2013年7月12日金曜日

信賞必罰の「罰」


 このところ、体罰に関する問題が多く語られています。体罰というのは、基本的に「威圧と恐怖による支配」だと思うので、良い効果を生むとは思えませんし、コミュニケーションの取り方としても論外だと思います。罰という事がいったいどういうことなのかを良く考える必要があると思います。

話は少し変わりますが、主に経営者の方々から「信賞必罰」という言葉を聞くことがあります。「信賞必罰の企業風土にしたい」「信賞必罰の人事制度を!」などと言われます。

「信賞必罰」を辞書で引くと、“賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰するという意味”とあります。

組織における「功績」というと、業績向上、能力向上、発明、発見、社会貢献、その他いろいろ思いつきます。程度の差はあったとしても、少なくとも今までより良くすることができた事柄ならば、それはみんな「功績」として見る事ができると思います。

一方「罪」といわれるとどうでしょうか。不正、怠慢、ルール違反などは明らかに罪といえるでしょうが、業績不振、能力の伸び悩みなどは罪になるのでしょうか? 
やっぱりサボっていての業績不振と、頑張ったが結果が出なかったのとは違うと思います。単純に結果だけに注目して、それをもとに罰を与えたとしても、罰によってその後良い方向に転換できるとはあまり思えません。最低限の罰は必要としても、「罰がある企業文化」「罰がある人事制度」が良い効果を生むとは思えません。

失敗に対して「責任を取る」といいますが、結局これは「うまくいかなければ罰を受けます」という宣言なわけで、その罰というのは、会社でいえば、減俸か、降格か、それとも辞めるかのいずれかの方法しかないと思います。でもそんなことをしても、少しだけ会社の人件費が減るくらいで、大したメリットもありません。
時の首相が「私の責任で・・・」なんて言っていましたが、結局は辞めちゃえば済むんでしょ! なんて思ってしまいます。場合によっては、どんな立場でもやり続ける事の方が、よっぽど責任感があるように思います。

こうやってみると、「賞を与える」ということは、比較的多くの賛同や好感を得て実行しやすく、「罰を与える」ということは、何が罪かの線引きが難しく、そのプラス効果というのも少ないと感じます。
最近よく言われる「褒めて育てる」も、こんなところにもつながるのかもしれません。

「信賞必罰」という言葉は、一見毅然とした態度を示す良い言葉のように聞こえますが、そこでいう罰とは何なのかどういう行為が罰に値するのかをしっかり見極める必要があると思います。組織運営においては、特にそう思います。


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