームの成功や生産性向上に役立つという調査結果を発表したことから注目されるようになった心理学用語ですが、最近はわりと一般的にも認知されるようになってきた言葉ではないでしょうか。

しかし、言葉が定着してきたことによって、その理解の仕方に勘違いや誤解が見受けられる場面が増えてきた気がしています。

 

つい最近目にした記事ですが、ある会社のマネージャーからの相談で、自分の部下から「マネージャーは心理的安全性がある環境を作っていない」と責められていて、いろいろ取り組んでいるが批判はおさまらず、どうすれば良いだろうかという内容でした。

しかし、そもそも「心理的安全性」というのは、関係しているすべての人が、お互いに自己開示をしながら、徐々に作り上げていくものであり、誰かが一方的に環境を作ることはできません。こういう発言をしてマネージャーを責める部下自身が、チームの心理的安全性を阻害しているとも言え、そこには本来の意味に対する勘違いがあります。

マネージャーやチームの中心人物が、率先して自己開示をしていく必要はありますが、部下にも自分が一緒になって作り上げていくものという認識がなければ、心理的安全性は生まれません。

 

また、最近よく聞くのは、「心理的安全性」が、仕事上の甘えや緩みを生むのではないかという話です。仲良しグループの甘い環境では、ミスを気にしなくなったり、責任感が失われたりするのではないかという懸念が言われます。

しかし、こちらも大きな誤解であり、「心理的安全性」は、ただ楽で居心地が良い職場環境ではありません。心理的安全性があるからこそ、お互いに言いにくいことが言い合える環境になり、報告、連絡、相談、提案、ミスや誤りの指摘などのコミュニケーションが活発に行われるようになります。相手と意見が違っても、対立を恐れずに自分の考えを伝えることができるなど、お互いが本音で率直に話し合うことができ、その結果として、成果や生産性向上につながるものとされます。

ある意味では厳しい仕事環境ということもでき、もしもメンバーの緊張感が失われていたり、居心地の良すぎて馴れ合いになっていたり、生産性が低下していたりするのであれば、それは心理的安全性が高い環境ということはできません。

 

「心理的安全性」という言葉が浸透するにつれて、ただお互いにやさしい言葉ばかりをかけ合い、誰も厳しいことを言わず、明るく楽しく穏やかな職場であれば、心理的安全性が高いと思う人が増えている気がしますが、心理的安全性の本質はそうではありません。

無用な忖度、遠慮、委縮などをせず、自分が本音で周りの人に接することができるような環境が、心理的安全性の高さです。

 

そもそも、他人にそれを要求したり、相手を疑ったりしている時点で、それは心理的安全性にはつながらないことに気づかなければなりません。

 

 

2023年7月10日月曜日

「従わせる」より「したくなるように仕向ける」

 マイナンバーカードに関する様々なトラブルが批判されています。

デジタル化の推進自体に反対する人はそんなに多くはないはずで、今回の問題は、その進め方に関する稚拙さや強引さといったことに原因があると思います。

 

情報をアナログからデジタルに変換する際には、多くの場合で何らかの入力作業が必要になるはずで、必ずそこがミス発生のポイントとなります。

ミスをゼロにすることはできませんが、減らすためのシステム上の措置や期間的な余裕を見込むのが一般的ですが、「デジタル化を進めるためにカードを普及させる」という手段が目的化していて、ミス発生への考慮や制度設計そのもののあいまいさから、いろいろ無理が生じているように見えます。

 

中でも私が気になったのは、定期的な通院の際に「マイナンバーカードの提示がないと、今月から自己負担金が余分にかかるようになる」と言われた時です。でも従来の保険証と両方提示しなければならないそうです。こちらに降りかかるのは負担金が増えるというデメリットだけで、良くなることは当面何もありません。

このやり方は、利用者の利便性を向上させるのではなく「使わないと損になるぞ」という脅しによって「従わせる」という発想です。トラブルなく使える環境が整っていないにもかかわらずです。

強制されることが大嫌いな私は、利便性が確立されて普通に使えるようになるまで、このカードは絶対持ち歩かないと心に決めました。

 

私自身、マイナンバーカードは発行開始当初から持っていて、理由は自営業なので確定申告が楽になると期待してのことでした。ただ、当初はパソコン用のカードリーダーを自分で買わなければならないとか、添付書類は結局郵送しなければならないとか、いろいろ面倒なので使わずに放置している状態でした。

実際に使うようになったのはここ数年のことで、確定申告で書類添付が不要になったり、各種証明書のコンビニ発行ができたり、ついでにコロナ禍で様々な給付金の手続きが便利だったりするなど、いろいろ制度が整ってきて利便性が増したと感じられるようになったからです。「使おうと思えるような環境が整った」という理由が大きく、使いたくなるように「仕向けられた」と思います。これが今起こっている問題に対する対応とは、根本的に違っているところです。

 

企業の中でも、指示命令によって「従わせる」という風土が強い会社に出会うことがあります。

一見すると判断が早く、その後もスピード感を持って進められるように思えますが、実際には社員がそもそもの意図を理解、納得できていないために、動きが鈍かったりミスやトラブルが多かったりします。そういう会社では、社員が自分で考える姿勢が薄く、自律的な考え方をする社員は居心地が悪いため定着していなかったりします。

 

一方、社員が「したくなるように仕向ける」ということに長けている会社があります。それぞれの社員から意見を聴いたり、話し合いの機会を作ったり、社員にとって何らかのインセンティブを設けたり、やる内容は様々ですが、その目的は「自分がそうすると決めた」と思わせることです。そういうプロセスを踏むことで、それぞれの社員が自律的で前向きに行動するようになります。

 

心理学の中に、すべての行動は自らの選択であり、その時の自分にとって最善と思われる行動を選択しており、行動を決めるのは自分だけなので、相手の行動を直接変えることはできないとする「選択理論」という考え方があります。

すべての場面で応用することは難しいかもしれませんが、この考え方に基づけば、圧力や威嚇、脅しなどで「従わせる」より、その選択を「したくなるように仕向ける」ということが重要になります。

このことを理解していれば、マイナンバーカードのトラブルもずいぶん軽減されていたのではないでしょうか。

 

 

2023年7月3日月曜日

任せられない?任せてくれない?

 ある会社でこんなことがありました。

多くの会社と同じく、次世代人材の育成が課題になっています。「候補者がいない」「成長が遅い」など、いろいろ理由が出てきますが、私から見るともう一つ上のレベルの仕事をやらせていないように見えます。

能力よりも少し上の仕事を経験させて、力量をストレッチしていく取り組みを続けなければ人材は育ちませんが、あまり権限委譲に積極的でない人たちが多いように感じます。

そのことを指摘すると、みんな「必要なことはわかっているのですが…」と考え込み、「でもまだ任せるのは早く感じる」「任せられない」といいます。でも自分たちの感覚よりはもう一歩進めて、「仕事を任せること」を意識していかなければ、人材は決して育ちません。

 

別の会社で、これとは反対の出来事がありました。

ある社員が、面談の中で「上司が自分に仕事を任せてくれない」といいます。自分でもできると思う顧客との商談や交渉などを、最後は上司がまとめる形になることが多く、「信用されていない」と感じてしまうそうです。ただ、本人の経験年数や性格、顧客とのかかわり度合いといったことを聞いていると、その状況に合わせて適切に任されているように思えます。本人の自己評価が少し過大なのか、それとも任されていないと感じてしまう何かがあるのか、詳しいことまではわかりません。

 

この「任せられない」と「任せてくれない」のせめぎあいは、多くの会社で見かけます。

本人が仕事を「任せてほしい」と思う気持ちは好ましいことであり、その気持ちをできるだけ満たしてあげることが良いとは思います。

その一方、過剰な負荷にならないようにフォローすることも当然必要で、どこまで任せてどこからフォローするかという線引きには難しさがあります。この点は上司の判断基準次第で、大胆な人も慎重な人もおり、一応できるだけ権限委譲を進めるべきという一般論はありますが、適正な判断基準を一概にいうことはできません。そのさじ加減が本人の気持ちと違っていると、場合によっては「任せてくれない」と感じてしまう可能性はあります。

 

「任せられない」と「任せてくれない」の対立を解決するには、結局は当事者の上司と部下が、お互いによく話し合って、お互いが歩み寄りながら対応していくしかありません。

任せてほしいという気持ちは大切ですが、任せられないことには「まだ早い」「まだ無理」など、何か必ず理由があります。任せてほしければこの上司の懸念を払しょくして、「任せても良い」「任せてみよう」と思わせなければなりません。

 

上司は権限委譲の意識をしっかり持つこと、部下は実績作りや日々のコミュニケーションなどから、信頼を得ていかなければなりません。

両者が歩み寄って認識を合わせていくことしか、解決方法はないように思います。

 

 

2023年6月26日月曜日

ある会社の人事制度改訂で「当事者意識」が高かった理由

 会社の人事制度策定や改訂は、基本的に社長、役員、人事部など、「会社側」にあたる人たちが主導することがほとんどです。最近は人事の関する戦略や施策が重要な経営戦力の一つと位置付けられるので、会社が主導する形になるのが普通のことといえるでしょう。

 

ただ、ここ最近で支援している会社に、このパターンとは少し異なった取り組みをしているところがあります。「会社の評価制度を整備してほしい」という声が、現場の管理職をはじめとした社員からあがり、会社側がそのボトムアップの要望に応えてこれまでの制度を改訂し、新たな運用を始めた会社です。

 

この会社の様子を見ていると、一般的にみられる人事制度改訂の時の様子とは、結構違っていることがあります。一番大きなことは、制度運用に向けた取り組みが主体的で、手抜きをせず真面目で、前向きに制度を活用していこうという姿勢が、経営陣や管理者など制度運用の中心になる人たちから強く感じられるところです。

 

普通であれば、人事制度というのはやっぱり上からの決定で降りてくることであり、周知が足りない、目的が理解できていない、内容に納得感が薄い、仕事が増えて面倒など、前向きとは言えない反応がどこかに必ず出てきます。

しかし、この会社では、そういったネガティブな反応がまったくありません。事前準備で何度か研修などを実施していますが、必要なことを身に着けようという姿勢が強く感じられます。それ以外でも理解できないことがあれば積極的に質問し、まずは決められたことに前向きに取り組んで、うまく行かないことがあればみんなで相談して直していけばよいと考えています。

 

この姿勢の違いの理由を考えていくと、行きつくことはやはり「当事者意識」の高さです。社員が自ら求めていたものが導入されたことで、「自分たちが責任をもって取り組まなければ言い訳できない」という意識を、少なくとも管理職以上は全員持っているようです。

 

私も今まで多くの会社の人事制度に関わる支援をしてきていますが、当然「当事者意識」の重要性は意識しています。

例えばプロジェクトを立ち上げて制度の議論に社員を参加させたり、社員から様々な意見を聴く場を作ったり、議論の途中経過を含めて説明する機会を何度か設けたりするなど、当事者意識を高めることにつながりそうな取り組みを必ず行います。それでも制度を何年か運用して、ある程度慣れてくるまでは、みんなが当事者意識を持ってくれるまでにはなかなか達しません。

しかしこの会社では、そんなところがまったく見られません。

 

あらためて、組織運営において社員の「当事者意識」が重要なことと、そこにはもともとの自分たちの意思が、同じくとても重要だということを感じます。

周りから刺激された結果ではない、自分たちが初めから持っていた「当事者意識」には、やっぱりかないません。

 

 

2023年6月19日月曜日

不安感の強すぎる人

 仕事でもプライベートでも、何かしらの不安というのは誰にでもあるものです。

ただ、その気持ちがあまりにも強すぎるのは、決して良いことではありません。

 

最近お話しをしたある会社の人の中に、この不安感をとにかく強く持ってしまっていると感じる人がいました。

何をするにも「自分ではできないのではないか」「失敗するのではないか」と恐れていて、特に新しいことや経験が浅いことには、なかなか踏み出すことができません。

できるレベルのことだと説明して、勇気づけて、フォローを約束して、ようやく納得して動き始めますが、それでも常に不安でストレスの度合いは高いままです。他人に迷惑をかけてはいけないと思うようで、フォローを求めてこないと思ったら、どこかでお手上げになってすべて投げ出してしまおうとするなど、極端な対応が見られることがあります。

とにかく自分に自信がなく、自己肯定感が低い傾向ですが、その要因にはもともとの性格もあるでしょうし、完璧主義や思い込みのような思考パターンの癖、さらには成功体験がない、褒められたことが少ない、トラウマを抱えているなど、これまでの経験による後天的な要素もあるでしょう。

 

不安になる大きな要因というのは、「先行きがどうなるか予想できないこと」にあります。

そもそも、これから先に起こることを正確に予想できる人は誰もいませんが、「こうすれば7割がたはうまくいく」「ここさえ間違えなければ失敗は防げる」など、過去の経験から一定の幅の中で予測することはできます。良し悪しはともかく、例えば「この上司を怒らせない方法」などは、たぶん経験から得られるもので対応することができ、無用な叱責を避けられることがわかれば、不安が軽減されることは確かでしょう。みんなそうやって不安と向き合って対処しているものです。

 

この「不安感の強すぎる人」と話していて思ったのは、自分がそれなりにうまくいったことでも、そこにはあまり目が向いていないことです。成功しているのにそう思っていない、褒められているのに気づいていないといったことが多く見受けられました。

そんな話をこちらからいろいろ投げかけてみると、初めは「えっ…」と驚いた様子で、そこから半信半疑の表情になり、徐々に「そういうものでしょうか」と自分のことを少し肯定的にとらえることができ始めたようでした。

 

必要以上の不安感から脱するには、現実的な見方をして自分の状況を客観視することが大事ですが、自分だけで整理することが難しい場合は、第三者からの問いかけやフォローが必要になります。

上司や同僚との間でそんなやり取りができていれば良いですが、スピード優先で時間的余裕がない環境、コロナ禍の影響や世代間ギャップなどによるコミュニケーション不足など、それぞれの自己肯定感を高めるような取り組みは、なかなか行えていない様子が多く見られます。

 

不安感の強さは、本人の気持ちが弱いのではなく思考パターンと自己客観視の問題が大きく、その緩和を手助けすることは決して甘やかしではありません。

本人の視野が広がるような周りからのちょっとした働きかけで、不安はずいぶん緩和、改善することができ、そのことで本人は落ち着いてパフォーマンスを発揮することができるようになります。

もし身近にそんな人がいたら、少し話を聞いてあげて欲しいと思います。

 

 

2023年6月12日月曜日

「社員同士の距離感」の遠さ近さで見えること

 企業の人事支援をいろいろな会社でおこなっていると、その会社の「社員同士の距離感」がいつも目につきます。仕事柄で結構緻密に観察しているということもあります。

ここで言っている距離感とは、お互いの心理的な距離のことで、親近感と言い換えてもいいかもしれませんし、仲の良さとも似ているかもしれません。

 

もうおわかりの通り、業績が良い、働きやすい、社員が辞めないという好循環の会社は、この「社員同士の距離感」の平均値が近いことが多いです。あくまで平均値なので、プライベートでは会社の人と付き合わない、社員との関係は仕事上だけという人もいますが、それでも仕事中の会話の頻度や接点の数は、距離感の近い会社の方が間違いなく多いように見えます。

 

社員同士の関係には、「プライベートも付き合う友人」のような濃い関係から、「たまには仕事以外で食事したりする」「一緒に仕事をしたことがある」「会社ではよく話す」「面識はあって会話したことがある」などの中間的な関係、さらに「存在だけ知っている」「面識がない」という希薄な関係までのレベルがあります。

「平均値が近い」と言っている意味は、全体的な関係性のレベルが高め、濃いめの方にシフトしているということです。

 

距離感が近い理由は、あまり一概に言える感じではありません。別に年中飲み会やパーティーをやっているわけではなく、趣味や嗜好が似た人ばかりを集めているわけでもありません。

年齢の近い人が多い、面倒見の良い人がいる、公私ともにイベントが多い、情報共有意識が高い、気軽に雑談できる雰囲気、長時間労働があまりなく業務量がわりと適正、上下関係が緩やか、プロジェクト制やチームでいろいろな人と仕事をするなど、本当にいろいろな要因があり、それらが総合した結果としてお互いの距離感が近づいているようです。意図的に取り組んでいることも自然にそうなっていることもあり、会社それぞれで事情は違います。仮に別のところで同じような取り組みをしても、確実な再現性がある感じではありません。

 

そんな中でも共通しているのは、とにかくコミュニケーションの機会が多いことです。仕事の話も、趣味や遊びなどプライベートな話も、対面、電話、メール、チャット、その他いろいろな方法でコミュニケーションを取り合っています。

仕組み作りや雰囲気づくり、個人的な気遣いなどはありますが、とにかく疎遠な人や孤立した人、事情がわからず戸惑う「浦島太郎」的な人がほとんどいません。

 

逆に距離感が遠い会社を見ていると、仕事に追われて余裕がない、個人ベースで縦割りの業務分担、お互いの面識が薄いまたはお互いを知らない、上下関係がきつい、情報共有の意識が低いなど、コミュニケーションがしにくい、もしくは不要となってしまう要因がいくつもあります。

社員同士はそれに慣れているのであまり問題とは思っていませんが、協力し合えば簡単にできることを一部で抱え込んでいたり、情報の偏りがあったり、相談しづらさや頼みづらさがあったり、小さな不都合、非効率が数々積み重なっています。

 

全員が全員親密である必要はなく、もちろん多様性は重要ですが、一方で、気心の知れた者同士の方が、仕事はスムーズに進みやすく、結果も良いことが多いでしょう。

 

自社の「社員同士の距離感」は、当たり前になっていて気づきにくいものですが、あらためて一度問い直してみて、問題があると感じたら何か取り組んでみることも必要ではないでしょうか。

 

 

2023年6月5日月曜日

若手中心なのに「今どき」とは少し違う会社

 最近接点があった会社で、平均年齢30歳そこそこの会社ですが、「今どきの若者」とはちょっと違うことがたくさんあって、いろいろ興味深かったことがありました。

 

まず目についたのは、社員旅行や飲み会をはじめ、社員同士のレクレーションなど、昭和っぽいと言われそうな社内行事がたくさんあり、しかもその参加率がとても高かったことです。社員の本音がどうなのかわからないところもありますが、旅行については「来年はどこそこに行きたい」などと話し合っているので、それなりに楽しみにしているようです。

 

飲み会と表現しましたが、お店で宴会をするばかりではなく、ランチ会とかケータリングを使った社内懇親会とか、サプライズで始まるピザパーティーとか、その中身はいろいろです。参加を強制されることはないですし、お酒は飲むときも飲まない時もあります。そんな中で社員は、「仕事」とも「プライベート」とも言えないような時間を、わりと楽しそうな様子で一緒に過ごしています。

 

「仕事」と「プライベート」の区別をあまり気にしていないのか、社員同士は仕事を離れたところでも結構交流しているようです。共通の趣味に取り組んでいたり、休みの日でも一緒に遊んでいたりします。

要は社員同士が仲良しなのですが、基本的に中途採用ばかりの会社なので、みんな経歴や境遇は違いますし、若いとは言ってもそれなりのベテラン世代の人たちもちらほら見かけます。決して同じような属性の人たちばかりがつるんでいる感じではありません。

 

経営陣は30~40代の比較的若い年齢の人が多いですが、見ていて気づいたのは、誰も威張ったり偉そうに振る舞ったりしないことです。緊急事態や専権事項は除きますが、一方的な命令をせずに関係者としっかりコミュニケーションを取りながら物事を決めていきます。上から威圧することがないので、当然ですがパワハラのような問題も起こりません。上下関係に委縮せず、わりと本音で話し合える環境があります。

売上利益などの目標は掲げていますが、そこまで厳密に追いかけているわけではなく、あまりガツガツしていません。ダメだと思えば下方修正のようなことも躊躇せずに行います。

入社してきた人には、みんながウエルカムな雰囲気で話しかけ、仲間として溶け込めるようにいろいろ世話を焼きます。社員が食事をしたり遊んだりする場に代わる代わる誘っています。なじみやすい人を選んでいるという側面はありますが、早くなじめるような働きかけがいろいろあります。

「働きやすさ」を求めていった結果として、こうなっていったのではないでしょうか。

 

こんなことから個人的に思い出したのは、私の高校時代で一番一体感があったクラスのことです。仲良しグループは複数ありましたが、それぞれお互いに認め合っていて、クラス全体で何かやろうという時は、誰がリーダーということもなく協力し合っていました。いじめなど一切なく、クラスの中に全員の居場所がありました。

お互いを認め合って尊重し合うこの会社の雰囲気は、その当時のことを思い出すところがありました。

 

実際に仕事をしている中では、たぶんそんな綺麗ごとだけでは済まないですし、外部からは見えないいろいろな問題があるでしょうが、少なくともみんなが毎日仲良く仕事をしている様子を見ていると、競争、他人の評価、上下関係、指示命令、支配、威圧などのありがちな職場の風景は、実は不要なことではないかと思ってしまいます。

 

仕事は日常のことであり、それが必要な時期はあったとしても、基本的に修行や鍛錬とは異なるものです。厳しさばかりでは、人間はいつか疲弊してつぶれてしまうかもしれません。

多くの人が心を穏やかにして働ける環境は、あらためて大事なものだと感じた経験でした。

 

 

2023年5月29日月曜日

「社外メンター」の役割を求められる機会が増えてきた?

 最近目にした記事に、「社外メンター」に関するものがありました。

 

「メンター」とは、助言者や理解者といった意味の言葉で、ビジネスにおいては特に何かを教えたりするのではなく、自身が仕事やキャリアの手本となって、新入社員や若手社員に助言や指導をして、その人の成長や精神的な支援をする人を指します。

メンター制度は多くの企業で導入されていますが、社内のメンターではしにくいサポートや人材育成ができるというメリットから、この役割を社外の専門家などのプロフェッショナルに求める「社外メンター」を利用する企業が増えているとのことです。

 

「社内の誰か」を相手にしたコミュニケーションでは、どうしてもどこかに利害関係が生じてしまいますが、様々な企業の状況などを知っていて客観的な視野を持った第三者の社外専門家が、直接社員から悩みや不満を聞いたりアドバイスをしたりすることは、企業の人事施策を進めていくうえで多くのメリットがあると評価されてのことのようです。

 

そんなことを言われて、あらためて私個人の企業支援の状況を考えてみると、この「社外メンター」と同じ役割や活動を求められていることが増えているように感じます。

ただし、知らない企業からいきなりそういう話になるということではなく、ある程度のお付き合いを経て、いろいろ内情を知っているような企業からの求めです。

組織風土調査などを通じて、社員全般からの話を聞く機会が多いので、それなりに情報を把握しているということもあります。

 

私の場合は、専門分野が人事、組織、採用、人材開発に関わるものですが、社員とのメンター面談で話題になるのはそれだけでなく、個人のキャリアやスキルに関するもの、上司や部下をはじめとした周囲との人間関係に関わること、さらに専門的なことなども含めて多岐に渡ります。

面談ではただ聞くだけで終わること、似た事例の他社状況などを説明すること、実際にアドバイスすることなど様々ですが、遠慮や躊躇があって聞けない話があるだろうとの事前想定よりも、結構本音に近いと思われるストレートな話が、思った以上に出てきます。

「会社や上司などには言いにくいことを、発言者を個人特定しない約束のもとで聞く」という形で行いますが、いろいろ質問して聞き出そうとする働きかけが必要な時はあるものの、多くの人が現場に埋もれて把握しづらいことを話してくれます。言いたいことはいろいろあるけど言えない、聞いてもらえる場や相手がないという様子が感じられます。

 

社外メンターがいるからと言って、何かが急に良くなったり問題が解決したりすることは基本的にありません。それでも、「社内では言いづらいけど誰かに聞いてほしい」という問題は思いのほか多いようで、そのことに対応する手段の一つとして社外メンターが重宝されつつあるようです。

 

そんな「社外メンター」は、これからどんどん活用される機会が増えていくのではないかと思います。社内と社外で役割分担することはやはり有効です。

私も期待された役目が果たせるように、しっかり話を聞いて施策につなげていくようにしていきたいと思います。

 

 

2023年5月22日月曜日

「会議」と「ミーティング」を混同していないか

 最近は、「会議の改革」に取り組んでいる会社が目につきます。生産性向上を目的として、その進め方を工夫して回数や時間を減らそうとしています。パワポ禁止、資料はA4用紙1枚まで、着席せずに立ったままといった実施方法を取っていたり、直接的に回数や時間数を制限していたりします。議題は事前に、必ず結論を出すなど、ごく基本的なことがあえて言われていることもあります。

 

社内での打ち合わせは、「会議」と言われたり「ミーティング」と言われたりしますが、言葉が違うということは、一応その意味にも違いがあるとされます。

まず「会議」の定義は、ある議題や目的について、複数の人が集まって議論を行うことです。明確な目的や議題があるものを言い、その議題や目的に対して必ず意思決定がされます。そのため必ず意思決定ができる責任者が参加し、他のメンバーも議題や目的に対して意思決定に関与するか、意見が言える人に限られます。

ただ意見を出し合うだけで、何も決まらないもしくは決められない場は、会議という定義から外れます。

 

これに対して「ミーティング」は、参加者全員での情報共有やコミュニケーションが主な目的になるものとされます。

参加者は役職や立場に限定されることはなく、内容も現状報告や意見交換など様々です。比較的少人数で行われることが多く、必ずしも意思決定の場である必要はないのが、会議との最も大きな違いです。

 

そんなことは当たり前に知っているという人も多いかもしれませんが、この「会議」と「ミーティング」が意外に区別されていないと思われることに、結構よく出会うことがあります。

 

例えば、「無駄な会議」という指摘の中に、「会議がただの報告会になっている」というものがあります。「資料の朗読になっている」「発言者が限られている」「特に何か議論されるわけでない」などと言われますが、このままだと、会議とミーティングのどちらの定義にも当てはまりません。

報告に対して、何らかの指示が出されたり意思決定がされたりするのであれば、「会議」の定義は満たします。内容的に無駄な時間があるとしても、すべてを無駄ということはできません。

 

一方、意思決定がされないのであれば「ミーティング」ということになりますが、この参加者が大人数ということになると、それをミーティングとは言いづらくなります。報告を情報共有と位置付ければ、目的としては一応合致しますが、特に意思決定者が出席しなければならないものではなくなります。

 

こんなことから見ると、わりと多くの会社で行われている「報告だけの役職者会議」などは、「会議」と「ミーティング」があいまいになっている典型例となります。

 

よく実施される「会議の改革」では、目的を明確にする、時間を決める、参加者を厳選する、意見交換しやすい雰囲気づくりやファシリテートをするなどといった取り組みが言われますが、その場が会議なのかミーティングなのかによって、意識しなければならない内容や優先順位は変わります。

 

今やっているのは「会議」なのか「ミーティング」なのかを混同せずに区別する意識も、「会議の改革」には必要なことではないかと思います。