2016年3月23日水曜日

アスリートの「量で解決した成功体験」の話が、企業の長時間労働に通じると思ったこと



世界陸上でメダルを獲得するなど、アスリートとして活躍してきた為末大さんのブログで、興味深い話を目にしました。

「根性論が通用しない時代の到来」というタイトルのコラムですが、その内容によれば「日本のスポーツ文化は、日本社会を反映しているようなところがあり、トレーニングにおいての日本的根性論とは、諸所の問題に対して量の拡大で対応しようとすることである」とありました。
「競技の特性によっては量が有効な場合もあるが、多くのスポーツでもそうとは限らないし、量が大事だという思い込みが強い文化では、量には耐性がないが質で成長できる選手を潰すことになる」ということでした。

中でも私が一番印象的だったのは、「なぜ日本のスポーツ界が量をこれほど好むのかというと、日本人の性質というところにいくのかもしれないが、ここ最近で感じるのは、量で問題を解決した成功体験が多すぎるのではないか」と述べられていたことです。1日何時間バットを振った、誰にも負けない練習(量)をこなした、だから成長した、勝つことができたというようなことです。

為末氏によれば、「かつてはトレーニング理論の進歩が遅く、多少間違っていても努力量さえ投下すれば勝てるということがあったが、今は情報、データを集め、どこに努力を投下すべきかを考えなければならなくなってきた」ということです。時間は356日24時間しかないことを考えると、量の拡大には結局いつか限界がくるのだということでした。

この話で思ったのは、日本の企業において、特に長時間労働の問題と、かなりの共通点があるのではないかということです。
特に「量で解決した成功体験」ということでは、例えば「毎日夜遅くまで頑張った」「休日返上で働いた」という働いた量や時間を苦労話として言い、「おかげで完成した」「納期に間に合った」など、とにかく量をこなしたことで仕事がうまくいったというエピソードを聞くことがよくあります。

その一方で、例えば週間かかる予定を3日間で終わらせた」「効率を工夫して時間的な余裕を作った」などと言う話は、たぶんあるにはあるのでしょうが、積極的に語られる機会が少ないように感じます。
このあたりも為末氏が書かれている中で、「根性論は、犠牲を払わずに勝ってしまうことを嫌がる傾向があり、疲労感やトレーニングの量で満足を測っていて、パフォーマンスが上がったかどうかでは計っていない」「クタクタにならないと罪悪感さえ抱いてしまう」とありました。うまくいっていたとしても、量をこなしていないことを積極的には語りづらいということでしょう。

こんなことを見ていると、長時間労働は日本人の本質に染みついた価値観であるという感じがします。この解消に成功した企業の事例を聞いていると、電気を消す、システムを停止する、オフィスから追い出すなど、結構物理的に強引な方法が多いですが、逆にいえばそうしなければ変わりづらいということなのかもしれません。

「量で解決した成功体験」を上回る「質で解決した成功体験」が増えていかないと、長時間労働の問題を解決するには、まだまだ時間がかかりそうな感じがします。


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