2014年2月3日月曜日

「人を見る目がある」の本当の意味


私のように人事という仕事にたずさわっていたり、人のマネジメントに関わったりする方々にとって、「人を見る目」の有り無しというのは、結構大切なスキルだと思います。
私自身、「人を見る目」というのはそれなりにあるつもりでいましたが、それを反省しなければならないようなお話を聞き、今回はその自戒を込めてのお話です。

一般的な感覚で「人を見る目がある人」と言われると、たぶん相手の行動やしぐさ、表情などの一部の様子を見て、「この人はこんな性格、特性、能力」というような全体につながることが、いろいろわかってしまうような人のことを指しているのではないかと思います。一を見て十を知るというようなことです。

それが本当にできれば素晴らしいと思いますが、人間がそのためにどんな思考をするかというと、多くの場合は自分の思いや価値観に照らして、例えば「お箸の持ち方が良い人は家庭教育が行き届いている」「体育会出身者は根性がある」「ゆとり世代は協調性が足りない」などという見方をします。
本人にとっては、自分の過去の経験から得てきた法則なので、合理的で根拠があることだと思っていますが、これが本当に「人を見る目がある」といえるのかということです。

どんな人でも多かれ少なかれ「思い込み」というものがあります。実はこの「思い込み」がくせ者で、人間はこの自分の「思い込み」に合っていることは強く印象付けられて強化され、逆に「思い込み」に合わないことは無視して印象に残らないという特性があります。
ですから、自分の過去の経験というのは、単にこの思い込みを形成しているだけとも言え、その始まりは、実は何も根拠がなかったりするのではないかということです。

“お箸の持ち方が良い人の行き届いた家庭教育”も、“体育会出身者の根性”も、“ゆとり世代の協調性”も、はっきり言ってそんな一括りでは語れないような、いろいろな人がいます。
そもそも“行き届いた家庭教育”とはどんな教育なのか、“根性がある”とはどんな状態を指しているのか、“協調性がない”とはどんなレベルのことを言っているのか、結局は見る人それぞれの主観であり、はっきりした基準はありません。

お話で言われたのは、「人を見る目の基本とは、いかに相手に対する思い込みを持たずに耐えられるかどうかである」ということでした。もっと簡略に言うと、「“人を見る目がある人”というのは、“○○な人は××だ”という見方をしない人」ということになります。「人を見る目がある」と思っていた多くの人が、実際にはこれと反対のことをしてきたのではないかというように感じます。

私自身も、自分では「思い込みで相手を評価しない人間」だと思っていましたが、それは「思い込みで相手を見ないと自分勝手に思い込んでいる人間」ということだったのかもしれません。

やっぱり「人を見る目」なんてそんな簡単に身に付くものではないし、絶対にたどり着かない永遠のテーマなんだと思います。自分もまだまだ修行が足りません。


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