2014年3月28日金曜日

似ている気がする「働かないオジサン」と「ゆとり世代」への批判


「働かないオジサン」はなぜ働かなくなってしまったのか?というウェブ上の記事を目にしました。
どこの職場にもいる「働かないオジサン」ですが、「そのままでいると、定年後が寂しくなりますよ」というお話でした。

いろいろ考察がされていましたが、その中で一つ印象深かったのは、「会社組織で働く社員というのは、事業主のように直接社会とつながっている訳ではなく、会社を通して社会とつながっている間接的な関係である」ということでした。
「働かないオジサン」は、会社の仕事に対する意味を失っているので、社会と間接的にもつながっておらず、定年後に会社という居場所がなくなると、とたんに何もできなくなってしまうということでした。

あまり働かずとも、会社という枠組みの中にいれば、何とか安心感を得ることができるというようなニュアンスがあるのだと思います。現状を守っておきさえすればどうにかなるだろうという、無意識の感覚なのかもしれません。

私はサラリーマンではないので、自分の食いぶちは自分で稼がなければなりませんから、昔と今では感じ方がだいぶん違いますが、「会社を通じた間接的な社会とのつながり」というのは、元サラリーマンだからこそ、よけいに納得するところがあります。

私自身も若い頃は、あまり働かない中高年を見て、「高い給料もらってるくせに、なんで何もしないんだ!」などと思っていましたが、自分がそう言われる年代に差し掛かってくると、「働かないオジサン」の気持ちも何となくわかる気がし始めました。
 自分がかつてのサラリーマンのままだったら、もしかしたら「働かないオジサン」になってしまっていたかもしれないと思います。

なぜ働かないかと考えると、年齢とともに行動することが億劫になり、行動力が鈍っているということや、体力的な衰えという理由もあると思いますが、大きいのは、それまでの経験を通じて良くも悪くも先が読めるようになってきてしまったということではないかと思います。

「がむしゃらにやっても結果はそれほど変わらない」「今以上の出世は望めない」「どうせやっても無駄だ」・・・。そんな部分があるのでしょう。
結局、今は安全な場所にいるし、何となく先が見えているし、それほど頑張っても変わりはないから、定年までほどほどの力でやっておこうというような感じではないでしょうか。

ここから私が感じたのは、世間で「ゆとり世代」を批判するときの言葉に、ずいぶん似ている気がしたということです。
 「先を悟っていて行動しない」「すでに満足していて上昇志向がない」「言われないと動かない」など。あまり行動しない様子が指摘されますが、これはどちらにも同じように当てはまる気がします。

将来への希望が薄れてしまっていたり、現状でよいと満足してしまっていたりすると、実は世代にかかわらず、同じような行動になってしまうのかもしれないと思いました。

この解決策を考えると、やはり将来への希望を見出して、それを行動する活力に変えることしかないのだろうと思います。

世代間ギャップは対立的に面白おかしく語られがちですが、実は大した違いはないのかもしれません。


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