2017年7月31日月曜日

「自社への専念」「社員でなければ」のこだわりにメリットはあるのか



ある社会人大学院の教授の方からうかがったことですが、受講している社会人学生のうち、勤務先の会社からの派遣や、会社に受講していることを知らせている人は実は意外に少なく、7割くらいが会社には内緒で受講しているのだそうです。

こういう勉強は広い意味での社会人能力向上にあたると思いますが、これを会社に伝えても「否定まではされないがいい顔をされない」「そんな余裕があるならもっと仕事をしろと言われる」「いろいろ説明を求められるのが面倒」など、会社からは自社に直接的な見返りがないことに社員が取り組んでいるのを、快く思わない反応が多いようです。
副業やパラレルワークを認める会社が増えてきてはいるものの、未だに多く会社では、社員の活動で特に仕事にかかわることは、自社だけのことに閉じ込めておきたいと考えているようです。

これは、私たちのような社外専門家に対する姿勢でも、似たようなことがあります。活用される場面が多かったり、活用の仕方もとても上手かったりする企業がある一方、そういうことが上手くない、もしくはあまり好まない企業があります。
社外人材やフリーランスの活用が言われている昨今ですが、今のところは後者の企業の比率が多いと思います。

そういう会社では、よく「社員でなければ任せられない」「社員でなければ信用できない」といわれます。一見すれば正論のようですが、では逆に「社員だから任せられる」「社員だから信用できる」がすべてにおいて当てはまるかといえば、決してそうではありません。

例えば最近よく聞く「企業の不正会計」では、一部の役員や社員が自社内の閉じた環境の中で問題を起こしており、どちらかといえば社外など第三者のチェックが働かなかったことの方が問題でした。
内製の仕事の質が常に高いかといえばそうとは言い切れず、ノウハウ不足や人員不足でかえってうまくいかないことがあります。また、仮に内製の仕事よりも社外発注の方に問題発生が多いのだとしても、発注先業者に何かあったらそれは相手先だけの問題ではなく、発注元のマネジメントにも必ず問題はあります。社員同士の内輪の方が、何かあった時に言いやすい程度の気分の問題です。

さらに「社員でなければ・・・」とこだわる企業は、よく「いつもいてくれないと困る」といいます。いつ何が起こるかわからないし、常に身近にいてくれないと何かと困るし不便だということですが、それは結局、誰が何をどこまでやるのかという「仕事の切り分け」ができていない、また、やるべきこととそうでないことの「仕事の割り切り」ができていないということです。あいまいな仕事環境による非効率が必ずあります。
このように、社員だからよくて社外だからダメだと一概には言えません。

自社の仕事に専念しないことを快く思わない傾向はなかなか変わりませんが、本当に専業でなければ自社の仕事の生産性が落ちるのか、秘密保持や競業を避けるために必要なことなのか、私はどうもほとんどが嫉妬に近い感情的なもので、そこに縛りをかけることにそれほど意味があるとは思えません。
生産性の話で言えば、それは副業でなくても、趣味の活動でも資産運用でもプライベートな問題でも、何かしらかかわる可能性はありますし、本業に差し障るほど副業が成功したのであれば、その人にはそれほどの経営センスがあったとも言えます。
機密や競業の問題も、専業であろうと兼業であろうと企む人は企むし、そうでない人は仕事のしかたに関わらずそんなことは考えません。そもそもこれだけ転職が一般化した中では、そちらの方がよほど問題になる可能性があるでしょう。

「自社のことだけ」と社員を囲い込む会社にあるのは、終身雇用の感覚で固まっていることによる感情的なことしかなく、「社員であること」へのこだわりは、仕事上の時間の浪費や非効率につながっていることがあります。そこにメリットと言えるものはありません。

企業と社員の関係は、かつてのような絶対服従の村社会ではもう通用しません。業種を問わない「水平連携」や社内外にとらわれない「オープンリソース」をどんどん進めていかなければ生き残れない時代です。
これから先は、社員との間にオープンな関係を作り出せる会社でなければ、厳しい環境に陥っていくだろうと思います。


2017年7月28日金曜日

「常識」は主観で、具体的に言わなければ伝わらない



ここ最近、SNSや動画サイトへのあまり愉快とは思えない投稿をよく目にします。過剰に攻撃的であったり、一方的なクレームであったりと感じてしまうことも多く、ついつい「どうしてこんな常識からはずれたことをするのか」と思ってしまいます。

常識ということで言えば、つい最近もある会社の役員から、「社員の行動が非常識」という話がありました。「なぜこんな常識的なことがわからないのだろうか」とおっしゃいます。
指摘していることは、挨拶であったり、言葉遣いであったり、ちょっとした日常行動の中でのことで、要は「気が利く、利かない」といったところに近いものです。「こんな当たり前のことなのに」「普通なら気がつくでしょう」とおっしゃいます。

この「常識」「基本」「普通は」「当たり前」といった言葉は、何かのたびによく使われる言葉ですが、はっきり言って具体的な基準は何もありません。
例えば「年長者を敬うのは当たり前」といっても、中には敬うほどの価値がない、尊敬できない年長者もいます。その他、可愛い子供ばかりではないですし、強い男性、か弱い女性ばかりではありません。

先日あるテレビ番組で、遅くなった夕食を簡単に済ませようということで、ご主人に食べたいものを聞いたら、「ではトンカツ」と言われ、簡単にと言っているのに揚げ物としろというそのチョイスが許せないという怒りの話がありました。確かに私も簡単とは思えませんが、それが非常識かどうかは、その人の感じ方次第です。

最近はずいぶん少なくなりましたが、この「常識」「基本」「普通は」「当たり前」という言葉を、会社でのマネジメントの場面で振りかざす人がいます。マネージャーである自分の指示通り、思い通りに物事が運ばないときに、そういう言葉を使って部下の行動にダメ出しをします。しかし、これらはあくまでマネージャーの主観に基づく言葉なので、特に世代の差が大きくなればなるほど、捉え方が違います。

最近あった有名な話では、「電話」に関するものがあります。
若い世代ほど、「電話は一方的に相手の時間を奪う失礼なもの」という感覚があり、この“常識”でいけば、“電話での謝罪”などはもってのほかということになりますが、もっと上の世代では「まずは電話でもよいから一刻も早く直接謝罪するのが常識」といいます。
現状ではたぶん後者が多数派でしょうが、では「電話が失礼」という考え方が非常識なのかといえば、そこまではっきり言い切れるかは疑問です。私自身もどちらかというと電話は面倒だと思う方なので、よほどの必要がなければメールや他の通信手段で済ませますし、私の周りにもそういう人は意外に多いです。

「常識」「基本」「普通は」「当たり前」などという言葉が出てくるときは、だいたいが相手の行動、態度を責めているときです。これが日常生活の中ならば、その場で終わらせて放置しても良いでしょうが、会社の中での上司部下の関係やマネジメントの場面であれば、そういう訳にはいきません。しかし、「常識」というような言葉で相手を責めても、結局は何も解決はしません。

指示命令が自分の思った通りに伝わらないのであれば、それが仕事を進めるために必要ならば、相手が理解できるように、こと細かに言うしかありません。一度でわからなければ、何度も言うしかありません。
「常識」「基本」「普通は」「当たり前」をむやみに使うことは、相手に対する責め言葉にしかなりません。自分だけを一方的に肯定する言い訳であり、相手を責めて解決することはほとんどありません。

誰かが「常識」や「当たり前」ということを言い出した時は、注意が必要です。

2017年7月26日水曜日

本当に優秀な部下がいたら、あなたはどこまで認められるか



いろいろな会社の経営者や役員の方々と話していて、最近よく聞く話に「経営者マインドを持った人材がいない」というものがあります。言葉の通り、広い視野で仕事全体を回すことができ、結果を出せる人ということで、そういう人がぜひ欲しいけれども、なかなか出会うことがないと言っています。

自律人材、自発人材、積極人材ということも言われますが、たぶん言いたいのは同じようなことで、自分で考えて自分で行動できる人材、要は「放っておいても自分で何とかできる人」ということでしょう。単にスキルや知識があるということだけでなく、それを発揮する行動が伴っているということで、それを兼ね備えた人が“優秀な人材”ということになるのだと思います。

こんな人材はめったにいないというのは間違いないことですが、もし仮にこんな優秀な経営人材が会社に入ってきたとして、その人の力を100%活かせるのかといえば、これもまた難しい問題です。
ある社長にこの質問をしたところ、しばらく考えてから「努力はするけど難しいかもしれないね」とおっしゃっていました。その理由は「私(社長)も含めて、人間は自分よりも優秀な人を、本音ではなかなか認められないから」ということでした。私も正直そう思います。実際に活かせるかどうかには、やはり会社の器、もっと身近な上司の器が大きく影響してきます。

例えば経営人材、自律人材、自発人材、積極人材などといった人材像のキーワードが挙げられていますが、これには前提があります。それは、“会社や上司が認めた範囲の中で”、経営を考え、自律的、積極的に動けということです。もし仮に会社のやり方や上司の判断が良くなかったとしても、その枠からはみ出して行動することはできません。「自律」といいながら自分では決められず、「自発」と言いながら自分の判断だけでは行動できないということが起こってきます。

また、これはお互いのレベルはともかくとして、自分よりも能力が劣っている人が上司になると、部下の立場としては大変なストレスになります。上司がその能力差を認めてくれて、権限移譲を大きく進めてくれればまだよいですが、そうなることは非常に稀です。やはり上司は、自分の上司としての立場を守りたいと思うものです。

優秀な人材であればあるほど、能力不足の上司や器が整っていない会社のせいで、自分の考えややりたいことが制限されたとしたら、たぶんその会社には早々に見切りをつけてしまうでしょう。
つまり、優秀な人材が、もし本当にその人が会社に入ってきたとしても、会社全体にそれ活かそうという心構えがなければ、良い効果を生むことはできないということです。

米IT企業のグーグルでは、採用基準の一つに「自分より優秀で博識な人材を採用せよ」というものがあるそうです。ここには人材レベルが停滞していては、企業としての成長が望めないという認識が込められています。自分以上のレベルの人材に、自分以上の働きをしてもらわなければならないということですが、この実現のためには、上司が自分より優秀な部下を、認めることができるかどうかにかかっています。

これは、多くの場合で簡単にはいきません。社長を先頭に、自分よりも経営センスがある人がいたとしても、なかなかそれは認められないでしょうし、結果としてそういう人材が活躍できる前につぶしてしまっていることもあるでしょう。ただ、それは人材レベルの停滞もしくは衰退であり、企業としての成長は望めません。

成長過程にある伸び盛りの会社では、一般的に後から入社してくる人の方が優秀なことが多いです。会社が成長すれば、それに合わせて入社を希望する人のレベルも上がっていくからです。
こういう人材を活躍させるには、会社がそのための環境を作らなければなりませんし、特に上司が優秀な部下をどこまで認められるかということにかかっています。

本心からそれができる上司のいる会社は強いと思います。


2017年7月24日月曜日

「生産性を上げる」ではなく「生産性を下げる仕事をやめる」


ある人材育成支援会社が、若手正社員を対象に労働時間の実態を調査したところ、働き方の自由度が高く、時間ではなく成果で評価される人であっても、実際には長時間働かなければ成果を上げられないという実態が浮き彫りになったという新聞記事がありました。

調査結果によると、1カ月の平均労働時間が200時間を超えたのは、女性の18・5%に対して男性では42・4%と、男性の長時間労働が目立ち、その人たちの7割は、労働時間を「もっと短い方が望ましい」と考えながら、実際には長時間労働に縛られているということです。

その理由は「仕事量が多い」が72・2%、「突発的な予定や、相手の都合に左右される」が55・7%、「締切や納期にゆとりがない」が43・5%などとなっており、特に仕事量を適切に管理して削減しなければ、労働時間削減にはつながらないとされています。



最近導入に向けた議論が進む「時間でなく成果に応じて賃金を支払う労働制」である「高度プロフェッショナル制度」は、うまく活用すれば長時間労働の是正につながると言っていますが、この調査結果によれば、労働時間を短くすることはできないということになります。



私も最近の働く現場を見ていて、残業削減に関しての取り組みを強めている会社が非常に多くなっていると感じます。ただ、そこで行われていることは、「残業を減らせ」「早く帰れ」という会社や上司からの働きかけが強まっただけで、仕事量を調整したり削減したりということは、ほとんど行われていません。

このあたりのことを現場の上司たちに聞くと、それなりに理解はしているものの、「求められる成果が変わらないので、簡単に仕事量は減らせない」という話がよく出てきます。会社からは「成果を上げて時間は減らす」の二兎を追えと言われ、何かそれを支援するインフラなどを、会社が用意してくれるわけでもありません。

そもそも「無駄な残業」という話は昔からありますが、これを経営者など組織で上位の人たちに聞くと、だいたいが「もっと効率よくやれば時間が減らせる」と言い、「無駄な時間に給料を払いたくない」と言います。ここで仕事量のことを聞くと、「少ないとは言わないが、もっと効率的にできるはずだ」と言われることが多いです。

ただ、今回の調査結果や現場の声では、実際に長時間労働をしている人の多くは「仕事量が多すぎる」と言っています。これでは議論がかみ合わないはずです。

私はどちらの言い分もうなずける点はあり、仮に作業環境が変わらなくても、効率化できる余地はもちろんありますが、その一方現場の人たちがそんなにサボっているとは思っていません。特に長時間労働の人が、「もっと労働時間を減らしたい」と思いながらも減らせないというのは、やはりそれなりにやるべき仕事があるということです。

ここで一番の問題は、その仕事の中に「無駄とまでは言わないが、やらなくてもそれほど影響がないもの」が含まれていることです。そしてそういう仕事の大半は、会社と上司が作り出しています。

部下からすれば、会社や上司からの指示に、「忙しい」「できない」もしくは「無駄」などといって拒否することは難しいでしょうし、会社や上司からすれば、個々の社員の仕事量を、会社の全体最適で見ることは難しく、自分が見える範囲で仕事が回っていれば、その中身はくわしく見ないことがほとんどでしょう。

こんな中で「生産性向上」「生産性を上げる」と言い出すと、何か新しい工夫をして、新しいことを始めなければならない感じがしてしまいますが、すでに忙しくて目いっぱいと思っている人たちに、新しいことを求めても、たぶん躊躇の方が大きいです。

これは結局同じことですが、「生産性を上げる」と言うよりは、「生産性を下げている仕事をやめる」と言った方が、私は取り組みがしやすいと思っています。

「やらなくてもそれほど影響がないもの」という前提で、会議を減らす、書類を減らす、報告を減らす、電話を減らす、メールを減らす、重複作業を減らす、ということを積み重ねると、状況はかなり変わってくるはずです。

日本の労働者の生産性が低いと言われますが、それは個人の要領の悪さだけでなく、会社や上司が「やらなくてもそれほど影響がない仕事」をやらせ過ぎているからです。

今のような残業規制の話だけでなく、そんな業務量の問題を解決しなければ、日本の「働き方改革」は進まなくなってしまうと思います。