2019年5月6日月曜日

「自分が嫌なことを他人にしない」のもう一歩先が必要なこと


ある先輩と話をしていて、その方は本当に人柄の良い方ですが、いつも「自分が嫌だと感じることを絶対に他人にしないこと」を心がけているそうです。
これは、私自身も同じように思っていることですし、子供の頃に学校の先生や両親から、そう振る舞うようにと言われていた記憶があります。
少し調べたところでは、孔子の「論語」の中にもそういった記述があるようですし、それによって、人間関係が良好になると書かれた記事も目にしました。それくらい当然のこととして定着した考え方といえるのでしょう。

しかし、企業内で最近起こっている問題の中には、この考え方だけでは足りないと思う場面にたびたび出会います。それは、特に「ハラスメント」に関連する問題においてです。
「セクハラ」「パワハラ」、その他「ハラスメント」と言われる問題の中には、その行動に関して本人にまったく悪意がないことがあります。場合によっては善意や親近感、親切心からの行動が、相手にとって不快であったり威圧であったりすることがあります。

相手や周りの人から「ハラスメント」という指摘されたところで、初めてそのことに気づいて、反省しきりと言うことがほとんどですが、中には「その程度のことで」「自分たちは普通にされてきたこと」「それでは何もできなくなる」などと言って反発を見せる人もいます。自分の行為が問題というよりも、相手の反応が過剰だという感じ方です。
「ハラスメント」の問題では、女性より男性、若者より年長者の方が加害者側となることが多く、こういった反発は中高年男性が最も多いですが、最近は女性からのパワハラや、上司に対する逆パワハラといったものもあるようなので、これも一概には言えないところです。

ただ、ここから見えるのは、「自分が嫌なことを他人にしない」というだけでは不足があるということです。自分を基準とした感覚だけでは足りないのです。

私自身のことで言うと、例えば自分ではごく普通のニュアンスで話したことなのに、相手から非常にきつい言い方だったと指摘されたことがあります。自分にとっては何でもない普通程度のことで、嫌なことは何もないため、同じことを他人にも気にせずしてしまいますが、相手が自分の感じ方と違っていることは、かなり意識していなければわかりません。

「ハラスメント」の問題の原因として多いのは、相手との距離感や力関係の認識違いです。
中には確信犯のような人もいますが、多くの場合は、自分と相手の立場の違いでこれくらいは従ってくれるだろう、お互いの関係でこれくらいは許されるだろう、これくらいの言い方は理解してくれるだろうなどと思っていたことが、相手にとっては違っています。

こういうことを解消するには、「自分が嫌なことを他人にしない」からもう一歩進んで、「相手の感じ方を察して理解する」ということが必要になります。
観察力、洞察力、感受性などを要し、かなりのレベルの相手目線といえますが、そういう感覚が必要な場面はかなり増えていると感じます。人によって感じ方や価値観が多様化していて、「常識」「普通」「当然」といった言葉では解決できないことが多くなっています。

近年の人事マネジメントは、個人の意識や事情に配慮した個別化、多様化の方向に進んでいくと言われていますが、これもその一端といえるのでしょう。

今の時代は、「自分が嫌なことを他人にしない」のもう一歩先が必要になっています。


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