2014年5月30日金曜日

今でも多々ある年功序列を引きずる会社


ここ最近、「年功序列の賃金制度を続けてきたが、さすがに立ち行かなくなりつつあるので改訂を考えたい」という企業からのご相談を、数社から続けて頂いています。
また、つい最近読んだあるコラムにグローバル人事の話が出ており、海外展開した企業が直面する課題として、日本国内と同じような長期雇用を前提とした年功的な人事制度を、そのまま持ち込んでいるために問題が起こっているという話が出ていました。

年功序列というと、私が関わる中では、もうすでにそこからは抜け出している企業がほとんどで、人事上の大きな課題として挙がることは少なくなっていましたが、ここへきて未だに取り上げられるということは、まだまだそこから抜けきれない会社も多いということなのだと思います。

年功制というのは決して悪いことばかりではなく、経験値と仕事のパフォーマンスの比例関係が強い仕事内容であれば、とても合理的であると思います。
確かどこか海外の銀行だったと思いますが、給料はすべて年齢で決まるというところがあり、その理由は「年を重ねて経験がある人の方が仕事ができるに決まっているから」ということでした。

ここまで割り切って考えられるならば良いですが、普通に考えると、定年までずっと右肩上がりで能力も自らの稼ぎも伸ばしていくということは難しく、たぶんどこかで頭打ち、もしくは低落傾向になるはずですから、長期雇用を前提とした長期的な貸し借りの中でなければ、年功序列というのは成り立ちづらいものです。

そういうことが言われ始めてから、かれこれ20年以上経つと思いますが、今でもその手の課題を持つ企業が多々あるということは、年功制ということがそれほど根づいている制度だったという証明でもあるでしょう。

実際に最近ご相談を頂く人事制度改訂の中には、年功的な要素をあらためてもう一度取り入れたいという要望もあります。やれ成果だ結果だと言い過ぎて、長い期間会社にいてくれて、地道にコツコツと働いてきてくれた人を評価してあげられないからというお話でした。

経済性を考えれば、年功序列が合理的でない企業が大半であることは確かだろうと思いますが、中にはそうでない企業もあるでしょうし、経済合理性だけではない部分で働き手に報いたいという企業があるのも事実です。その中には「長い間働いてくれて有り難う」という意味での年功序列もあるようです。

このように人事制度というのは、世間一般で言われていることが、必ずしもその会社にとって正解とは限りません。本当に各社各様だと思いますし、各社各様であることが当たり前だという意識も必要ではないかと思います。



2014年5月28日水曜日

「ミニスカ奨励金」なる制度は差別なのか


中国の不動産会社が顧客獲得の一環として、女性社員に「ミニスカ奨励金」を交付していることが発覚し、物議を醸しているのだそうです。
男性社員にはおおむね好評というのはわかるとして、女性社員でもスタイルに自信のある人は、この制度にそれほど反感は抱いておらずに積極的に活用している一方、そうでない女性社員からは「差別」「不公平」などというネガティブな反応なのだそうです。

この話に関連して、私はアメリカのフーターズの話を思い起こしました。
スタイルの良い美形の女性がちょっと露出度高めの服装で接客してくれる飲食店ですが、この「フーターズガール」として働きたいという希望者は結構多いのだそうで、なんでもアメリカでは一つの職種として認められていて、履歴書にも「フーターズガール」と書けるほどのステータスがあるのだそうです。
このように、自分の強みを活かして本人の意志でやりたいと思っていることを、「女性らしさを強制している」とか「女性差別だ」というのだとしたら、それはやっぱり違うと思います。

差別というのは、対象にしていることが、例えば性別、年令、人種、国籍など、本人の意志ではどうしようもない理由で差をつけようとすることを指して不公平とだ言っているのであって、本人の意志で変えられることが対象であれば、それは差別ではないと思います。

最近の企業の採用条件に「非喫煙者」という記述を見かけるようになりましたが、これを差別だという声があります。しかし、応募したいのならばタバコを止めれば良いことですし、それができないならば、喫煙者にとってそんなに条件の悪い理不尽な会社には行かなければよいだけのことです。

最近、日本でもスカイマークの客室乗務員の制服にミニスカートが採用され、やはり賛否両論があるようです。
一応会社では「着用は同意した者だけ」と言っているようですが、周囲からの無言の圧力がありそうですし、純粋に本人の意志で着用拒否をするのはちょっと難しそうに思います。実際にCAの労働組合の一部では、「保安員としての業務に支障があり、セクハラの観点でも問題だ」と言っているようです。
ただ、例えばこれが採用条件として事前に明らかになっていたとすれば、その捉え方は少し違ってくると思います。自分の意志で判断できる余地が出てくるからです。

この「ミニスカ奨励金」なるものも、嫌がる女性に強制するような内容であることがあるとすれば、それは問題だろうと思いますが、どう対応するかは本人の意思次第ということになれば、これを差別とまで言い切るのは、果たしてどうだろうかと思います。

差別という話は、その人の受けとめによって、感じ方が大きく違う部分なので、一概に判断するのは難しいことです。
ただ最近は、自分が不利益を被るとそれをすぐに差別だと言いがちな傾向があるように思います。しかし本当の意味での差別というのは、「自分ではどうしようもない理由で不利益を被ったり攻撃されたりすること」であるはずです。
差別という言葉を安易に使いすぎることには、私はあまり賛成できません。


2014年5月26日月曜日

「会社情報はネットで調べる」と言われたある会社の感じ方


就職活動はまさにネット活用が当たり前の時代です。
昔のアナログな時代の就職活動のように、情報不足を感じることは無くなりましたが、今は逆に情報量が膨大になりすぎて、いかに取捨選択するかの方が難しくなってしまっています。

ある会社で新卒採用をお手伝いしていますが、会社説明会で書いてもらうアンケートの中で、「今後どうやって当社の理解を深めていきますか?」ということを聞いています。そしてその答えの大半は、「ネットを通じて調べます」という回答です。

実はこちらの会社は少し特殊な業界のため、何でもかんでもホームページ上に情報を開示できるような会社ではありません。業界自体の情報も、ネット上にはごく一部の偏った情報しか出ていません。ですからこちらの会社の説明会では、業界の話や仕事内容の説明を、非常に細かく丁寧に行います。

そんな中で「会社情報はネットで調べる」と言われてしまうと、こちらの会社での反応は、「ネットではきっと調べられないんだよなぁ・・・」となります。本音で言うと「もっと直接聞きに来ようとして欲しい」という感じのようです。
今の世の中では「ネットで調べる」という流れが当たり前であることを理解はしているものの、それがどこか受け身なように感じてしまい、納得しきれないようです。

これに対して別の会社では、ホームページでの情報開示にとても力を入れています。ページ数もかなり多いですが、大半のことは自分で調べることができます。こちらの会社では「ちゃんとホームページを見ればわかるはず」という思いがあります。結構目立つ場所に書いてあることでも、面接でとんちんかんな答えをされ、「調べる気がないのは、うちの会社に興味がないんだな」という捉え方をします。

これらのことを指して、会社情報をネットで調べることが良いとか悪いとか、それぞれの会社の捉え方が偏っているとか、そんなことを言うつもりはありません。

ただ、リアルとネット利用には一定のバランスが必要で、これは就職活動だけに限らず、どんな環境であったとしても、どちらか片方だけでは通用しないということです。

「直接聞きに来てほしい」という会社でも、ネット上の情報を全く調べていなければそれではダメでしょうし、「ホームページを見ればわかるはず」という会社も、会話の中での質問が何も出て来なければ、やっぱり印象は良くないでしょう。

会社側の勝手な言い分と言ってしまえばそれまでですが、リアルとネット利用のバランス感覚は、人間関係の中ではどんな場面でも必要です。

相手がどんなバランスを良しとしているかを、感じ取ろうとする努力はやっぱり必要なのではないかと思います。


2014年5月23日金曜日

「会社のせい」でやる気を失う無意味さ


私がまだ企業に勤務していた頃、「なぜ会社はこんな風に人のやる気を失わせるようなことをするんだろう・・・」などと思うことがずいぶんたくさんありました。

待遇や評価などのありがちなことばかりでなく、ちょっとした情報開示の仕方、顧客への対応指示、お金の使い方、導入する設備、上司の素行、経営者の態度・・・。その他本当にいろいろです。
もちろん自分としては「こうした方が絶対に良い!」という考えがあって、その通りになっていて当たり前、もしも違うと「ああ、やる気がなくなる!」と思っていました。今思えばクレイマーみたいなものだったかもしれません。

現在の私は組織には属さず、独立して仕事をする立場になりました。人事コンサルタントという仕事柄もあって、いろいろな企業で働く方々に、ご自身の会社に関するお話を聴く機会があります。
多くの方々にお話をうかがいますが、そこには以前の私と同じように、「会社」「社長」「上司」が原因で「モチベーションが下がっている」「やる気が無くなる」とおっしゃる方が結構たくさんいます。

意外に多いのは、「あんなことに使うなんて無駄遣いだ」「経費節減をいうならこちらが先」のようなお金にからんだ話で、業績ノルマが厳しかったり、あまり調子が良くない会社の方が、こういう人が多いように思います。他にも「人には要求するくせに自分はできていない」など、経営者や上司に対する個人的な素行がらみの批判もよくあります。

確かに上に立つ者は、自分の言動も素行も律して行動すべきだとは思いますし、「他人に言うなら自分もやるべき」などとも思います。
ただ、私自身は立場が変わって、その会社の状況を客観的に見ることができるようになり、そこで昔の自分を思い浮かべながら思うのは、「自分のやる気を他責にすることの無意味さ」です。

やる気が出ない状態で仕事に向かうのは気が進むことではありませんが、会社や経営者や上司にとっては、そんな相手の気分のことは眼中にありません。もしもやる気が出ないせいで仕事の能率が下がったりミスを起こしたりすれば、会社や経営者や上司たち以上に、結局は自分自身が損をします。

私が最近感心することに、メジャーリーグの日本人選手や、海外チーム所属のサッカー選手たちの態度があります。
メジャー保障された他選手の契約との関係でマイナー落ちしたり、オプション契約行使で年俸が増えないように、先発復帰を見送られたり、監督の好みや相性など、決して合理的とは言えない理由で不本意な起用方法をされたり出番を失っていたりしますが、みんなそんなことに一喜一憂せず、自分のできることを淡々とこなして出番を待っています。まさにプロ意識ということでしょう。

もちろん自分からの働き掛けもアピールもするでしょうが、決して他者批判をせず、今置かれた状況の責任は自分にあると捉えています。その理由は、やはり自分のやる気やモチベーションを他責にしてしまうことの無意味さを良く知っているからだと思います。

会社勤めに不合理な部分があることも、そんなストレス解消のためには愚痴の一つも言いたくなる気持ちもよくわかりますが、少なくともそこには、「自分のやる気を他責にすることの無意味さ」ということだけは理解しておかなければならないと思います。


2014年5月21日水曜日

「マイナスイメージ」をくつがえす難しさ


外食産業が人手不足で苦しんでいるという話を聞きます。
なかでも牛丼チェーンのすき家は、「ワンオペ」と言われる一人体制での店舗運営が、非常に激務であるとの話が様々なところで取り上げられ、とりわけ人集めに苦労していると聞きます。

真意は違っていたようですが、経営陣のちょっと不用意な発言もあり、かなりのマイナスイメージがついてしまったように思います。

対人関係にまつわることを初めとして、「第一印象が大事だ」とはよく言われます。私は仕事柄でいろいろな会社の採用面接に立ち会う機会がありますが、第一印象として相手に植えつけられるイメージというのは、やはり大切だと思います。

この「第一印象の大切さ」と合わせて思うのは、「マイナスイメージを払しょくする難しさ」です。その人が持たれているプラスイメージというのは、些細なミスや不信から、すぐに壊れてしまいますが、これに対してマイナスイメージというのは、どんなに努力をしても、一度ついてしまったものを取り除くことは至難の業です。

以前聞いたことがある話ですが、顧客から非常に信頼が厚かった営業マンが、懇意にしている顧客が相手だったために油断したのか、お酒の席でかなりの失礼と失態をしてしまったそうで、その結果、その顧客からの信用を全く失ってしまったそうです。酒席という本来の仕事の場ではないところでの話なので、少しかわいそうとは思いますが、顧客の信頼を失ってしまったのは残念ながら事実です。

その後、本人はかなりの努力をして、顧客の目にも見える結果を出し、とにかく信頼回復に努めたそうですが、結局元のような関係には戻らなかったそうです。

最近の外食産業の人手不足というのは、全部が全部ではないでしょうが、これまでの人使いの荒さという要因もあるように思います。不況の中でなかなか仕事が見つけづらい環境に甘んじて、コストダウンのしわ寄せを現場ばかりに課したり、過剰なノルマや不十分な長時間労働対策といったことなど、働いている人たちが疲弊していってしまった部分はあるのだと思います。
雇用環境の好転に伴って、当然ながらこういう仕事は避けられるようになってしまったのでしょう。

今になって人員数の増強や時給アップ、正社員化など、働く環境の改善に動き始めていますが、一度ついてしまったマイナスイメージを解消するのはかなり難しいことですし、そのためには相当の時間が必要なのではないかと思います。

どんな場面であっても、プラスイメージは簡単に壊れてしまいますし、逆にマイナスイメージを回復するのは簡単には行かない難しいことです。
信頼を得続けるには、どんな環境であっても、相手との力関係などで一方的な値踏みなどをせず、一貫した対応を続けることが大事なのだと改めて思います。


2014年5月19日月曜日

残業が美徳という潜在意識


ある新聞の報道で、内閣府が発表した「ワーク・ライフ・バランスに関する個人・企業調査」によると、社員は残業が評価につながると考えているのに、会社は人事評価で考慮していないと感じていて、個人と企業の認識のギャップが浮き彫りになったという記事が掲載されていました。

この調査の内容を良く見ていくと、ギャップが浮き彫りになったという分析が果たして正しいのかということには少々疑問がありますが、私の経験上から感じることでも、何らかの認識ギャップがあるのは確かだろうと思います。

残業時間や長時間労働の問題というのは、かなり多くの企業で課題と捉えていて、私どもにも多くのご相談を頂くような問題です。
このところ「残業代ゼロ政策」のような、労働時間と報酬を切り離そうという議論が盛んにされています。どうも経営者側と労働者側の対立のように簡略化して捉えようとする向きがありますが、私がお話をうかがっている印象では、それほど単純なことではありません。

まず会社側の様子でいえば、ある程度の残業が発生することは当然と思っているし、それを肯定してはいるものの、ただ習慣化してしまっているような部分や非効率な部分が一部にあると捉えていて、そんな個人のパフォーマンスによる差に関して、ただ長い時間働けばその人の報酬が増えるような形には疑問を感じています。

残業の必要性を区別しようと様々な仕組みを考えてみるものの、結局は線引きすることが難しく、フラストレーションを感じながらも労働時間に見合う賃金支払いをしています。中にはサービス残業の強制など、法律を踏み越えることもいとわないような企業があって、それらがブラック企業と言われているのでしょう。

かたや社員の側を見ると、自分自身の仕事ぶりを非効率で不要な残業があると認めるような人はあまり多くありません。他人の残業は批判的に見ていたりする反面、自分自身のことでは、仕事量が多くてやむを得ない残業だと捉えています。「好き好んでやっているわけではないのだから、頑張っていると認めてほしい」という感情だろうと思います。

これは私がいつも思っていることですが、特に日本人の場合、日本昔ばなしに出てくるような、「朝から晩まで、雨の日も風の日も休みなく働く」ということが、今でも労働の美徳として語られていて、それが潜在意識の中に脈々と生き続けているように感じます。

人として普通の気持ちで、「遅くまで大変だね」「休みの日なのにご苦労様」などとねぎらいの言葉を掛けますが、これを言われた側からすれば、そういう働き方が評価されていると思うでしょうし、これが逆になれば、「毎日遅くまで頑張っているのに、評価してもらえない」という感情になってしまうのでしょう。

日本企業での長時間労働の問題というのは、言われ続けて久しいですが、根本にはこんな潜在意識に根差した労働観、仕事観があるのではないかと思っています。そしてこの手の価値観は、強制がなければ変えられない要素が多いのではないかと思います。

最近の傾向を見ていると、残業時間や長時間労働の削減に成功している企業は、例えば決まった時間に消灯してしまう、施錠してしまうなど、かなり強制力を持った取り組みをしているところが多いです。

こういう取り組みというのは、会社側からすれば仕事に滞りができて業績に悪影響が出ないかを懸念するでしょうし、社員からすれば仕事が大変になって収入は減るかもしれないという状況になりますから、前向きに取り組みづらい部分があるでしょう。

ただ、人間の潜在意識に由来する問題の場合は、無理矢理にでも変えて、それに慣れていくということも必要だと思います。

潜在意識に関する部分が変わっていけば、「残業しても評価されない」などという話も、いつの間にかなくなっていってしまうのではないかと思います。


2014年5月16日金曜日

「英語が苦手」と「ITが苦手」の共通点


英語を公用語化したという企業の話題が、ある時期大きく取り上げられていました。先日読んだある記事でも、通訳を介したコンマ何秒の時間差でもコミュニケーションギャップになるとのことで、グローバルなビジネス環境の中では、英語を「語学」という捉え方でなく、「コミュニケーションツール」として取り組むことが必須であるという話が出ていました。



私自身は英語を話せませんし、しいて言えばほんの片言か、それ以下のレベルです。ただ、これまでのビジネス上ではほぼ必要がなかったし、自分自身の興味もなかったので、勉強しようとも思わなかったというところが本音です。世間が狭い、時代遅れと言われるかもしれませんが、使う機会がほぼなかったことは事実です。

ですから「英語が苦手」というよりも、好きとか嫌いとかいう、その前提すらなかったといった方が正しいです。



そんな私ですから、「英語は必須」という話は、まぁその通りだろうとは思うものの、自分の周りを見ている限りでは、業種や職種、その人が置かれている環境によって、英語の必要性は大きく違っているのではないかと思っています。



英語の場合と同じく、コミュニケーションツールの位置づけの一つとして、ITの存在があります。やはり英語と同じように、ITは苦手」という人の話を聞きます。



ITに関しては、私自身はエンジニアの経験もありますし、一般企業のシステム担当者レベルのことはおおむね自分で解決できるので、「ITが苦手」という人の気持ちはあまり理解できません。ただ、英語でもITでも、苦手と言っている次元は共通していて、「自分ではやる気がない」「やらずに済む環境である」ということなのだと思います。



これは私の偏見もありますが、英語とITを比べた場合、国内で仕事をする限りにおいては、ITの方が関わらなければならない人の範囲が広いのではないかと思います。また、英語よりもITの方が少ない時間で習得できるのではないかとも思います。



最近でこそ、「メールを全部紙に打ち出してくれ」などという依頼をする上司の話はあまり聞かなくなりましたが、それでも似たようなレベルの話はまだまだ耳にします。

「ワードはできるけどエクセルは使えない」などアプリ操作のレベルで、できるとかできないとかいう話もよくあります。



年齢構成が比較的高い団体などでは、行事の出欠確認には今でもFAXや往復はがきが使われます。メールが普及したとはいえ、それに対応できない人がまだまだいるのだと思います。



こんな様子を見ていると、私は英語力よりもITリテラシーの不足の方が、特にビジネスコミュニケーション上のロスはよほど大きいように感じます。非効率を発生させる影響範囲が広いのではないかと思います。



私たちのようなコンサルタントの中にも、いまだに手書きの資料を顧客に出すような方がいらっしゃいます。お持ちのノウハウは尊敬しますし、顧客からITが苦手」と理解されているならそれで良いのかもしれませんが、現状でごく普通に行われているお客様とのコミュニケーションの取り方としては、さすがにもうダメだろうと私は思います。



お客様に対して、新しいノウハウや情報を提供しなければならない立場にあるのがコンサルタントの、はずですが、自分自身がそれを避けようとする姿勢は問題ですし、例えばお客様が望んでいる形式の資料をITが苦手」という理由で作れないなどとなれば、それはコンサルタントとしては失格だと思います。



ITリテラシーに関して、どこが最低限かというレベルの捉え方はいろいろだと思います。それでも「アプリを使う」という程度のレベルのことは、一通りはできなければならないのではないかと思います。



「英語が苦手」という以上に、ITが苦手」は、もう通用しないのではないかと思っています。


2014年5月14日水曜日

「分かち合い型リーダー」が増えている?


様々な企業で、リーダーやマネージャーといった立場の方々に対して、研修やセッションなどを通じてスキル向上のご支援をさせて頂く機会があります。

この際の定番の質問として、「自分がなりたいリーダー像」ということを聞いています。自分の上司や先輩を具体的なモデルとしている方、カリスマ経営者や歴史上の偉人の言葉をモットーにしている方、逆に何も思い描いていない方、自分はリーダー適性がないと言ってあまり前向きではない方など、いろいろな方がいらっしゃいます。

そんな中でよく感じることですが、ご自身のリーダーシップスタイルについて聞くと、「合議型」「民主的」「フラットな関係」「話しやすい雰囲気」といったことを重視する要素として挙げる人が増えているように思います。チーム内の「分かち合い」を大切にするような価値観です。
最近は体育会系の部活動でも、かつての封建的な上下関係からはずいぶん変わり、フラットな上下関係になってきているといいますから、世の中全体の流れとしてもそういうことなのでしょう。

私も、必要以上の封建的な上下関係は、組織のコミュニケーション不良を起こし、上司の間違いを修正できず、部下は他責傾向でやる気を無くしていくなど、組織の生産性を下げてしまうだけなので全く好ましいことではないと思っています。
ですから、この「分かち合い型リーダー」は、総論としては良い方向だと思うのですが、その中で少し気になる点もあります。

「分かち合い型リーダー」を志向する人は、その反面で「自分で引っ張っていく」という意識が薄い場合があります。チームを構成しているメンバーが、みんな自律と自己判断ができる人たちならばそれで問題ないでしょうが、そういう恵まれた体制ばかりとは限りません。

そんな自律不足、経験不足のチームの場合、「分かち合い型リーダー」は、メンバーたちをレベルアップさせるというより、自分がメンバーたちと同じレベルに降りて行こうとします。メンバーたちと同レベルの仕事を分担し、同じように現場業務に関わろうとします。

何か決めなければならないことが出てくると、メンバーを集めて「どうしようか?」と相談し、メンバーの意見を尊重して決定します。“意見を尊重して”というと聞こえは良いですが、実際には“メンバーたちが不満を持たないように”ということが判断基準になりがちです。

リーダーとメンバーとの人間関係は良好ですが、結果としてメンバーたちの仕事上のレベルアップにはあまりつながりません。リーダー自身も現場の一作業者として活動していることがほとんどなので、チームマネジメントの能力はあまり身に付きません。

業績が順調な場合は、これでも大きな問題にはなりませんが、目標達成が厳しいような状況になってくると、とたんにリーダー不在という形で問題が噴出してきます。
何か対策を考えようとしても、リーダーが旗を立てて方向づけることができないので、結局は「みんなでそれぞれ頑張ろう!」程度の話にしかなりません。

「分かち合い型リーダー」で一番問題なのは、リーダーがメンバーとの距離を縮めるために、自分自身がレベルを下げて、メンバーたちの中へ降りていってしまうということではないかと思います。
もちろん、同じ目線で考えるという姿勢は必要ですが、逆にメンバーたちをリーダーの目線に引き上げることが必要ではないかと思います。

リーダー的な業務の一部をメンバーにも権限委譲してやらせること、上のレベルの仕事を経験させることが大事になりますが、リーダーが現場の業務を分担してしまうのは、逆にメンバーたちが本来やるべき仕事や、それを経験する機会を奪ってしまっているということです。

「分かち合い型リーダー」の価値観を持ち、なおかつメンバーたちのレベルアップを図ることに意識が向けられるようになれば、組織のリーダー像としては望ましい傾向なのではないかと思います。


2014年5月12日月曜日

パワハラが起こりやすい職場とは


横浜DeNAベイスターズのあるベテラン選手が、選手登録を抹消された理由を自身のフェイスブックに書いたことが話題になっているようです。

「降格の仕方がパワハラ的だ」という監督批判、逆に「愚痴をネットで言うのは良くない」という選手批判の両方があるようです。
「パワハラ」ということで調べてみると、労働局への相談件数で「職場のいじめ・嫌がらせ」という項目が、平成24年度に初めて5万件を超えたとのことで、この状況はやはり大きな社会問題であろうと思います。

さて、今回のプロ野球で起こった話は、一般的な企業や組織でいわれている「パワハラ」とは少し状況が違うのではないかと思っています。
なぜかというと、プロ野球の監督と選手の関係は、ついつい企業の上司部下の関係と同じように思ってしまいますが、この点がかなり違うと思うからです。

まず、監督も選手と同じく球団とは契約関係の身であり、成績によってはいつクビになるかわかりません。
さらに選手との力関係でも、監督よりも年俸が高い選手はたくさんいるし、スターはあくまでも選手です。監督と折り合いが悪かったとしても、実力があれば他チームに移籍することだって可能です。

監督は選手起用に関する権限を持っていて、選手との間には一定の上下関係があるでしょうが、成績が悪ければ、監督の方が先にチームを追い出される事もあり得ます。監督が身分安泰の絶対権力者ではないということです。

これに対して、一般的な企業や組織の場合、上司部下の力関係では確実に上司の方が上ですし、部下の方も上司と折り合いが悪いからと言って、他の企業や組織に移るということは、そう簡単なことではありません。上司よりも部下の給料の方が高いなどということも、特に日本企業の場合はまだまだ稀でしょう。

こんなことから考えると、一見上下関係が厳しそうなプロ野球より、企業の方がはるかに上司部下の力関係の差が明確であり、「パワハラ」を産みやすい環境といえるのではないかと思います。
このところパワハラが原因での自殺という報道をいくつか耳にし、そこで多かったのは警察や自衛隊などで起こった事例ですが、これらの組織は比較的上下関係が厳しく、上司に対して意見が言いづらい風土があるのでしょう。

その一方で最近は、ごく普通の業務指示と思うことでも、ちょっと厳し目に注意しただけでも、部下の側から「パワハラだ」などと言われるケースが増えていると聞きます。
こんなことを聞いていると、どちらが良いとか悪いとか一概には言えず、ついついどっちもどっちなどと思ってしまいますが、パワハラ自殺などという事態にまで発展してしまうというのは、やはり力関係が上である上司の側に問題が多いと言わざるを得ません。

「パワハラ」というのは、事実関係がどうあれ、受けた人がそうだとと感じてしまえば、それは「パワハラ」ということになります。
ある調査では、パワハラに関する相談件数が多い職場に共通する特徴として、「上司と部下のコミュニケーションが少ない」という結果がありました。

お互いを尊重したコミュニケーションを取るということが、まずは問題解決に向けた第一歩ということなのだろうと思います。
「コミュニケーションが良くない」という点は、今回のプロ野球の件でも共通しているのかもしれません。


2014年5月9日金曜日

「仕事があるのに働かない」の批判は正しいか


有効求人倍率は、昨年の後半から1.0倍を超え、数字の上での雇用環境は少しずつ好転してきているようです。

現場の人手不足感はこれよりさらに進んでいる印象で、私が関わることが多いIT業界では、技術者不足がかなり顕著になってきています。

それ以外でも、例えばアルバイト募集が不調で、ある時間帯を一時的に閉店しなければならなくなった24時間営業の牛丼店、人手不足による労働環境悪化を食い止めるとのことで、全体の1割近い店を閉店するという居酒屋チェーン、アルバイトの正社員化で人材確保しようとする大手衣料品店の話などがあります。

求人倍率が好転し、このような人手不足という話になれば、それこそ「働く気さえあれば仕事がある」という環境と言えますが、こんな状況であっても、現実にはなかなか仕事が決まらない人、働きたくても働けない人がまだまだ大勢います。また、こういう人たちを指して、「仕事があるのに働かない」「働く気がない本人が悪い」と批判する人がいます。

その批判が正しいのかどうかを考えると、確かに中にはただのわがままや選り好みという要素はあると思いますが、私はどうしても一方的に批判する気持ちにはなれません。
やはり、その人その人によって、できる仕事や向いている仕事は違うからです。

例えば、最近の建設業界の現場は大変な人手不足ですが、「若いうちは体力があるんだから、職がないならこういう仕事をやればいい」などという人がいます。

でも、若いから体力があるとは限らないし、昔に比べて圧倒的にインドア派が多くなっている現代では、こういう仕事をするのはかなりハードルが高いと感じる人がたくさんいるでしょう。実際にやって見たけど、きつくて続けられなかったという話も聞きます。

肉体労働から頭脳労働、単純作業から専門技術、職人さんからサービス業など、またその逆方向も同様に、自分の経験や志向、適性との距離があり過ぎる仕事は、いくら人手不足で求人があるといっても、実際にやるのは難しいと思います。
また年齢が高くなるほど変化への対応はしづらくなっていくので、職種間の距離が遠いと転換することが難しくなっていきますが、これは本人の努力だけでは解決できない、致し方ないことだと思います。

この状況を、「仕事があるのにやろうとしない」「わがまま」「選り好みをしている」などと批判することは、やはり少々的外れのような気がします。

このところ、成長戦略の一環と称して、成長産業への人材シフトを図るためには人材流動化が必要で、“だから解雇規制を緩めるべきだ”などという議論がありました。スキル転換も職業訓練を徹底すれば可能だという人もいます。

それぞれの考え方は間違ってはいないと思いますが、「職種を変える」というのは、実際には結構大変な労力が必要なことで、職種によってはそう簡単に行くものではありません。
これには、かなり細やかなマッチングのための取り組みが必要であると思いますが、「仕事があるのに働かない」という批判は、この取り組みを阻害するような気がしてなりません。

「職種を変える」ということは、そう簡単なことではないということを理解した上で、いろいろな対策を考える必要があるのだろうと思います。


2014年5月7日水曜日

奇抜な採用活動の効用は?


Webサービス会社のサイバーエージェントでは、新卒の採用試験の様子をドキュメンタリー形式で動画公開しています。いろいろ話題を呼びそうな企画ですが、注目されることでの自社PR効果は十分にありそうです。

東京のある企業では、「マッチョ枠」と称して、運動能力を試す試験の上位者は無条件で最終面接まで進めることとして話題になりました。大学までテニス一筋だったある女性社員が、入社後にめきめきと頭角を現し、若くして支店の責任者になった事が導入のきっかけだそうです。運動能力の高い人の方がメンタルが強く、仕事は休まず、キビキビ動けて仕事も速く、成果を上げてくれる可能性が高いからだそうです。

ディスカウントのドン・キホーテでは、「大学名などにとらわれず、人物重視の姿勢で優秀な人材を募りたい」として、履歴書不要の採用をするそうです。3月に始めた中途採用で履歴書不要としたところ、応募者がほぼ倍増したとのことで、これを新卒採用にも導入するのだそうです。

かつてはソニーが学歴不要の履歴書を使ったことで話題になりました。そのソニーでも、昨年から卒業後3年未満であれば新卒応募可能、配属先を自分で選ぶコース別採用、スーツ不要で服装自由などの取り組みを始めていて、それらは今年も継続されるようです。

企業の採用活動では、特に新卒採用を中心として、このような奇抜と言っても良い採用方法を取る企業が最近特に増えています。人材確保に関しては、求人倍率のような単純な指標では測れない部分がありますし、優秀な人材の獲得競争は、それだけ危機感を持っている企業がたくさんあるという証明でもあると思います。

サイバーエージェントの例は、企業PRの色彩が強いので、他社とは少し異なりますが、それ以外の取り組みは応募資格や選考方法など、直接的な採用活動に関わることが中心です。
今まで応募されなかった層にアプローチする、選考基準の視野を広げるなど、その目的は様々で、各社がそれぞれ工夫しながらの取り組みというのは、とても大事なことだと思います。

これ自体は良い取り組みであるという前提で、一つだけ気になることがあります。

例えば「マッチョ枠」の件でいえば、前例となった女性は、本当に体育会だから頭角を現したのだろうかということです。学歴不問の件でいえば、それで本当に先入観が排除できるのか、服装自由にすれば、本当に今まで来なかった人材に出会えるのかということです。

これらは、「こういうやり方をすれば、人材の質がたぶん変わるだろう」という、一種の思い込みのように感じてしまうのです。体育会だからと言って、体力も根性もある活発な人材ばかりかといったら、必ずしもそうではありません。「そういう人の比率が高い」と言われれば、私自身も確かにそんな傾向があると思わないでもないですが、必ずしもそうとは言い切れないでしょう。

学歴不問の件でも、本当に選考の最後まで徹底して聞かないのならまだしも、きっとどこかで学校の話題は出てきます。かつてのソニーでも、結局はリクルーターが母校から後輩を引っ張っていたりするので、採用実績は有名上位校ばかりとなり、学歴不問は単なるパフォーマンスだと揶揄する声もあったようです。

心理学用語で、「物事に対してその人が無意識のうちにしてしまう、ある決まったものの見方や考え方」をいう「スキーマ」という言葉があります。
この「スキーマ」は、自分のスキーマに合うことは強く印象に残って強化され、合わないことは無視してしまうという傾向があります。

体育会人材、学歴不問、履歴書不要のどれも、どこかにこの「スキーマ」という一種の思い込みを感じてしまいます。視野を広げるために始めた取り組みが、視野の偏りを増すことになってしまっていないかが気になります。

「人を見る目」の本来の基本は、このスキーマを作らないことだと言われますが、実際には難しいことです。私自身もなかなかできません。
ただ、様々な志向を凝らしたせっかくの取り組みが偏った思い込みになっていないか、本来の目的に合致するかどうかは、今一度見直してみることも必要ではないかと思います。


2014年5月5日月曜日

お金へのこだわりの他責


アメリカのAmazon社が、同社を辞める社員に、勤続1年ごとに1000ドルずつ、最大5年分までの最高5000ドル(約50万円)を提供する制度を始めたのだそうです。

その背景は、同社としてはできるだけ社員に留まってほしいと考える一方で、「お金を受け取れば仕事を辞めてもいい」と考えている社員は、会社の長期的な展望に満足していないと見なして、その人たちに去ってもらうことで、残った社員の満足度を向上させようという考えなのだそうです。

この考え方を聞き、なるほどと思ったことと合わせて、少し思い当たったことがあります。

私がこれまで社員採用に関わってきた中で、中途採用の場合は、応募者との間で給与条件などの折衝を行うことになりますが、中にはその金額について、かなりシビアな要求をしてくる人がいます。
そのこと自体は全く悪いことではありませんが、そういう経緯を経て入社した人は、概してあまり長く在籍せずに辞めて行ってしまうことが多いと感じていました。

こういう人に辞める理由を聞くと、仕事内容や社風などではなく、「転職先の会社の方が、待遇条件が良いから」と言われることが多かったように思います。そして、ここでいう待遇条件とは、ほとんどが給与額の部分でした。

私がいた会社は、業界最高水準の給与を出せるような会社ではなかったので、辞める理由が給与だと言われてしまうと返す言葉がありませんでした。
ただ、給与に関するこだわりを、すでに実績を上げてきた経緯の中で述べる場合とは異なり、入社前からこだわる人は、入社後においてもそこまでの評価をされなかった人も多く、自分の処遇の現状を、自分の能力よりは周りの環境のせいにしている傾向を感じていました。

そんなことから、社員に長く会社に留まって勤務してほしいと考えた時に、入社時のまだ実績がない段階でお金にこだわるタイプの人は、あまり採用すべきでないと思っていました。やはり、お金の優先順位が高い人は、お金を理由に辞めていくということです。

お金のために働くことは当然のことですし、そこにこだわることも、そのための転職も全く悪いことではありません。

ただ、自分の処遇状況を、周りの環境だけに原因を求めてしまうのは、あまり良いこととは思えません。少なくとも会社側からは、他の社員の満足度を下げる存在と捉えられてしまうように思います。


2014年5月2日金曜日

「ミスを隠す風潮」に感じる子供っぽさ


旅行会社の社員が、遠足のバスの手配をし忘れていたというミスを隠すため、遠足を中止に追い込もうと考えて、生徒を装って自殺をほのめかすようなメールを送っていたという出来事がありました。

このような現場のミスを隠そうとすることが、最近よく目につくように感じます。
警察官が事件の証拠品を紛失してしまい、別の物品に差し替えてごまかそうとしたり、郵便配達員が、時間内に配達が終わらなかったからといって、郵便物を届けずに捨てたり、建築物の強度偽装や食品の賞味期限偽装などということもありました。

この手の話題を見ていていつも思うのは、「想像力の欠如」ということです。
遠足バスの件でいえば、手配ミスが発覚した時に、何とか緊急に手配して間に合わせることができればそれが一番良いはずですが、なぜ「遠足を中止にさせよう」という発想になったのかが良く理解できません。これは極端な例なのかもしれませんが、すべてに共通するのは「その場しのぎでとりあえず隠してごまかす」ということです。その嘘やごまかしが、もしもバレて発覚したらどうなるのかという点には、まったく想像が及んでいません。

このような対応は、小さな子供がよくすることように思います。「注意されても聞こえないふりをする」「隠してごまかそうとする」「他の子のせいにする」など、とりあえず自分が怒られないように、その場を何とかやり過ごそうとし、その行動の結果にどんな影響があるかまでには考えが及びません。これから知識経験を積んで行かなければならない子供の場合では、仕方がないことなのでしょう。

何かを隠す理由として、「周りには言いにくい」ということがあると思いますが、これは最近よく言われる「嫌なことは避ける」という傾向に通じるものがあります。
「失敗を極度に恐れる」という傾向も、「誰にも失敗を悟られたくないから、他人には一切言わずに自分だけで解決しようとする」というところにつながります。
「自己中心的」ということでは、自分の都合だけを考えているので、物事の優先順位がいびつに捉えられているということがあります。

「想像力の欠如」というのは、経験が少なくて先のことを想像できないということで、全体最適を考えられないということです。一言で言ってしまえば「子供っぽい」となってしまいますが、企業組織で働く人材として、これは致命的です。また年齢、年数を重ねるほど、その問題は大きくなっていきます。

そういうことであれば、できるだけ若いうちから「最悪の想定と、その中で最善の解決策を考える」という全体最適の視点を身につけさせるように教えていかなければなりません。
自分の部下たちに対して、「常識で考えればわかる」などとタカをくくっていると、いつか大変なしっぺ返しを食らってしまうことになりかねません。

「常識で考えればわかること」も、教えていかなければならない時代になって来たのだと思います。