2013年9月28日土曜日

「お荷物社員」に見る“協働”と“依存”と“責任”の関係


バブル期前後に入社した50代の社員が、「お荷物社員」と化していることが書かれた記事を読みました。
私自身は会社員ではありませんし、“お荷物になることイコール仕事が無くなること”なので、あまり当てはまらないと思いますが、自分の同世代にこういう状況の人たちがいることは、何とも寂しい気がします。

コンサルティングの仕事を通じていろいろな会社を見てきて、「高年齢であまり仕事をしない社員」は、残念ながらときどき見かけます。やる気がないのか、力尽きてしまったのか、もう上がりの気分なのかはわかりませんが、比較的業績が安定した中堅以上の企業に多いと感じます。

この人たちに共通しているのは、“協働”“依存”“責任”の関係を自分の都合でゆがめていることです。
どういうことかというと、「組織での“協働”の名のもとに、多くの部分を周囲に“依存”し、自分の“責任”を回避している」ということです。要は「自分の責任においては、できるだけ何もしない」ということです。

こんな「お荷物社員」が出てくる理由は、会社によっていろいろあるでしょう。そもそも“荷物を持つ人”がいなければ、「お荷物社員」は成り立たないはずですが、たぶん事はそんなに簡単ではなくて、荷物を無理やり持たされている人、それを拒絶できない人がたくさんいるから、こんなことが起こっているのだと思います。

これにちょっと似た構図として、自分ではあまり働かない社長がいます。ただ、その社長を指して、「お荷物××」と言うことはあまりありません。やっぱり経営者としてのリスクは取っている訳で、そういう意味では最終的な“責任”を回避できないことを周りがわかっているからだと思います。こう考えると、「お荷物」というのは、“協働”と“依存”と“責任”の関係が、三拍子そろって初めて起こってくることではないかと思います。

そうだとすれば、この“協働”と“依存”と“責任”の関係を崩せば、「お荷物社員」は出てこないということになります。
“協働”ではない業務分担
“依存”させない人間関係
“責任”から逃れられない立場 など。

もちろんこれも簡単ではないかもしれませんが、現場の裁量でも少しは対応できることではないかと思います。「お荷物社員」を嘆いているだけよりは、だいぶんマシではないでしょうか。

私のように独立した人間には、他に荷物を持ってくれる人がいないので、お荷物になりたくてもなれません。会社勤めの人が事業主と同じ感覚になることはできないと思いますが、自分の不作為が最終的に自分に直接降りかかってくるならば、「お荷物社員」なるものは出て来づらいはずです。

「“協働”ではない」「“依存”させない」「“責任”から逃れられない」のいずれの条件に持ち込めば、「お荷物社員」の数も少しは減るのではないかと思います。
繰り返しますが、「お荷物社員」を嘆いているだけよりは、だいぶんマシではないでしょうか。


2013年9月27日金曜日

「良い意味の公私混同」の話


「公私混同」という言葉が良い意味で使われることは、ほとんどないと思いますが、最近読んだある記事に書かれていた、「良い意味の公私混同」ということがとても印象に残りました。
その記事では、「“私”で実現したいと思っていることを、“公(仕事)”を通じて実現しようとする」ことを、「良い意味での公私混同」と表現していました。

一般的には、「公私混同」は良くないことで、それを避けるため、ワークライフバランスを保つため、その他さまざまな理由から、仕事とプライベートをはっきり分けるという考え方があると思いますが、「公私混同」が仕事に良い影響を与えることも、実はたくさんあるように思います。

スポーツ用品販売のアルペンの店舗では、週休三日制を導入していて、そのうち1日はスポーツにあてるのがルールで、実際に自分が取り組み事で得た知識を顧客に伝えることを大事にしているそうです。
飲食関係の人が休日を利用して食べ歩きしたりするのも、これと同じことでしょう。
これは究極かもしれませんが、自分が心から楽しいと感じることが仕事になっていれば、「これは仕事」だとか、「これはプライベート」だとかを論じる必要もなくなってしまうでしょう。

「良い意味の公私混同」から見ると、「やりたいことを実現するためのリソースの一つとして仕事がある」とも言えるし、「仕事で得た能力や経験、立場や人脈を、いかに活用して自分のやりたいことにつなげるかという考え方」とも言えます。

 経営者、事業者という立場の方々は、好むと好まざるとに関わらず、この「良い意味の公私混同」の中で仕事をしているので、苦労は多くても皆さんイキイキとしています。私自身も今はこの端くれですが、同じような感覚があります。

これは、自分が会社員時代に全くできていなかったことなので、よけいそう思うのかもしれませんが、組織に属していたとしても、自分の考え方一つでずいぶん変わるように思います。
もちろん、自分のやりたいことがあまりにも私利私欲に偏っていては問題ですが、こういう考え方をすることで、今まで持っていた仕事のやらされ感ややりがいのなさが、ずいぶん解消されていくように思います。

自分にとっての「良い意味の公私混同」をもう一度考えてみると、また少し違った世界が見えてくるのではないでしょうか。


2013年9月25日水曜日

大組織ゆえのエアポケット


私たちがお手伝いする企業で、その人数規模には結構な幅があります。少ないと社員数10名前後から、多いとだいたい1500名前後くらいまでの規模範囲が多くなっています。
一般的に見れば、規模の大きい企業の方が内部に専門人材がいて、社内の仕組みもしっかり作られていますが、もちろん企業によって、その程度にはかなりの差があります。

少し前にお話をうかがったことがある、世間ではそれなりの大手企業でも、「あれ・・・、その仕組みって無いんですか?」とか「えっ・・・、その程度の取り組みしかしていないんですか?」と思うことがいくつかありました。

これは決しておかしいことではなく、規模の大小にかかわらずどんな会社にも“エアポケット”があるということです。その時その時で社内の課題テーマとして気づき、それに取り組んでくることができたかどうかというだけで、人数が多い会社の方がそれに気づける人も取り組める人も多いですし、歴史が長い会社の方が、気づいて取り組めるだけの時間の積み重ねがありますから、組織内の“エアポケット”ができにくいだけの話です。

ただそうは言っても、あまりにも自社内のことしか知らないとか、取り組むべきテーマを理解している専門人材が社内にあまりにもいないとか、そんな状況は間違いなくあります。
これは私の印象ですが、大組織になればなるほど、一度できてしまった“エアポケット”が埋まりにくいように感じます。周りではそんなことは当然できていると思い込んでいる、当事者も今が当たり前だと思っていて問題意識がない、そんな状況は大組織の方が起こりやすいのではないかと思います。

例えば、「漢字の読み方を間違って覚えていて、自分の子供の教科書を見て、初めて間違いに気がついた」なんていうことと同じ感じです。初歩的過ぎて周りから指摘を受けることもない、自分でも疑う余地なく思い込んでいる、というような状況でしょう。

こんなことを防ぐには、幅広くいろんな人や情報に接することを、その組織に属する人の多くが、意識的に取り組んでいくことしかありません。内向きの意識だけではいつの間にか時代遅れになっていたり、大事なことが手つかずになっていたり、課題が“エアポケット”のように置き去りになっていたりします。

実はこのあたり、自社の技術や事業といった部分に関しては、こういう意識を強く持って取り組んでいることがほとんどのはずです。しかし内部の組織作りに関してとなると、あまり意識を持っておらず意外に置き去りになっていたりするものです。行動としてはすでに身に付いていることですから、ちょっと視野を広げるだけ、ちょっと意識を持つだけでできるようになるはずです。

「自分たちの現状を疑い、周りの状況をよく見ること」は、どんな場面でも大事なことだと思います。


2013年9月24日火曜日

上司の方から聞けば提案はもっと出てくる


「うちの部下は自分から提案してこない」
「会議で積極的に発言する部下がほとんどいない」

こんな話を経営者や管理者の方々からたくさんうかがいます。確かにそう言いたくなる気持ちはよくわかります。
「俺たちの頃はもっといろいろ上司に言っていた!」などとおっしゃいます。実際にどうだったのかは判断のしようがないのでわかりませんが、そう感じるところは確かにあるのでしょう。

ただ、私が思うのは、これもある意味「受け身」「他責」ではないかということです。相手(部下)の行動を受け身で待っているだけで、思った通りにならないことを非難しているだけです。

ある中堅企業の社長さんの話ですが、この方はいつも社長室の扉を開けていて、「何かあったらいつでも来なさい」とおっしゃっています。常にウエルカムなスタンスで、話もきちんと聴いてくれる方です。
でもそんな社長室に部下たちがいろいろ話をしに行くかといえば、そんなことはありません。部下からすればやっぱりどこか敷居が高いし、相手が社長となれば気軽に何でも話す関係ではないからです。

それでこの社長さん、社長室を出て今度は自分の方から社内を回りながら、いろいろ話を聞くようにし始めました。はじめは「最近どう?」なんていう世間話程度だったようですが、これを続けているうちに少しずつ部下の方から「実は最近あったことで・・・」なんていう話が出てくるようになったそうです。

経営者や管理職の方はよく「何かあったら言ってきなさい」などと言いますが、部下からすれば“何か”がどの程度なのかの判断は難しいし、気安く何でも話せる関係ならばまだしも、そうでなければ上の立場の人に話をしに行くのはそれなりのハードルがあります。
 「皆さん質問がありますか?」と聞くと何も出てこないが、直接名指しで「質問がありませんか?」と聞くと、何かしら質問が出てくる様子と似ているかもしれません。

もしも“提案がない”、“発言が少ない”、“報告が足りない”、“コミュニケーションが少ない”などという課題を感じているなら、上司の方からもっともっと働きかければ、もっともっといろいろなことが引き出せるのではないかと思います。


2013年9月21日土曜日

自分でやらないと気が済まない人


何でも自分でやらないと気が済まない人っていますよね。

中小企業の社長さんなどに、こういうタイプの人は多いかもしれません。人を育てるためには任せていかなければダメとは思いながらも、任せるのが苦手、まだ任せられない、自分でやった方が早いなどといって、ついつい自分でやってしまいます。

こういう人は、“本当は相手にきちんと任せていかなければならない”という意識があるからまだ良いのですが、問題は、“本人は任せるタイプの人間と自己評価しているのに、実際は全然そうでない”という場合です。

どんなことかというと、任せているのが“手足を動かす部分だけ”で、考えることや判断することは、全部自分でやってしまっているようなことです。ちょっとした作業レベルのことでも、手順ややり方を事細かに指示したりします。

でもこれは、「任せている」のではなく「やらせている」だけです。

 実は私自身も、自分でやらないと気が済まないという傾向がありますが、企業に在籍して部下を持っていた頃は、どうしても自分にこだわりがあることだけを自分でやるようにして、それ以外のことはできるだけ任せるようにしていました。そして結果が自分の思う通りにならなくてもそれで良いと、ある意味あきらめるようにしていました。

自分がやらないことで仮に一時的にレベルダウンすることがあっても、相手に責任感を持たせた上で経験させなければ、絶対に人は育ちません。その責任感は、本人に考えさせ、本人に決めさせなければ生まれてきません。そうやって、本当の意味で“任せた”上での指導、アドバイスでなければ、本人は聞く耳を持てないし、身にも付きません。
やっぱり物事へのこだわりが多い人、強い人ほど、人に任せるということが苦手のように思います。

皆さんの部下指導は、本当に“任せて”いますか? 実は“やらせている”だけではないですか? 今一度振り返ってみてはいかがかと思います。


2013年9月20日金曜日

カフェのやり取りで見た「どっちもどっち?」


あるカフェにて。
店内はほぼ満席で、係の人が「お席は大丈夫ですか?」とレジに並んでいる人に声をかけています。
そんな中、ある男性と係の店員さんとのやり取りです。

係 :「お席のご準備は大丈夫ですか?」
男性:「・・・(無言)」
係 :「店内をご利用でしたら、お求めの前にお席をご確認下さい」
男性:「どうしろって言うの?」
係 :「一時的にお荷物など置いて、お席を確保して頂ければ・・・」
男性:「荷物なんか置いて盗られたらどうするの!」
店 :「ただ、皆さまそのようになさっていますが・・・」
男性:「そんなことして荷物盗られたらどうするの!」
店 :「・・・失礼しました。ではそのままお並び下さい・・・・・。(ちょっと不満げ)」

私はこのやりとりを見ていて、初めは男性のことを「感じワルッ!」と思ったのですが、よくよく考えてみると「荷物盗られたらどうするんだ!」には確かに一理あります。海外のお店だったらきっと「荷物で場所取りを」なんていわないでしょう。

このやり取りで、何がまずかったのか考えてみました。
まず男性は、言葉が責め口調で確実に感じが悪かったと思います。言われたことに不満を示し、否定、拒絶するばかりでした。

次に係の店員さんですが、提案が一方的でなおかつ選択肢は一つだけ、受け入れるか拒絶するかのどちらかしかありませんでした。
後から冷静に考えれば、男性が素直にどこかの席を確保して、係の店員さんがそこに“リザーブ”の札でも立てておけば、それでよかっただけの話ではないかと思いました。

実は私、こんな光景どこかで見たような気がしていて、それは男性が“なかなか納得しない頑固な上司”、係の人が“提案はしてきても中身に思慮が足りない部下”というイメージでした。
こういう場合、上司の側は部下から「人の提案を否定するばかりで、自分で建設的なことは何一つ言わない」などと批判され、部下の側は上司から「考えが浅いし、選択肢は示せないし、とても認められる提案ではない」などと言われます。

でもこれはやっぱり「どっちもどっち」だと思います。上司は部下から良い提案を引き出すように指導すべきだし、部下は上司の信頼を得られるようにマメにコミュニケーションを取り、もっといろいろな指摘を受けられるように振る舞うべきです。人間関係の最後はやっぱり“お互い様”です。

カフェで見かけたこのやり取りも、お互いにちょっと工夫すれば、こんな気まずい感じにならずに済んだのだろうと思います。


2013年9月18日水曜日

若手社員のマニュアル主義


私もいくつかの企業で新人研修などの若手社員の研修をお手伝いします。最近よく言われることで、特に新入社員などの若手社員が、何でも決められたマニュアルに頼ってしまう「マニュアル主義」という話がありますが、実際の研修の中でも、こういう場面には結構遭遇します。

実際にいくつかの会社であったことですが、例えば新人研修でのビジネスメールの書き方の演習で、課題に応用できそうな文例を探したまでは良いのですが、その文例が想定している内容と、実際の課題での内容の違いをあまり考えずにそのまま使ってきたりします。

演習課題は「顧客打合せのスケジュール調整」の文面なのに、たぶん顧客に向けた御礼メールの文例を参考にしたのか、最後に「取り急ぎ御礼まで」なんて書いてきます。

このあたりを指摘すると、すぐに気づく人もいますが、中には「えっ・・・、だって文例にはこう書いてありましたけど・・・?」という様子、クエスチョンマークいっぱいの顔でキョトンとしている人もいます。「マニュアルに書いてある通りにやったのにダメなんですか?」という感じです。(もちろん、もう少し説明すれば、きちんと理解してくれますが。)

ここにどう対処していくかは、なかなか悩ましいところです。
 一つの方法としてあるのは、徹底的にマニュアルを整備するということです。パート雇用が多いサービス業などはこういうやり方を取りますが、最近はマニュアルに頼りすぎる弊害もあるようですし、他の業種だったり正社員だったりということであれば、何でもマニュアル化というのはたぶん現実的でないと思います。実際にどうするかといえば、結局は何かあればその都度指摘して、少しずつ覚えていってもらうしかないと思います。

「マニュアル主義」というと、初めは聞こえが悪い気もしますが、決まっていることをきちんと受け入れることができる素直さがあるともいえます。また、自分の中で一度ルーチン化することができれば、後は的確にできる、一度覚えれば忘れないという特性もあります。

初めは手がかかるし、ついつい「こんなことまで言わないとダメ・・・?」なんて思うこともあるでしょう。でも「マニュアル主義」の特性から見れば、初め軌道に乗せるところ、一度身につけるところまでの辛抱で、そこさえ乗り越えれば、少なくとも与えられた仕事はきちんとこなせるようになるはずです。

一言言いたくもなるでしょうが、「初めは誰でもそんなもの」と割り切って、根気よく指導してもらえればと思います。


2013年9月17日火曜日

エレベーターの中でつい観察してしまうこと


どこかに出かければ、一日一度くらいはエレベーターに乗る機会があると思います。オフィスビルのエレベーターに乗る時ではあまり感じなかったことですが、独立してからここ数年、地元の駅ビルなど、より多くの人が利用するエレベーターに頻繁に乗るようになってから感じていることです。

私は自分が入り口近くに乗った時は、最後まで「開」ボタンを押して他の人が降りるのを待つようにしています。そうすると会釈をしたり、「有難うございます」とお礼を言ってくれる方がいらっしゃいます。もちろん知らんふりの人は大勢います。

私と同じように、ボタンを押して最後まで待っていてくれる方もいらっしゃいます。私はお礼を言うようにしていますが、知らん顔の人も当然います。入口に立っても特に何もせず、一番先に降りてしまう人もいます。

何となく観察しているのですが、外見だけでは傾向がありません。大人か子供か、男か女か、若いか年寄りかなどはほとんど関係がありません。茶髪の高校生でも、優しそうお姉さんでも、スーツ姿の紳士も、作業着姿のちょっと強面の人も、やる人はやるし、やらない人はやりません。

私も観察していると言いながら、やっぱりどこかで先入観を持ってみてしまっています。「きっとこの人は知らんふりなんだろうな・・・」などと思っていたりして、それが当たったり見込み違いだったりしています。「人を見た目で判断してはいけないなぁ」と反省することも多いのですが、そんな中で気づいた事があります。それは、“気遣いの行動”があるかないかということには、その人の“心の余裕”の有無に違いがあるのではないかということです。

私が“心の余裕”をどこで感じているかといえば、単純に「周りを見ている視線があるかないか」ということです。聞いている音楽に夢中、手にしているスマホに夢中、急いでいる、他のことを考えている、その他余裕がないと思われるような人は、周囲に向ける視線がほとんどありません。それに対して何か行動する人は、エレベーターに乗る前から何となく周囲を見ています。待っている人にお年寄りが多いから自分が先に乗ってしまおうとか、入り口に立ったら無条件にボタン操作をするとか、たぶん何らかの状況判断をしているように思います。

最近電車内の化粧や飲食について、批判的な話を聞きますが、これはプライベート空間の捉え方が変わってきていて「周りに他人がいても見えていない」「知り合いがいなければ関係ない」と思っていることが一因という話を聞いたことがあります。私はエレベーターに関しても、実は根っこは同じようなことを感じます。

自分の行動を他人に左右されないということは、場面によってはすばらしいと思いますが、やっぱり日本というお国柄で、みんなとうまく過ごしていくためには、「周りを見る視線」も必要だと思います。

個人主義が行き過ぎると、自分自身が結局はイライラする世の中になってしまうような、そんな危惧を感じています。


2013年9月14日土曜日

多数決で議論を避けようとする若手社員


研修などで、あるテーマに沿って議論して、グループとしての総意を導いてもらうようなワークをすることがありますが、そんな中で特に若手社員に見受けられる光景として気になることがあります。それは、意見が対立するような議論をできるだけ避けようとすることです。

誰かが初めに言った意見にそのまま迎合して、他の人は自分の意見をほとんど言わずに終わったり、それぞれの人が意見はいうものの、それをすり合わせたり調整したりしようとせずに、多数決などで決めてしまおうとします。

多数決というのは議会などでの決議方法としてはあるものの、一般的な場面では少数意見の無視ですし、時間切れでどうしても決めなければならない時にやむを得ず使うものです。またビジネスの場面であれば、多数決で物事を決めることは、よほど議論が煮詰まってどうにも調整がつかないような状況にでもならない限りはめったにありません。顧客との意見調整であれば、多数決などあり得ません。

研修ではもちろん「そんな決め方はやり直し!」となる訳ですが、だいたい初めはキョトンとしています。多数決は公平で民主的と思っているのか、多数意見の人も少数意見の人もそれで納得している様子です。
前述のようなことを説明して、なぜダメかがようやく理解してもらえる訳ですが、議論を避ける、意見を言わないという部分は、日常にもいろいろな形で出てきます。

○その場では何も言わずに納得している様子だったのに、影でいろいろ文句を言う。
○「部長からみんなに言って下さい!」など、上司の権威に頼って意見をまとめようとする。
○事前の意向確認や根回しということを適切に行わないので、「そんなの聞いてないぞ」というような内容のことが突然出てくる。
その他にもいろいろなことがあるでしょう。

これはやっぱり小学校中学校といった子供の頃から、意見の違う相手とコミュニケーションを取って、合意できる妥協点を見出すなど、意見がぶつかることを避けてきている傾向があるのだと思います。本人が無意識のうちに身についてしまった習慣なので、改善するには地道に指摘、指導を続けるしかありません。

若手社員を観察している中で、もしも気になるところがあれば、彼らが何かを決めようとしている場面を確認してみて下さい。安易に多数決などで決めているようであれば、それが正しいことばかりではないと、しっかり指摘する必要があると思います。


2013年9月13日金曜日

幸せの感じ方の違い


世界各国の国民が、日々の暮らしに満足し、幸せを感じているかどうかを調査した報告書が発表され、ランキング首位はデンマーク、日本は43位だったそうです。

単純にうらやましいなどと思っていましたが、あるところで目に留まったデンマークに留学している方が書いているコラムによると、デンマーク人はこのことについて、「世界一幸せなわけではなく、野心的でないから失望することもないだけで、満足しているという言葉の方が合うかもしれない」と言っていたそうです。競争を捨てて、平等な高福祉社会に満足しているだけだということでした。

またデンマーク人の国民的な価値観に、“ジャンテロウ”というものがあって、その中身は「自らを特別であると思うな」「私たちよりも優れていると思い上がるな」など、十数項目の“平等”について説いた内容で、日本人の礼儀正しさと同じように、ここに価値を置く国民性なのだそうです。“自己アピール”が良しとされないので、就職活動などは実はやりづらいのだそうです。

幸せとは、本当に主観的なもので、自分が幸せと思えばその人は幸せということです。これを見ていてその思いをなおさら強くしましたが、日本人との違いとして一つ思ったのは、“心の余裕”ということです。平等で高福祉という背景はあるにしろ、他人の境遇をねたんだり、肩書で先入観を持ったりせず、自分なりの幸せを享受しています。

私は“競争”“上昇志向”“野心”も必要だと思いますが、これらが行きすぎるとねたみや嫉妬の感情につながり、結局自分が幸福感を感じられなくなってしまうのだと思います。

今一度、自分の“心の余裕”を見直したいと思います。


2013年9月11日水曜日

これもりっぱなワークライフバランスか?!


すみません。今回はゆる~い話題なので、不快に感じてしまう方がいたら申し訳ありません。

つい先日の午後、移動途中のカフェでちょっと作業をしていた時、お隣にたぶん30代後半から40代くらいの男性二人が座りました。お二人ともそれなりの立場のビジネスマンといった感じです。

その方々、仕事の打合せかと思いきや、その後小一時間ほどの間、ず~っと合コンの打合せをしていました。それも「いつやる?」とかいう話ではなく、この日はどこかのお店の○○さんバージョン、この日は後輩XXさんのお友達バージョンといった具合に、直近1週間くらいのほぼ毎日のお互いの夜の予定を全部すりあわせしていました。 「そんな会議、ムダだからサボっちゃえよ」とか「どうせ大した商談じゃないから、その時間は大丈夫」などと話しています。

途中で仕事の電話が入るのですが、「今打ち合わせ中だから! 緊急でなければ後で折り返す」といって、後回しにしています。う~ん・・・、確かに打合せだけど・・・。
会話が漏れ聞こえてきてしまうのですが、「この前の時の○○ちゃんと昼間に会った」とか、「あの会社の○○さん、キレイだよね」とか、女性の話が大半です。
 最後の数分だけ、ようやくほんの少し仕事の話をして去っていきました。

この様子を見ていて、初めのうちは「こういう社員が自分の会社にいたら困るかも・・・」などと思ったのですが、途中からそのバイタリティやタイムマネジメントに感心してしまいました。

多くの人は「仕事中なのに不謹慎だ」「そんな余裕があるなら、もっと仕事しろ!」と思うのかもしれませんし、経営者であればなおさら、「仕事時間中はきちんと仕事をしろ!」「お前らの遊び時間に給料を払うつもりはない!」などとおっしゃるかもしれません。
確かにモラル面では問題ありでしょうし、組織内では悪影響があるかもしれませんが、それはさておき、不謹慎とかもっと仕事しろとか思ってしまうのは、「仕事こそ最優先の大事なこと」という価値観によるものです。でも、世の中にそうでなければいけない決まりはありません。

さらに考えれば、こういう行動が可能ということは、相応の経済的余裕もあって、時間管理も任されている立場ということで、会社であればそれなりの結果を出してそれなりに評価されていなければできないことでしょう。会社自体も業績が悪ければ、もっともっと厳しく締め付けているでしょう。単なる手抜きやサボりばかりではこうはいきません。

また、こういう人たちであれば、仕事はできるだけ効率的に短時間で終わらせようと考えるでしょうから、無駄なことや優先度の低いことはやらないはずです。事実、「でっかい商談なら、ガッツリ行くけどさぁ・・・」なんて話していました。それは仕事上悪いことばかりではないはずです。

多少の問題はあるにしろ、これもりっぱな「ワークライフバランス」の実践ではないかと思います。(あくまでモラルはさておきですが・・・。)
この例では、たまたま最優先が女性、合コンだったためにちょっと不謹慎な感じがしますが、最優先がゴルフ、映画、釣り、ゲームなんて人はたくさんいると思います。
でもそういう人たちに対して、「そんな余裕があるならもっと仕事をしろ」などと追い込んで、やる気を失わせたりつぶしてしまっていることが多いのも、今の世の中ではないでしょうか。
やっぱり、人それぞれのワークライフバランスの捉え方というのも尊重する必要があるように思います。

草食系男子全盛といわれる中で、久しぶりに見た肉食系オジサンのバイタリティから、ちょっとこんなことを考えてしまいました。


2013年9月10日火曜日

ダイヤル式電話の使い方を知らない世代


あるラジオ番組で話していた話題ですが、その家ではまだダイヤル式の黒電話を使っていて、ある日遊びに来ていたお子さんの友達が電話の前で固まっていて、「どうしたの?」と聞くと、「これ、どうやって使うんですか?」と聞かれたとのことでした。
そりゃそうですよね。たぶん実物を見たこともないでしょうし、使い方なんて知らなくて当たり前です。「そんなことも知らないのか!」なんて責める人も普通はいないでしょう。

 でも、会社の中だとこういうたぐいのことを責めたり、自慢したり、説教したりという人がいないでしょうか? 
 例えば
「昔は書類をいっぱい書いて覚えたもんだ」
「昔は機械なんかなくて全部手作業でやっていた」
「これが基本だからパソコンなんか使わないで手書きでやれ」

こんな言い方で、“勉強”と称して、今とは違う昔ながらのやり方を求められるというようなことです。

 もちろん仕事内容によっては“基本となる理屈を覚える”、“本来の道筋を知る”、“出来栄えの違いを知る”などの効果はあるでしょう。特に物作りの現場であれば、職人的な感を養う、経験を積むといった意味では必要なことでしょう。

ただ、仕事上での多くの場合、今後二度と遭遇することがないような昔のやり方を強制してやらせても、そこにあまり大きな意味はないのではないかと思います。
私がいたIT業界で言えば、「昔は紙に手書きでプログラムのソースコードを書いていた」とか、「今のようにアイコンのクリックでなくテキストコマンドを覚えて入力していた」とか、「開発支援ツールがもっと低機能だった」とか、そんなことがありますが、今これらを持ち出してやらせることには、「昔は大変だったんですね・・・」ということを知ること以外、実務上の意義はほとんどありません。

 自分自身の戒めも含めてのことですが、“経験の伝承”というのは大事なことである一方、仕事環境自体が大きく変わっているので、昔やっていた仕事のやり方で、そのおかげで身についたというような経験は、今となっては通用しないことがたくさんあります。でも自分の経験を否定することはなかなかできないので、ついついそれを強制してしまう人がいます。

 何が伝承する必要がある経験で、何が捨てるべき経験なのかを判断するのは難しいことですが、特に年長者はこのあたりを意識しておく必要があるだろうと思います。
 ダイヤル式の電話の使い方を知らなくても、将来困ることはもう何もないはずです。

2013年9月7日土曜日

あらためて感じた「自分基準の危うさ」


 先日「オフィスの置き菓子」についてコメントするということで、FMラジオ番組にちょっとだけ出演させて頂きました。
オフィス環境の変化の中で、特に社員のリフレッシュに関する取り組みが変化しており、その切り口としてのテーマ設定ということでした。私の方でも事前にデータ収集をしましたが、放送には出なかったデータで私自身も意外に思ったことがありました。

それは、就業中におやつを食べる頻度をきいたところ、「毎日」35.8%「週に4回」12.7%「週に3回」18.2%と、7割近い人が週5日のうち3日以上、3人に1人は毎日会社でおやつを食べているということでした。“オフィスで頻繁にお菓子を食べる人が結構な多数派だった”ということです。

実は私自身、あまり間食する習慣がなく、さらに家では食べることがあってもオフィスではほとんど食べないというタイプでした。よく旅行のお土産のお菓子が配られたりしますが、たいていは誰かにあげてしまって、自分で食べたことはほとんどありませんでした、

今でこそいろいろな会社の状況を見たり情報収集をしたりする中で、リフレッシュスペース、置き菓子なども含め、様々なオフィス事情は知識として知っていますが、もしもそれがない状態で、自分基準だけでの判断だったとしたら、たぶん置き菓子を利用するような発想は出ないでしょうし、社内のリフレッシュ環境作りもあまり重視しなかったのではないかと思います。もし部下から提案があったとしても、「別にいらないんじゃない?」と却下していたのではないかという気がします。

食べ物の好み、リラックスや休息のしかたのように、特に個人による好みの差が大きいものは、「自分と他人は違う」と頭では分かっていても、どうしても自分基準に偏りがちです。本音では理解できていないので、自分としては相当歩み寄ったつもりでも、相手にとっては大差ないことだったりします。

よく「視野の広さが大事」と言いますが、視野の広さを保つことは実はものすごく難しいことです。好奇心を持って、いろいろな人や物に接して、見聞を広めることを意識し続けるしかありません。
私はそこまでできる自信はありませんが、「自分基準の危うさ」に陥らないように、意識だけは持っておきたいと思っています。


2013年9月6日金曜日

心に響いた「信頼の貯金」の話


以前、あるテレビ番組の中で語られていた「信頼の貯金」の話が、とても心に響きました。

ご覧になった方もいらっしゃるでしょうが、「ホテル・ルワンダ」という映画のモデルで、ルワンダで勃発した民族間の虐殺の中で、多くの難民を自分が働いていたホテルにかくまって命を救ったホテル支配人、ポール・ルセサバギナさんがおっしゃっていたことです。

 生きるか死ぬかの極限状況の中で、結局自分たちの命が助かったのは、長い時間をかけて、少しずつ貯めてきた「信頼の貯金」のおかげだったとおっしゃっていました。

それまでホテルマンとしていろいろな人とお酒を酌み交わし、できる限りいろんな話をして、それが少しずつ「信頼の貯金」となっていて、最後に助けてくれたのは、それまでずっと交流してきてお互いを知りあっていた敵にあたる政府軍の司令官だったそうです。
また、途中自分たちを殺しに乗り込んできた軍人にも、ホテルのお客と同じようにお酒をふるまい、フレンドリーに話をしたそうです。「自分にお酒をふるまって、笑顔で話しかけてくる人をその場で殺そうとは思わないはずだから」とおっしゃっていました。

こんな壮絶な生死にかかわるような壮絶な体験ではないにしても、私たちも「信頼の貯金」の中で動いていることがたくさんあると思います。仕事でも遊びでも、会社、家庭、地域、その他すべての人間関係の中で、まったく同じではないかと思います。
自分の仕事でいえば、まず私個人を信頼して頂けないことには何も始まらないので、なおさらそう感じます。

「信頼の貯金」の中身は本当に小さなことで、
・時間を守る。
・約束を守る。
・嘘をつかない
・真摯な対応
・相手の立場の尊重
・感謝、敬意
・相手への貢献
・一方的な見返りを求めない

など、当たり前といわれることばかりで、その積み重ねなんだろうと思います。

きっと、すぐに形にはならないでしょうし、一朝一夕に増えていくものでもないでしょうが、長期的には有形無形の大きな資産となり、いろいろな形で返ってくるのだろうと思います。自分の生活は楽しくなり、周りの仲間は増え、仕事もやりやすくなっていくでしょう。

一円か、もしくは何銭かのわずかなお金を少しずつ積み重ねていくようなつもりで、日々の小さな行動を良くしていけば、「信頼の貯金」の残高は、きっと増えていくはずです。

「信頼の貯金」を少しでも多く貯められるように、日々の振る舞いを大事にできるようになりたいと、あらためて思いました。


2013年9月4日水曜日

「中小企業だから人は選べない」という思い込み


採用活動をしている中で、「大手に入社できるなら普通そっちを選ぶでしょ」「中小企業だから大手みたいに人は選べないよ」などとおっしゃる中小企業経営者、役員や社員、取り巻く関係者の方々は、意外にたくさんいらっしゃいます。

人の採用に苦労しているからこそ、そう思うのでしょうし、確かにそういう部分が無いとは言いません。ただ私は、そこに“思い込み”“決めつけ”という要素も多分にあると思っています。

例えば、応募者としてお会いする人たちに希望する会社の規模を聞いてみると、「それほど大きな組織でない方が良い」「中小企業の方が良い」と答える人はかなりたくさんいます。「是非大手企業に行きたい」という人ばかりではありません。
ただし具体的に思っている規模は、人によってバラバラ、まちまちで、50名という人も300名という人も1000名という人もいます。その人数規模がその人にとっての“あまり大きくない組織”の定義ということですが、自分たちの会社が許容されているのか、本音の希望はどの程度なのかは、実際に聞いてみなければわかりません。でも少なくとも、みんながみんな世間で認められているような大手企業ばかりに行きたい訳でないのは確かです。そして応募してきているということは、自社の規模でも許容はされているということです。

また「人を選べない」というのは、たぶん「そんなにたくさん応募者がいない」ということの裏返しでしょう。中小企業での応募者集めは確かに難しいですが、工夫によって改善できることはいろいろあります。最近は、テレビなどを通じて偶然自社製品が認知された中小企業に、その後多数の応募者が殺到したなどという話がありますが、これはその企業の中身への理解が深まれば、中小企業だろうと何だろうと、興味を持つ人が誰かしらは必ずいるということです。

ハローワークに求人票を出したって、希望するような人はなかなか来ないし、なぜ希望する人が来ないかといえば、やっぱり企業の中身の理解が深まっていないからです。
それではダメだと思い切って高価な求人サイトに広告掲載をして、多少人の目に触れる頻度が上がったとしても、企業理解が深まっていかなければ結局は同じことです。そしてそんな状況を、「中小企業だから人は選べないよ・・・」という言い訳で思考停止しているように感じます。

大手の方が“安定している”、“給与や福利厚生といった待遇が良い”、“知名度やステータス”といったところはあるでしょう。ただしそれをすべての人が最優先で望んでいるとは限りません。
もう一度、「企業理解を深める」ということを主眼にして、採用の取り組みを工夫してみてはいかがかと思います。


2013年9月3日火曜日

その時点で「できることしかできない」


9月1日が防災の日ということで、地震に関する記事やテレビ番組がたくさん出ていました。
東日本大震災からももうすぐ二年半になる訳ですが、いろいろな方からうかがう中では、なかなか復興が進んでいないという話、また少しずつは元に戻っているという話、その他いろいろなお話があります。今も定期的にボランティアに通う人、自分の生活再建に向けて頑張っている人、直接間接で様々な支援をしている人など、いろいろな方がいらっしゃいます。こういう方々には本当に頭が下がります。

私自身でいえば、少々の義援金を出したり、ちょっとした署名に協力したりという程度で、現地を見たこともボランティアに参加したこともないので、とても積極的に行動して支援しているとはいえません。気持ちはあってもなかなかそこまで行動できていないというのが実際のところです。
自分の行動する量を増やさなければならないと思う反面、私と同じような人も多いのではないかと思います。

こんな時によく思うのは、ある時点で区切ってみれば、人間は「できることしかできない」ということです。
以前、サッカーの日本代表監督だったジーコさんが、「所属チームでやっている以上のことは要求しない」という主旨のことをおっしゃっていたのを聞いたことがあります。要は「できないことは要求しないしやらなくて良い。逆にできることは確実にやれ」ということなので、厳しい要求ともいえます。

企業などでいうと、「できること」「できる“はず”のこと」が混同されていることが、多いように思います。
「できる“はず”のこと」ができないといって、能力不足、使えないヤツというような話になっていたりしますが、そういう人にも「できること」は必ずあって、それを確実にやらせる方が、「できないこと」をやらせようとして何も進まないより、組織にとっては絶対プラスになります。

もちろん「できないこと」をできるようにするために、本人の努力も周りからの指導も大事ですが、できるようになるには時間がかかります。また時間をかけても、それに比例してできるようになるかはわかりません。
「できる“はず”のこと」というのは、だいたい入社X年目、経験X年、XX等級ならばできて当然というような意識から来ますが、やっぱり個人差があります。プロ野球選手だって足が遅い人はいるし、サッカー選手にも利き足でしか蹴れない人がいます。できないことを嘆いたり批判したりするよりは、その時点で持っている能力を現実の中でいかに使うかを考えた方が、よっぽど建設的です。

「できることしかできない」というのは、「できることをいかに確実にやるか(やらせるか)」の裏返しです。これは仕事でも趣味でも勉強でも同じだと思います。
「なんでできないんだ?」ではなく、「何ができるんだろうか?」を考えることの方が大事ではないでしょうか。私の被災地支援は、まず今できる事は確実にやり、可能ならばできる事を増やしたいと思っています。