2020年4月30日木曜日

コロナ後の評価制度は「結果重視」になるという話から


今は在宅勤務で働いている人も多いと思いますが、当初はなかなか導入が進まず、満員電車を避けたい気持ちを持ちながら、通勤せざるを得ない状況がありました。

その一因として、日本企業の人事評価を挙げている記事がありました。仕事の結果ではなく、未だに途中のプロセス重視で評価しているため、在宅勤務のように仕事をしている様子が見えない働き方が、余計に難しいからだということでした。働いている部下が目の前にいて、常に仕事ぶりを観察していないと評価ができないといい、これから働き方が変わっていく時代では問題だといいます。
在宅勤務は新型コロナをきっかけに進みましたが、コロナが終息した後も、在宅勤務をはじめとしたテレワークでの働き方が増え、合わせて評価制度も「結果重視」に変わっていくだろうとのことです。

この話を聞いて、私はそれを否定するものではありませんが、今の評価制度がテレワークのネックになっているというのは、ちょっと言い訳じみた感じがします。もう30年以上も前から「成果主義」「結果重視」と言われてきて、ずっと取り組みをしてきたはずなのに、何をいまさらと思います。

ただ実際のところ、「結果重視」と言いながら、なかなかそこまで到達できていない会社が多いのは事実です。「頑張ったから」をはじめとした主観的な情意評価は、今でもよく目につきます。

ではなぜ「結果重視」の評価が根付かないのかといえば、私が考える理由は大きく二つあります。これは、チーム競技のプロアスリートを見ると、わかりやすいと思っています。

一つは、今のままで「結果重視」にすると、かえって不公平が助長されるからです。
多くの会社は「売上」「利益」をはじめとした一般的な定量指標と、設定した目標の達成度で「結果」を評価しますが、ここに問題があります。
まず定量指標ですが、例えば「売上」「利益」というのは、野球の打者であれば「安打数」「打率」、投手であれば「勝利数」「防御率」、サッカーでいえば「得点数」のようなもので、この指標だけでいろんな役割の人の「結果」を正しく評価することはできません。
目標達成度も、そもそもの目標数字だけ上から降りてくるなど、設定自体が適切とは言えないことが数多くあります。
そうなると、純粋に「結果」だけを問うのは不公平になるので、プロセスと合わせて総合評価をしてバランスを取っているのです。

ここで、例えば野球のメジャーリーグでは、出塁率と長打率を足し合わせたOPS(On-base plus slugging)という指標があり、これが本塁打や打率、打点だけでは評価できない部分をカバーして、打者の能力がより的確に評価できる指標とされています。
他にもいろいろな指標がありますが、同じように会社の人事評価でも、より的確な評価指標を作らなければなりません。

もう一つは、人材育成の環境や仕組みが整備されていないからです。
プロアスリートは強く「結果」を問われますが、所属チームは選手の競技力向上を、決して本人任せにしません。練習場やトレーニング機器ほか設備を整備し、一流のコーチ陣を配置して選手のレベルアップを支援します。「結果重視」であるとともに、その「結果」を出すためのサポートを徹底的に行います。もちろん、それぞれの財政事情はあるので、チームの身の丈に応じたものです。

これが企業の場合、「結果」と「育成」は、つなげて考えていないところが多いようです。しかし、「結果」を問うからには、それを出させる責任は会社にもあります。テストをして通知表だけ配って、問題の解き方を教えない学校はありません。
「結果重視」を言うからには、今まで以上に「人材育成」のこともセットで考えなければなりません。

これからの企業の評価制度が「結果重視」になっていくのは確かでしょうが、それがなかなか進まない理由は、年功序列やプロセス評価の問題ではありません。「結果」を測る指標を明確にし、合わせて人材育成にも取り組まなければ、「結果重視」の評価をおこなうのは難しいのです。
そこに気づいて取り組む会社が、「結果重視」を実現して競争力を高めるのだと思います。

2020年4月27日月曜日

松岡修造さんの「方法論なしでの“頑張れ”を言わない指導」


新型コロナの自粛は、もう頑張るしかないのだと思いますが、ゴールが見えないからよけいに「本当にこれで良いのだろうか」という疑問もわいてきます。
楽観論と悲観論の両方がいろいろな形で言われ、たぶん今は最悪の状況を想定したうえでの動きなのでしょうが、特に日本の場合は検査数自体が少なく、疫学的な調査もまだまだ進んでおらず、公表される情報の不足や偏りも感じ、とにかくエビデンスとなる情報が足りていません。
未知のことが多いので仕方ない部分はありますが、どうも根拠がないままで「とりあえず頑張れ」という精神論を言われている気がして、今一つしっくりこないところがあります。

同じような「頑張れ」は、日常の仕事の中でもあります。
例えば「自分は頑張ってきた」という自負がある経営者や管理職の人は、他人にも同じく「頑張ること」を求めがちですが、何をどう頑張ってきたのかが、その人にしか当てはまらないことだったり、抽象論や精神論であったり、根拠が良くわからないことがあります。
それに黙って従う人もいるのでしょうが、私はほとんどの場合で納得感が持てません。

そんなことを考えている中、元プロテニスプレーヤーの松岡修造さんが、ジュニアを指導している「修造チャレンジ」に関する話が目に留まりました。
松岡さんご本人に対するイメージは、喜怒哀楽をはっきり表現する情熱的なもので、ともすれば根性論を持ち出しそうに見えてしまいますが、これとは全く正反対のお話をされています。

トレーニングは、綿密に論理的に組み立てられた内容で展開されているということで、各自の指導方法はメンタルトレーナーとも相談しながら、その子の性格や家庭環境などまで考慮して、かなり計算をしたうえでおこなっているとのことです。
その子の実力を見極めて、「あきらめなければ届くこと」にしか「あきらめるな」とは言わないそうで、根拠なく「やればできる」というのではなく、できない理由やできるようになる方法を考えて指導するといいます。基本を教えたうえで、壁を乗り越えるための最後の一押しとして、前向きな言葉を掛けることが有効だということです。
「具体的な方法論がないまま“頑張れ”と言うだけではできるわけがない。根拠や理論に裏打ちされていない“根性論”は一番嫌いです」と言っていました。

人材育成にあたっている管理者、上司、先輩社員の中には、この言葉を耳が痛く感じる人は多いのではないでしょうか。よく見かけるのは目標設定だけを指示して、そのやり方を本人に丸投げしているような場合です。その理由は、「自分もそうやって自分で考えてやってきたから」です。

もちろん、そのやり方で育つ部下、ついてこられる部下は確実にいます。ただし、それはその人の能力を見極めた指導をしたわけではなく、教える側の人が自分自身の経験したやり方をそのまま押し付けただけです。そのやり方にはついてこられない人も必ずいて、それはその人の能力、性格などに合わせて違うやり方を考えなければなりません。
しかし、こういうときは多くの場合で「本人の能力不足」ということにされ、指導する側の問題はあまり問われません。このような根拠を持たない指導は問題です。

できる可能性が低く、方法論を与えないままでの「頑張れ」は、ただの精神論、根性論でしかありません。根拠や理論を持ったうえでの「頑張れ」でなければ、決して人は育ちません。
別のきっかけからではありますが、先の見えない「頑張れ」のつらさを、最近あらためて感じています。


2020年4月23日木曜日

「通勤がなくなって気づいたこと」という話を聞いて


まだ取り組みが足りないなどと言われながらも、私の周辺ではほとんどの人が何らかの形で「在宅勤務」に入っています。
週に数日出社するような人もいれば、もう一か月近くの間、ずっと在宅勤務だという人もいます。

実際にやってみて、かなりの仕事が在宅でも問題なくできると感じた人は多いようです。家でできない理由も、ペーパーレス化がされていない、オンライン対応ができていないなど、環境整備の問題が多いので、できることは今後さらに増えていくのでしょう。

多くの人が会社に通勤する必要がなくなり、少なくともその点では時間が有効に使えると思いますが、あるメディアで「通勤しなくなった当初から、今の感じ方が変わってきた」という人たちの、感想がまとめられている記事を目にしました。

在宅勤務が始まったばかりの頃、多くの人は「やっぱり通勤は無駄」「体力的に楽」「効率的」など、通勤せずに済むことへの肯定的な気持ちか強かったそうですが、その在宅勤務がしばらく続き、二週間を過ぎた頃から、「実は通勤には結構意味があった」と感じ始めたという話でした。

多かったのは「オンとオフとの気持ちの切り替えに役立っていた」というものです。
朝夕の通勤があることで、それぞれがウォームアップ、クールダウンの時間となっていて、気づかないうちに気持ちの切り替えができていましたが、在宅勤務では仕事とプライベートが隙間なく隣り合わせのため、どうしてもごちゃ混ぜになってしまうことがあり、けじめがつかずにかえって疲れるとのことです。
私の周りにも、仕事場は自宅と別に事務所や部屋を借りていて、自宅に仕事のものは一切持ち込まないという人がいますが、そうやって物理的に場所を分けないと、けじめがつけづらいことは確かです。

「通勤が結構適度な運動になっていた」というものがありました。
在宅勤務になると本当に動く機会が少なくなり、腰痛を発症したり運動不足を実感したりという人が増えているようですが、「知らないうちに良い運動になっていたことがわかった」という人がいました。

「本を読む時間が無くなった」という人がいました。通勤時間に読書をする習慣があった人は、みんな同様のことを言っています。使い道が限られる時間なので、そこでしていたことを他の時間帯に振り替えるのが、なおさら難しいのでしょう。

「会社でも家庭でもない、唯一の自分の時間」という人もいました。自分の生活の中のバッファの時間だったのでしょう。
「会社に行くついでに、結構いろいろなところに立ち寄っていたことがわかった」という人がいました。今は買い物であちこち出歩くことはできませんが、「通勤がないと、あえてそこまで出かけない」「通勤があるおかげで行動範囲が広がっていた」とのことでした。

私はもともと自宅でも仕事をすることが多いですが、それなりに移動があったので、その時間が気分転換になっていたことは確かです。仕事を理由に出歩くことで、行動範囲が広がっていたのも同感です。

このことであらためて思ったのは、「人間に無駄に過ごしている時間は一切ない」ということです。一見無駄なように見えても、違う角度から見ればその時間にも意味があるのです。ただ、違う角度から見た意味に気づいていないだけだと思うのです。

あまりにも遠距離通勤で健康を害したりするようでは問題ですが、適度な時間であれば、通勤もその人にとって、その人なりの意味がある時間です。
どんなことでも表と裏があり、それぞれに意味があるのだと強く思います。