2020年8月24日月曜日

「がんばるな」のCMでの共感ともう一つ大事なこと

 IT企業のサイボウズのテレビCMが話題になっているそうです。

「経営者の皆様へ、通勤をがんばらせることは必要ですか?」との問いかけから始まり、「がんばるな、ニッポン」という言葉で締めくくられていて、「通勤のつらさに寄り添っている」など評価する声の一方、「がんばるな」というフレーズに対する否定的な意見もあるそうです。

 

会社の担当者の話によれば、「がんばれ!ニッポン!」の対比的なフレーズを使うことで、自分たちが伝えたかった「不必要なところまでがんばらなくてもいいはず」「がんばらないのも大事なこと」というメッセージが伝わりやすいのではないかと考えたそうで、ある程度の批判や反論も想定していたとのことでした。今のところではポジティブな意見が8割、ネガティブな意見が2割という感じだそうです。

 

私自身も、このメッセージに共感している部分は多いです。

その理由は、「がんばる」のは必要なことだけど、どうするかは自分が決めることで、それは期間限定や非日常のことが対象だと思うからです。

 

まず、他人から「がんばれ」と強制されて、自分が「がんばろう」と思えないことは、がんばる必要が無いことです。そもそも「がんばる」という気持ちは、あくまでその人の主観の問題で、他人から見るとがんばっているように見えないことも、本人にとっては「がんばっている」状態のことがあります。

反対に、他人からは「がんばっている」ように見えて、本人は「別にがんばっているつもりはない」ということもありますが、これは「がんばっている」という状態には当てはまらないでしょう。

同じことでも、ごく普通の状態でできてしまう人と、すごく苦労しなければできない人がいますが、これを他人の尺度で、その人は「がんばっている」とか「がんばっていない」ということに意味はありません。本人の意思に反した「がんばり」は、ただの強制でしかなく、「今がんばっているかどうか」は、本人にしかわからないことです。

 

もう一つは、通勤のように、毎日の日常的なことは「がんばり」を求める対象ではありません。特別なプロジェクト、入学試験や資格試験、何かの修行のように、期間限定であったり、数年単位のことも含めた非日常的なことが、「がんばること」の対象です。そして、そのことに対する「がんばる」という意義を、本人が見出していなければなりません。

 

ただ、「がんばる」ということが不要かというと、決してそうではありません。自分が「がんばった」という経験は、なによりその後の自分の自信になります。「がんばっている」うちに、それが徐々に日常化していって、「がんばる」という意識がいらない普通のことに変わっていくこともあります。

大事なのは、他人から「がんばった」と見られることではなく、自分が「がんばった」と自己評価できるかどうかです。あくまで自分自身の意識の問題です。その経験の有無は、未知のことや難易度が高い課題にぶつかったときに活きてきます。

 

今でも、意味があるのかないのかわからないようなことを、「がんばれ」と強制する人はいます。そういう無意味ながんばりは、もう必要が無い時代だと思います。

ただ、「不必要なところまでがんばらなくてもいい」「がんばらないのも大事なこと」と説得力を持っていうためには、ほんの一時期でも「がんばった」という経験をする必要は、あるのではないでしょうか。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿