2021年4月19日月曜日

自分基準で責める「努力不足」の危うさ

ゴルフのマスターズトーナメントで、松山英樹選手が優勝しました。日本人として、さらにアジア人としても初めての優勝です。私もテレビの中継を見ていて、決まった瞬間は本当に感動しました。多くの人からも同じような気持ちだったという話を聞きます。

 

これまで松山選手のことを見続けてきた周りの人たちや関係者は、みんな口々に彼の練習量の多さをはじめ、人並み外れた努力のことを話します。トーナメント会場の練習場で日が暮れても練習し続ける松山選手に対して、コースの管理責任者が「整備ができない」と苦笑していたなどというエピソードもあり、本当に多大な努力を重ねた結果であることは間違いありません。

 

そんな松山選手がインタビューの中で、こんな主旨の話をしていました。

周りの人たちからは「努力している」と言われるけれど、自分としてはそこまでの感覚はなく、ただゴルフが好きでもっとうまくなりたくて、そのために必要なことだから練習をしているというようなことでした。もちろん肉体的、精神的につらいこともあるでしょうが、根本には「自分が好きでやっていること」であり、「そのことを極めたい」という自分の意志で取り組んでいることだから、他人が見ると努力に見えることも、自分にとってはそういう感じではないということでしょう。

 

この「努力」というものは、他人からの見え方と本人の感じ方にギャップが多い事柄の一つです。周りからはすごく努力しているように見えても、本人はそれほどとは思っていないことや、反対に本人はすごく努力しているつもりなのに、周りからはそう見えないということがあります。それくらい主観によるところが大きいものだということです。

 

「努力が足りない」という叱責を口にする人がいますが、前述のことからすると、他人に「努力不足」を指摘することには十分な注意が必要です。自分基準で他人の努力の度合をはかることで、そこに大きな食い違いが起こる可能性があるからです。

信頼関係が確立された間柄で、その人の実力を十分に把握していて、それが発揮できない原因に何らかの手抜きなどの存在が明らかならば、「努力不足」を指摘することはできるでしょう。しかしこれらの前提がない状態で「努力不足」と言ってしまうのは、ただ理不尽に相手を責めているだけの状況に陥る可能性があります。それで良い効果を生むことはないでしょう。

 

アメリカの著名な哲学者であるマイケル・サンデル氏の近著に関する取材記事の中に、こんな話がありました。

私たちの多くは「成功する人は努力をしている」という価値観の中で生きてきたが、その考え方の裏では「成功していない人は、努力してこなかった責任を負っている」ということになり、真面目に働いていても「努力をしなかったから」と尊厳を奪われ、見下される状態を作ってしまったと言っていました。

 

「努力は必ず報われる」のは望ましいことですが、実際には「報われない努力もある」というのが現実です。結果と努力が必ずしもつながらないのだとすれば、結果が出ないことを「努力不足」と言って責めるのはあまり理にかなっていません。

 

自分基準で他人の「努力」を語ること、さらにそれを責めることには危うさがあります。

 

 

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