2014年8月29日金曜日

「自己キャリアの人任せ」の危惧


主に大手企業のシニア層からミドル層の人材に対して、ただのぶらさがり人材にならずに、外部でも通用する人材になるべく、研修を通じてマインドセットをし直すという取り組みをしている団体のお話を聞きました。
大きい会社にいる人ほど、自社に順応しすぎて視野が極端に狭くなっていることがあり、いざ自分の先行きが見えてきた時、どう対応すればよいかを見失ってしまうということがあるのだそうです。

実際に行っているカリキュラムはすばらしく、参加された方々の感想を聞いてみても、多くの気づきがあって意識も180度変わったということで、取り組みに見合うだけの効果はあるのだと思います。
特に自社では当たり前のことが、実は世間一般とはかけ離れているような、自分たちが視野狭窄してしまっていることに関する気づきが多い様子でした。
よく言われる人材流動化に向けた施策の一環としても、とても重要で意義がある取り組みだと私は思います。

ただ、一つだけものすごく気になることがありました。
それは社会人経験が豊富なはずのミドル、シニア層で、なおかつ大手企業で活躍できるような優秀な人材が、そこまで手間ひまをかけ、手を変え品を変えで周りから刺激を与えなければ、自分の視野の狭さに気づく事ができないほど、自社の内向きな考え方に染まってしまっているのかということです。

つぶれることを心配する必要がなく、よほどの不祥事でもない限りクビになることはなく、手厚い処遇や福利厚生があり、常に自分の居場所が確保されている環境に20年、30年と身を置けば、必然的にそうなってしまうのかもしれません。
良い捉え方をすれば、これは心からの愛社精神と、高い帰属意識があると言えるのかもしれませんが、私はあまりにも会社に依存しすぎている気がして、正直ちょっと怖いと思ってしまいました。言葉は良くありませんが、「自分のキャリアを人任せにしている」と感じてしまいました。

会社というのは、資本主義の原則に則って動くものであり、自分の居場所などは保障されないのが本来の姿です。ただ、それではあまりにも不安定な労働環境になってしまいますから、解雇規制をはじめとした様々な制約がある訳です。
しかし、こういう状況を見てしまうと、実は過度に甘やかしてしまっている側面もあるのではないかと思ってしまいました。

私は会社と社員が対等な立場にあってこそ、それが良い成果につながると思っています。何の制約もないと、雇う側の力が強いのは当たり前なので、労働者保護の観点は絶対に必要だと思います。
しかし、だからといってそれに甘えていれば良い訳ではなく、働く側も自立して、変化に対処できるように自己研鑽しておく必要があります。

せっかくの良い環境が、「自己キャリアの人任せ」につながってしまっているのであれば、それは働く人自身にとって良いことではありません。
だからこそ、今回お話をうかがった、マインドセットをし直すような取り組みが必要なのかもしれません。


2014年8月27日水曜日

理解できるが共感できない「うちには来てくれない」と嘆く採用担当


私が採用活動をお手伝いするような企業は、名の知れた有名企業であることはまずありません。優秀な人は欲しいが、なかなか思ったようにはいかない中堅企業から中小零細企業がほとんどです。

また、人の採用に関しては、そのレベルに違いがあるとしても、結果に100%満足と言う話は、企業の規模や有名無名を問わず、ほとんど聞くことがありません。
人の採用には数と質の両面があり、特に質というのは、仕事をさせて初めてわかることが多々あるので、やむを得ないところではないかと思います。

このように、なかなか満足には至ることがない採用活動の中で、特に若手から中堅あたりの年齢層を採用対象にした際に、ときどき耳にするのは「この人はきっとうちには来てくれないなぁ・・・」という採用担当者の嘆きのような言葉です。中には「どうせ大手に行くに決まってる」とか「うちの会社に優秀な人なんて来るわけがない」などというあきらめのような話を聞くこともあります。

苦労して応募者を集め、ようやく内定までこぎつけても、それを辞退されるようなことを繰り返していると、こういう気持ちになるのは良く理解できます。ただし、私はこの言い方にあまり共感はしていません。ある会社では、社長自ら「うちにはこんな人は来てくれないよなぁ・・・」などと言っていましたが、これははっきり言って固定概念による言い訳だと思っています。

確かに一般論として、一流校の出身者などは大手企業を希望することが多いですし、学生の大手志向というようなことも言われます。
ただ、大手企業に入ったからといって、本当にその人の社会人的な能力が高まるかというと、必ずしもそうではありません。私もかつて企業人事として、大手企業出身の人材を受け入れた経験が何度もありますが、なかなかフィットしなかった経験の方が多いです。

これは受け入れる側にも問題がありますし、大手企業人材の全員がそうではありませんが、大手企業の人の方が「会社のおかげ」で仕事をしている部分が多くあることは確かだと思います。

「整えられた仕組みに乗って仕事をする」
「会社の看板で顧客や関係先にアプローチする」
「細かいことは自分以外の誰かがやってくれる」
「周囲から多くのサポートが受けられる」 など、自分の力か周りのおかげかを勘違いしやすい環境があります。

そしてそんな人材が中小企業に舞台を移した途端、それまでできていたはずの仕事が遂行できなくなってしまいます。「あんな人はうちには来てくれないなぁ」などと言われていた、優秀な人材であるはずなのに・・・です。

人材の質には、基礎能力などの先天的な要素があり、これが高いに越したことはありませんが、それ以上に後天的な要素がかなりあると思います。その後天的な要素には、自分で直接かかわって、手を動かした経験が重要になります。俗にいう現場経験であり、自分でストリートファイトができる力があるかというようなことです。

自分の力を勘違いしなかった大手企業人材は、様々な環境の中で、中小企業では経験できないスケールの仕事を自分自身の手で動かしていますが、そうでない人はどんなに基礎能力が優秀であっても、少しの環境変化で職務遂行ができなくなってしまいます。こういう部分まで含めての人材の質ということです。

こう考えてみると、「優秀な人はうちには来てくれない」などと嘆くのは、実は言うだけ無駄で、意味がないことではないかと思います。


2014年8月25日月曜日

「一体感」と「多様性」はどちらを大事にすればよいのか


組織作りやチームビルディングの中で、そのグループの「一体感」を醸成することの大切さは、いろいろなところで言われていることです。「経営理念」「行動規範」「目標の明確化」「方向性を示すこと」などは、この一体感を作り出すための道具や手段にあたるのだと思います。

私は人事が専門の立場なので、これらに注目した取り組みが必然的に多くなり、「一体感」を得るために、様々な施策や取り組みを実施します。また、このあたりを重要視する傾向も強くなります。

その一方で、最近はダイバーシティという言葉でも表現される、「多様性」ということの重要性も言われています。私が今まで見てきた組織の中でも、成長が速いところは構成している人材が非常に「多様性」に富んでいることが多いように思います。

年令や性別、国籍や出身地、学歴などの一般的に言われる属性だけでなく、その人の生い立ちやこれまでの経歴、個々の持つ価値観や職業観、性格的な特性など、俗にいうエリートのような人から、苦労人と言われるような人まで、本当に様々な人が在籍しています。またこういう組織では、いろいろな人を自分たちの仲間に迎え入れることができる度量の広さも感じます。

組織作りの中で、「一体感」を作り出すような取り組みを行っていくと、自分たちが気に入った人、気が合う人ばかりを選別しようとする動きが目立ちだすことがあります。主に採用や人材登用の場面で起こってきますが、それが行き過ぎると、誰かをはずす、辞めさせるといった「排除の論理」につながっていってしまいます。これでは「多様性」はどんどん失われていってしまいます。

「一体感」を高めようとすると、それにつれて「多様性」が失われ、「多様性」を求めると、その中では「一体感」が維持しづらくなります。
「一体感」と「多様性」、は、どちらも大切であるとは言われるものの、これを両立することはなかなか難しいことです。

ただ、これが難しいとは言っても、できる限り両立を図る努力は必要になります。
このどちらに重心を置くか、どんな進め方をするかは、その組織規模と現在のステージがどこかによって違ってくると思っています。

例えばスタートアップに近い組織、50名程度以下の小企業であれば、どちらかと言えば「一体感」が大事ではないかと思います。この時期には、構成メンバーの多くが、同じ気持ちで同じ方向を目指すということが、より必要だと思います。

逆に企業規模がそれ以上になってくると、今度は徐々に「多様性」の重要度が増してきます。多様な人材がいることで、対応できる事業内容の幅、顧客の幅などに広がりを持つことができ、これが会社の成長につながります。またこれを実現するために、会社には様々な人を受け入れるだけの器に広さ、度量の広さが求められるようになります。

ただ、会社が大きくなったからといって、「一体感」をおろそかにして良い訳でははありません。例えば30~50名規模は、大企業であれば課から部単位にあたるような人数ではないかと思います。
この単位では「一体感」を高めるような取り組みを行い、一方で課や部の相互の間では異なる性格を持った集団にしていけば、組織全体での「多様性」を維持していくことができます。こんな形で両立を考えていくことになるのでしょう。

「一体感」と「多様性」はどちらが大事かと聞かれれば、どちらも大事だという答えになってしまいます。
ただ、このどちらに重心を置くか、どんな進め方をするかは、その組織の中で工夫していく必要があると思います。


2014年8月22日金曜日

「内集団バイアス」が強まっているように感じる怖さ


社会心理学では、自分が帰属している集団には好意的な態度をとり、外の集団には差別的な態度をとる心理現象のことを「内集団バイアス」(または「内集団びいき」)と言うそうです。

「内集団」とは、その人が所属していて、自分がメンバーであると認知している集団のことで、学生なら学校やクラス、サラリーマンなら会社やその部署などになります。これに対して、自分が帰属していない集団や結びつきが弱い集団、対立している集団は「外集団」と言います。
人間には自分が所属する集団を評価したいという欲望があり、そのため「内集団」の評価はより高く、「外集団」をより低く評価したいというバイアスがあるのだそうです。

例えば、以下のようなことは、内集団バイアスが関わっている思想なのだそうです。
・喫煙者は非喫煙者に比べて、自己管理能力が低い。
・女性は男性に比べて、論理的に考えるのが苦手。
・女性は管理職に向かない。
・○○民族は××民族より優れている。
・○○人は××人により優れている。
など。

これらは人間の深層心理に由来することなので、なかなか避けられないことなのかもしれませんが、最近特に感じるのは、政治でも国際情勢でも社会の動きでも、この傾向が強まっているのではないかということです。
自分の身内は大事にするけれど、知らない人は完全に無視していたり、何かあれば徹底的にたたいたりということです。
例えば電車内の化粧や飲食も、「知り合いに見られなければよい」との心理があると言われるので、ここに共通する部分がある気がします。

これらは結局、自己防衛的な心理であり、これを進めて「内集団」の結束が高まるほど、「外集団」には攻撃的になる感じがします。様々な差別行為も、出発点はこんなところにあるでしょう。

会社の中でも、俗にいうセクショナリズムや他責といわれる問題があります。マネージャーによっては、自分の部署の結束を高めるため、他部門より優れている意識をメンバーに植え付けたり、他部門を攻撃して優位に立とうとしたりする人がいます。

これは自部門にとっては都合が良いかもしれませんが、組織の全体最適を考えると決して良いことではありません。また、私がいろいろな会社を見てきた中では、こういう手法で組織をまとめようとすると、ある一時期は良くても、その後のあるちょっとしたきっかけで組織がバラバラになってしまうことがあります。差別のような負のパワーで結束を保とうとしても、決して長続きはしません。

にもかかわらず、最近は自分と他人、敵と味方のように、人を「内集団」と「外集団」に切り分け、そこに生まれる優性意識を、集団や組織の結束につなげようとするやり方が目立っているように感じます。

繰り返しますが、「内集団バイアス」は全体最適にはつながらないと思います。最近の様々な社会の動きにはちょっと怖さを感じます。


2014年8月20日水曜日

組織でも重要な「血液検査」


国立がん研究センターなどが、13種類のがんを1回の採血で発見できる最先端の検査システムの開発に着手し、数年後の実用化を目指すと発表したそうです。
この手法では1回で複数の疾患を検査でき、症状が認識できない段階でも発見できるという画期的なものだそうです。

こういう研究が実用を前提にしておこなわれるということは、技術の進歩によるところも大きいのだと思いますが、こんな取り組みを見ていると、血液検査で発見できることは、かなり多いのだという気がします。

血液というのは体のすみずみまでくまなく流れている訳ですから、その中には多くの情報が秘められているということで、それを注意深く調べれば得られる有益な情報は、まだまだたくさんあるのではないかと思います。

このように体の健康を守る考え方は、会社などの組織にも当てはめることができます。
組織全体を人間の体に例えたとすれば、血液にあたるのは組織内の様々な情報であり、これを組織内で行き来させるための血流が、人と人とのコミュニケーションと情報流通という捉え方になります。

そして、もしも組織上で何らかの課題がある時、多くの場合では誰が悪い、どこの部署が悪いという捉え方になりがちですが、実際に起こっている組織課題の多くは、誰か個人が悪さをしているという場合より、上司部下のコミュニケーションが悪い、部門内の情報共有が悪い、拠点間の連携が悪いなど、人と人との間に存在する場合がほとんどです。
人体に置き換えれば、血液そのものの質や血流の良し悪しに関わる部分であり、組織の一部で血行不良のようなものが起こっている場合が多いのではないでしょうか。

組織課題の解決というと、ともすれば問題がある場所を特定し、それを排除、矯正することで問題解決を図ろうとしますが、これは人体の治療方法でいえば、外科手術的な手法ということになります。
しかし、実際の組織課題というのは、このように病巣がはっきりしている場合ばかりではなく、病気というほどではないが何となく調子が悪い、何となく気分がすぐれないなどという場合もあります。そんな場合の多くは、ちょっとした血行不良に類するような場合です

組織の健康を守り、健全な組織を保つ上では、人の体と同じように、血液の健康が大事になります。人と人とのコミュニケーションや情報流通の状況、情報そのものの質がどうかということです。

組織上の課題解決においても、血液や血行状態にあたるコミュニケーションの質や流通している情報の質に注目し、この「血液検査」のような意識で取り組むと、本質的な問題解決につながっていくのではないかとおもいます。


2014年8月18日月曜日

「バカンス中のメール自動削除」は日本企業でもできるのか?


あるニュース記事で、ドイツの自動車大手ダイムラーが、社員が仕事に関わるメールを気にせずに休暇が過ごせるようにするため、休暇中の社員宛てに届くメールを自動削除するシステムを導入したという話題を目にしました。

メールの送付元には「休暇中で受け取れない」との説明と、対応できる別の担当者の連絡先を知らせるメールが自動返信され、個別設定で特定の相手からのメールだけを受け取ることもできるとのことです。
社員は休暇中にメールチェックや返信をせずに済み、休暇明けにたまったメールをチェックする必要もなくなるということでした。

私がこの話題からまず感じたのは、「ドイツでさえもここまでの対応をしなければ落ち着いて休めないのか」ということでした。

最近は携帯電話やスマートフォンほかのモバイル機器、メールやチャットなどのITツールの普及により、どこにいても仕事ができて効率的という反面、時間や場所を問わずに仕事がどこまででも追いかけてくるようになってしまうということがあります。

私のように独立して仕事をしていて、スケジュールをすべて自分で決められる立場では、メリットの方が大きいと思いますが、組織に属して社員として働いている多くの人たちにとっては、仕事か否かのケジメがあいまいになり、実はデメリットの方が大きいのかもしれません。

日本の企業は休暇の消化率もまだまだ低いですし、長時間労働や休まないことを良しとするような風潮もまだまだ存在します。長期の休暇ともなれば、「休暇中も電話やメールに対応できるようにしておくこと」などと指示するような会社も、たくさんあるのではないでしょうか。
ITの進化で確かに便利で効率的にはなったものの、「きちんと休む」ということは、逆にやりにくくなった面があると思います。

さらにそんな日本ではなく、短い労働時間で効率的に働いて、休む時にはしっかり休むことが社会に根付いているドイツでさえ、IT活用によるワークスタイルの変化とともに、個人の時間に仕事が入り込みやすくなってしまっているということでしょう。

休暇中のメール自動削除は、日本人的な感覚で見ればかなり思い切った対応で、人によっては常識外れと捉えるかもしれません。
しかし、メールの相手には休暇中であることと、別の対応窓口を知らせる訳ですから、休みの社員がいた際に一般的に行っている対応と大差なく、単にそれをシステム化しただけということです。

さらに休暇中にもメール対応を求めた際の対応方法は、基本的にはすべて本人任せということになります。返信をするかしないか、いつするのか、どんな内容で返信するのかは、本人の判断次第でまちまちになるでしょう。
これをシステム化することで、個人差が出ないということでいえば、顧客に対してはむしろ誠実な対応と言えるかもしれません。

でも、もし仮にこれと同じことを日本でやろうとしても、現状では仕事の分業がうまくできておらずに属人化していることも多いので、なかなか簡単にはできないように思います。

こんなことを見ても、日本とドイツでの働き方の意識や環境の違いは、思った以上に大きいのではないかと思います。


2014年8月15日金曜日

成長をジャマする「教えすぎ」に陥っていないか


特に若手社員や新人のOJTなどの際に、「わからないことがあれば質問しなさい」という指示をすると思います。
「わからないことがあればすぐに聞け」という場合も、「聞く前に自分で調べてから来い」という場合もあるでしょうが、積極的に質問することは良い行動として捉えられることが多いのではないでしょうか。

また教える側の上司先輩も、質問されればできるだけわかりやすく説明しようとし、きちんと答えに導いてあげようとするでしょう。特に若手や新人の育成を任されるようなタイプの人には、俗にいう面倒見が良い人が多く、相手に合わせて懇切丁寧に指導をしているように感じます。

一見すると育成意識が高く、良さそうに感じるこの一連の行動については、もうお気づきでしょうが、教えられる側の若手社員や新人が、問題解決のために自分で考えようとする習慣や、自己決定しようとする行動を阻害する可能性があります。

これは子育てなどでも同じだと思いますが、いつまでも手取り足取りの指導をし、具体的なやり方まで細かく指示をするような形では、結局はいつまでも自立することができなくなってしまうということです。
要は「教えすぎ」は禁物ということですが、もうそんなことは当たり前に意識して取り組んでいると言われるかもしれません。

ただ、最近の現場での人材育成の様子を見ていて、そこに関わる人たちの行動から感じるのは、この「教えすぎ」を、今まで以上に意識しなければならないのではないかということです。
教える側は無意識のうちに「教えすぎ」の傾向になりがちであり、教えられる側は以前にも増して直接的な答えを求めがちであると感じるからです。

その背景には、マニュアル主義的な傾向が増していることに一因があるように思います。今は何でもインターネットを通じて調べることができ、参考資料や事例はすぐに手に入れることができます。自分で悩んだり考えたり、わざわざ作り上げたりしなくても、すでにあるものをそのまま引っ張ってきた方が手軽ですし、それが簡単にできます。すぐに答えに行きつくことが、何となく当たり前の感覚になってしまっているのではないでしょうか。

また、直接的な答えを求める傾向は、教えられる側だけでなく教える側も同様です。
「すぐに答えを!」という感覚もそうですが、自分たちが教えられる側に立った時には、すぐに答えがほしいと思う相手の気持ちはわかる訳で、その要望に応えようとするあまりに、「教えすぎ」になってしまうということもあるのではないでしょうか。

答えを教えずに自分で考えさせるということは、時間もかかりますし、教える側の辛抱も必要です。ただ、今の世の中の傾向を見ていると、なおさら「教えすぎ」は禁物ではないかと思います。