2015年5月29日金曜日

社内では気づきづらい「現象」から離れたところにある「原因」


目に見えている「現象」のすぐ近くに「原因」があるとは限らないということは、多くの人はすでに経験上わかっていることで、今さら言うほどのことでもないだろうと思います。

ただ、自分の会社での課題など、身近で起こっていることの場合、このあたりの状況が客観的に把握できていないと思われることがよくあります。
そうなる理由は、個人間の親密度や思い入れ、その他主観的な要素がたくさんあるということ、世間の状況や他社事例など、客観的に判断するための情報量が少ないということがあります。

社内ということで、様々な事情を把握しているつもりでいて、その上でいろいろな対策を一生懸命に考えていても、それが「原因」に届いていそうだと思っていても、それを私たちコンサルタントのような第三者的な立場の者が見ると、実はそうでもないことがあります。

人の問題として起こっている「現象」の場合、その「原因」は特に複雑に絡み合っていることが多いです。
例えば、“組織内でのコミュニケーション不足が見られるから”と言って、その手法を研修する、面談を義務付けてよく話をする、レクレーション行事をやってお互いがつながる機会を作る、などということを行います。
一般的にはよくやる方法で、王道なのかもしれませんが、これはコミュニケーション不足の「原因」を、“スキル不足”“時間の不足”“面識の不足”などにあると判断して、その対策をしているということです。

しかし、この手の課題は「原因」が全く別のところにあることが良くあります。
私が経験した例ですが、組織上のポジションとして、全社のコミュニケーションの中心にいる事業部長が、部下たちからの人望が全くなく、信頼されていなかったということが、コミュニケーション不足の「原因」となっていたことがありました。社員のヒアリングをしていく中から、徐々にわかってきたことでした。

彼の上司にあたる人は、経営幹部である役員クラスしかいませんでしたし、役員たちと事業部長との関係はすこぶる良好でしたので、その事業部長と部下との関係性までを把握している人は、経営幹部には誰もいませんでした。
ただ、コミュニケーション不足の問題は認識していたので、会社としてその状況に対する意見を、部下である一般社員たちにいろいろ聞いていたことはあったようです。

しかし、この部下たちからすれば、役員クラスに気に入られているこの事業部長のことを、コミュニケーション不足の「原因」だと表立っては言いづらく、意見としていえるのは、キレイごとのような話しかなく、なかなか解決には至らなかったようです。
こういうことは、第三者の方が比較的気づきやすいということがあります。

私がこの時に提案して実際に行なったのは、多少の組織変更と人員の異動によって、この事業部長に集中していたコミュニケーションルートと、部下に対する権限を分散するということでした。本人のプライドにも十分に配慮したことで、わりとスムーズに事は進み、コミュニケーション不足の多くの部分は解消することができました。

「『現象』から離れたところに『原因』がある」ということは、頭ではわかっていても、自分の日常に近いことであると、なかなか視野を広げられないということがあります。
本当の「原因」を見極めるためには、いろいろな視点を活用する必要があるのだろうと思います。


2015年5月27日水曜日

「自分の経験を教えたい」というコンサルタント希望者の独りよがり


私が独立して仕事を始めてからしばらく時間が経ちますが、同じような仕事のしかたを希望する人や、独立したばかりの人から、コンサルタントという仕事に関して、相談されたり意見を求められたりということがときどきあります。

独立したいという人には、勧めも止めもしませんし、すでに独立した人であれば、うまく行けば良いなと素直に思います。

ただし、その中には例外があります。
一つは、他人まかせが当たり前と思っている人が独立を考えている場合です。何でも業者頼みで済ませようとしていたり、知人や仲介者など、他人を頼ってどうにかしようということばかり考えているような人には、独立を考え直した方が良いと伝えます。すでに独立している人であれば、まずはどんなことでも自分で主体的に関わることを勧めます。
ただ、言われたからといって、なかなか変わるものではありません。

さらにもう一つは、「自分の経験を伝えたい、教えたい、それで相手の会社を変えたい」という自分の思いばかりを強く語る人に対してです。

この人たちに私は、「そういう思いを捨てられないなら、コンサルタントはやめた方が良い」と伝えます。仕事に強い思いを持つことは必要ですが、これはコンサルタントの個人的な基準による独りよがりであり、「教える」などと言っている時点で、クライアントとなる企業にとっては、大きなお世話であることが多いからです。
 
こういう思いを語る人は、一つの企業を定年近くまで勤め上げた人や、大手企業で専門的な経験を積んできた人、組織を率いていた管理職経験者などが多いようですが、もちろんそればかりではなく、いろいろな経歴の人がいます。
この人たちの共通点は、自分の専門分野に関するこだわりが強かったり、組織はこうあるべきという“あるべき論”の意識が強かったり、要は自分の中の基準が明確で、なおかつ確立してしまっているということです。

そもそもコンサルタントというのは、その会社を変えよう、人を変えようなどと言って、自分から乗り込んでいく存在ではありません。自分基準を持つとともに、その会社が成長していくにはどうすることが早道かと、相手目線で考えて実行することが仕事です。

スポーツのトレーナーのように、相手の体力や技術を見ながら一緒に目標を定め、トレーニングプログラムを一緒に決め、その取り組みをサポートしていきます。ここでは、全員がオリンピックを目指すようなことはないはずですが、自分の思いばかりが強い人は、誰に対しても“自分の理想形”を目指そうとします。
「相手に合わせることなんて当たり前」と思われるかもしれませんが、自分基準に引きずり込んで、結果的に会社の成長を遅らせているコンサルタントを何人も見てきました。

自分の経験を伝える、教えるためには、必ず“相手目線”が必要です。どんな言い方で、どんなタイミングで、何をすれば受け入れてくれるか、どんな施策なら実行できるか、何をどんなプロセスでやれば効果的かなど、相手の様子を知り、それを見極めて働きかけることの方が、“自分の思い”よりもよほど重要だと私は思います。

「自分の経験を教えたい」がコンサルタントになりたい理由なら、それが独りよがりになっていないかを再確認する必要があると思います。
これは、実はどんな仕事でも同じではないでしょうか。

2015年5月25日月曜日

法律や社名公表でなく、市場原理で排除できるはずの「ブラック企業」


厚生労働省は、いわゆる「ブラック企業」の社名を、これまでは書類送検になった企業だけの公表から、是正勧告段階での公表を実施し始めました。

効果がどうなのかといえば、私は十分に意義はあるだろうと思います。ただ、こういう行政機関の対策には限界があることも事実だと思います。

私の人事コンサルタントという仕事柄では、労基署の監督官の方々と関わる機会がときどきあります。ごく一部では、硬直的と言っても良いような対応をされたり、不遜と思えるような態度を取られたりしたことがありますが、ほとんどの監督官は労働者と企業双方の実情を考えながら、適切な監督を行っていると思っています。

そういう方々なので、審査や調査そのものに対する信頼はありますが、対象企業に悪質さが見えたとしても、労働関係の法律は意外に曖昧だったり、調査しても外部からは見えづらい部分も多かったりするので、是正勧告まではなかなかできないことも多いと思います。社名が公表できるようなケースは、実際にはそれほど多くはならないのではないかと思います。

私が考えるブラック企業対策として、法的な規制をもう少し見直すことが一つありますが、もう一つ思うのは、市場原理が適切に働けば、「ブラック企業」は確実に生き延びられなくなり、勝手に消滅していくだろうということです。
振る舞いがおかしな会社では、そこで働こうという人がいなくなる訳で、社員がいなければ事業は行えませんから、俗に言われる「ブラック企業」は存続できなくなります。

「ブラック企業」がいつまでも存在できてしまうのは、そこで働かざるを得ない“雇用弱者”と言われるような人たちがいるからです。
最近は、学生を中心としたアルバイトに対しても、過酷な労働を課したり、法律違反にあたる要求をしたりする「ブラックバイト」といわれるものがありますが、これも学生が法律知識に疎かったり、学業との両立や勤務地の問題など、働く上で制約があることを逆手に取っているということでは、同じく“雇用弱者”にあたることから起こっている問題でしょう。

“雇用弱者”と言われる人への対策は、失業対策や職業訓練、求職者と企業のマッチング支援といった雇用対策、生活保護のような困窮者対策と共通していますし、景気が良くなれば自然に減っていきます。これからは労働人口の減少も相まって、ますます「ブラック企業」は生き延びづらくなっていくはずです。

ただ、一方で気になることもあります。
例えば、導入が検討されている「ホワイトカラーエグゼンプション」(残業代ゼロ法案と言われているもの)は、成立すれば「ブラック企業」の言い訳に使われる可能性があります。これまではグレーゾーンで法律違反に問えたものが、合法となってしまう懸念もあります。
生活保護や失業対策も、支給要件の強化や金額の引き下げという方向性が見えるので、“雇用弱者”がそのまま温存されてしまうかもしれません。
 景気回復とともに、市場原理に基づいて退場すべき「ブラック企業」が、存続する余地を与えてしまう可能性があります。

「ブラック企業」は、一定の法的規制とともに、市場原理にまかせれば、自然に減っていくものであるはずです。ただ、肝心の法規制が逆効果になりそうな心配もあります。これからも現場の実態を、引き続き見ていく必要がありそうです。


2015年5月22日金曜日

「ビールはいつからおいしく感じたか?」、緩やかな変化を自覚する大切さ


お酒飲み同士で話していると、「ビールがおいしいと感じたのはいつからか?」という話題になることがときどきあります。

最近の若者はビール離れだそうなので、あまりわからないかもしれませんが、ビール好きの人に聞くと、初めはおいしいと思わなかったのに、いつの間にか好きになっていたという人が多く、みんなその境目がわからないと言います。中にははっきりとしたきっかけや思い出がある人もいますが、どちらかと言えば「いつだろうか?」「わからない・・・」という人が大半です。

私自身も同様で、初めて口にした時の「マズっ・・」という記憶ははっきりあるものの、大学時代には、もうおいしいと思って飲んでいた覚えがあります。
一生懸命思い出してみて、「たぶんこの辺の時期に徐々に変わったかな」ということは何となくわかりますが、いつどうなって切り替わったのか、あまり明確な境目はわかりません。
たぶん、少しずつ味に慣れて、味覚が変わって、徐々においしいと思うようになったというのが実際のところだろうと思います。

ここで思ったのは、緩やかに進む小さな変化や進歩というのは、一生懸命振り返らないと、それを自覚することが意外にできないのではないかということです。

食べ物の好みや職業観、人間観といったものでは、好き嫌いが無くなったとか、昔はやりたくなかった仕事が今は面白いとか、昔は苦手だった人と今は親友だとか、そこまで極端ではなくても、許容範囲が広がっていたり、受けとめ方が変わっていたりするなど、振り返ってみて初めて自覚できることというのは、いろいろあるのではないでしょうか。

こういう変化や進歩は、その度合いが緩やかなために、本人はあまり自覚できていないことが多いように思います。すでに当たり前になってしまっているために、あえて振り返ることもなく、振り返らないせいでもっとわからなくなっているということもあるのでしょう。

会社の仕事でいえば、短い期間で結果が出るものばかりではなく、取り組み期間が長く継続的で、なおかつ成果がはっきり見えづらいものがたくさんあります。これらの取り組みでは、変化や進歩の度合いを、当事者があまりとらえていなかったりします。以前との違いが感じられないために、いつの間にか現状が当たり前になり、関わる人たちが思考停止になっていることもあります。

やる気ややりがいを導き出す上で、自分の進歩や変化、成果を実感するということは大切です。そのための仕事術として、「短いサイクルでPDCAを回す」「ショートレンジで達成可能なストレッチ目標を立てる」などということがいわれますが、基本的にはみんな“変化を実感する”という、同じ目的でのことです。

緩やかな変化や進歩は、あえて振り返ってみないと、なかなか実感できません。一生懸命振り返ってもわかりづらいかもしれませんが、少なくとも変化や進歩があったことだけは確認できます。
自分にとって、今は当たり前になっていることでも、時間をさかのぼって振り返ってみると、意外な変化や進歩を見つけられるかもしれません。それが自分のやる気につながることはあるはずです。


2015年5月20日水曜日

ちょっと奇抜な採用基準には意味があるのか


その人の学歴で採用の合否を分けることは、学歴フィルターなどと言われますが、それだけが基準ではないにしろ、意外に多くの企業で、採用基準の一つとして扱っているのではないかと思います。

私がいろいろな企業の採用活動をお手伝いする中で、この学歴フィルターなどはまだまだ序の口で、あまり表には見せない、その会社独自の“奇抜”と表現しても良いような採用基準を持っている会社があります。

ある会社で、「長男、長女はできるだけ採用しない」というところがありました。わがままで打たれ弱く、早期離職をする人を見ていると長男、長女が多いのだそうです。私は自分が長男なので、その判断基準には「何だかなぁ・・・」と思ってしまいました。

またある会社では、「食事マナーは家庭環境、教育、その他万事に通じる」ということで、面接の場で“箸の使い方”をテストしていたことがありました。
その試験を受けて入社した社員から、その時の話を聞いてみると、「マナーを見られているのは明らかだから、その時はきちんとできますよ」とのこと。あまり試験をする意味はなかったようです。

また、これは伝え聞きなので、実際にあるのかどうか定かではありませんが、最終面接前の候補者を、必ず回転寿司店に連れていくという会社の話がありました。注文するネタの順番が、その人の性格や仕事ぶりを見極める材料になるのだそうです。「本当なのだろうか?」と思ってしまいます。

さらに、採用試験時の昼食にお弁当を出し、食べ終わるのが早い上位3名は必ず採用するという会社の話も聞きました。あえてノドの通りが悪そうなメニューを選ぶのだそうです。
緊張の中でも食欲がある人は精神的に強く、早く食べられるのは胃腸が丈夫で体力がある人だそうで、このおかげで心身ともに強さを持った人が選べるのだそうです。

これらの話を聞いていて思うのが、血液型の性格診断のことです。私自身はまあまあ信じていたりしますが、科学的根拠はないなどとも言われます。

ちなみに、これはうちの妻の話ですが、長女の出産時に血液検査をしたところ、それまで言われていた血液型とは違っていました。本人はそんなはずはないと言いますが、再検査しても結果は同じです。
つまり、それまで見ていた血液型での性格診断や占いは、自分とは違う所を見ているにもかかわらず、それに納得していたということです。私も自分以外の血液型のところを見ると、何となく自分に当たっているような気もします。

人間は自分の仮説に合うことを象徴的に捉えるところがあるので、どこを見ても自分に合致するところを見つけて、「当たっている」となるのではないでしょうか。

私は、これらの奇抜な採用基準が、悪いとは思いませんし、無意味とも思いません。会社と応募者の相性を見るには、主観的なものも必要ですし、それに合致していることによって、会社がその人を安心して迎え入れられるなら、それはそれで好ましいことです。

これらのことを、「人を見る目があるか」という観点で見ると、残念ながらそうではありません。奇抜な採用基準は、主観的な思い込みと言われても仕方がないですし、応募者がこれを知ったら、まったく納得ができないでしょう。
ただ、自分たちの会社に受け入れる人を選ぶということにおいては、あっても良いことではないかと思いますし、仕方がないこととも思います。

とにかく思ったのは、人それぞれ、会社それぞれに、いろいろな見方があるものだということでした。


2015年5月18日月曜日

「働かないオジサンの言い分」と似ていると感じるいくつかの話


あるウェブ上の記事で、「働かないオジサンの言い分」という話が出ていました。

50代読者からの投書だそうで、その内容は
「年功序列の給与の中で、若い頃は安月給で働かされ、会社には十分貢献してきたはずで、いま多少働きが悪くてもその頃の“貸し”がある。途中で処遇を引き下げたり、クビを切るようなやり方はルール違反だ。」
「若者は“使えないのに給料が高い”と言うが、自分たちも年をとれば、能力は確実に低下するし、体力も落ちる。自分たちもいずれ、若者にののしられるかもしれないとすれば、それが天にツバする行為だと早く気づくべきだ」
というものでした。

私はこの話に同情する点はあると思うものの、年功序列が崩れてからはもう10数年から20年近く経ちますから、当時30代だった人が今さらこんな話をするのは、自分の境遇を他責にしている感じがして、あまり良いとは思えません。
そもそもこの考え方では、会社だけでなく、本人も不幸になってしまっているのではないかと思います。

この話を聞いた時、私は「世代間扶養」という言葉を思い出してしまいました。公的年金で言われる“現役世代が受給者を支える仕組み”のことです。
所管官庁は、いろいろな理屈で「若い世代が損をする仕組みではない」と言っていますが、今の財政状況を考えれば、そう言い切ってしまうのはどう考えても詭弁でしょう。
「個人や世代の差による損得を論じる性質のものではない」とも言っていますが、社会保障の話を精神論で言いくるめるような姿勢には違和感を持ってしまいます。

さらにもう一つ、お金の貸し借りに関するトラブルの中にも、同じような話があると思います。金利を払ってもらえるものとして貸したのに、それが見込めないか、場合のよっては返ってこないような話です。借りたものを返さないことが一番問題ではあるものの、先になっての身入りが増えるからと、貸した側にも責任の一端はあると思います。

これらの話に共通するのは、「昔の貸しをいま(もしくはこれから)返してもらう」という考え方です。しかも比較的長期間に渡った貸し借りです。ここで言えるのは、将来のことは結局その時にならなければわからないということで、貸しが返ってこないことが許せないならば、貸しは作るべきではないと思うのです。

給料はその時の働きに見合った金額にするべきですし、年金も多少の再分配はするとしても、個人の積み立て方式にした方が良いと思います。お金の貸し借りも避けるべきでしょう。

それぞれ起こっていることには、簡単に変えられない事情があるでしょう。ただ、長期に渡る貸し借りという考え方をほどほどにとどめれば、いろいろな問題がずいぶん軽減されるのではないでしょうか。 
助け合いや相互扶助の考え方は大切でしょうが、そんなことを思いました。


2015年5月15日金曜日

自分が頑張ったことや、成功体験を否定するのは難しい


夫婦ともに高学歴の芸能人が、「私たちは、親の用意してきた道を歩んできたのではなく、学歴をつかみとってきたという誇りがある。努力の証明書として学歴がある」と発言し、そのことがネットで炎上したという話題がありました。
「コツコツ頑張ったものは評価されて然るべき」と擁護する意見も一部にあるものの、「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」などと批判されているようです。

この話について、直接的な論評はさておき、私は人事という仕事柄のせいか、学歴ということが身近で話題になることがときどきあります。

これはある会社であったことですが、その会社の人事担当役員の方から、「うちの採用担当者は、みんな仕事の能力に学歴は関係ないというのだが、本当のそうだろうか」と、長々とそれに対する疑問を話されていました。

そしてその最後に、「だからうちの子供は東大に入れたけどね」とおっしゃるので、私は“ああそういうことか”と、ちょっと納得したことがあります。本当に学歴は重要ではないとすると、ご自分のお子さんがつかんだものを否定することになってしまうので、それを認める気持ちにはなれないということがあったのでしょう。

逆に学歴を重視しない側の価値観を言うほとんどの人たちは、高学歴に対抗できるだけの、何か自分の強みを持っています。それは仕事の成果や実績、経験、人脈、体力、資本力、その他いろいろで、そのおかげで今の自分の地位や立場があると思っています。

たぶん自分が高学歴とは言えない人の方が多いはずで、もしここで「世の中は学歴だ」などと言う意見を認めることは、自分のやってきたことを否定することになってしまうので、やはりそれは認められないということなのだと思います。ちなみに私も高学歴ではないので、どちらかというと、この価値観に近いです。

しかし、私はこのどちらの意見も真実だと思います。それは、どちらも自分なりに努力した経験や、成功体験という事実を語っているからです。意見の違いは、今の自分にとっての基盤として、大きいのは何かというそれぞれの人生経験の違いなのだと思います。
その中で学歴というのは、ある時期を過ぎた後から挽回することが難しいので、それを強みとして言われることに対しては、反感を買いやすいのだと思います。きっと家柄や資産などでも同じようなことがあるでしょう。

どんな人でもそうですが、自分が苦労して目標達成した経験、成功体験は、なかなか否定できるものではありません。
いろいろなビジネス書には、“環境変化に合わせて発想を転換していくために、過去の成功体験を否定することが必要だ”などと書かれていますが、そう簡単にできることではありません。

ネットで炎上したという、この学歴うんぬんの論争も、結局はそれが根底にあるからなのだと思います。自分の成功体験を否定するということは、人間として簡単には越えられない壁なのかもしれません。


2015年5月13日水曜日

「サイレントお祈り」をする会社は、強制を疑問に思わない


就職活動をしている中での話ですが、不採用通知の文末には、必ず「・・・をお祈りいたします」とあるために、それを指して“お祈りメール”などといわれます。

さらに「サイレントお祈り」と言われるものがあり、それは「合格だったら連絡します」というものだそうで、不採用通知すら送られてこない無言の仕打ちであるために、“サイレント”なのだそうです。

 これをやるのは、人事担当の勝手な都合だけであり、いちいち連絡する手間を省きたいか、辞退者に備えてとりあえず手元の候補者をキープしておきたいかのどちらかです。

応募している人にとっては、自分が合格のなのか不合格なのかを、期待と不安で待ち続け、しかもそれをいつまで待てばよいのかもわからない訳ですから、就職活動をしている人にとって、一番腹立たしい行為だろうと思います。

 これをされたせいで、その会社の製品は絶対買わなくなったり、店舗を利用しなくなったり、テレビCMが流れればチャンネルも変えてしまうなどと言うほど恨みをかうこともあるようですが、そう思ってしまう気持ちはわかる気がします。

私が企業の採用活動をお手伝いする中でも、この「サイレントお祈り」のようなことを、全く問題とは思っていなかったり、無頓着であったりという会社は、確かに存在します。
私からは、この手の行為が会社の評判を落とすことになるので、絶対にやらないように指導しますが、それでもあまり納得をしない会社があります。

そういう会社の様子を観察していると、採用活動に限らず、すべてのことにおいて、一方的な強制がまかり通っている感じがします。通達や業務命令という書面がやたらと多かったり、何か仕事上の行動にあたっても、相手の事情を聞いたりはしません。取引業者に無理な値引きを求めたり、こちらの都合だけで、一方的な取り引き条件を突き付けたりします。

社内では、権威だけを駆使したマネジメントをしようとするので、良いリーダーは育たず、社外からは、何かと付き合いづらい面倒な会社とみられます。「サイレントお祈り」の思想に通じるような行動が、会社のあちこちで行われていて、まさに一事が万事だと思います。
 
就職活動の中で出会う社員は一部の人だから、それが会社全体を示している訳ではないという人がいます。確かにみんながみんな威張っていたり、自分勝手だったりということはないでしょう。
その一方で、やはりその会社が持つ一体的な傾向は、確実にあります。「サイレントお祈り」をするような会社は、それを許容するような雰囲気、風土をどこかに持っています。逆にそういうことは絶対に許さないという風土の会社もあります。それが企業風土、社風ということです。

もしも私が就職活動をしていて、「サイレントお祈り」をする会社に出会ったとしたら、どんなに評判が良い会社だったとしても、私は絶対に入社しないだろうと思います。
相手へのリスペクトがない会社には、私はあまり将来性を感じません。


2015年5月11日月曜日

「仕事を任せてもらえない」には理由がある


ある会社で、
「上司が仕事を任せてくれない」
「自分に判断させてくれない」
「権限委譲してくれない」
という社員からの話を聞きました。だから目標達成ができないのだと言います。

この社員の上司にこの話をしてみると、ちょっと渋い顔をしておっしゃるには、
「指示したことはやらないで、違うことばかりやるんですよね・・・」
「だから信用できずに、任せたい仕事も任せられない」
とのことです。

最近は、自分のスキルアップに対する意識の高い人が増え、早くいろいろなことを経験したい、いろいろな仕事をやらせてほしいという話を良く聞きます。
自分のキャリアを自分なりにきちんと考えるのは大事なことですが、その一方で、下積み的な仕事を嫌がったり、どう見ても能力不足なのに背伸びをしたり、それを認めないと不満を持ったりする人も増えたように思います。

この会社の件で言えば、私は日々の仕事ぶりを常に観察している訳ではありませんので、上司が慎重すぎて部下を過小評価したりしているのか、はたまた部下の仕事ぶりの方に問題があるのか、実態がどんな状況なのかを客観的に見ることはできません。

ただ、それでも言えることは、部下にその仕事を任せるかどうかを決めるのは上司であり、上司が「任せられない」と判断するには、それなりの理由があるということです。
そして、その理由を一言でいってしまえば、その部下が“上司の望んでいる実績を残していない”、“上司のニーズにこたえていない”ということです。

もしも、これが顧客との取り引きの上での話だったとしたら、顧客が自社に仕事を発注して(任せて)くれなかったからと言って、その顧客に不満をいうことはほとんどないと思います。たぶん、自分たちが顧客のニーズに応えられなかったということを反省し、できることを改善し、新たな提案をして受注につなげる努力をすると思います。

しかし、この相手が上司になると、途端に捉え方が変わってしまい、あたかも「自分に仕事を任せない上司が間違っている」というような話になってしまいます。相手のニーズに応えていないということでは同じであるにもかかわらずです。

これは、上司と自分との関係性を、少し勘違いしているということではないかと思います。
上司は自分の両親のように、無償の愛を注いでくれる存在ではありません。相応のメリットを提供しないと、自分への見返りは得られない存在です。

仕事を効率的に進めることを考えると、作業的な判断はできるだけ現場に近い人が判断できるように、権限委譲するのは必要なことです。この前提があった上で、「任せてほしい」という部下に対して、上司が「任せられない」というには、それなりの理由があります。上司の側に問題があることももちろんあるでしょうが、それでも上司は上司です。

上司に媚びたりゴマすりをする必要はありませんが、上司のニーズが何なのかを考え、それに応える行動をすることは、自分のやりたい仕事にたどり着くために必要なことであると思います。

「仕事を任せてもらえない」ということには、必ず理由があるはずです。


2015年5月8日金曜日

自分の「上げ底」がどのくらいかを、自分でわかっているか?


たまたま見ていたテレビ番組で、無人島で自給自足生活をしているタレントさんのことを取り上げていました。

そのタレントさんが、自給自足生活を始めようと考えたきっかけを問われた時に、「芸能生活を長く続けていると、自分の実力以上の“上げ底”で生活をしていることにだんだん気づいてくる」「上げ底の生活ではなく、自分で作れないものは無しにする、自分で作る生活をしようと思った」と答えていました。

私は、自給自足生活にはそれほど興味はありませんでしたが、この「上げ底」という言葉に反応してしまいました。私自身、自分の実力として自覚していることが、上げ底なのかそれとも過小なのか、本当に自分の実力相応がわかっているのだろうかと、考えることが多かったからです。

こういう話でよく言われるのは、有名企業の重役が会社を退職したり、肩書が変わったりした途端に、周りから人が離れていったというようなことがあります。
私自身も、在籍していた会社での部長職から、会社を辞めて独立した時は、それほど極端ではありませんでしたが、周囲にいる人の態度が変わったと感じることが何度かありました。

当然なことではありますが、会社にいれば、肩書や公の立場に基づいての付き合いと、個人的な関係としての付き合いがあります。
今付き合っている関係が仕事上の関係なのか、それを越えた個人的な関係なのかは、自分なりに区別していたつもりですが、個人的な信頼関係を作ることができていると思っていた相手でも、結局疎遠になってしまうような人が、自分が思っていたよりは大勢いました。

私の人格を認めていない訳ではなかったでしょうが、あくまでその会社の人事部長として付き合っていたということで、こちらが思っているほど、自分の実力で付き合ってもらっていたわけではないということです。自分は謙虚に思っていたつもりでも、結局は過大評価だったということで、「自分の実力はこの程度なんだ」と、自らの上げ底度合いにがっかりした記憶があります。

私の場合は、自分の会社がそれほど有名企業という訳ではなかったので、そこまで極端な上げ底にはなっていませんでしたが、もしも会社ブランドがもっと強かったとしたら、さらに自分の上げ底度合を見誤っていただろうと思います。

組織の中にいて、その中で年次を重ね、立場が上になって行けば行くほど、周りの人から担がれている上げ底の部分と、自分の本当の実力部分との間の区別がつけづらくなっていくように思います。

私の周りには、同じように独立して仕事をしている人がたくさんいますが、特に起業したての人には、前職の会社ブランドによる自分の上げ底度合いがわかっておらず、実力を勘違いしているように思えてしまう人がいます。

私も自力で仕事をするようになってからしばらく時間が経ち、“上げ底”はほぼなくなったと思いますが、それでも自分の実力をきちんと把握できているかといえば、まだまだ足りないと感じることもあります。

自分の実力を客観視すること、特に「上げ底」になっている過大評価の部分は、自覚する努力が必要だと思います。


2015年5月6日水曜日

異動や業務の希望を聞くことに伴う責任


社員の配置や異動は、会社の権限で行うことが原則ですが、社員のやる気を促したり、会社に対する満足感を高める一環として、本人の異動希望にこたえる制度を設けている会社があります。

ローテーション制度フリーエージェント制度などの呼び名がついているもの、自己申告制度の一部として話を聞いているもの、その他いろいろあります。中には、本人希望の実現性を高めるために、直属上司の関与を制限したり、一定年数の間に希望を実現しなければならないという縛りを設けたりというものもあります。

本人が希望する部署、希望する仕事に就くことで、やる気を増して活性化するという効果は確かにあると思いますので、制度の主旨としては理解できます。

ただ、私自身はこんな経験をしたことがあります。
特にローテーションを義務付けるような制度が導入されている会社ではありませんでしたが、自己申告や評価面談の機会には、本人のキャリアに関する話はすることになっていて、その人がどんな仕事にかかわりたいと思っているのかという情報収集は行われていました。

そんなある日、まったく違う部署のある社員から、相談したいことがあるという連絡をもらいました。
そこでの相談というのは、人事部門への異動希望という話でした。
その社員が言うには、「自分が就職活動で苦労した経験を、就活中の学生たちにアドバイスしたいので、新卒採用にかかわりたい」「だから人事部門に異動したい」とのことです。

実務として新卒採用にかかわっている中で、その応募者との面接などの場面では、確かに流れによっては就活のアドバイスめいた話をすることがあります。自社の活動とは関係ない話になってしまうことも正直あります。ただ、それは“本業”ではありません。

さらに言えば、人事部門の仕事は新卒採用だけではありません。職務範囲は会社によって違いますが、中途採用、研修運営、人事制度関連、労務対応、安全衛生、その他いろいろあります。会社のよっては給与計算や社会保険手続きを担当するところもあります。相談してきた本人が、やりたいという仕事は確かに存在しますが、それは本当にごく一部で、優先順位も高くない小さなことです。

この時には、「あなたのやりたい仕事は確かに存在するが、あったとしてもごく一部である」ということ。「まず直属の上司とよく話し合わなければ、この話で人事部門が勝手に動くことはできない」ということを話しましたが、本人はたぶん納得できていなかったように思います。
 
自分の部下や他の社員に異動希望を聞いたとき、実現できるか否かは別にして、「当分は今の部署で経験を積みたい」「○○部で××プロジェクトの仕事がしたい」「△△職から××職に変わりたい」など、ほとんどの場合はそれなりに妥当な答えが返ってきます。

ただ、私が経験した例は、“本人が異動希望する先の仕事内容を理解できていない”ということなのだと思います。そして、このような妥当性に欠ける異動希望であっても、希望を言わせていながらそれを受け入れないということは、本人にとっては不満しか残らないでしょう。不満を残さないためには、受け入れられない理由を本人に理解、納得させるしかありません。

このように、異動を希望させるような制度は、仕組みを作るだけではなかなか機能せず、場合によっては逆効果となる場合があります。そうならないためには、結局はお互いのコミュニケーションを通じて意思疎通をしていくしかありません。

この手の制度を活用して、実際に社内の活性化に成功した会社もあります。
そのために必要なこととして、少なくとも“希望を聞く”ということは、その希望に対する説明責任と、実現可能性を担保する責任があるということは、心得ておくべきだと思います。


2015年5月4日月曜日

「評価制度」がやる気を失わせて業績を下げているという話


会社がある一定規模を超えると、“評価制度の導入”というテーマが必ず出てきます。
業務状況や成果などの評価を行って、その結果を給与ほか他の処遇に反映すること、優秀な人材の確保、モチベーション向上、人材育成などにつなげようという意図であることがほとんどです。

「評価制度」に限らず、社内で運用されるさまざまな制度には、当然メリットもデメリットもあります。その運用を進める中でメリットを大きくし、デメリットを少なくするような改訂、見直しを行っていきます。

その中には、制度そのものの廃止という処置に至るものもありますが、こと「評価制度」の場合、これを廃止したという話は、少なくとも私の身近では聞いたことがありません。
社員のやる気を向上するためには、社員一人ひとりを評価することが絶対に必要で、そのために評価制度は不可欠であると考えている企業がほとんどということだと思います。

ただ数年前から、この「評価制度」が、実は社員のやる気を失わせ、業績を下げる原因になっているということが、一部で言われるようになってきています。

少し前には、アメリカのマイクロソフト社が、“スタックランキング制度”と呼ばれる、社員を5段階で正規分布にランク付けする評価制度を止め、チームワークを重視した制度に変えたということがありました。

一定数の社員に、必ず「成績不振」という最低評価を指定しなければならないものでしたが、これは社員のやる気を引き出すことにはつながらず、さらに一部で、部下からの評価を得たい上司による甘い評価やみんな同じの一律評価、気に入った部下へのえこひいきなどがあったそうです。

評価制度そのものを止めた訳ではありませんが、社員個人の成績評価を止めたということでは、多くの会社で一般的に行われている評価制度の基本的な部分を変えたということで、かなり思い切った方法だと思います。

私も、評価制度に関してご相談いただく機会は多く、そのほとんどは「公正な評価とそれに見合った処遇ができる制度」と言われます。ただ、ここで言っている“公正な評価”も“見合った処遇”も、あくまで会社の都合から見たものです。私が考える“企業の評価制度”での最大の問題は、「社員たちが公平にきちんと評価されていると思っていない」ということです。

もしも、社員の給与が職務給や役割給のように、この仕事はいくらと給与額が決まっていたとすれば、評価制度の意義は、モチベーション向上や人材育成に限られてきます。

それぞれの社員が持っている仕事上のテーマや役割、できたことやできなかったことに対するフィードバックをし、それを次のテーマにつなぐことが重要になりますが、これは面談制度ほかのコミュニケーション施策なので、その人の取り組みテーマにかかわりが薄い、一律の項目に基づいて評価することにはあまり意味がありません。そうなれば、評価制度は、別になくても良いという発想にもつながります。

「評価制度」が社員のやる気やモチベーション向上につながるのは、良い評価が下される、その内容が的確であるなど、評価結果に本人も納得して前向きにとらえた場合に限られます。悪い評価は一時的に反骨心を生むことはあっても長続きしませんし、大半の人がもらう“平均的”な評価では、あまりやる気にはつながりません。

「評価制度」を精緻に運用した結果、負担が増して制度が形骸化してしまうような会社が散見されます。
評価制度を止めるまでは行かなくても、根本的に発想を変えた取り組みも必要なように思います。


2015年5月1日金曜日

「仕事ができない上司」を支えようとする部下に、会社は甘えてはいけない


あるアンケート調査で、20~30代の会社員の男女各100人に、「上司」に対するスタンスについて聞いたところ、「優しいけど仕事のできない上司」「冷たいけど仕事のできる上司」のどちらのタイプがよいかという質問では、68%の人が「冷たいけど仕事のできる上司」の方がいいと答えたそうです。

しかし、「優しいけど仕事のできない上司の部下になってしまった場合、どんな接し方をするか?」という問いには、「なんとかして上司を支える」と答えたのが74%。「なんとかして上司を追い落とす」という答えが26%で、部下の4人に3人は「支える」と答えたとのことでした。
なんだかんだ言ってもやさしい部下が多いというコメントがされていましたが、ここには意外に大きな問題をはらんでいると思います。

これを組織上の課題としてみれば、「仕事ができない上司」は、組織上の責任や権限を持つ者の能力が足りないということなので、仕事上の悪影響は、“できない部下”よりも圧倒的に大きいはずです。本来であれば、一刻も早くその職責から外して、他のより良い人材に任せるべきですが、実際にそうなることは、特に一般的な日本企業では多くありません。

“代わりになる人材がいない”、“解雇できないから、だましだましでも使わなければならない”など、理由はいろいろありますが、私が見ている中で思うのは、実は会社側が、その上司にそれほど問題があるという状況を、把握できていないことがかなり多いということです。

その最も大きな理由は、その上司の無能さを部下たちがフォローしているおかげで、上司自身に由来する問題が、あまり露骨に発覚しないで済んでしまっているということがあります。現場からの不満の声があまりなく、部門の業績数字がそこそこであったりすれば、まさにこの状況になります。

組織でお互いをカバーし合っているということでは望ましい姿ですが、出ている結果は平均的だとしても、上司のマイナスを部下がカバーして、何とか持ち直したのかもしれませんし、本当はもっと伸ばせる余地があったのかもしれません。結果の中身をよく見なければ、どんな状況から得られたものなのかがわかりません。

「仕事ができない上司」をフォローしようと考える部下が多いことは、組織を構成するメンバーの関係性としては良いことだと思います。私自身も、顧客先の一般社員に向けて、フォロワーシップやアサーションなど、前向きに上司をフォローするような考え方の研修をします。

ただ、この部下たちのフォローに甘えていると、「仕事のできない上司」が、実際にはどんな状況で何ができていないのか、どんな悪影響が出ているのかといったことが、周りからは見えなくなってしまいます。

上司を管理する上席者は、現場の細かな状況には介在しないでしょうし、その「仕事ができない上司」からの報告と、結果として見える数字で状況把握をしていることが多いでしょう。でも、これだけで本当の状況はわかりません。

上司の無能さを部下の立場から発言することも、これを上司批判、他責、後ろ向きな態度などと評価される恐れがあるので、簡単に言い出せるものではありません。

「仕事ができない上司」を、部下たちが前向きにとらえてフォローしようとすればするほど、本質的な問題は潜在化していきます。そうならないためには、その「仕事ができない上司」の仕事ぶりを、さらに上の立場の者がきちんと把握している必要があります。
会社として、その上司の状況をある程度把握していて、会社側から状況確認を働きかけることができなければ、具体的な情報は上がってきません。

 ダメな上司を支えようとする部下に甘えていると、組織の問題がどんどん見えなくなってしまうと思います。