2013年12月30日月曜日

計画は「し過ぎ」の「無さ過ぎ」も良くない


2013年も終わりということで、自分なりに今年を振り返っています。

私にとっての2013年は、年の初めの頃に想像していたことと、年末の今までに実際にあったことの違いが、ここ数年では一番大きい年でした。良いことも悪いことも両方ですが、年初と今との変化の度合いが、いつもの年より大きかったように思います。

特に人とのつながりは、初めての出会いだけでなく、それまでの関係がより深まったり、旧交が復活したりということが多く、そんな中から想定外に出てきたことがいろいろありました。

私はどちらかというと、しっかり目標を立ててそれに向かって邁進しようという姿勢が少なく、実はあまりはっきりとした計画を立てないタイプです。
コンサルティング業務では、事業計画も人事計画も手掛けますが、自分のこととなると、そもそもの発想が貧困なためか、どうも現状ありきでの今の延長線上の話ばかりになってしまうことと、「絶対これをやろう」とか「必ずやり切る!」とか思うことが、硬直化した決めつけのように思ってしまうので、あまり細かな計画が好きでないということの2点が大きな理由です。どちらかというと、あまりしっかり計画を立てることを、ついつい「無駄なことだ!」と思ってしまうのです。

ただ、今年起こったことを振り返ってみると、ほとんどは自分で取り組んでいたことや行動していたことにつながっています。本当の偶然もありますが、突然降ってわいたような話も、その事情を確かめると、実は自分がやっていたことや仕込んでいたことがベースにあることが大半でした。
たぶんこれは、事前にある程度の想定ができたはずのことも、私にあまりにも計画の意識がないために、それができていなかったということのように思います。計画が「無さ過ぎ」ということです。

一方で、以前お手伝いをしたある会社に、非常に綿密な事業計画を時間をかけて策定する会社がありました。ただこの会社には、環境変化に応じて計画を見直すことができないという弱点がありました。時間をかけて計画を作っているがゆえに、変更しようにも手続きが煩雑だったり、社内調整が難しかったりということがあり、全社的に、何とかして計画変更をせずにすまそうとする風潮がありました。計画が硬直化しているということであり、こちらは、計画の「し過ぎ」ということでしょう。

計画というのは一種のストーリーですが、計画の「し過ぎ」は、硬直化したストーリーで臨機応変な対応ができず、計画の「無さ過ぎ」はストーリーがないために事前想定もできず、進むべき方向もわからずということになりかねません。

いったい何をどこまで計画するかというのは、はっきりした答えがある訳ではありませんが、「し過ぎ」も「無さ過ぎ」も良くないということだけは確かです。
少なくとも私の場合は、もう少し事前に計画をしておくことが必要なようです。次の事業計画は、もう少しきちんと立ててみようと思っています。


2013年12月27日金曜日

「辞める」ではなく「今いる環境を変える」という選択


私も人事という仕事に関わっている立場上、「会社を辞めたい」という相談を受けることがときどきあります、いや・・・、相談というほどでもなく、今がつらい、やりがいがない、上司が信じられない、周りが使えないなどという愚痴のようなことも多いです。

そんな時私は必ず、「今の会社で自分の力で変えられることはないのか?」と聞くことにしています。
私もかつて在籍していた会社を辞めた人間なので、少々説得力に欠けますが、基本的には、「辞める前にできることがあるはず」と思っています。

なぜかというと、会社で働いている限りはどんな人でも、自分が在籍している会社のことを、他のどの会社のことよりも良く知っているはずです。仕事の進め方、それぞれの人の仕事の能力、周りの人間関係、キーマンが誰なのか、会社の問題はどこにあるのか、どんな解決方法が考えられるのか、などなど。少なくとも自分の周りで起こっていることは、いいことも悪いことも含めてすべての情報を持っているはずです。

それにひきかえ、新しい会社への転職は、これらの情報は基本的にすべてリセットになります。今まで嫌だったことやダメだったこと、直らなかった課題などは無くなるでしょうが、同じように今まで活用してきた社内情報も、身近な人脈も同僚もすべて無くなります。そしてこの良い部分は、内部にいると意外に自覚できていないものです。

よく、「会社の看板がなくなって初めて、自分の実力不足を実感した」という話を聞きますが、今やっている仕事の成果が、自分の力か会社のおかげかを切り分けるのは、なかなか難しいことです。大企業で会社のブランド価値が高い人ほど、自分の実力を錯覚しがちというのも、今いる会社の良い部分が自覚しづらいことの一つの証拠です。

それならば、どう転ぶかわからないリスクをはらんだ新しい会社にかけるより、事情をよく知った今の会社を変えられないかを考える方が、可能性があるのではないかと思うのです。
そんな行動が考えられないような会社、意味がないと思われるような会社もあるでしょうが、それならばせめて「これが解決されないならば辞める」など、差し違えの覚悟でもよいと思います。

もちろん転職することで、それまでとは見違えるようにイキイキと働いている人はたくさんいます。ただその一方で、落ち着ける仕事先をなかなか見つけられずに転職を重ね、「やっぱり一番初めの会社が良かったなぁ」などという話を聞くこともあります。

ただ理由もなく「会社は辞めない方が良い」などというつもりは毛頭ありません。辞めて環境を変えなければできないことはたくさんあります。ブラック企業のように、辞める以外にどうしようもないような会社もあります。
でも、今いる会社が普通の会社で、そこでの課題が見えているならば、「辞める」ではなく「今いる環境を変える」という選択もあるのではないかと思います。 


2013年12月25日水曜日

「お試しできっかけを」という話


あるテレビ番組で、若者に消費を促すには「お試しできっかけを与えることが良いのでは」という話がされていました。

これは親や会社の上司、先輩など周囲の人たちの責任もあるが、未知のことを経験する機会が少なくなっていて、なおかつネットの情報などで、持っていないものでも使った気になったり、食べたことがないものも食べた気に、行ったことがないところでも行った気になってしまったりということがあるのだそうです。

既視感、既知感ということらしいですが、それにプラスして失敗しなくない心理の強さもあり、行動に移すことを躊躇したり、やたらと慎重だったりということがあるのだそうです。
これをお試しで使わせる、お試しで食べさせる、お試しで行ってみるということを通じて、消費行動への躊躇を取り除いていくということらしいです。

人事の世界でもこれと同じように感じることはあり、例えば今話題のブラック企業の話では、就活生がそういう会社には入りたくないとネット上の情報を調べ、それが過剰に慎重になり過ぎて、ちょっとでも気になることがあるとなかなか応募に踏み切れない活動すること自体を躊躇してしまうというようなことがあります。

最近は「インターンシップ」の活用が言われますが、これもお試しの一種なので、社会に出ていく不安や躊躇を減らすためということでは、同じようなことなのだろうと思います。

自分の経験で言えば、会社の上司などに自分ではいけないようなお店に連れて行ってもらい、そこにまた行きたいと思うかどうかは別として、そんな経験をしたということが後々で役に立つこともありました。最高級も最安価も知っていれば、幅が認識できるので、自分が遭遇したものが一体どんなレベルのものかという尺度を持つ事ができたのも良いことでした。
今思えば、自分の上の世代の人たちから、何かとお試しの機会をもらっていたということでした。

世代を問わず、人間は未知のことには何らかの不安や躊躇があって当たり前です。買い物に失敗したくないと思えば、事前にできるだけ情報を集めて失敗がないように準備します。さらに実物を実際に試す事ができたら、失敗するという不安や躊躇はなくすことができるでしょう。
これは新しい仕事でも、新しい職場でも、新しい人間関係でも同じことだと思いますし、この「お試し」にあたるような取り組みを、いろいろな形で実施している会社というのは、あまり目立ちませんが実は結構あります。

特に若手社員に対して、「お試しできっかけを」という考え方は、会社の中でも外でも、意外に多くの場面で当てはまるように思います。


2013年12月23日月曜日

社員に「起業家精神」を求めることへのちょっとの違和感


特に中小企業では、社員であっても「起業家精神」を持つべきだとおっしゃる経営者がいらっしゃいます。

「会社で起こることを人任せにしない」
「何でも我がこととして仕事にあたる」
「全体を見渡す広い視野を持つ」
「経営資源(人、モノ、金、情報・・・)を意識する」
「目的意識、コスト意識を持つ」
「組織を率いるリーダーシップ」・・・・.etc

こんなことを主旨に、社員に向けて「起業家精神」を求めます。「自分の食いぶちは自分で稼げ」などといいます。

確かに、「他責にせず、社員に自律を求める」ということには、私も全面的に賛成です。
私自身が組織に属していないからかもしれませんが、サラリーマンとして企業で働いている仲間や友人、後輩たちと話していて、出てくる会社の愚痴などを聞いていると、「そんなら自分でやればいいのに・・・」などとついつい思ってしまいます。(もちろん、会社にいればそう簡単にいかないことも重々承知しています。私もそうでしたし・・・)

ただ、「他責にせず、社員に自律を求める」ことが「起業家精神」なのかといわれると、私はそれにはちょっと違和感があります。
「起業家精神」を持っている人は、基本的には起業したい訳で、組織に残ってその組織の一員として貢献していくということには、あまりつながらないと思うからです。

社員に「起業家精神」を求めるということは、言い換えれば「どんどん独立しろ」とあおっているともいえます。その独立した元社員たちと取引をして、自社のビジネスを広げて行こうというような発想でもあるならば、それはそれでアリだと思いますが、そうでなければただの「人材流出奨励」であり、なおかつ流出していくのは、自社にとっては優秀な人材ということに他ならないでしょう。

強い組織にするために、「他責にせず、社員に自律を求める」ということは、絶対に必要なことですが、あくまで「組織に帰属した上で」という前提があります。
もしも求めた通りに「起業家精神」に目覚めて、結果的に巣立っていく社員がいたとしても、会社が初めからそれを望んでいることは、ほとんどないのではないでしょうか。特に中小企業ではそうだろうと思います。

求める人材像などを、どんな言葉を使って表現するかということは、実は意外に繊細で大事な部分です。
そう考えると、少なくとも社内の人材育成の範疇では、「起業家精神」という言葉は、ちょっとふさわしくないように思います。


2013年12月20日金曜日

何かを始めるには何かをやめなければできない


これから新年に向けて、新たな取り組みを始めようと考えている方も多いと思います。

先日あるところでうかがったお話で、印象に残ったことがあります。
「何かやめたいことがあるならば、やめた部分を埋める新しいことを始めなければならないし、新しいことを始めたいならば、今までやっていた何かをやめなければできない」
というお話でした。

初めは禁煙を例に出され、
「たばこをやめようと思ったら、それまで吸っていた時間を何かで埋めなければやめられない。だからガムをかんだり飴を食べたりすることで埋めようとする」
ということでした。

私がなるほどと思ったのは、その逆に新しいことを始めようとするときの話で、
「みんな新しいことは積み上げ、上乗せばかりで考えるが、与えられている時間は有限であり、始めるかわりにやめることとセットで考えなければ、新しいことはなかなか続けられない」
ということです。

考えてみると、私は最近ブログやその他原稿を書くことが増えましたが、その代わりにテレビを見る時間が圧倒的に減りました。いつも懇意にしている社長さんとたまたま話した中で、「最近ちょっと面白いゲームにはまってしまって、おかげで読書する時間が減ってしまった」なんておっしゃっていました。勉強をするために睡眠時間を削るなんていうことも、たぶん同じようなことです。

一言で言ってしまえば、物事の優先順位づけなのでしょうが、こうやって「何かを始めたら何かをやめる」ということを、みんな無意識のうちにやっています。逆に今までやっていたことが何もやめられなかったとしたら、きっと新しく始めたことの方が続けられなくなってしまうのでしょう。

さらに思ったのは、この無意識でやっていた「何かをやめること」意識的にできたとしたら「新しく始めたこと」続けられる確率が上がるのだと思います。

「新しいことを始めるには、まずやめることから考える」という方法も、結構良いのかもしれないと思っています。


2013年12月18日水曜日

やる気満々の受け身


「受け身」というと、とかく消極的でネガティブなイメージで語られることが多く、特に最近の若手社員を指して言われがちです。

受け身な姿勢に対して「やる気がない!」といって嘆いたり叱責したりしますが、これをやる気がないと言い切ってしまうのは、ちょっと勝手な決め付けであって、必ずしもやる気が無いという訳ではないはずです。

例えば、仕事に対してはいつも前向きな気持ちを持っていて、できることは何でもやろう、何とか役に立ちたいと思っているとして、でも上司はいつも忙しそうだし、まだまだ戦力になれないような自分が話しかけたりして、そのせいで時間を取らせてしまうのは申し訳ないと思っていたとしたら、一体どんな行動を取るでしょうか。

上司が忙しそうにしていても、それに構わず自分から「何かありませんか」とアプローチをする人もいるでしょうし、いつ指示が出されてもいいように、準備万端、やる気満々で仕事をもらえるのを待っているという人もいるのではないでしょうか。

前者に比べて後者は圧倒的に「受け身」ですが、では前者が良くて後者はダメかというと、一概にそうとは言えないと思います。逆に前者は相手の事情を考えずに、自己中心的な気持ちで、自己アピールのために行動しているのかもしれません。

積極的で行動的という面で見れば、前者が優れているでしょうが、相手の事情を考えて空気を読むということでいえば、実は後者の方が優れているといえます。

こんな風に、「やる気満々」という言葉と「受け身」という言葉は、一見相反するようですが、「やる気満々」という目に見えない主観的なものを、「受け身」という見た目の様子だけで決め付けてしまうと、実際とは違っていることがあります。自分の持っている価値観、思い込みによる決め付けも同じことです。

中には「やる気満々の受け身」という人もいるんだということは、是非認めてあげて欲しいと思います。


2013年12月16日月曜日

若手社員が電話応対を苦手な訳


以前読んだある記事に、「最近の若手社員は会社の電話を取りたがらない」という話題がありました。

メールなど他の連絡手段が普及し、会社にかかってくる電話の本数自体が減ってきて、会社のマナー研修でもあえて電話応対を取り上げないところも出てくるなどした結果、会社の電話に出るのは、その大事さを新人時代に厳しくしつけられた30代の中堅社員ばかりになってしまっているのだそうです。

私も新人研修などで電話応対を教えることがありますが、最近の新入社員は、電話応対に対する難易度をすごく高く捉えていて、とにかく苦手意識があるように感じます。

実際の研修の場面でも、一言一句漏らさず一生懸命メモしていて、まるで台本を作っているようだったり、セリフ棒読みで会話としてつじつまが合っていなかったりと、もはや電話応対とは言えないような状態から始まることもあります。

ただ、これもよく考えれば当然のことで、今の新入社員世代は、電話をするにしてもほぼお互いの携帯電話同士でしかかけないので、そもそも電話応対そのものをした経験、他人にかかってきた電話を取り次ぐという経験自体がほぼありません。

かつては家にある電話で、家族の誰かにかかってきた電話を取り次ぐ経験を当たり前のようにしていたので、研修では言葉遣いや聞いておくべき用件、伝言のしかたなどをやれば良かったのですが、今は本当に一からすべてを教える必要があります。セリフの棒読みもやむを得ないでしょうし、そこにちょっとアドリブを入れたりすると、もう何を話していいのかわからなくなってしまいます。

そうは言っても、その新入社員たちも、その後はきちんと電話応対ができています。スタート時点はひどくても、できるまで時間がかかったとしても、教えればできるようになっています。緊張もせずに普通にできるようになっているので、電話を取りたがらないなんてこともありません。

こう考えると、やっぱり相手のレベルに合わせた教え方と、無理矢理でも最初に一歩を踏み出させて、経験の中で慣れさせてしまうことが大事だと思います。
経験させる機会やタイミングを逸してしまうと、「電話に出たがらない」などと同じようなことが、いろいろ出てきてしまうように思います。


2013年12月13日金曜日

「何気ない声掛け」の大切さ


先日の朝日新聞に、梅澤さんという学童保育のスタッフの方が書いた、「何気ない一言」の影響についての記事が出ていました。

その記事によると、小1のなっちゃんに「学童での一年間で何が一番うれしかった?」と聞いたら、
「ドッチビー(円形遊具でするドッチボール)で梅ちゃん(このスタッフさんの愛称)が『頑張ったね。すごくうまくなったよ!』って褒めてくれたこと」 

と、答えがあまりに日常の一コマ過ぎて驚いたそうです。

また、小2のひろみちゃんに「髪の毛切ったんだ。似合うね!」と声をかけたら、
「学校ではだれも気付かなかったの。だから変なのかと思ってた」 

とものすごく感謝され、逆に恐縮してしまったとのこと。大人の言葉がこんなに子供たちに深く影響するのを目の当たりにして、背筋が伸びる思いだったとのことでした。

子供との感受性の違いはあるので、影響は違うと思いますが、これは大人でも同じようなことがあります。

会社でちょっと元気がなさそうなので、それとなく声を掛けてみたら、実はプライベートに問題を抱えていたとか、体調が悪いのに無理をしていたとか、本人が言ったことも忘れているような言葉なのに、それに勇気づけられたと後々になって言われるとか、逆に気軽な一言や余計な一言にショックを受けていたとか、本当にいろいろです。

マネジメントに関わる方は、特に気を使うところでしょうが、中にはマイナスの影響を恐れて、「部下に余計なことは言わない」とおっしゃる方がいます。無難にこなそうとすれば一つの考え方ではありますが、こういうマネージャーの配下では、やはりコミュニケーションが活発でなく、上下の信頼関係も薄いことが多いようです。

心理学では「単純接触の原理」といって、「個体間の親密さは、接触回数、接触頻度が多ければ多いほど増す」というのだそうです。人間関係で言えば「顔を会わせたり、話したりする回数や頻度が増えるほど、相手に対して好感を持つ」という事です。

もちろん誰しも苦手な人はいますから、簡単にいかないこともあるでしょうし、マイナスの声掛けにならないようなデリカシーも必要だと思いますが、新聞記事にあるような子供たちの様子を聞くと、あらためて「何気ない声掛け」の大切さを感じ、大人であっても「何気ない声掛け」を通じて、信頼関係を高めていくことはできるのではないかと思います。


2013年12月11日水曜日

あらためて「限りある時間」の話


以前、別のコラムに書いたことがある内容ですが、また同じように思うことがあったので、あらためて書こうと思います。

今年の春に、公私ともにお世話になっていた方が亡くなった時のお話です。
その方は私が初めに入った会社の経営陣の方で、その後会社が合併したりする中で、経営からは離れていきましたが会社には残り、どちらかといえば飲み仲間のように付き合って下さった方です。

昨年末に「今を逃すと飲めなくなるかも」と思って飲み会をやったのが本当に最後の飲み会になり、「いよいよ会えなくなるかも」と思ってお見舞いに行ったのが本当に最後のお別れになってしまいました。もう少し時間があると思っていましたが、やっぱりそうはいきませんでした。

私の父も3年前にがんで亡くなっていますが、その時もやっぱり自分が想像していたより時間はありませんでした。
実はその教訓もあったので、飲み会もお見舞いも、思い立った時にすぐ行動するようにしました。お亡くなりになったことは寂しいですが、その行動のおかげで、少しは自分の気持ちの整理がつけやすくなりました。

私は気を許していると何でも先延ばししてしまうタイプですが、年齢とともに少しずつ「時間に限りがある」ということを感じるようになりました。
「いつか行こう」「いつか会おう」「いつかやろう」と思っていると、本当に“行けなく”なったり“会えなく”なったり“できなく”なったりすることにときどき遭遇するようになりました。特に「いつか会おう」“会えなく”なってしまった時は本当に後悔します。

こういうことがある度に、「気になったことはすぐにやる」ということが大切であると、あらためて感じます。
 時間には限りがあると自覚すること、できることは早く行動すること、特に会いたい人には会える時にきちんと会っておくことは、年を重ねるほど大事になってくる気がします。
自分が後悔することが少なくなるように、自分のために意識していこうと思います。


2013年12月9日月曜日

教える側の忍耐不足


「坂田ジュニアゴルフ塾」塾長の坂田信弘氏のインタビュー記事の中に、「人を指導するには目標を持つこと、夢を持つこと、希望を持つことが大事であり、それには忍耐や覚悟が必要だが、最近それが希薄になっていると感じる」という話が出ていました。

指導する側にはどこかで献身や忍耐が必要になるが、それがないと、例えば学校であれば、教わる側の子どもたちは「この先生は自分のことを信じてくれていないな」「この先生を信じていいのかな」と疑問を持つようになるのだそうです。特に子どもは賢いので、自分たちを教える人がどこまで自分たちに責任を持っているのかという、大人の心の中をすぐに見抜いてしまうのだそうです。

企業の人材育成の中でも、これと似た傾向を感じます。目の前の業績を優先する会社が多い傾向や、それに関連して教える側の余裕がないせいもありますが、何かと見切りが早いような気がします。少し教えただけなのに、ちょっと反応が悪いと「こいつは使えない」と投げ出したりします。

こういう私自身も、若い頃は見切りが早い傾向があったと、今となっては反省しています。その当時は、ある程度様子を見ていれば、その人の先行きの到達点はわかると思っていて、それによってこいつはできるとかできないとか、早い段階から決めつけていたと思います。やっぱり若い頃の方が気は短いですし、経験を積んで行くとともに、徐々に許容範囲が広がっていったように思います。

人材育成においては、もちろん教わる本人が、自分努力することは大前提ですが、昔の徒弟制度のように「見て覚えろ」などというのは、企業の人材育成としては効率が悪いし、無責任とも言えます。

変化のスピードが速い中で目先に利益ばかりを追いかけると、どうしても答えを早く求めがちになりますが、人材育成には相応の時間が必要です。これをおろそかにすると、結局自社の業績にマイナス効果となってはね返ってきます。

坂田さんの言葉を聞いて思うのは、やはり教わる側と教える側との間に信頼関係が無ければ、人は育たないということです。今までの自分の経験を振り返ってみると、否定せずに根気よく向き合った相手ほど、信頼関係を築くことができていたと思います。その中には、残念ながら期待したレベルには届かなかった人もいますが、思った以上に、しかも後天的に伸びた人もいます。

人を育てるには相手との信頼関係が必要で、その信頼関係を保つためには、教える側の覚悟、責任、そして忍耐が、とても大事になるのだと思います。


2013年12月6日金曜日

「継続は力なり」か、それとも「あきらめが肝心」か


「継続は力なり」「あきらめが肝心」はそれぞれ格言、名言として有名ですが、全く正反対の言葉です。
では、いったいどちらが正しいのでしょうか・・・。

たぶんそんなことを考えるのはナンセンスで、時と場合によって、きっとどちらも正しいだろうと思います。

そうは言うものの、私が最近聞いたお話で印象に残ったことに、「マサイ族の雨乞い」という話があります。
この話はすでにご存知の方もいるでしょうが、マサイ族が生活しているケニア南部からタンザニア北部一帯というのは8割以上が半乾燥地帯ということで、雨乞いの儀式があるのだそうです。ただ、その雨乞いでは、100%必ず雨が降るのだそうです。
この理由は科学でも超能力でもなく、「雨が降るまで雨乞いを止めないから」なんだそうです。

他にも、よく「成功者は成功するまであきらめなかった人」などと言います。こんなことから、やはり私は「まず継続することが大事」というふうに思います。どんなことでもまず継続してみないことには、何がどうなのかはわからないと思います。大して取り組んでもいないうちに、「あきらめが肝心」などと言って止めてしまうのは、この「あきらめが肝心」という言葉の本来の主旨とは、たぶん違うはずです。

ある会社で、新規事業と言って何か事業を始めては、ちょっと結果が出ないとすぐに撤退してしまうところがあります。経営者は「深手を負わないうちに」「早い見極めが大事」と言いますが、成り行きを見守りながら続けていこうという気が無いのなら、そんなこと初めからやらない方が良いはずです。「あきらめが肝心」をちょっと勘違いしている例ではないでしょうか。

私は「継続は力なり」で、できる限りは続けてみて、無理をしなければどうしても続けられなくなった時にこそ、「あきらめが肝心」なのだと思います。

見切りが早いばかりでは、何も身にならないと思います。


2013年12月4日水曜日

「報われない努力」の方が多いはず


先日ある方が、「自分はこんなにいろいろ努力をしているのに、報われることが全然ない」という嘆きと愚痴を延々と話していました。
あまり良い話ではないので、私にとっては少々耳障りだったのですが、話を聞いていると、その人は確かにそれなりに頑張っているし、そんな気持ちになるのも多少は仕方がないかなとも思いました。

ただ、「努力すれば報われるのか?」といえば、必ずしもそんなことはありません。
成功体験がある人ほど、自分の「報われた努力」の話ばかりをし、「報われない努力はない」「だから努力を怠ってはいけない」と言います。
もちろん私だって、「努力は必要」だと思いますし、「いつかは報われるもの」と思っていますが、実際にはその裏に数えきれないほどの「無駄な努力」「報われない努力」があると思います。

「無駄な努力」というのは、まさに無駄なので、実は努力には値していないのかもしれません。それ以外の本当の意味の努力の中でも、圧倒的に多いのは「報われない努力」であって、ごく一部の「報われた努力」を自分のモチベーションとして、多くの人が頑張っているのだと思います。
「報われない努力」ばかりに注目していたらやる気なんてなくなってしまうから、それぞれの人が体験してきた、実際にはごく一部のことかもしれない「報われた努力」に注目して、何とか努力を続けようとしているのだと思います。

「努力が報われない」というのは意外に当たり前のことであって、冒頭のお話の人も、そんなことを嘆いたり愚痴ったりしても、あまり良いことはなさそうに思います。
圧倒的に多いはずの「報われない努力」を嘆くより、「もしかしたら良いことに出会うかもしれないから・・」という気持ちで努力することが必要なのだと思います。

そんな事を考えていたら、「宝くじは買わないと当たらない」「参加しなければ権利もない」というところに近い感じがしてきました。とりあえずは、何か良いことに出会う権利を得るために、できる努力はしておいた方が良さそうです。(ちなみに私は、まだまだ努力が足りませんが・・・)


2013年12月2日月曜日

自信を失うことが多い就活だけど・・・


いよいよ再来年の新卒の就職活動が解禁になりました。少しずつですが、毎年明るい兆しも見えてきているようなので、これは喜ばしいことです。

ただ、実際に活動を始めると、たぶん自信を失うようなことに、思いのほかたくさん出会うのが就職活動だと思います。バブル真っ盛りの就職ならいざ知らず、一社も不採用にならずに就職活動を終えるような人は、よほどでなければいないでしょう。

採用活動をしている企業の側から見ても、合格者よりも不合格者の方が圧倒的に多いという会社がほとんどでしょうから、これは就職活動をする学生さんにとっても同じ結果になります。採用内定という成功体験より、不採用という失敗体験の方が圧倒的に多くなるということです。

また、就職活動の中で精神的につらいだろうと思うのは、この失敗体験が、どんな原因で起こった失敗なのかがものすごくわかりづらいということです。

例えば受験なら、試験結果を自己採点して見たり、問題ができたかできなかったかという感覚があると思います。またそれが極端に大きく外れていることは少ないと思います。
しかし採用試験の場合は、自分としてはいい感触の面接だったにもかかわらず結果が不採用というように、自分の感覚と結果が正反対に食い違うことがたくさん出てきます。しかもその理由がイマイチ良くわかりません。

採用内定した学生さんに毎年話を聞いていると、失敗は失敗として受けとめ、過度に落ち込み過ぎず、かといって軽視もせず、自分なりに理由を分析したり他人に相談したりしながら、自分のやりたいことや適性を自分なりに考え、面接などの場数を踏んでいく中で内定にたどり着いたという人が多いようです。

中にはあまり苦労せずに内定したという人もいますが、そういう人の方が、入社してから「思っていたイメージと違った」「こんなはずじゃなかった」という確率が、少なくとも私が見ている限りでは高いような感じがします。これは就活に苦労する中で、自分なりにいろいろ考えるというプロセスを、踏んでいるかいないかという違いだと思います。

きっと多くの就活生が、当初自分が思っているより苦労をするし、自信を失うことも多いと思います。でもその経験は、後々になって必ず何かの役に立つと思います。

あまりうまくいかない時期があっても根気よく取り組んで、多くの人が良い結果を得られるよう祈っています。


2013年11月29日金曜日

改めて実感したリアルの大切さ


私は仕事でもそれ以外のことでも、関係する人にはできるだけ直接お会いし、直接お話して、直接現場を見ることの大切さをいつも思っています。

あるきっかけで、九州地方の地元の事業者との交流会を経験したことがあります。農業や地元産品にかかわるお仕事の方々が多かったですが、自分勝手に思っていた「農家」のイメージに反して、若手の「経営者」というのがふさわしい方々が実はたくさんいらっしゃいました。地方ならではの苦労やハンディはあっても、それぞれが工夫し、IT技術など新しいものも活用し、できることから粛々と、でもイキイキと取り組んでいらっしゃいました。

こういう事情は、やっぱり実際に見て、お会いして、お話しないとわかりませんでした。また一度お会いすると親近感もわくし、知り合いということで情も出てくるし、人と実際につながることは本当に大事だと思いました。

ある会社の新入社員の女性から、学生の卒業旅行に関する話の中で聞いたのですが、彼女たちの同世代で特に男子は、「ネットで見ればわかる」とか「日本より不便だからイヤだ」などといって、海外旅行にはあまり行きたがらないそうです。

実際には見ていないのに、バーチャルの世界でわかったつもりになり、それで満足してしまっているということなので、何かとてもマズイ傾向ではないかと感じてしまいます。

確かに直に経験できることには限りがあるし、書物や映像やネットを通じての知識や経験も大事です。
でもやっぱり、それらはあくまで直接の経験を補完するものでしかないということを、あらためて意識しなければいけないのではないかと思いました。

リアルの大切さをあらためて感じた一件でした。


2013年11月27日水曜日

「その場しのぎ」は結局自分が損をする


 猪瀬東京都知事の現金受け取り問題で、ご本人が釈明している内容が二転三転するなどして、どんどん信頼感が薄れてしまっている気がします。道義的な責任は間違いなくあるでしょうが、罪になるほどかどうかは、まだわからないような状態にもかかわらずです。

ご自身がまったく把握していなかったのかもしれませんが、発言が「その場しのぎ」のウソに見えてしまうので、世間からの見られ方としては、ずいぶん損をしていると感じます。

皆さんの会社の中や自分自身の仕事上のことでも、「その場しのぎ」の対応というのは、どんな人でも一度や二度はやったことがあるかもしれませんが、ウソが後からバレて問題になったり、その場限りと思っていた人に再び出会って気まずい思いをしたり、信頼を失ったり、人間関係を壊したりと、結局自分が損することが多いはずです。

ただ、中には「その場しのぎ」の対応に終始するタイプの人がいます。
これは私の知り合いの話ですが、セールスに何でも嘘をついて断る人がいます。牛乳屋さんには「牛乳飲みません」、ふとん屋さんには「うちはベッドです」、畳屋さんには「畳の部屋がありません」という感じです。

一見その場をうまくやり過ごしているように見え、本人もそれで困ったことがないからそうするのでしょうが、もしかすると後々事情が変わって、その業者を利用しないとも限りません。同業者同士でつながっていて、巡り巡ってウソがばれるかもしれません。
バレたとしても大したことがないウソなので、どうでも良いことなのかもしれませんが、初めから余計なウソをつかずに、普通に「いりません」と断っていれば、こんなことを気にする必要すらないはずです。

「その場しのぎ」を多用する人というのは、私はちょっと想像力が欠けていると思っています。後でどんなことが起こる可能性があるのか、それが問題になるのかならないのかを考えることができていません。本人が知らない場所でトラブルになることもあります。
逆に想像力が十分に行き届いた「その場しのぎ」というのは、その時点でもうすでに「その場しのぎ」ではありません。

やっぱり「その場しのぎ」は結局自分が損をすると思います。


2013年11月25日月曜日

スキル向上につながる「人の真似」


楽天イーグルス元監督の野村克也氏のインタビュー記事に、ある大打者を真似することで、自分の打撃技術の向上につなげたというエピソードが出ていました。
初めにある名選手を真似してみたが、あまりしっくりこないので、別の大打者の真似に切り替えたらしっくりきたのだそうです。

また、これもある方からうかがったことですが、賞金王になったこともある有名なプロゴルファーの話で、なかなか芽が出ず成績も上がらなかった時期に、ある日自分で「この人を師匠にしよう」と見定めて頼み込み、ゴルフだけに限らず服装やしぐさから、レストランでオーダーするメニューまで、師匠のありとあらゆることを真似したそうです。
真似というより「本人に成り切ろうとした」と言った方が良いかもしれませんが、そうこうするうちに徐々に成績は上がり、ついには賞金王をとるほどまでになったそうです。

最近は、例えば就職先企業の条件に「教育研修の充実」を求めたり、上司が指導してくれない、教えてくれないという不満の声を聞いたりします。
もちろん会社の立場として、社員に教えるべきことは教えなければならないとは思いますが、一方で、「見て盗む」「人を真似する」ということを通じてこそ身に付けられることもあります。

昔ながらの職人さんや料理人は、「見て覚えろ」が基本だったと思います。それが理不尽で非効率な面はあったと思いますが、逆に手取り足取り指導したとしても、実際の手本となる人がおらず、見て学ぶことができなかったとしたら、その技術やスキルを身に付けることは難しいと思います。

自分より優れた相手を真似すれば、自分との違いが実感としてわかり、何が大事なのかということを自分で気づいていくことができます。自分はこうなりたいという目標や向上心を持つ人ほど、人の真似から学ぶことができるように思います。

意識を持って人を真似すれば、自分のスキル向上につながることはたくさんあります。教えてもらうことを待つばかりでなく、「教えてくれないなら見て盗む」という姿勢は、成功者の体験から見ても大事なことだと思います。


2013年11月22日金曜日

「評価段階の数」を議論した時の話


会社での人事評価の方法で、よくあるのは「5段階評価」ですが、会社によってその考え方は無限にあり、各社が工夫をしながらやっています。

例えば、
●何でも標準、普通、まん中と評価しがちなので、それをさせないために4段階評価(または6段階評価)
●標準、普通と評価される人数が多いが、その中には良い普通と悪い普通があるから、それを分けて全部で7段階評価
●評価段階の境目に近い人に損得が出るから100点満点の点数制(要するに100段階評価)

など、内容はいろいろですが、その多くは、一般的な評価誤差としていわれる「寛大化傾向(評価全般が甘くなる傾向)」「中心化傾向(何でも中心に評価して差をつけない傾向)」を改善しようと考えています。

ではそれが効果的なのでしょうか?
これは私が経験した例ですが、ある会社でまん中を無くす4段階評価を導入したところ、評価平均が上がってしまう「評価のインフレ化」が起こってしまいました。今までまん中についていた人の評価が、上にシフトしてしまったということです。
それではダメだということで、様々な指導や通達をしたところ、今度は評価平均が下の段階にシフト。結局評価がしにくいという話になって、もともとやっていた5段階評価に戻したということがありました。

他の例でも、変えてみたが思ったような評価分布にはならず、結局元に戻したり、さらに試行錯誤を続けたり、ということが多かったです。
あくまで私の経験の範囲なので、参考程度に捉えて頂ければと思いますが、私自身は、「結局どれも大差ないし、画期的な効果もない」と考えています。なので、私が人事制度構築をする際には、一般的な「5段階評価」とすることが多いです。

評価結果の偏りというのは、基本的に「評価基準のあいまいさ」「評価者のスキル不足」「部下の仕事内容やパフォーマンスの理解不足」などが原因で起こります。これを放置したまま、評価段階の数で分布を操作しようとしても、結局裏読みのばかし合いのようになってしまいます。

評価誤差の中には、結果ありきで考える「逆算化傾向」というものがありますが、こんなことも含めて、小手先の制度の操作ではあまり効果がないということでしょう。

・・・ということで、ありきたりの結論ではありますが、起こっている現象についての原因をしっかり把握し、その原因に見合った対処を制度と運用の両面から行うことが大切だということです。
“評価段階の数”の議論も必要なことではありますが、小手先の駆け引きにならないように、くれぐれもご注意ください。


2013年11月20日水曜日

ある意味納得されなくて当然の人事評価結果


この時期、ボーナスに向けた人事考課もそろそろ終わり、評価結果が確定したという会社も多いと思います。

人事制度では「評価への納得性」ということはとても重視される項目です。様々な基準や手順を決めて公正さを担保する、個別に結果説明をする機会を設けるなど、納得性を高めるために、いろいろな取り組みを行います。

しかしその結果として、必ずしも納得が得られる訳ではありません。どちらかといえば納得を得られないことの方が多いのではないかと思います。

先日もある知人から、自分の評価に対する不満の愚痴を聞きました。
自分を評価する上司に対して
「現場を見ていないくせに・・・」
「技術を知らないから大変さが理解できない」
「自分ができないくせに人には要求する」
「えこひいき」
「自分の保身」・・・・

いろいろ言っていましたが、こんな話は他の方々もきっとたくさんの経験があると思います。

この知人の境遇や心情にはとりあえず同情しますが、第三者として冷静に見た時、例えばこの上司がしっかり現場を見ていたとしたら、評価結果に納得するのかというと、たぶんそうはなりません。
技術を勉強して知識豊富になったとしても、たぶん納得はしないでしょう。そもそも本当に現場を見ていないのかも、技術を知らないのかも、評価された本人の言い分だけなので、実際のところはわかりません。

そもそも「評価への納得性」を得ることが難しいのは、それが本人の主観や感情に左右される部分がとても大きいからです。

人間は褒められるとうれしく、叱られることには基本的に耐えられないと言われます。人事考課の中でいえば、自己評価よりも高く評価されれば、それは褒められたことと同じ、自己評価よりも低く評価されれば、それは叱られたこと、けなされたこと、ダメだしと同じです。

心理学では有名な「ロサダの法則」というものがあり、それによるとポジティブなこととネガティブなことの比率が3:1以上であると、人間はポジティブな感情を持ち続けられるのだそうです。「3回褒めたら1回叱っても良い」というような感じです。

人事考課での評価結果がこの比率になることはほとんどないでしょうから、評価結果をポジティブにとらえることはとても少ないということになります。こんな心理学の側面から見ても、人事考課の結果には納得できないのが、ある意味当然ということになります。

これを少しでも良い方向に向けるには、評価結果にまつわるポジティブな要素を増やしながら、本人へのフィードバックを行っていくしかありません。
「納得されなくて当然」という前提のもとに、制度面でも運用面でも、できることを少しずつやっていくしかないように思います。


2013年11月18日月曜日

「発言力」の根源は正当か


権威ある美術展覧会の日展(日本美術展覧会)で、不正な審査が行われていた疑いが出ています。
書道界の重鎮が「書」の一部門で、有力会派に入選者数を割り振るよう審査主任に指示していたということです。

この報道に関して、ちょっと興味深く感じたコメントがありました。
それは「芸術家には一般的に純粋な人が多いので、少数の野心家に牛耳られやすい」というお話でした。不正など考えもしないような純粋な人たちの集団では、不正を画策するような人をチェックする周りの目も、牽制して張り合うような人もいないので、そういう行為が助長されやすいということだと思います。草食動物の集団の中に混じった肉食獣のような感じかもしれません。

これと同じようなことは、集団や組織という中では、いろいろな所であるような気がします。
例えば、女性同士のちょっと陰湿な関係は、当事者の女性でも多くの人が嫌がりますが、ごく一部にそんな動きを取る人がいると、その雰囲気が全体に波及してしまうことがあります。

会社であれば、経営者や上位の管理職など、発言力が強い人の意見に全体が引きずられてしまうことがあります。経営者の発言力が強いのはある意味当たり前ですが、よく見受けられるのは、「業績を上げている」「結果を出している」という理由で、経営者や上司に一目置かれている人が強い発言力を持っているような場合です、

「業績を上げている」ということも「結果を出している」ということも、とても重要で素晴らしいことですが、往々にしてあるのは、そういう人は自部門や自分が関わることには一生懸命ですが、必ずしも会社の全体最適という視点では物事を見ていないことがある点です。

ある会社でのことですが、やはり業績を上げ、結果を出しているという理由で上司から認められ、順調に昇進していった人物がいましたが、ある時期からその人が担当する部門の業績が徐々に下がっていきました。
そもそも業績というのは浮き沈みがあるものですが、その人は自分の発言力の低下を恐れて、業績低下を自分の部下のせいにし始めました。

部下の心は離れてしまい、その部門の業績はさらに下がっていきましたが。経営陣はその人の言い分を受け入れ続けたために、結果的に問題解決を先送りすることとなってしまい、その後会社全体が危機的な状況に陥ってしまいました。

発言力がある人の意見が正解とは限りませんし、そもそも発言力の根源が正当なものとも限りません。そんなことも考えながらの組織運営が必要だと感じた一件でした。


2013年11月15日金曜日

面接でわかった適性テスト結果の矛盾


新卒採用を行う中で、最近あったエピソードです。

ある応募学生の適性テスト結果が、ちょっと不思議な結果でした。基本的な素養が総じて高い人でしたが、唯一「積極性」という項目の点数が、あまり見たことがないくらい、やけに低いのです。

一般的な例であれば、そういうタイプの人は、「積極性」とつながりが深い、「行動力」「活動性」といった指標も比例して低いことが多いのですが、その人についてはそんな関連性がまったくありません。一見、矛盾しているように見えてしまう結果です。

テスト結果だけからすると、次の選考には進めない可能性もありましたが、話を聞いてみようと面接にお呼びすることになりました。

実際にお会いしてお話を伺ってみると、ハキハキしていて受け答えも的確で、なかなか優秀な印象の方です。しばらくお話を伺った後、ストレートに適性テストの結果のことを聞いてみると、一瞬「ああやっぱり・・・」という表情をして、そこでお話してくれたのは、「初めの一歩が苦手」ということでした。

全面委任で「何かやれ」と言われたり、自分でまったく経験のないようなことがいきなり降ってくるような状況だと、初めはものすごく躊躇してしまうのだそうです。ただ、それに対して自分でいろいろ調べたり、人に聞くなどして、どうすれば良いかが自分なりに整理できると、その後はどんどん自分から行動していくことができるのだそうです。

適性テスト結果で矛盾に見えたことが、お話を聞くとまさにテスト結果の通りで、「なるほど!」と納得してしまいました。その方とは最終的には残念ながらご縁がありませんでしたが、選考する立場としてはとても勉強になりました。

新卒採用の中では、ともすれば適性テスト結果や応募書類を見ただけで、自分の過去の経験に基づいて、その人物をわかった気になってしまうような採用担当者がいます。
企業側の時間的な制約から、書類選考という形も取らざるを得ないので、多少はやむを得ない部分がありますが、どんなに経験豊富な担当者であっても、会わなければわからないことは確実にあります。

良い人材に出会いたければ、やはり「可能な限り直接会う」ということが大事だと、あらためて感じた一件でした。


2013年11月13日水曜日

会社と社員は「お互い様」のはずだが・・・


「自分の食いぶちくらい自分で稼げ!」というハッパのかけ方をする社長さんや管理職っていますよね。すこぶる正論だとは思うのですが、もし私が社員としてこう言われたとしたら、たぶん確実に言い返したと思います。「だったら独立して自分でやりますよ!」って・・・。

会社に入る、組織に属するということは、自己判断や自分の裁量の一定部分、要は自立心の一部を会社に提供するのと引き換えに、一定の生活安定や報酬を得るということです。だから仕事があってもなくても決まった時間に出社しなければならないし、仕事時間中に自分勝手に抜け出してはいけないし、会社、組織、上司の指示に基づいて働かなければなりません。あまり良い言い方ではありませんが、「自分の食いぶちを稼ぎきれなくても、他の誰かに稼いでもらう」というリスクヘッジのための会社勤めということがあるでしょう。

もちろん組織に属することで得られる、自分にとって都合の良いこともたくさんあります。
「自分だけでは作れない仕事環境を用意してもらえる」
「会社の看板やブランド、人脈が使える」
「会社に蓄積されたノウハウが使える」
「会社が予算を用意してくれる」など、
 会社にいるおかげで自分の仕事が成り立つという面があります。「会社にいれば自分の食いぶちは稼げるが、自分一人だけではそう簡単には稼げない」ということです。

私が考える会社と社員の関係というのは「お互い様」の関係だと思っています。会社は社員がいるから稼げるわけだし、社員だって会社があるから仕事ができるわけだし、それぞれの立場で、組織のおかげで一人ではできない大きなビジネスができます。

経営者や管理職の「自分の食いぶちくらい自分で稼げ!」という言い方は、他人に頼りすぎないという心構えとしてはアリですが、これを本気で社員に要求しているとしたら、組織に属していること自体を否定しているように聞こえてしまいます。会社は社員を“雇ってやっている立場”で、社員はそれに報いるために“働かなければならない立場”という主従関係の考え方です。「お互い様」ではありません。

最近は“ブラック企業”など、「お互い様」の精神ではない企業が増えているようです。でも会社と社員の「お互い様」の関係を軽く見ていると、いつか大きなしっぺ返しが来るように思います。


2013年11月11日月曜日

変化の中で相対的に得られた付加価値


仕事の移動中のすきま時間に、よくカフェを利用します。
最近はスターバックスのシアトルスタイルをはじめとした新しい形態の店が増え、昔ながらのフルサービスの喫茶店はずいぶん減りました。

ただ、このところ私は、この昔ながらの喫茶店も結構利用しています。値段は多少割高であっても、何となく落ち着き感が違うので、たまにそういう空間を求める時があります。昔ながらのスタイルに付加価値であるという感じです。

客層を見ていると、懐古志向だろうと思われる年配世代がいる一方、昔のことなんてたぶん知らないであろう若い世代もたくさん来店しています。“古さ”が逆に新鮮な感覚なのかもしれません。

ちょっと考えてみると、この付加価値は、自分たちで作り上げたというよりは、自分たち以外の周りがどんどん変化、多様化し、いろいろなスタイルが出てくる中で、つらさや困難を克服しながら今まで通りの形を守ってきたら、結果的に付加価値が生まれてきたというように感じます。

自分たちで仕掛けた付加価値というよりは、工夫と努力で淘汰を生き残ってきたら、全体の環境の中で、相対的に付加価値がついてきていたということです。

もちろん古いスタイルの店でも、メニューが今風にアレンジされていたり、内装が工夫されていたりしますから、基本的なスタイルは「変えないもの」として貫きながら、新しいものを導入していったということだと思います。

事業の成功の秘訣として、ある人は「常に変化すること」といい、ある人は「あきらめずに続けること」といったりします。
たぶんどちらも正解で、「常に変化すること」とおっしゃる方にも、きっと変えずに守って来たものがあるでしょうし、「あきらめずに続けること」とおっしゃる方でも、同じく変化を求めて見直してきたことがあるはずです。

結局は「状況に応じた適切な判断が大事」ということになってしまうのでしょうが、何でもかんでも自分たちから仕掛けるばかりでなくとも、周りが変化していく中で、相対的に自分たちの付加価値が上がっていくこともあるんだと確認した一件でした。


2013年11月8日金曜日

ある会社で思い起こした「北風と太陽」の話


ある会社でうかがったお話ですが、その会社の運営の中では、何かと基準、ノルマ、罰則が多いのだそうです。中には子供のしつけにあたりそうな内容のものまであるようです。

厳格な社長様の考え方に由来するようですが、社員の立場としては、わりと細かいことまで決め事や報告義務があったりするので、相応の締め付け感もあり、上司からは褒めることもしづらかったりするなど、何かと弊害があるのだそうです。

この話を聞いていて、私はイソップ童話の「北風と太陽」の話を思い出しました。
ご存知の方は多いでしょうが、北風と太陽が力比べで、旅人の上着を脱がせることができるかという勝負をすることになり、北風は力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとするが、旅人は寒さのために上着を押さえてしまって北風は脱がせることができず、太陽がさんさんと照りつけると、旅人は暖かさのために、自分から上着を脱いで勝負は太陽の勝ちになったという話です。

この会社では、まさに北風的な罰する態度での施策が多いと感じ、もう少し太陽的な寛容さを持った施策があっても良いと感じました。

当初私が思ったのはここまでだったのですが、ちょっと調べてみたところ、この童話には私も知らなかった、また別の話があるのだそうです。

北風と太陽の最初の勝負は旅人の帽子をとることで、太陽がさんさんと照り付けると、旅人はあまりの日差しで帽子をしっかりかぶって決して脱がず、北風が力いっぱい吹くと帽子は簡単に吹き飛んでしまい、勝負は北風の勝ちだったそうです。旅人の上着を脱がす勝負は、実はその次に行った勝負だったのだそうです。

この話の本当の教訓は、「一度うまくいったからといって他でも同じようにうまくいくとは限らないから、しっかり状況を見据えて適切な手段を選ぶ必要である」ということなのだそうです。

この教訓を知った上であらためて、お話を伺った会社の話題に戻って考えてみると、確かに締め付けが良くないといって、それをただ緩めるだけでは、きっと違う面で新たな問題が出てしまうようにも思います。今行われていることにも、何かそれなりの理由があるのでしょう。

「何事も一面的に見て判断してはいけない!」
小さなきっかけから、良い勉強をさせて頂いた気がします。


2013年11月6日水曜日

不採用者ほど必要な気づかい


採用活動の中では、どんな企業でも「良い人に巡り合いたい」「優秀な人を採用した」という気持ちで取り組んでいると思います。ごく自然な感情でしょう。

ただ、人を採用しようとする中では、数十人の応募者に対して採用は数人というように、採用する人数以上の不採用者を出すことが多いのではないでしょうか。しかし、この不採用になった応募者への対応に気をつかっている会社というのは、案外少ないと感じます。

例えば、特に新卒採用などでありがちなのが、「合格の場合だけ連絡します」というものです。「ある期限までに連絡が無かったら、不合格だと思って下さい」ということで、不合格者には通知しないということですが、私はこれは大変に失礼なことだと思います。

まず、この「不合格者には通知しない」というのは、採用担当者の手間を省くということ以外に理由はなく、会社側の一方的な理由にしかすぎません。
しかし、採用試験への応募者というのは、わざわざ自社のことを調べ、労力も時間もお金も使ってわざわざ来てくれた人達です。こちらの都合で結果連絡すらしないというのは、あまりに礼を失していると思います。

もう一点、採用される人というのは、これから社員として時間をかけて関係作りをしていくことができる相手です。不平不満や誤解があったとしても、それを解消できるだけの時間的余裕があります。

これに対して、不採用者は社員ではありません。先方からのアクションが無い限り、何かあってもフォローすることはできませんし、あくまで社外の人ですから、将来の顧客や取引先になることをあり得ます。

そう考えると、実は不採用者に対する方が、より多くの気づかいをする必要があるということです。非礼や不満、誤解を解く機会はありませんから、そういうことが起こらないようにしなければなりません。誰が採用で誰が不採用になるかはわかりませんから、採用選考中の応募者には分け隔てなく、丁寧な接し方を心掛ける必要があります。

不採用者への気づかいというのは、例えば一般消費者を相手にしているような企業では、「応募者である前にお客様である」という意識が徹底しています。顧客対応に準じる小まめな対応をしています。

また、私が知っているある企業では、最終面接での不採用通知については、必ず不採用理由と評価していたポイントを記した手紙を送っているところがあります。本当に紙一重の差での判断であり、自社基準の勝手な判断なので、くれぐれも自信喪失をしないでほしいという気持ちを伝えたいからということです。またそういう姿勢は、採用活動全体を通じて応募者にも伝わり、会社への志望度を高める効果につながっています。

入社してくる「社員」にチヤホヤし、不採用にした「社外の人」をないがしろにするというのは、顧客に向けたビジネスをする姿勢としておかしいはずですが、採用活動では今でも平気で行われるところがあります。

今一度、自社の「不採用者への気づかい」を見直して頂けると良いと思います。


2013年11月4日月曜日

誰にでも同じに接する謙虚な社長


以前、「私には尊敬する人がいないし、座右の銘もない」と書いたことがありますが、「尊敬できるところがある人」にはたくさん出会っています。自分なりに「こうありたい」という理想として、影響を受けたこともあります。

今までお会いしたことがある方で、結構有名な企業の社長様の何人かから、同じような印象を受けたことがあります。それは、相手が年上だろうと年下だろうと、誰にでも同じ接し方をされ、謙虚でいばらないという姿勢です。

どんなに知り合いであっても、基本的には敬語でお話をされ、自社の新入社員でも、みんな「さん付け」で呼びます。いろいろな人がいる公の場だからという意識もあるかもしれません。
これを他人行儀、フレンドリーじゃない、なんていう人がいるかもしれませんが、ご本人の表情や雰囲気が、そんなことをまったく感じさせません。

いつも相手からの話を聞いていて、意見を求められればそれについての考えは話しますが、それを押し付けるような言い方はしません。自分の話ばかりを一方的にすることもないし、聞かれていないのにああすべきこうすべきというような事も言いません。
威圧感がなく、温和で穏やかですが、自分から周囲の人たちにどんどん声をかけ、その場での存在感は絶大です。

人間というのは、どこかで他人に認めて欲しいし、注目もされたいし、褒められもしたいものです。私自身も謙虚な聞き上手でいたいと思っていますが、気づけばそうなっていないこともたくさんあります。ついつい自分の自慢や一方的な考えを話していることがあります。

この社長様たちも、もっと深く付き合っていけば、もしかしたらそういう面もあるのかもしれません。経営者というのは、ただでさえ「俺が俺が」となりがちな人も多いですから、むしろそちらの方が当たり前でしょう。

ただこの社長様たちを見ている限り、本当に自然体でそういう面がまったく感じられず、またそういう雰囲気を醸し出さないという次元が、今まで私が見てきたものや経験してきた感覚とはまったく違っていました。

こういう方々の様子を見ていて、実はこんなところこそが、リーダーになる上での必要な素養なのかもしれないと感じました。

経営者、社長、リーダーというと、概して主張が強く、強引さも持ちながら、周りを巻き込んでぐいぐい引っ張っていく、先頭に立って走る、俺について来いというタイプを想像しがちですが、そんなスタイルだけがリーダーシップではありません。

この社長様たちは、ご自分の人格、振る舞いによって周りの人たちから得る尊敬と信頼をもとにしたリーダーシップではないかと思います。そうやって周りの人を巻き込み、協力者を増やし、やる気を与えていくことで、いろいろなビジネスを成功させているのだと思います。

たぶん誰にでもできることではありませんが、こういう素養や一人の人間としての態度には憧れを持ちますし、私もできることなら少しでも近づきたいと思います。
まずはそういう心構えを持つことと、行動を真似することから始めていきたいと思っています。


2013年11月1日金曜日

「無気力なリーダー」の無気力な理由


ある日の昼食時、私の隣の席にサラリーマンらしき二人組が座りました。同じ部門の先輩と後輩のようです。

どうも自分たちの同僚らしい他のリーダー(仮にAさんとします)の話が始まりました。

後輩:「この間、Aさんの部下のBが『これも調べるんですか?』って聞いてきましたよ」
先輩:「そこ自分で調べなきゃ、できるわけないじゃん・・・。Aがちゃんと指示してないんだろ?」
後輩:「そもそも期限とか、どこまでやるとか、いつもちゃんと指示してないですよね・・・」
先輩:「だいたいやる気がないんだよ。無気力だし・・・」
後輩:「そう見えちゃいますよね」
先輩:「こんなやり方してたらうまくいくわけないんだよなぁ・・・」

一方的な話なので真偽のほどはともかく、お二人の話からすれば、どうもAさんはリーダーとしてやるべきことをやらない、無気力な人のようです。
このリーダーAさんは、なぜそんなにやる気がなくて無気力なのか、思いつくままに理由を挙げてみました。

● 本人としては一生懸命やっているつもりだが、周りからはそう見えない。
● もともと能力不足だったのに、過大評価やその他の事情でリーダーにしてしまった。
● リーダーかどうかに関わらず、そもそも無気力でやる気がない人だった。
● 何かをきっかけにして、無気力になってしまった。

本人の能力不足と周囲の見込み違いが大半なのかもしれませんが、私がいろいろな企業の組織改革をお手伝いする中で、「原因がある無気力」という問題に行き当たることがあります。
「やろうとすればできるのに、あえて手を出さない」
「直接責任があること以外のよけいなことはしない」
「どうせやっても変わらない」
「そこまで関わる気力はない」
「もうあきらめている」
といった発言、振る舞いを見ることは、どんな組織でも多かれ少なかれあります。
「学習性無気力」といわれるものです。

これに関しての有名な話は「カマスの実験」です。
水槽のカマスとエサの間をガラス板で仕切り、カマスがエサを見つけて食べようとしても、ガラス板にぶつかってエサを食べられないことを繰り返すうちに、エサを見ても反応しなくなる。その後ガラス板を外してもカマスはエサを取ろうとせず、「どうせやってもムダだ」ということを学習して行動しなくなります。

そしてこの解決方法は、「新しいカマスを水槽に入れること」だそうで、彼らは普通にエサを取ろうとし、それを見た“無気力なカマス”は、「なんだ、食べられるのか!」それまでの学習から解放されるのだそうです。

「言ってもやってもムダ」という環境にいると、気力は少しずつ低下し、やがて完全な無気力状態になってしまいます。これはカマスも人間も同じです。

この話の中のAさんがどんな状況かはわかりませんが、もしも学習性無気力ならば、“やればできる”、“無気力は損をする”ということを、周りの誰かが見せつけることで改善されることもあるように思います。

話していた同僚のお二人にも、できることがあるかもしれません。


2013年10月30日水曜日

「会議体」と「ただの会議」の違い


組織が拡大するとともに、会議の数が増えていくのはある程度は仕方がないことです。ただ、顔ぶれがほとんど変わらない会議がいくつもあったり、出席しても発言する機会がほとんどないような会議は、あまり有意義とは言えません。

組織運営上の課題で、「非効率な会議」がテーマに挙がることは良くありますが、真面目に会議の中身を吟味しようとすると、「あれは必要だ」「これは減らせない」などの意見が出てほとんど削減できず、それならばと時間制限や人数制限、回数制限などを行ったりしますが、だいたいがしばらくするとなし崩しになってしまい、あまりうまく行くことがありません

企業文化によるところもありますが、会議の多さが当たり前になり、それに慣れてしまっているような会社を目にすることもたくさんあります。

ある会社で、「うちの会社は会議体が多すぎて困る」という発言を耳にしました。たぶん「ムダな会議が多い」という意味だと思いますが、この「会議体」「ただの会議」とは意味が異なります。

ご存知の方はご存知でしょうが、「会議体」は、複数の人がある目的のために集められ、その会議によって意思決定を行うという意味です。取締役会、株主総会など、決定事項があるものが「会議体」に該当します。

ですから、複数の人が集まっても、明確な決定事項がない会議は「会議体」ではないし、打ち合わせなども「会議体」には当たりません。また、ある責任者がトップダウンで意思決定するような会議も「会議体」ではありません。

企業内で「多すぎて困る会議」の大半は、時間ばかりかかって何も決まらない会議、初めから決定事項がない会議、目的が良くわからない会議ではないかと思います。「会議体」ではない「ただの会議」です。

こうやってみていくと、「会議体」は組織の拡大とともにある程度増えていくものだが、「ただの会議」はそうとも言えないという感じがします。

「会議体」「ただの会議」の違いをしっかり認識してみると、少しはムダな会議を整理することにつながるのではないかと思います。


2013年10月28日月曜日

使い方が見直される「年功序列」


最近あらためて「年功序列」を見直し、うまく活用しようという動きが、一部の企業の中に出てきています。

例えば、入社後10年間は、会社として必要なスキルと経験を身につけてもらう期間として位置づけ、昇格スピードに差はつけずに社内で経験を積んで行ってもらい、社内での競争はその後からというようなことをしています。会社として10年の育成期間を設けるということですが、その間でも短期的な成果は、賞与で差をつけて反映するのだそうです。

かつては悪しき制度の象徴のように言われた「年功序列」ですが、世の中の仕事で、年月を経ていく中で身につけていくスキルや経験、すなわち年功的な要素が一切関係ない仕事というのは、たぶんほとんどないと思います。新しい発想、新しい技術、新しい方法だけがすべてということはないでしょう。

年令は関係ないと言いながら、年令相応の経験値というのは確実にありますし、周りからはそういう要求もされます。スキルや経験と年令は、正比例の関係ではありませんが相関性はあります。

かつての「年功序列」は、それが第一優先の基準だったため、生み出した成果や保有能力にかかわらず、ただ年令が上だというだけで、給料も役割も役職もみんな上というものでした。

その反動で成果主義への移行がありましたが、今度はそれを重視しすぎたため、中長期の経験の積み重ねで得られる経験知や暗黙知(言葉では表しづらい知識)が軽く扱われるようになりました。中高年層を中心にしたリストラなどで、現場が回らなくなってしまう企業がたくさん出てきました。

体力、記憶力、新しいことへの適応力や吸収力といった、年令とともに衰えていく能力がある一方、人脈、応用できる事例、経験を積むことによる引き出しの数や中身、その他いわゆる人生経験は、年令とともに増えていきます。これらをすべて足し算したものが、仕事をしていく上での「総合力」ということです。
この「総合力」は、衰えるものを積み上げるものが上回れば、年令を問わずに本人の意識次第で増やしていく事ができます。

経験値や暗黙知も含む仕事の「総合力」に注目すると、人材育成というのは中長期で考えて行くことが必要になります。「経験する」「場数を踏む」ということも、それを繰り返していくことも育成には必要であり、そのためにはある程度の時間が必要です。

そんな事を考えると、「年功序列」も、適度な意味であれば必要な考え方ではないかと思います。


2013年10月25日金曜日

悪気が無い営業担当たちのしつこい電話営業


このところ、ある会社から頻繁に営業電話が入ります。真面目なサービスを行っていてそれなりの知名度もあるきちんとした会社です。

こちらとしては今のところ利用を考えていないので、そう言ってお断りをしていますが、にもかかわらず何度も何度も電話があります。電話をしてくる人はその度に違う人で、何度も連絡をもらって断っている旨を伝えると、恐縮して謝罪され、すぐに電話を切ります。皆さん言葉づかいも丁寧で礼儀もしっかりしていますが、でもまたすぐに違う人から電話がかかってきます。

これは想像でしかありませんが、営業先候補のリストか何かだけを共有していて、それを使って個々の営業担当が個別に動いているようです。私のように連絡が重複している相手がいることは、個々の営業担当はたぶんわかっていて、それでしつこい話はしないのだと思います。

この状況は、会社の評判自体を落としますし、営業的にもマイナスにしか働かないはずです。営業状況の共有ができていないためにこういうことが起こっているのは明らかです。
ただ、手当たり次第に電話営業するような会社は、おおむね電話口での対応もよろしくないことが多いですが、この会社にそんな感じはありません。電話対応の様子から感じるのは、個々の営業担当の顧客対応スキルは十分にあるのだろうということです。

こんなことから、これもさらに想像ですが、何らかの理由で今まであまりやってこなかった電話営業のような手法を取ることとなったが、環境整備ができておらず、営業現場はかえって右往左往している、そんな感じがします。

非常に単純な社内情報共有の上での不手際ですから、社内のしかるべき立場の誰かが、ちょっとだけ主導すれば解決できてしまいそうなことですが、そうはいかない何かがあるのでしょう。
“しかるべき誰か”が現状を知らない、または知っているけど問題とは思っていない、などということが一般的には多いですし、部下とのつながりが浅い新任の営業責任者が、営業現場にテコ入れを図っているなんて言う場合にこんなことが起こりやすいですが、実際にはどうなのかわかりません。

それなりの企業ですし、ちょっとした組織内のコミュニケーションの問題なので、会社の評判を落とさないうちに、早く気づいて是正してもらえれば良いと思っています。


2013年10月23日水曜日

飛び越してもよい「情報収集」と飛び越してはならない「指示命令」


組織上のどんな立場でも、現場で起こっていることの「情報収集」は大事です。

社長や役員の現場視察や現場ヒアリングはいろいろな企業で行われていますし、直属の上司部下の関係だけでなく、それを飛び越えた意見交換や情報交換、懇親といったことも、仕組みの有無にかかわらず実施されていると思います。こんな「情報収集」に関しては、それが組織の枠や直属の関係を越えていたとしても、悪いことではありません。

ただ、特に中小企業やオーナー企業で多いのは、この「情報収集」の結果をもとに、組織の枠や上司部下の関係を飛び越した「指示命令」が行われてしまう場合があることです。社長や役員が、直属の部課長を飛び越して現場の一般社員に直接指示を出し、部課長はそれを知らない、などということです。役員が部長を飛び越す、部長が課長を飛び越すなど、パターンはいろいろあります。

こうやって書くと「それは組織運営上は良くないことだ」と理解してもらえるのですが、実際に組織を飛び越した「指示命令」は、結構な頻度で行われているにもかかわらず、当事者がそれを自覚していることは意外に少ないです。「自分は現場を知っている」という感覚で、組織階層はあまり考えず「自分で指示してしまう」のです。

でもこれは、飛び越された指示命令の権限者にとっては、大変困ることです。自分の指示が覆されたり、つじつまが合わなくなっていたり、それが自分のあずかり知らないところで行われていたりします。
飛び越された管理者はどう行動するかを考えれば、まずは飛び越した指示を出した上席者に反論するか、黙って従うかのいずれかしかありません。
その後は、飛び越された本人が、「責任感をなくす」「自分で判断しようとしなくなる」「上司に不信感を持つ」「やる気を無くす」など、いずれにしてもプラスに働くことは一つもありません。

組織上の権限を持ったオーナー経営者や役員だと、ついつい口を出したくなるのでしょうが、組織上の秩序を守るには「指示命令」を飛び越して行うことは、よほどの緊急時でもない限り厳禁です。

「情報収集」は幅広く臨機応変に行い、「指示命令」は組織上の職務権限に従うということは、企業規模に関わらず、絶対に守らなければならない原則だと思います。


2013年10月21日月曜日

“立派過ぎる社長さん”の弊害?


“率先垂範”が大切なことは、いろいろな場面でいわれますが、これは少しそれに反するようなお話です。

その会社は非常に忙しく、仕事の拘束時間も長くなりがちな、俗にいう“キツイ”業界ですが、社長さんがとても立派な方なのだそうです。
誰よりも率先して働き、指示も的確で仕事ができる方です。口先だけのリーダーシップでなく行動も伴っています。誰よりも早く出社し、掃除などの雑用であっても他人だけに押し付けずに一緒にやります。社員たちによく声をかけ、よく人を褒めます。社外では慈善活動にもかかわるなど人格も素晴らしく、みんなに尊敬されるような方だそうです。

「こんな人のもとで働きたい!」という入社希望も多いなど、素晴らしい会社に間違いないのですが、実はこの会社には、 “メンタルダウン”を起こしてしまう社員が非常に多いという問題があります。
その理由として、業界的にも激務であるということとともにもう一つ、この立派過ぎる社長さんにも原因があるようです。

どんなことかというと、例えば、仕事がつらそうだったり行き詰まっている社員がいると、この社長さんは、「君ならできるよ。僕だってやって来れたんだから!」「大丈夫!チャレンジしてみようよ!」などと励ますのだそうです。確かに社長さん自身も努力しているし、率先して行動もしているし、人格も立派です。よくある話の「自分のことを棚に上げて」などと批判もできません。また、そんな社長さんから励まされれば、社員の立場で「いいえ、無理です」「つらいです」「できません」などとは、なかなか言えないでしょう。

リーダーが優れていて非の打ちどころがないがゆえに、周りで働いている社員たちもそのスーパーマンに合わせざるを得ない、要するに「弱音が吐きたくても吐けない」という環境になってしまっていたのだそうです。
自分はつらくても、もっと大変そうで、なおかつそれを実践しているな社長がいることで、とても弱音なんか吐けないから我慢するしかない・・・、そんなことを続けているうちに体と心が悲鳴を上げ、結局働く事ができなくなってしまう・・・、こんなことがあるようです。

この「弱音が吐けない環境」は、言いかえると「本音が言えない環境」となります。また、「自分の弱みが見せられない環境」でもあるでしょう。これはコミュニケーションが悪い組織、助け合いがない組織、ノルマが厳しい組織に起こっていることと、あまり変わらないことになってしまいます。

この社長さんにはまったく悪気はないのだと思いますが、しいていえば、自分は他の普通の人とはちょっと違うということ、多くの人はそんなに何でもできるものではないということの理解が足りないように思います。

行動的でリーダーシップがあって、率先垂範を実践している人格者の社長さん! ちょっとだけ周囲の人たちを見渡して、甘えることも許してあげてもらえれば・・・などと思います。


2013年10月18日金曜日

内定者に聞いた“就活の進め方の個性”


ある企業で、来年入社の新卒内定者の方々に、就活中の様子を聴く機会がありました。

企業研究のしかたについて尋ねてみたところ、ある女性は「ちょっとでも興味を感じたところにはできる限り説明会に行って、その時に感じるもので選考に進むかどうかを決めていた」と言っていました。
特に活動を始めたての頃は、自分にとっては“ハズレ”と言っていいような会社にも、ずいぶん当たったことがあったようです。そんな経験をしながら、徐々に目も肥えていき、効率的に活動できるようになっていったそうです。

これに対してある男性は、「特に自分が重視している事業内容の部分を、できるだけ細かく自分で調べて、その上で説明会に参加するかどうかを決めていた」とのことでした。まったく的外れの企業に行くようなことはなかったが、説明会に参加した社数はやっぱりあまり多いとはいえないと自己評価していました。自分の適性を良く見て、「自分が役に立てる仕事は何か?」という考えが強かったのだそうです。

就活の一般論として、「会社はできるだけいっぱい回ろう」なんて言いますが、実際にやろうとするとそれほど簡単なことではありません。最近は100社以上回ったなんていう人もめずらしくありませんが、やっぱり時間的な制約もあるし、とりあえず数を撃てば当たるというものではありません。うまく活動するには効率もメリハリも必要です。

このお二人の場合、とった方法はそれぞれ正反対ですが、共通しているのは「自分に合った方法を自分なりに考え、自分なりに検証しながら進めて行った」ということです。自分なりの特性に合わせた“就活の進め方の個性”と言えるでしょう。

もう一つ印象的だったのは、最近の就職指導の中でよくやっている“模擬面接”のことを聞いたところ、このお二人はやろうとは思わなかったそうです。

「あまり意味がないだろうと思った」という点は共通していて、その代わりに何をやったかというと、女性の方は友人との情報交換や意見聴取で、「面接で○○って聞かれたら、なんて答えたらいいと思う?」なんていうやり取りをしていたそうで、男性の方は、やはり「自分なりの反省とあらためての自己分析だった」とのことでした。

ここにも“自分の感性と対外情報重視”“自分で考えることと準備の重視”という、企業研究の仕方と似たような違いが出ていました。

就活に関する本があふれ、塾やセミナーのようなものまである昨今ですが、就活を成功させるための基本は、やはりマニュアルや周囲の声に流され過ぎず、かといって無視はせず、「自分に合った方法を自分で考える」ということに尽きるようです。


2013年10月16日水曜日

軽く扱われている気がする「人材開発」


「人材開発」という言葉を聞いたとき、皆さんはどのような捉え方をされるでしょうか。「人事の中の一機能」「社内研修担当」という感じが多いのではないでしょうか。中には「役に立つのかわからない研修を自己満足で企画しているような面倒な部門」などという否定的な捉え方もあるようです。

ただ、「人材開発」というのは、社内研修などと言う狭い話ではなく、“企業戦略に合致した人材像を定め、それに則った人材育成戦略を定めて実行する”ということが本来の定義です。

そう考えると、どんな人材を採るかという採用、どんな人材を評価し、どんな処遇をするのかという人事制度、どんな役割でどんな仕事をどこでやらせるのかという配置や異動、個々の現状のスキル把握と育成方法の検討など、組織の「人」についての全てのことが関わってきます。

しかし現実には、「人材開発」というセクションがあったり担当者がいたとしても、ここまでの役割を与えられていることは多くありません。

実際に「人材開発」を担当している人の意識も同様です。社内を自分たち目線で見渡し、関連部署の意見を聴き、「マネジメント能力が足りないから」といってリーダーシップ研修、「コミュニケーションが足りないから」といってコーチング研修など、研修企画担当という範囲で、あまり体系的とは言えない取り組みに専念していることがほとんどです。

実は私が企業人事の時代も、「人材開発」に対する意識はまさにこのままでした。だから今の立場となって、なおさら強く感じるのですが、“組織人材の高度化”を考えた時、本来の定義での「人材開発」の取り組みは非常に大切です。

「人材開発」というテーマの捉え方をもっと広げ、担当者にも相応の権限を与えて体系的に取り組むことが必要ということです。もちろんそのためには、「人材開発」の本質を理解した専門性を持った人材も必要でしょう。

ともすれば、専門性はあまり必要ないと見られ、社内ローテーションの中で誰かが腰掛けで担当していくような扱いをされてしまう「人材開発」ですが、本来は「企業の人事戦略の中心を担う」という、とても重要な役割です。そのことをもっと強く認識する必要があるのではないかと思います。


2013年10月15日火曜日

利益代表になってしまう困った管理職


現場主義と言えば聞こえが良いかもしれませんが、現場の利益代表になってしまう管理職の方が、ときどきいらっしゃいます。

こういう管理職の周辺でよくある構図は、部下から見れば“物わかりが良い上司”、会社から見ると“全体最適を考えない上司”となるのですが、必ずしもそうではないこともあります。

私も人事の立場ではいろいろなパターンを体験しましたが、意外に多いのは、部下たちが実はこういう上司をあまりに評価していなかったりするパターンです。

ある会社で、何かにつけて会社の規定をねじ曲げなければならないような、ちょっと理不尽なくらいの要求を頻繁に出してくる管理職の方がいらっしゃいました。
いつも「現場が大事」と言い、「現場が動きやすくするためにはこうすべきだ」「現場ではみんなそれを望んでいる」と言います。
その内容は、こちらから見るとちょっとわがままに近いような、組織のルールとしては特別扱いになってしまう自己中心的な要求ばかりです。

そんな中で、その現場にいる部下の人たちに「本当にそうなのか?」と尋ねたことがあります。その時の答えは「あの人は焚き付けると盛り上がって動くから、どっちでもいいことも言うだけ言っている」と話していました。「だって、そんなこと簡単にはできないですよね?」とも言います。

「そんなことなら、焚き付けないでよ・・・」と諭した覚えがありますが、この様子を部下の視点でみると、“たぶん通る訳がない理不尽なこと”を“試しに上司に投げかけてみた”ところ、“思いのほか真に受けて動き始めてしまった”ということのようでした。まぁダメもとで上司に言わせるだけ言わせて、多少でも認められることがあればラッキーという感じだったようです。

そんな上司と部下の関係で、本当の意味での信頼関係があったかというと、少なくとも部下の側からは「そうでもないですね・・・」という答えでした。自分たちの上司のことを、どうも思い込みで勝手に走ってしまうとか、話を聞いているようで動きが違うとか、ゴリ押しが過ぎるとか、そんなことがいくつもあったようです。

この管理職の場合は、個人のキャラクターの問題がありますが、他の場合でも、現場の意向を意識しすぎて、組織の全体最適を意識できなくなっていることで、結果的に部下の信頼を失っていることがあります。部下たちの方が、社内での横つながりの関係を持っていて、よほど全体最適の意識が高かったりします。

組織の全体最適を考えるということで言えば、本来は上司の方がより大所高所で見なければならないところですが、現実にはそうでもない場合があります。やはりこれはよろしくないことで、せめて上司と部下が同じ目線で組織全体を考えてくれなければ、会社としても困ることが多々出てきます。

上司ご本人は「現場を理解した信頼がある上司」と自己評価していても、部下からはそう思われていないことも少なくありません。現場の意見を吸い上げているつもりでも、それだけでは部下の信頼は得られません。やはり管理職として、組織の全体最適を考えた上での判断が伴っていなければ、部下との本当の意味での信頼関係は築けません。

そんな状況に陥らないように、管理職の方はご自身の現場との関係性を、今一度見直して頂ければと思います。