2015年1月30日金曜日

表立って出しづらい「失敗事例」の情報



いろいろな企業のお手伝いをしていると、「失敗事例を提供してほしい」と言われることがあります。まだ提案段階のうちから言われることもありますが、私も企業人事の立場を経験しているので、前もってリスクを知っておきたいという気持ちは良くわかります。

実際世の中に出ている情報は、宣伝文句も含めて「成功事例」であふれています。
例えば、最近よく目にするダイエットであれば、短期間でかっこよく痩せた人の情報がたくさん出ています。ただ、普通に考えればそんなにうまくいく訳はなく、成功事例の裏には、途中で挫折した人やうまくいかなかった人も、大勢いるはずです。もちろん本当に高い成功率を誇っているのかもしれませんが、その情報を知ることは難しく、実際のところはよくわかりません。

ダイエットのような内容では、広告宣伝の要素が強いので、失敗事例を表に出すことのメリットは、特に業者側にとってはほとんどありません。顧客としては聞きたい人もいるでしょうが、業者側が積極的に、その失敗事例を語るということはたぶんしないでしょう。

私と専門分野が近いようなコンサルティング会社でも、ホームページに様々な過去実績事例を掲載している会社が多数あります。これらも大半は、「こんな課題があって、このように取り組み、解決に導いた」というものばかりで、やはり失敗事例はあまり見えません。

ただ、ここで少し違うのは、ダイエットなどは「マイナス○キロ」のような明確なゴールがあり、期間内にそこまで到達できたかという結果で成果が測れるのに対し、私たちのようなコンサルティングの場合、成果の求められ方にもう少しいろいろなパターンがあるということです。

「こんな資料が欲しい」「こんな調査報告をしてほしい」「こんな制度を作ってほしい」など、要望された生産物を提供することが成果の場合もありますし、プロジェクト参画やその他実務的な作業支援そのものが成果という場合もあります。これらで失敗事例が生じることはあまりありません。

それ以外であれば、何らかの指標達成を成果とすることになりますが、特に人事や組織に関するテーマの場合、成果が見えるまでに時間を要するものも多く、PDCAを回しながら進める形が基本になります。

ここでは、自分自身の過去の経験から、うまくいったこと、あまり効果的でなかったことという事例はたくさんありますが、それを現状に当てはめたとして、以前と同様の結果になるとは限りません。
その会社の現状分析を踏まえ、持っている引き出しの中身を組み合わせてプランニングをし、実行しながらプランを修正し、また実行するという繰り返しになります。
こういう中では、成功事例と失敗事例をはっきりと切り分けることが、意外に難しい部分があります。

とはいえ、実際にいろいろな取り組みをする中では、「かつてこんな経験があるから、これは止めた方が良い」などとアドバイスするケースはあります。失敗事例の一種ではありますが、成功と失敗が明確にできないことを考えると、それを万人に通用する情報として、表立って発信することはやはり難しく、あくまで実際のコンサルティングの現場に限って、内部情報として提供していくことになります。

そんな訳で、私たちも失敗から学ぶことは多々あれど、その情報を提供するのは、実際に一緒にお仕事をさせて頂く機会に限られるということになってしまいます。
失敗事例を提供していく必要性は感じるものの、それを表立って出すことが、なかなか難しいと感じます。


2015年1月28日水曜日

優秀な部下を囲い込まない、管理者に必要な「全体最適」の視点


この時期になると、そろそろ次年度に向けた計画や社内の組織体制づくりが本格化し、個々の社員の異動や配置換えも、内部的な調整がされている頃ではないかと思います。

人事異動の進め方というのは、会社によって様々です。社長の鶴の一声のところも、人事部門が中心で調整するところも、当事者である部門責任者同士で折衝するところも、またそれらを使い分けるようなところも、本当にいろいろだと思います。

ただ、異動の検討中か決定後かの違いがあっても、本人への内示よりも、先に直属の上長の方へ打診や相談、もしくは伝達などを受けて関与することが大半だと思います。
そんな中で、私が人事の立場でかかわった経験では、この直属の上司が、部下の異動に対して頑強に抵抗するということがときどきあります。
やはり、優秀な部下、気心が知れた部下、自分にとって使いやすい部下などは、できれば自分の手元に置いておきたいということでしょう。

また、自己申告、社内公募、FA制度といった形で、社員自身の希望で異動を促進する制度がありますが、実際に希望が叶う率は1割程度というような会社も多く、これらの制度がなかなか活性化しない部分があります。もちろん会社側にも原因はありますが、前述の状況と同様に直属の上長が積極的でなく、本人の意志とは言いながらもそこに影響を与えていることがあります。

確かに、自部門の事情を中心に考えれば、その主要メンバーを囲い込むことは正論かもしれませんが、組織内での人事異動を避けていると、そのことによるデメリットがあります。
例えば
◇社員の適性を見出す機会が失われ、 適材適所の配置ができない
◇社内のコミュニケーションネットワークが広がらず、部門内に閉じた硬直した環境になる
◇職務のマンネリ化と、それに伴う社員のモチベーション低下のおそれがある
などが挙げられます。

やはり、管理者の立場であれば、自部門に閉じた「部分最適」ではなく、組織全体の状況に目を配った「全体最適」の考え方が必要です。

これはある会社の課長さんのお話ですが、部下に対する異動の打診に対して、「彼には、○○の適性があると見ていて、本人もそのキャリアに興味を持っているので、あと1~2年は自部門のプロジェクトで経験を積ませて、他部門へ異動しても通用する基礎作りをさせたい」とおっしゃり、異動の見送りを会社側に納得させたということがありました。まさに社員個人と会社全体の将来の両立を考えた、「全体最適」の視点だと感心したことがあります。

このような「全体最適」の視点がないような主張は、部門管理者の単なるわがままと同じことになります。自部門の都合を優先した「部分最適」でしかありません。それでは会社全体の業績は上がりません。

“会社が決めたことだから”と何も考えず、ただ長いものに巻かれるような態度はもってのほかですが、少なくとも管理者の立場であれば、人事異動だけに限らず、会社の施策に対する意見や反論が、「全体最適」の視点にかなっているのかどうかは、常に意識しておく必要があると思います。


2015年1月26日月曜日

“市場価値”だけでなく、あえて“社内価値”にも注目してみる


「会社の看板」に頼らなくても、どこへ行っても仕事ができ、成果を出せる実力を身につけて、自分の“市場価値”を上げることが必要だと言われます。

終身雇用や年功序列が崩れてきている昨今の情勢の中では、さらに強調されているように思います。また実際に危機感を持ち、自分の将来を見つめて資格を取る、ビジネススクールに通うなど、具体的な取り組みをする人も増えてきていると感じます。

私自身も独立事業者なので、基本的にはこの“市場価値”の中で生きています。自分の市場価値の有無が直接収益に関わってきますので、これを維持向上させることは、自分が仕事をしていく上での必須要件になります。

ただ、こうやって“市場価値”が強調される一方で、実際にお客様の業務に関わる中では、「その会社の個別の事情に精通する」「一般的ではないがその会社にとって有益な情報を提供する」などといった“社内価値”が必要になる場面もあります。その会社でしか通用しませんが、実務上は必要で、なおかつかなり重要なことです。

以前ある会社でうかがったことですが、社員500人ほどのその会社の総務部門に、社員カードに書かれるような情報をすべて暗記しているという人がいたそうです。
名前や所属部署、役職といったことはもちろん、社員番号、入社年月日、出身学校、住所や本籍地の都道府県、社内の部署異動の履歴などといった付帯情報にあたるようなことまでです。他社では何の役にも立たない、究極の“社内価値”と言えるでしょう。

「そんな無駄なことを覚えていたってしょうがない」「パソコンで検索すればそれで済む」などという人もいるかもしれませんが、それは会社によって事情が違うと思います。
この会社では、その方が効率が良い、便利である、その情報が頻繁に必要であるなど、何か事情があって、その必要に迫られてのことであったはずです。無駄なことを個人の趣味で覚えたわけではないでしょう。しかも、これを記憶すること自体は、そう簡単なことではありません。

“社内価値”もこうやって極めると、会社にとってその人は必要不可欠な人材です。少なくとも会社が存続している限り、よほどの環境変化がない限りは辞めろなどとは言われないでしょうし、そこで評価されたことが、その後の“市場価値”にもつながっていきます。


どこでも通じるような“市場価値”は大事ですが、本当の意味で身につけるには、それなりの運も経験も努力も必要ですし、時間もかかると思います。また、勉強することは大事ですが、それが必ずしも実務と一致するとは限りません。

一方の“社内価値”は、当面の実務で必要なことであることがほとんどです。中途半端ではダメですが、社内で一目置かれるほどに究めれば、それは立派な実力です。

危機感だけでむやみに“市場価値”を追いかけるより、目の前にあって身近なテーマでもある“社内価値”を高めようと考えた方が、結果的には自分の評価を高め、本当の意味での“市場価値”につながる気がします。
まずは、身近で実際に起こっていることに注目してみることも、大切ではないかと思います。


2015年1月23日金曜日

“優柔不断”より“融通が利かない”方が問題だと思う就職活動


今年から新卒の就職活動のスケジュールが変わり、採用の広報や説明会の開催は3月からになりました。これから就職活動にのぞむ学生さんは、今のところはインターンシップなどへの参加、学内のイベントなどを通じて、業界研究や企業研究をしている時期になるのだと思います。

就職活動を始めるにあたって、やりたいことが明確で、自分なりの目標や将来設計が具体的に考えることができているのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。

しかし、最近よく聞くのは「やりたいことが見つからない」「何がやりたいのかわからない」など、自分が仕事をしている具体的なイメージや将来像といったものが、描き切れないことへの焦り、自己嫌悪のような声です。
中には具体的な将来像を持っている学生さんもいますが、実際にはそうではない人が大半で、就職活動を進める中で徐々にそれが見えてくるのか、もしかすると就職活動の最後の最後まで、はっきりと自覚できないような人もいるのではないでしょうか。周囲からは、「もっとしっかりと自己分析をしなさい」などという指導をされるのかもしれません。

自分の特性を自分なりに把握して、自分なりにやりたい仕事や行きたい会社を明確にするのは、確かに必要なことですが、私がこれまで採用活動で接した学生さんの中で、これがあまりにも行き過ぎている感じがする人に出会ったことがあります。

その人は、会社説明会後のアンケートに「自分が今まで勉強してきたことと合致する、御社の○○部門の××プロジェクトに興味を持ち、是非やりたいと思うので入社を希望します」と書いていました。
その後の面接の場で話を聞いても、話す内容はほぼ同じことで、「他の部門や他のプロジェクトになった場合は?」と尋ねると、「それならば入社は希望しません」と言います。

確かに自分のやりたいことは明確ですが、これを会社の立場で見れば、残念ながら「とても採用できない」となってしまいます。会社では異動も組織変更も当然のようにありますし、そもそも“プロジェクト”というのは、いつかは終わりが来る仕事です。

仕事に対する自身の希望を述べるのは必要なことですが、それがあまりにも幅が狭いピンポイントであり、なおかつそれ以外は拒絶するような姿勢では、会社にとってはただの「融通が利かない人」であり、よほど自社にフィットした専門性でも持っていない限り、採用するのは相当難しくなってしまいます。
決してお勧めはしませんが、採用に至る確率だけを考えれば、「これだけがやりたい」という人よりは、「与えられれば何でもやります」という人の方が可能性は高いでしょう。

多くの学生さんは、就職活動で自分の志望を定めるにあたって、“優柔不断であること”を悩みますが、会社にとってはその逆の“融通が利かないこと”の方が問題です。

自分の道を見定めることは、いつか必要なことですが、それが就職活動中だけでできるとは限りません。すでに就職した社会人でも、迷っている人はたくさんいますし、一度は決めたつもりでも、そのままずっと通しきれるとも限りません。

自己分析を進める中で、なかなか具体的なイメージが作れなかったとしても、特に初めのうちはそういうものだと割り切って、少し“優柔不断であること”を許容しながら就職活動にのぞんでみてはいかがかと思います。


2015年1月21日水曜日

チンパンジーは競争の激しさで「攻撃性」を持ったという話から思ったこと


ある新聞で、“チンパンジー”とその近縁にあたる“ボノボ”に関する性格の違いについて書かれている記事を見ました。

見た目はそっくりだが、チンパンジーはオスを中心とした集団で強い攻撃性が見られ、順位が1位のボスが仲間のオスに殺されたり、他の集団を攻撃してそのメンバーを殺害したりという、「戦争」行為をするのだそうです。
一方ボノボでは、そのような例は疑わしいものが1例あるだけで、攻撃性はほとんど見られず、オスとメスが対等な営みを築く「平和主義者」なのだそうです。

この違いは、諸説ある中では、結局「生まれつき」という説が有力だそうで、生殖に関わることが大きな理由ではないかということです。
チンパンジーはメスの発情期間が短く、オスは交尾の機会を巡って常に激しい競争にさらされるのに対して、ボノボは発情期間が長く、交尾や挨拶行動を通じてオスとメスがお互いの緊張を和らげるため、争う理由が少ないためではないかということでした。

私はこの“競争”という部分を、ついつい事業活動や企業組織に当てはめて考えてしまいました。
事業は会社同士の競争ですし、今は市場がどんどん拡大するような状況ではありませんから、当然競争は激しくなっています。
また、多くの会社で取り入れられている“成果主義”も、組織内のメンバー同士を競争させる仕組みです。会社によって、その程度はいろいろでしょうが、競争の激しくなっている会社が増えているのではないかと思います。
ちなみに、チンパンジーで攻撃性を持つのはオスばかりらしいですが、ここから考えれば、企業組織の中で女性登用が進みづらいことにも、もしかするとつながりがあるような気がします。

そもそも資本主義の考え方自体が競争原理ですから、当然厳しい競争にさらされるわけですが、今の技術の進歩や経済発展は、競争があったからこその人々の生活向上という面があります。

その一方で、競争をすれば必ず勝者と敗者に分かれます。全員がいいとこどりにはなりません。競争に勝たなければ自身の生活がおびやかされるとなれば、自分が何とかして勝たなければと考え、そこにはある種の「攻撃性」が出てくることもあるでしょう。
競争の激しさが増すということは、そこに関わる人々の攻撃性も増すということで、いろいろな場面でこの傾向が少し強まってきているような感じがします。

ただ、最近はこれとは少し違う方向性の動きもあります。
例えば20代、30代という世代を中心に、社会起業家といわれるような経営者がいます。事業活動という形は取りますが、その成功による社会貢献を目的としており、自社の利益や報酬より、社会を変えることに意義を見いだす活動です。
周りよりも上を目指すという、上昇志向に基づいた競争よりも、共助や共存、協調という要素が重視された事業活動です。

切磋琢磨という意味では競争が必要ですが、この行き過ぎは他者に対する「攻撃性」につながります。かつて行き詰まった旧来の成果主義も、競争をあおり過ぎたゆえの結果だと思います。
正しい競争をするためには、他者と協調することも必要になります。

一方で、ただ共助、共存、協調といったことばかりを強調しすぎると、それが馴れ合い、甘え、依存体質といったことにつながります。それは決して世の中の望ましい姿とは言えないように思います。

やはり競争と協調の間には、バランスが必要です。
チンパンジーやボノボには難しくても、人間であれば、競争と協調の良いバランスを見つけることはできるのではないかと思います。


2015年1月19日月曜日

会社と社員の関係に必要な「二者両立」を目指す考え方


ここ最近、続けていくつかの会社から、人材流出に悩んでいるという話を聞きました。
どの会社も業績面での厳しさがあり、社員に様々な面でマイナスになる協力を求めなければならない状況が共通しています。

人材流出の原因が、社員への待遇と会社の先行き不安であることは明らかですが、引き留めるための明るい展望がなかなか打ち出せないこともあり、担当者をはじめとして大変ご苦労されています。

このように業績不振に陥ってしまうと、やむを得ないことではありますが、社内的には「二者択一」の論理で物事が判断されることが多くなります。
多くの会社では、「もし会社がつぶれたら路頭に迷うのは君たちだ」「だから協力してくれなければ困る」などと言い、会社が“業績を維持、拡大するため”に、社員の“給与や賞与を削る”“人員を減らす”“単位時間当たりの仕事量を増やす”“休日休暇や福利厚生を減らす”といったようなことが行われます。

しかし、私が見ている中で感じるのは、こういう会社は業績が好調の時であっても、会社対社員の関係では、会社の事情を優先する「二者択一」の論理で、Win-Loseの関係を肯定している傾向があります。

もしも会社対会社の関係であれば、お互いがWin-Winになる必要性は常に意識され、その要素がなければ、会社同士の付き合いはそもそも成立しません。
ただ、これが会社対社員の関係となると、お互いのWin-Winが後回しにされてしまう傾向があります。会社の都合ばかりが優先される関係です。

近年は従業員満足(ES)向上の重要性が言われ、これを意識している企業は増えてきましたが、一方ではブラック企業の話題に代表されるような、会社対社員のいびつな関係が問題になっています。

これまで私がいろいろな会社を見てきた中で、業績が上がっている会社は、会社と社員の間で「二者両立」のWin-Winの関係が保たれています。業績が上がっているからそれができるのかもしれませんが、「二者両立」を意識しているから業績が上がっているという見方もできます。

ここからは私の個人的な意見ですが、少なくとも会社内で「人」を扱う立場である経営者や人事部門であれば、会社と社員の間に立って、お互いがWin-Winの関係になるように、いかに「二者両立」を目指すかという視点が必要だと思います。

もう少し言うと、経営者や人事部門のように「人」を扱う立場での者は、会社と社員の間にある利害を、いかに適切なバランスをもって調整するかということが重要な役割であるということです。お互いが納得できるWin-Winのバランスを作り出すということです。

業績不振に陥る会社は、仮に好調時であったとしても、経営者や人事部門が会社の事情ばかりを考え、社員に対して指示、説得、強制といった一方的な対応で行動する傾向を感じます。それが積み重ねられてきた結果の人材流出や業績不振という感じがします。

私は研修などで、上司不満や会社不満を訴える社員に対して、「上司や会社が、もしもお客様だったとしたらどうするのか」と尋ねることがあります。こうやって視点を変えると、お互いの関係性を冷静に捉えることができるようになる人が多いからです。
同じように経営者や人事部門でも、「自社の社員がもしもお客様だったら」という視点が必要だと思います。

従業員満足は、決して社員の甘やかしではなく、会社と社員のWin-Winの関係を作り、それを会社の業績向上につなげようという考え方です。

経営者はもちろんのこと、人事部門という立場でも同様に、その先頭に立つ姿勢が必要ではないかと思います。


2015年1月16日金曜日

「通勤手当廃止」より、「職住接近支援」の方が現実的?


著名ブロガーの「通勤手当なんて廃止すべき」という記事が話題になっているようです。
会社が通勤手当を支給するということは、「本来の仕事」と「通勤電車に乗るという仕事」の抱き合わせ販売である、との主張で、通勤手当を廃止すれば、近くの住居を選択する人が増え、朝から疲れて出社する人が減り、「全員が得することを意味します」ということです。

実は私がいろいろな企業の経営者とお話しする中でも、この「通勤手当」が話題になることは意外に多いです。特に所在地が東京地区の会社は、遠距離通勤の社員が多いので、問題意識も高いように思います。

通勤手当は、人によっての金額差が意外に大きく、安い人は月数千円、逆に高い人は会社の規定にもよりますが、月10万円以上という人もいます。
もちろんたくさん支給されていても、それを交通費として使っているので、決して自分で貯めこんでいる訳ではありませんが、会社の立場とすれば、それを給与として支払っていることには変わりありません。

特に中小零細企業では、給与原資が潤沢にはありませんから、仕事の能力や成果とは関係がなく、なおかつ結構な高額になるケースもある「通勤手当」は、本音ではやめたい、もしくはその原資を能力や成果に関係するような他の名目で分配したいと考えていることが多いです。まさにこの「通勤手当の廃止論」に近い部分です。

一方で、社員の側からすれば、特に遠距離通勤で苦労している者にとって、通勤手当が廃止されてしまうことは結構な死活問題です。会社の事務所移転や家庭の事情など、必ずしも自分の意志だけで遠距離通勤をしている訳ではないという気持ちの人もいるでしょうし、何よりも既得権として、多くの企業に広く定着している制度ですから、廃止と言ってもそう簡単には行きません。

そもそも「通勤手当」の発祥を調べてみると、どうも大正の初期から、すでにその名目での賃金支給があったようです。当初は労働力需給のひっ迫から来る人員確保策の一環だったようです。
その後、戦中戦後の貧しい時期に、生活給的な要素の高まりを補てんする物だったり、さらにその後も長期雇用をしやすくする、勤務地の異動を円滑に行うといった施策の一環であったり、高度成長期からマイホームがどんどん郊外へと離れていき、通勤時間が長い社員が増え、それを支援しようという会社としての親心もあったように思います。様々な経緯があっての現在であるようです。

このように、それなりの歴史的な経緯もある「通勤手当」ですから、これを廃止するのはちょっとやそっとでは難しそうに思います。
また廃止したとしても、人がその土地に住むには多くの理由があります。多数の社員が簡単に、「じゃあ会社の近くに引っ越そう」とはならないと思います。

ただ、そうは言っても遠距離通勤は問題です。
実際に見ていても、やはり遠距離通勤の人は疲労していますし、日本では単位時間当たりの労働生産性が低いと言われますが、通勤時間を含めた拘束時間が諸外国よりもかなり長く、それが働く人から活力を奪っている一因という話を聞いたことがあります。

こんなことから考えると、「通勤手当廃止」というよりは、「職住接近」を支援するような施策を打ち出す方が現実的ではないかと思います。

これで有名なのは、サイバーエージェントでの「2駅ルール」(会社から2駅以内の賃貸物件に住めば、家賃補助がもらえる制度)ですが、社員はトータルの拘束時間が減ってリフレッシュができ、会社の費用負担も、通勤交通費やタクシー代と比較しても、あまり変わらずに実施できているとのことです。

“通勤手当の廃止論”は、それなりに理解できますし、一理あると思います。ただ、現実的には通勤時間が少ないことにインセンティブを与えるようなやり方でなければ、なかなか実現は難しいのではないでしょうか。
でも、こういう形の問題提起は、良いきっかけではないかと思います。


2015年1月14日水曜日

本当の意味で望ましいビジネスパートナー像とは


経営者やプロジェクトリーダーという方々、また今はそういう立場でなくても、仮にそうなったと想定した時、皆さんはどんな相手をビジネスパートナーに選ぶでしょうか。

社会規範に関する感度といった、「人としての善悪」にかかわる価値観が共有されていることだけは前提として、私なりに思いつくものを挙げてみました。
(1)同じ理念を共有できる人
(2)価値観が似ている人
(3)気が合う人
(4)信頼できる人
(5)能力・経験値が高い人
(6)強みを強化し合える人
(7)弱みを補完し合える人

その他いろいろあると思いますが、このくらい挙げれば、だいたいの人が考える範囲のものは網羅されていると思います。

これをみて思ったことですが、(1)から(3)と(5)から(7)は、実は全く違う観点であり、(4)だけはどんな場合にも当てはまることで、大きくは3つの観点に分類されるのではないかということです。

前段に挙げた(1)から(3)は、世間でもよく言われることではありますが、これは言い方を変えると「似た者同士」ということではないかと思います。この観点を重視してパートナーを探すと、同じ業界出身、同じような職歴、同じ職種、同じ大学出身、同じような偏差値レベル、同じような年齢、同じような家族環境というように、自分と重なる部分が多い人なのではないかと思います。

一方、後段の(5)から(7)は、どちらかと言えば「自分とは特性が違う人」という観点です。お互いの違いがうまくかみ合うことをパートナーに求めるとこうなりますが、(1)から(3)の項目と反対のニュアンスなので、両立させるのは難しい部分がありそうに思います。

(4)の“信頼できること”だけはこれらと異なり、どんな場合にもあてはまる必須要件ではないかと思います。

起業するメンバー、自分が仕切るプロジェクトのメンバー、その他ビジネスパートナーが自分で選べるとしたら、これは私自身でもきっとそうなってしまう気がしますが、(1)から(3)を重視することが多いのではないかということです。実際に起業したての企業などを見ていても、この「似た者同士」で構成されていることが多い感じがします。

初めのうちはそれで良いのかもしれませんが、「似た者同士」は、同じような考えに傾きがちなので、考える選択肢が少なかったり、仮に間違った判断があったとしても、それをチェックすることができなかったりします。

ある会社のお話で、30代前半の起業家がビジネスパートナーとして選んだのは、参入予定の業界での経験が豊富で、経営者の経験もある60才のベテランだったという話を聞いたことがあります。
自分がその業界のことにそこまでの知識がなく、年齢的にも離れた人の方がそれなりの知見が得られると考えたゆえのことだそうですが、今は順調に業績を伸ばす著名な会社になっています。

成功している企業を見ていると、ビジネスパートナー選びで、前に挙げた3つの観点での人材が、バランス良く散りばめられている企業が多いように思います。
ついつい「似た者同士」に傾きがちなビジネスパートナー選びですが、ちょっと違和感がある人とも組む勇気が必要なのかもしれません。


2015年1月12日月曜日

有休取得義務化の議論に感じた「モラル」と「ルール」の問題


企業に対して、従業員がいつ有給休暇を取得するかの時期指定を義務づけ、確実に取得させることを目指す労働基準法改正案が国会に提出されるのだそうです。ワーク・ライフ・バランスの実現を図る狙いだそうです。

従業員からの請求が前提となっていることが、取得率低迷の一因として、付与日数の一部の取得時期を、会社が指定して休ませることを義務付ける内容が議論されるようです。

一見すれば、今までより有給休暇の消化率を上げることにはつながりそうですし、従業員の立場からすれば悪い内容ではないようにも思えます。これが適正なワーク・ライフ・バランスを進める助けになるのであれば、それは良いことだと思います。
ただ、この議論から私が思ったのは、「モラル」と「ルール」の問題です。

ここでいう「モラル」とは、目指すべき中心点のことを言っており、目指す理想に近ければ近いほどモラルは高く、離れれば低いということです。
一方で、、「ルール」というのは、中心点からこれ以上離れてはいけないという境界線のことで、これを超えたらNGという限界を指しています。

今回の議論では、作ろうとしているのはあくまで「ルール」であり、本来あるべき姿ともいえる「モラル」を高めようとはしていない気がするのです。

「ルール」というのは、それを設けると、その境界線ぎりぎりで動こうとする者が多くなる傾向があります。ルールの抜け道を探したり、どこまでなら許されるのかというラインを探そうとしますが、これは本来あるべき姿である「モラル」からは、離れることを容認するものです。

「ルール」を強調すると「モラル」を軽視し始め、「ルールさえ守っていれば問題ない」となり、本来あるべき姿に近づける努力をしなくなります。また、「ルール」が増えると手続きも増え、様々な部分で組織の効率が落ちます。

有休所得に関しての“本来あるべき理想の姿”を考えると、従業員は自分の都合に合わせて休暇を取得でき、会社は誰かが休んだとしても、業務に滞りをきたさず、業績にも悪影響を与えないという状態ではないかと思います。
ただ、今回のような「ルール」を作ることだけでは、きっと抜け道探しや、中にはルール無視という話が横行しそうな気がします。

有休取得が進まない原因は様々考えられます。属人的な作業環境、お互いの業務を補完する体制の不足、休みを取りづらい雰囲気などが良く言われますが、これらを解決する方法は、単なるルール化ではありません。

当面のルール作りの必要性は否定しないものの、その先の「モラル」を高めるためのシナリオ作りも、同時に行うことの必要性を感じます。

今回の議論が、良い意味での初めの一歩になることを望みます。


2015年1月9日金曜日

一見「聴き上手」ではあるけれど・・・


人の話を良く聴くということは、できるようでなかなかできない、意外に難しいことだと思います。周りから「聴き上手」と評価されるような方は、やはり素晴らしいと思います。

とある私の知り合いの中にも、一見するとこの「聴き上手」にあたる方がいます。人付き合いは良く、宴会などにも良く参加し、人の話はいつも良く聴いています。

ただ、私もときどきお話をすることがあるものの、その時の印象としては、どうも「聴き上手」の方と話しているのとは、何か違う感じがしてしまいます。話していても何となく盛り上がらずに物足りない、失礼ですが、要は話していてもあまり面白くないのです。

その理由が何かを確かめたかったので、ある時ついついその方を観察してしまったのですが、気になった事が一つだけありました。ほとんど自分から話し始めることがないのです。直接質問されたり、話を振られたりすれば、それなりにお話をされるのですが、そうでなければ自分から話題を提供することはほとんどありません。

振られれば話すということは、決して話題が無い訳ではないのだと思いますが、自分から主体的に意見を述べたり、自分から相手に質問したりということはほとんどありません。でも他人が話していることは、確かに良く聴いています。

思うに、これは「聴き上手」というよりも、「受け身だけに偏ったコミュニケーション」ということのように思います。
「相手の話をしっかり聴くことが大切」というのは大前提ではありますが、この方は仕事上の立場や役割としても、それなりに自分からも発信していかなければならない方です。良い人柄で話を良く聴いてくれたとしても、“計画しないプランナー”“提案しないプレゼンター”では、やはり困ります。

話すことがあまり得意でない人はたくさんいると思います。それはその人の個性ですから、責めるつもりはありません。
ただ、この方のように、自分から発信しなければならない立場であり、その能力もあると思われるのにそれをしないということは、やはり問題だと思います。

発信と受信の両方があって、初めてコミュニケーションは成り立ちます。発信と受信をどんなバランスで発揮するかはその人の個性ですが、どちらかを放棄してしまっては、良いコミュニケーションは成立しません。

一見「聴き上手」という人が、本質的にも「聴き上手」なのかどうかは、今一度確かめる必要があるように思います。



2015年1月7日水曜日

宴会の開始時間に集まれる会社と集まれない会社


私の昨年末は、例年になく忘年会ほかの宴会が多い年でした。私にとっては、いろいろな方から声を掛けて頂けるのは、大変うれしいことです。お付き合いがあるいくつかの会社からは、会社主催の忘年会にも呼んで頂き、とても楽しい時間を過ごすことができました。
そんな中のある会社で、ちょっと感心したことがありました。

その時は、私の前の予定が少し押してしまい、会場におうかがいするのが、開始時間のギリギリ5分前になってしまいました。ただ、会社の忘年会というのは、大人数のパーティー形式などでもない限り、人数が集まっていないせいで、予定した時間通りには始まらないことがほとんどです。

少なくとも私の周りでは、大人数か少人数かを問わず、ひどい時は宴会の開始時間になっても集まっているのは数名なんていうことはしょっちゅうで、参加予定が100名近くの大人数の場合でも、開始予定時間に集まっているのは10名いるかいないかなどということもありました。

しかしこちらの会社、私が到着した時にはすでに全員そろっていて、まさに乾杯の準備を始めようかというところでした。私の経験の中ではめったにないことです。

その理由は、会場が会社に近いとか、社内会議の後に設定されていて集まりやすいとか、そんな事情はあるにしろ、私が見ている限りは明らかで、こちらの社長や部長がそういう方なのです。

「前々から決まっている予定なのだから、自分でちゃんと段取りをして調整しろ」ということで、遅れたりするとたぶん怒られるのだと思います。仕事、遊び、宴会、その他どんなことであっても、時間を守るということには口うるさく、なおかつそれが浸透しているのだと思います。

良く考えてみれば、お客様とのアポイントには遅れないのに、社内会議にはいつも遅れてきたり、仕事上の待ち合わせ時間は守るのに、宴会にはいつも遅れるというのはおかしなことです。

結局これは、本人が意識的にそうしているということです。建前は“仕事優先”ですが、その多くの場合は、その時にどうしても優先しなければならないほどの事情がある訳ではなく、心のどこかで「別に遅れてもいいや」とルーズに考えているだけということがほとんどではないでしょうか。

私は、よほどピンポイントの時間しかないような緊急の場合でなければ、もともとあった予定が仕事であろうと何であろうと、変更することはありません。また、もともとの予定を変えなければならないほどのことは、本当に年に一回くらいあるかないかです。

もちろんこれは、私が大して重要なことをやっていない証明かもしれませんが、私以外の多くの人が、そこまで大したことばかりをやっているとも思えません。

仕事優先と言えば聞こえが良く、何となく許されている部分なのかもしれませんが、約束した時間を守っていないことに違いはありません。
この手のことは、日頃の意識付けや習慣づけという要素が大切なのだと、この会社の様子をみてあらためて感じているところです。


2015年1月5日月曜日

ジャニーズのリーダーが語る、「メンバーが楽しく仕事ができるように」というリーダーシップ


お正月というのは意外にやることがなく、その気がなくても自然にのんびりしてしまうものです。私も結構暇な時間が多く、テレビの正月番組もそれなりに見ていました。

そんな中で見た人気グループの嵐のバラエティー番組で、ジャニーズ事務所に所属するグループのリーダーが集まって、リーダー論を語り合っている場面がありました。
 
さすが注目されるグループをまとめているだけのことはあると感心して見ていましたが、その中でNEWSのリーダーの小山慶一郎さんが、「他のメンバーが楽しく仕事をしてくれるのが幸せ」と語っていたのがとても印象に残りました。

小山さんは、自分では決断することができなくて、他のメンバーの意見を否定せずにみんな“それいいね”と言ってしまうのだそうです。そうすると“お前どっちなんだよ”と怒られ、“お前の意見はどうなんだ”と突っ込まれてしまうのだそうです。

テレビの中では、それが本人の意見だし、そう思えるタイプがリーダーとしてふさわしいのだという話になっていましたが、これについては私も同じように思いました。リーダー像に関する同じような悩みというのは、一般的な企業の中でも良く見かける光景だったからです。

特に多いのが、「リーダーらしく振る舞えない」というような、一種の思い込みのようなものです。
リーダーは「先頭に立って走らなければならない」「自分が決めなければならない」「メンバーよりも能力が高くなければいけない」「的確な指示でメンバーを動かさなければならない」などと思っていて、自分自身のことを「まとめられない」「指示できない」「決断できない」などと言います。

ただ、このジャニーズのリーダーたちの対談を見てもわかる通り、リーダーシップの発揮のしかたというのは、メンバーの構成、リーダーも含めたそれぞれの人の性格、その時その時の事情によって異なってきます。

何も先頭に立って走るだけがリーダーではなく、最後尾からフォローするのも、ヒントだけ与えて考えさせるのも、ただ黙って見守るのも、メンバーが気分良くなるように盛り上げるのも、みんなその人なりのリーダー像です。

「リーダーらしくない」と悩んでいる人ほど、自分の特性とは違うリーダー像を描いていることが多い気がします。自分ではなかなかできないことができる人に対する、一種のあこがれのようなものがあるのかもしれませんが、自分なりの得意な方法で発揮できるリーダーシップというのは、誰でも必ず何かは持っています。

この番組を見ていて、自分なりのリーダー像を見つけることが、あらためて大事だと思っていたところです。