2021年7月5日月曜日

信頼がなければ「叱っているつもり」であっても伝わらない

「怒る」と「叱る」の違いという話は、よく言われることです。

「怒る」は、自分の感情的な怒りを一方的に相手にぶつけるもので、「叱る」は、相手のことを思っておこなう注意や忠告、指導、アドバイスだとされます。「怒る」は自分の感情、「叱る」は相手の成長などを考えた理性ともいえます。

そして叱ることは遠慮すべきでなく、上司や先輩の責任として、躊躇せずにおこなうことが必要だと説いているものをよく目にします。嫌われても煙たがられても、叱るという意味でいうべきことはいわなければならないとのことです。

 

上司をはじめ、指導する側の立場であれば、それは確かにその通りでしょう。ただ、もし私自身が「叱られる側」の立場で、誰かから「私のことを思って」の忠告や指導を受けたとして、たぶんそのうちの一定部分は、私の心に響かないと思います。それは、相手としては叱っているつもりでも、受け取る側にとっては怒っているとしか見えない時があるからです。

 

「叱る」という言葉には、「目下の者の言動のよくない点などを指摘して強くとがめる」という意味があるそうですが、表面的な振る舞いだけをみれば、「怒る」という様子との区別はつきません。「叱ってくれている」と思うには、自分のことを思ってくれている人、成長を願ってくれている相手と認識している人からの言葉でなければなりません。要は「信頼関係がある相手からの言葉である」ということです。そういう人からの言葉の中身をよく聴いて考えて、初めて「叱ってくれた」ととらえます。

 

叱られる側の姿勢として、誰からの話も謙虚に受けとめるのは必要なことですが、叱る側の姿勢で注意しなければならないのは、「嫌われても叱ることを躊躇するな」という話です。このことばかりにこだわって相手との関係を見誤ると、こちらは「叱っているつもり」でも、相手は「感情的に怒られている」ととらえられていることが多々あるからです。

 

お互いの信頼があって初めて「叱る」「叱られる」という関係が成り立つわけですが、この信頼は「上司だから」「先輩だから」「役職者だから」「教育係だから」「目上だから」「知識があるから」など、形式的なものだけでは決して生まれません。本当に自分のことを知ってくれて、親身になって考えてくれているという日々の態度が伝わりながら、徐々に作られていくのが信頼関係です。それがないのに“躊躇せず”にきついダメ出しを食らっても、それを「自分のためを思って叱ってくれた」とはなりません。

 

特に最近の若手から中堅社員は、キツさを感じる上からの物言いは、押しなべて感情的というとらえ方をして、かえって話が通じにくくなる傾向があります。信頼されるのは落ち着いて理性的に話せる人で、自分の一方的な思いだけで厳しい指摘を躊躇せずにおこなうような人は、そもそも信頼されづらいといえるでしょう。それはせっかく話していることが伝わらないということでもあります。

 

「この話は感情的に言っていることではない」と思ってくれる信頼関係の前提がないままでは、「叱っているつもり」でも、その意図は伝わりません。自分の思いよりも相手がどうとらえるかの方が重要です。

 

 

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