2014年1月31日金曜日

成果が反映できない成果主義


最近では、やれ成果だ、結果だといって、そればかりをあおるような成果主義の制度はずいぶん減りましたが、それでも成果主義的な要素を一切持たない企業はあまりないと思います。何が成果かという定義はいろいろありますが、それが何らかの形で処遇にかかわる企業は多いと思います。

これは私が見てきたいくつかの会社でのお話ですが、やはり社員をきちんと評価することが大事と考えて、公平さ、公正さを考慮した評価制度を作り、制度の運用でも、個人の恣意的な感情が入らないように複数の評価者が評価し、相互チェックの機能を設けるなど、評価に関してかなり真面目な取り組みをしています。当然、相応の時間も労力もかかりますが、これも会社のため、社員のために必要なことだとして、会社ぐるみで取り組んでいます。

ただこれらの会社は、実はまだまだ中小規模の企業で、はっきり言って大企業のような安定性も資金力もありません。実際の給与や賞与をどうするかは、その時その時の業績に大きく左右されます。会社規模から見ればかなり頑張ってはいるものの、そこまで高い給与水準ではないし、昇給や評価反映のための原資も、それほど潤沢にある訳ではありません。

そうなると、例えば誰かに多くの評価反映をしようとすると、誰かからその分を削らなければなりません。実際に箸にも棒にもかからないような、どうしようもない評価になるような社員というのは、そんなにいる訳はなく、そうなると誰かの給料を削るということをできる余地もあまりありません。

給与水準が一般に比べて高い企業ならば、低い評価でも給与水準は世間並みだったりしますので、まだ給与に差をつける余地がありますが、これが並みの給与水準の中小企業では、給与を大きく変動させるのは、それこそ基本的な生活基盤にも関わってしまいます。あまり大きな評価反映ということは難しくなってきます。

そんな環境の中で、真面目に手間ひまをかけて社員の評価をしていると、時間が経つほどにだんだんと「こんなことやっても無駄じゃないか・・・」というムードが出て来ます。手間をかけている割に、大して自分の実入りに影響がないということで、評価制度自体が形骸化していきます。

結局これは「制度と実態のギャップ」ということで、自社の状況に合わないような、俗にいうオーバースペックの制度を入れてしまうと、こんなことが起こってきます。また、こういうムードが社内に一度定着してしまうと、そこから立て直すには大きな労力が必要になります。今はオーバースペックでも、会社が成長していく中では将来的に必要になってくる制度かもしれませんが、その制度が本当に必要な時に、それに対する抵抗感が社内にあるというのは非常に問題になります。

真面目に制度を作り、真面目に運用することは大事ですが、その労力に見合った効果が得られなければ、せっかくの取り組みが逆効果になってしまいます。そればかりか、会社が発展した先の将来にも禍根を残すことになりかねません。

これもある種の費用対効果を見る必要があります。何でもかんでもきっちりやるというばかりなのは、ちょっと考えものです。


2014年1月29日水曜日

「とりあえずみんなで話そう」と言う部長


部下の意見を良く聴く上司であれば、その人のことを悪く言うことはあまりないと思います。上司が自分の意見に耳を傾けてくれて、それを少しでも取り入れてくれれば、部下としてもうれしいことだと思います。

ただ、ある会社でこんなことがありました。
その部長さんは、一見すると穏やかで、部下の意見を良く聴く面倒見の良さそうな人ですが、部下たちの評判はいまいちパッとしません。なぜかと尋ねてみると、部下たちは口々に「部長は自分では何も決めようとしない」と言います。

どうも、どんな小さなことであっても、とにかく何でもかんでも「とりあえずみんなで話そう」と言って部下たちを集めるのだそうです。
その話し合いの場では、部下から出てくる提案にはいろいろ意見をするが、決して自分の考えを言わないのだそうです。しいて言えば議長のような役目でしょうか。

こういうやり方をすれば当然ですが、何か物事を決めるのにものすごく時間がかかります。部門全員に関わるような重要な決定事項ならばともかく、部長が「こう決めた」と言えばそれはそれで良いようなことでも、すぐに「とりあえずみんなで・・・」と集合がかかるのだそうです。

実はこの部長さんに、ちょっとお話をうかがってみました。もしかしたら部下の当事者意識や考える力を養うため、納得性を高めるためなど、部下育成やその他の意図があってのことかもしれないと思ったからです。
その結果は、残念ながらまったくと言ってよいほどそういう部分はお持ちではありませんでした。会社に対して多少考えていることはあるものの、ご自分の意見というよりは会社の上層部の方々がおっしゃっていたことがほぼそのままです。

会社の様々な課題についても、「こうしよう」「こうしたい」というアイデアはあまりお持ちではありません。どうも会社から降りてくるテーマを、ほぼそのままスルーして自分の部下たちを巻き込み、どうすれば良いかを同じ思考レベルで考えていたようでした。

たぶん周りから見ると、その部長は「部下の意見を良く聴く面倒見の良い部長」に見えるのでしょうが、実態をはっきり言ってしまうと「マネジメント能力を持ち合わせていない部長」ということになってしまいます。リーダーシップを発揮している訳ではないし、自分の意見もあまりない。それを補完するために、ただ話し合いの集合を声掛けしているだけということです。

この部長さんはその後、自分なりの気づきもあって努力もされ、徐々に本来の意味での部門マネジメントに、能力を発揮できるようになっていきました。
基本的なリーダー素養はあったにもかかわらず、どうも「自分が決める」ということを、一方的な押し付けのようにとらえ、あまり良いイメージで思っていなかったことが一番の原因だったようです。そんな中で、自分の意見を持たないという状態が、知らず知らずのうちに助長してしまっていたようでした。

部下の意見を良く聴くことは大切ですが、決断にはスピードも必要ですし、場面によっては上司が自分の意見で部下を引っ張っていくということも必要です。

もしもノープランのままで「とりあえずみんなで話そう」と言っていることが頻繁にある人は、ちょっと注意する必要があるのではないかと思います。


2014年1月27日月曜日

「今の若者は没個性」などと言うけれど・・・


「最近の若者は個性がない」とおっしゃる方がいます。若者には見えない年齢の人が言うことが多いので、よくある“今どきの若者批判”かもしれませんが、確かにそんな風に感じることはあります。

私が20代の人と接することが多いのは、主に企業での採用面接など、その人の日常生活とはちょっと違う場面なので、見え方に偏りがあるかもしれませんが、どちらかというと真面目で素直な良い子が増え、人と違うことで目につくような、例えばすごく変わったバイトをしていたとか、普通ではあまり経験しないような個性的な活動をしてきたというような、そういう面で印象に残る人には、あまり出会わなくなったように感じます。

そんな漠然とした感覚でいる中で、先日ある方がお話された内容から、その感覚が少し間違っているのではないかということを思い始めました。
自分が思っている基準に照らして、勝手に個性がないと決めつけていますが、それは単なるステレオタイプの思い込みではないかということです。

例えば、今の若者はSNSなどを通じて、自分の意見を広く開示したり、ブログなどで考えていることを発表したりする人が大勢います。多少危うい使い方はあったとしても、自分の意見をまとめてしっかり述べることができるのは、一つの個性だと思います。私たちのような、バブル世代周辺の人たちが若かった頃、今のような環境がないということはあるにしても、そんな自分を発信する活動をしていた人はごく少数だったと思います。

ファッションや持ち物にしても、今は流行はあってもそれが多様化していて、早いサイクルで個性的なファッションがどんどん出てきます。
私達の時代であれば、黒色が流行っているとなれば、誰も彼もみんな黒を着ていたし、ある高級ブランドバックが流行ったとなれば、みんながお揃いのように、同じバックを持って歩いていました。
これに対して今の若者は、やたらとお金ばかりかけるようなこともなく、自分の身の丈に合ったファッションを、自分の個性で楽しんでいるように思います。

また、最近の若い人は海外に行きたがらなくなったなどという話を聞きますが、その一方で若くして海外で活躍するスポーツ選手などは、私たちの時代に比べれば圧倒的に増えています。
周りの人は海外へ出て行きたがらない環境の中でも、自分は目的を持って外へ行き、そこで芽を出して活躍する人がたくさん出てきているということは、自分という個性を持った人が増えているともいえます。

こうやって考えてみると、現在40代、50代というような私たちの世代の方が、実はよっぽど個性がないし、みんな横並びで同じようなことをしていたようにも思えます。
これはきっと「何を個性と捉えるか」という視点の違いであり、今の若者に対する見方は、年長者が自分勝手な基準での「決め付け」の中で見ているだけのように感じます。

今一度、「思い込みを排除して物事を見る」ということをしていかなければならないと、反省しているところです。


2014年1月24日金曜日

「隣の芝生」が見たいという要望


コンサルタントの立場でいろいろな会社にうかがっていると、特に人事施策や制度に関しては、「他の会社ではどうやっているんですか?」と聞かれることが多いものです。

客観的に見て、「会社としては精一杯やっているな」という部分で社員から不満が出たりすることがあれば、第三者の立場で「他の会社では・・・」という話をすることで納得を得られる場合もあります。
逆に「これではあまりに不足している」と見られれば、会社に向けての制度導入や推進といった部分でご提案することもあります。

自分たちのやっていることが、世間一般から見てどうなのか、どんなアイデアがあるのかなどを知り、自分たちの施策に活かしていくということだと思います。

よく「隣の芝生は青く見える」といいますが、これは他人のものは同じものでもよく見えるという意味です。
自分の家の芝生は真上から見るので傷みがすぐ分かるが、他人の家の芝生は遠く斜めから眺めるので、傷みが見えないからきれいに見えるということらしいです。

他人の物が良く見えてしまうという例えで、あまり良い意味では使われていないように思いますが、企業人事に関わる中では「隣の芝生を知る」ということは重要だと思います。
比較することで、決して自分たちが足りないことばかりではなく、自分たちの良い部分や優れている部分も知ることができます。単にマネするのではなく、自分たちなりにアレンジするアイデアの材料とする事ができます。

よくライバル企業や競合する他社の動向は常に気にかけ、先を越されないように仕掛けることだったり、場合によっては同じ動きを追随したりということもあると思います。
これが人事という切り口の場合は、世の中の会社はすべて「競合する他社」という捉え方ができます。全く異なる業種で規模も全然違うような企業であっても、取り入れている人事施策や制度は参考になることがあります。

こんなことから、私たちコンサルタントに向けて「“隣の芝生”が見たい」という要望は多い訳ですが、中には「うちはうち!」などといって、「隣の芝生」にはあまり興味を持たない方もいらっしゃいます。たぶん「隣の芝生は青く見える」というあまり良くない捉え方をしているからで、これは自ら情報遮断しているという意味では、あまり良いことではないと思います、

企業の方々には「隣の芝生」にも興味を持って頂き、私たちのような役割の者が、その「隣の芝生が見たい」という要望に対して情報提供をしていくことが、これからも重要なことだと思っています。


2014年1月22日水曜日

「規則正しく」が良いこととそうでないこと


「規則正しい生活」は大事だと言われます。
私も食事や睡眠といった生活リズムに関することは、健康維持のためにも大事だと思います。健康でなければ、自分の考えている活動はできなくなってしまいます。

一方で、私が今年決めた目標の一つに「毎日同じことをしない」というものがあります。それほど深い意味はありませんが、人間はあまり意識しないでいると、毎日同じことを繰り返すようになってしまうので、どんなことでも前とはちょっと違うことをしようというようなことです。

実際にやっているのは些細な事で、
・同じ場所に行くのを違うルートで行ってみる
・行った事のないお店に入ってみる
・出たことのない会合に参加する
・会ったことのない人に会う
などというようなことです。

なぜこんなことを始めたかというと、「同じことをしている限り、同じことしか起こらない」と思ったからです。現状に大満足ならば、今まで通りに続けることが良いでしょうが、そうではないので、とりあえず身近で出来る、ちょっとしたことから変えてみようと思ったということです。

私は独立して仕事をしているのでこんなことができますが、会社勤めの人であればより一層、好むと好まざるとに関わらず、毎日同じ時間に起き、同じ電車の同じ車両に乗って出勤し、決まった仕事のスケジュールをこなしていくようなことになりがちです。
もしかするとも、朝食メニューも大体毎日同じ、お昼も同じ店や食堂で食べ、メニューも大体同じなんてことになっているかもしれません。

また、その同じことが好きで安心するという人もいます。これはこの店で買う、これはこの銘柄でなければダメ、同じ曜日の同じ時間には、いつも同じ所を尋ねて同じことをするというような人です
見ていると、やはり年令を重ねるほどこんな傾向が出てくるように思いますが、要は“保守的”になり“変化”を好まなくなってくるということです。

お年寄りの行動が保守的になってくるのは、ある程度やむを得ないことでしょうが、まだ現役で働いている私たち以下の世代が、変化を嫌がって保守的に振る舞っていたとしたら、ビジネスの上ではあまり好ましいことではありません。

保守的な心理は、意外に日常的な行動の中に出てくるものです。そこを少しだけ意識して、いつもと違うことをし続けると、実は変化することも楽しいと思えてくるのではないかと思います。

「規則正しく」には、それが良いことの場合とそうでない場合とがあると思います。


2014年1月20日月曜日

不足からやる気が生まれる「欠乏動機」が減っている?


いろいろな企業でお話をうかがう中で、「モチベーション(動機づけ)」というキーワードがテーマとして出てくることが多くなっています。
組織で働く人たちのやる気を生み出す、モチベーションを高めるということは、私が関わるテーマの中でも重要なことの一つですが、最近はこのあたりの構造が変わってきていると言われています。

要素はいろいろありますが、少し前から言われていることの一つに、「ハングリー精神の欠如」があります。今、自分に足りていない物を何とか自分のものにしようという気持ちに由来するモチベーションで、心理学用語では「欠乏動機」と言われます。

例えば、今の給料では良い生活ができないからもっと収入を上げたいとか、今は課長だが、もっと権限が欲しいから部長になりたいとか、そんな上昇志向に近い部分が「欠乏動機」と言われますが、最近はその手のことではやる気、モチベーションにはつながらないということです。
 別に部長にならなくてもいいし、ほどほどの生活ができるから、今の収入でも構わないというような感覚です。

「だから今どきの若者はダメなんだ!」なんて言う批判はともかくとして、会社の人事制度上で行われている動機づけというのは、今でもこの「欠乏動機」を刺激しようというものがほとんどです。
 成果を上げれば収入が上がるとか、頑張れば昇格できて管理職になれるとか、そんなことばかりが中心です。

今どきの社員心理で、どんなことにやる気につながるかというと、例えば「こういう上司と働いていて自分の勉強になる」とか、「こんな興味深い面白い仕事をしている」とか、「自分の仕事がこんなに社会に役立っている実感がある」とか、実はそんな内面的なことの比率がどんどん多くなってきています。

不足しているものを得ようという「欠乏動機」に対して、不足がなくても今よりもっとよくしたいということをやる気につなげる「成長動機」がありますが、この「成長動機」の要素がなければ、モチベーションにつながりづらくなっています。

内面的な動機というのは、個人の感じ方や主観に近い部分なので、モチベーションの刺激の仕方も個人個人で違ってきます。部下が10人いれば、その10人にまちまちのモチベーションを感じるツボがあり、なおかつその多くは「成長動機」であるということですが、部下を率いるマネージャークラスの人たちや会社は今でも、昔ながらの「欠乏動機」に基づく、画一的なモチベーション施策ばかりを考えています。

「やる気がない」「積極的でない」「前向きでない」などの一方的な若手批判がありますが、こういう部分を見てくると、「モチベーション(動機づけ)の仕方が悪い」ということも、多分に言えるように思います。

お金、地位、ステータスばかりでは、人はどんどん動かなくなっていくのではないかと思います。


2014年1月17日金曜日

「個人商店」から脱却する第一歩


中小零細のオーナー企業で、社長の「個人商店」からの脱却が課題とおっしゃる会社には、かなり多く出会います。基本的には組織化があまりされていないような会社です。
もう少し具体的にいうと、コミュニケーションの主体が、「社長と社員の一対一」という形がほとんどで、それに対して社員同士の関係の方は少し希薄というような会社が多いように思います。

こういう会社では、経営者を初めとして、個人商店のような体制のままではダメだという問題意識を持っていることがほとんどですが、ここから脱却できる企業もあるし、逆にできない企業もあります。
脱却できればその企業の成長は加速し、できなければ現状のままか、どちらかといえばさらに厳しい状況に向かいます。

あくまで私が見てきた範囲ですが、この脱却がうまくいくかいかないかの差は、結局は「オーナー経営者がうまく権限委譲をしていけるか」にかかっているように思います。現場への思い入れが強かったり、ご自身が現場に細かく入り込んでいくようなタイプの人、いろいろなことを自分でやらないと気が済まないようなマメな人ほど、このあたりがうまくいかないように感じます。

こういう経営者の方々は、皆さんそれなりに「部下に任せている」とはおっしゃいますが、その任せ方は千差万別で、中には任せているとは到底言えないような関与の仕方をしている方もいます。また、一時は任せたけど、やっぱりできないとしびれを切らして、任せた物を取り上げてしまうようなこともあります。

任せなければ人は育ちませんが、なかなか踏ん切りをつけて任せる事ができず、場合によっては途中でいろいろ口出しをしたりします。任された側の人間は、そのせいでやる気を無くしたりして、よけいにうまくいきません。

「個人商店」といわれるような会社の経営者は、意外に自分のやり方にこだわりがあったり、細かなところで自分と同様の動き方を要求します。それに合致しないと「こいつには任せられない」となります。
経営者としてのこだわりは大事なことですが、やる人間が違えばやり方が異なるのは当たり前です。この「やり方が違うのは当たり前」ということを、意外に許容できないことが多いです。

「個人商店」からの脱却の第一歩は、経営者自身がやっていた仕事をまずは他人に任せることからです。ここにこだわりがあり過ぎて、人に任せる事ができないのであれば、残念ながらこれからも個人商店のままで行くしかありません。

個人商店からの脱却を本気で考えるならば、まずは任せた相手のやり方を尊重し、本当の意味で任せることからではないかと思います。他人でもできることはできるだけ他人に任せ、自分自身は社長しかできないことに集中するべきです。


2014年1月15日水曜日

「人を見て態度が変わる人」を信頼してしまう怖さ


周りの人たちと信頼関係を築くのは大事なことですが、これが会社である場合、特に責任が大きい立場にいる経営者や管理者といった人たちが、信頼する相手を間違ってしまうと、これは大変まずいことになります。

私が見てきた中で、信頼する相手として間違いやすい人として、「人を見て態度が変わる人」ということがあります。要は、自分に対する接し方は好ましいが、その他の人に対しては・・・? というような人です。

「人を見て態度が変わる人」の典型として挙げられるのは、「ヒラメ社員」「ごますり社員」と呼ばれる、上司のご機嫌ばかりうかがっているような社員です。

上司の側から見れば、常に自分に注目し、自分に対して気が利き、いろいろお膳立てをしてくれ、自分のいうことを良く聞く、というように見えるので、信頼を置ける相手と思ってしまっても無理はないでしょう。

ただ、こういう人は、自分よりも下、自分よりも弱いと見た者に対して、非常に横柄であったり、強引であったり、高圧的であったりします。例えばお店で食事をしたり、買い物をしたりするときに、店員さんに対して乱暴な言葉づかいであったり、いばった態度を取ったり、最近話題になったことでいえば、土下座を強要したりという人も、基本は同じだろうと思います。

会社の中で、こういう人物を信頼して仕事を任せてしまうと、部下たちに対して大した説明もせず、権威や命令で強引に物事を進めようとします。ときには「○○部長の命令だから」などと「虎の威を借る・・・」というような行動を取ります。

こんな人は当然部下からの信頼は得られませんが、実はここで「威を借られた」上司自身も、本人のあずかり知らぬところで部下の信頼を失っています。
自分が直接手を下していなくても、信頼する相手を間違っているということで、部下たちの評価としては、「こんなおかしな人を信じている」「人を見る目がない」「現場のことをわかっていない」となります。

自分が主導した事に対する反応だとわかっていればまだしも、他人の行為で自分の信頼が失われているとしたら、部下が否定的な反応をする原因が自覚できないとしたら、会社や自部門をまとめていく上では大きな障害になります。こういうことは、できれば極力避けなければなりません。

責任ある立場にある人ほど、「信頼する相手」を間違ってはいけないと思います。


2014年1月13日月曜日

「社員」という仲間がいる強み


最近ある知人から聞いた話です。
社員が5人ほどの設計事務所ですが、昨年後半から急激に仕事が増え、直近の決算では事務所として過去最高益なのだそうです。

昨年前半は本当に仕事が少なく、「社員に辞めてもらわざるを得ないんじゃないか」「事務所自体も続けていけるのだろうか」というような厳しい状況だったそうですが、みんなで協力して何とか持ちこたえているうちに、景気の潮目が変わったせいか、急激に良い方向へ転換していったのだそうです。

また、その転換にうまく乗れた理由が「社員をきちんと抱えていたから」ということがあるのだそうです。専門的でコアな業務をこなす能力がある社員が手元にいることで、案件が出てくればすぐに取り組める体制があり、そのおかげで迅速な対応を取ることができたということでした。

もしもこれが、社員を抱えずに会社をスリム化していて、外注に仕事を流しているような会社だったとしたら、景気が良い循環になれば当然技術を持った人材を集めることは難しくなり、迅速に仕事を請け負う体制を作ることができずに、受注を伸ばすことができなかっただろうということでした。

経営的な視点では、業務量に応じた弾力的な人員体制を取れるようになっているのが良いことだと言われます。要員をムダに抱えることを避けるために非正規雇用を増やしたりするのでしょうし、最近出てきた解雇規制緩和の話も、同じような意図が含まれているのだと思います。
効率重視でできるだけ人を雇わず、何でも外注したりアウトソースしたりというのも、また同じような考え方でしょう。

ただ、ムダをなくすということの裏を返せば、余裕や余力、のりしろの部分は少ないということです。
経済環境が現状維持かマイナス方向であれば、ムダをなくすということには確かに意味がありますが、拡大やプラス方向が見えるような環境で、余裕や余力がないということでは、適切な対応を迅速に行うことがしづらくなります。

必要な人材というのは、そんなに都合良く入社してきたり、契約ができたりというものではありません。仕事の案件が出てきたから「さぁ人材調達を!」などと考えても、それでは大体において手遅れで、なかなかうまくいくものではありません。

「人を雇う」というのは責任も伴うし、それを維持するのは経営的にも大変なことですが、会社にとって社員というのは、仕事をする上での一番身近にいるパートナーであり、味方であるといえます。
パートナーや味方は多いに越したことはないと思いますが、会社が効率を追求しすぎるあまり、最近はこのパートナーや味方を、ないがしろにしたり排除したりという動きが多いように感じます。

社員を単なるコストなどと考えず、仕事のパートナー、仲間として意識することが、経済合理性にもかなうという状況があります。
いったい何が余裕で、いったい何がムダかということを、状況に応じて間違わないように考えて行く必要があると思います。


2014年1月10日金曜日

「大人慣れ」が足りない?


大学生の就職活動に関する新聞記事で、『「大人慣れ」しない就活生が増殖!』というものがありました。

就職活動の環境変化により、あまり足を使わない学生が多いのが最近の傾向で、今は説明会予約もエントリーシート提出もネット経由なので、そんなバーチャルな世界で就活している気になってしまっているということでした。

一昔前は、説明会の予約も電話で行っていたので、そこで社会人の方と話をし、OB訪問などで会って話をし、徐々に「大人慣れ」してから面接に臨んでいたが、今はネット偏重で、大人との接点がないために、「大人慣れ」していない状態で、いきなり面接となって失敗してしまうのだそうです。

最近の就活中の学生の様子を見ていると、確かに面接等での緊張度のレベルが、年々上がってきているように思います。私は単純に就活が厳しいからだと捉えていましたが、「大人慣れ」といわれると、なるほどそういうところもあるのかという感じです。

ただ、「大人慣れ」が足りないということには、ちょっと解せないところもあります。
以前に比べれば今は少子化で、大人の中に子供が一人、二人というような状況は昔より多く、そういう意味では、子供の頃から大人たちの輪の中に入っていて、大人たちと接する機会は増えているはずです。

私の感覚では、最近の小中学生の世代だと、親世代の大人に物おじせずに話しかけたり、自分から接触してくるような子供たちが増えているように思います。昔より「大人慣れ」がしやすい環境であり、少なくとも子供の頃は、実際に「大人慣れ」もしているように思います。

しかし、それが就活の頃になると、まったく変わってしまっている訳で、これはただ単にネット偏重の就活のせいだけではなく、もっといろいろな原因があるように思います。特に高校から大学の頃にかけての、社会との関わりの部分で何かあるのではないでしょうか。

「大人慣れ」の問題で、就活の環境変化だけに答えを求めるのは、少し無理があるように思います。「大人慣れ」というのは、結局は自分と違う幅広い世代の人と、どれくらい直接触れ合った経験があるかに尽きる訳で、早いうちからそういう機会をたくさん作っていくしかないと思います。

就職活動の支援というのは、実はそんな初歩的なところがポイントなのかもしれません。


2014年1月8日水曜日

職住接近の効用


皆さんにとって、“通勤時間”というのは仕事時間にあたるのでしょうか? それともプライベートの時間なんでしょうか?
まぁ自由に使えるということでは自分の時間ですが、拘束されるということでは、限りなく仕事時間に近いという考え方もあるでしょう。

東京の都心で勤務する人は、片道1時間程度の通勤であれば、どちらかといえば近い方ではないかと思いますが、これが地方都市などに行くと、職住接近の度合いが全然違っていて、通勤1時間などというと「ずいぶん遠いね」などと言われます。

通勤時間は、それをどう使うかによって、有意義なすきま時間にも、ただの移動時間にもなります。気持ちの切り替えの時間だったり、読書の時間にあてたり、片道2時間の通勤電車内で勉強して、難関の資格を取ったなんて言う人もいますから、本当に利用の仕方次第だと思います。

ただ、遠距離通勤の人と職住接近の人の、いろいろなことを総合的に見比べると、私はやっぱり「職場は近いにこしたことがない」と思います。

まず、通勤もやっぱり仕事をするための拘束時間の一部ですから、片道30分の人と片道2時間の人とでは、毎日の拘束時間が3時間違います。1ヶ月で60時間以上になりますから、やっぱり相当な負担です。

さらに、「すきま時間として活用すればいい」とはいうものの、勉強や読書やちょっとの居眠りはできたとしても、寝転がって休める訳ではないし、食事ができる訳でもないし、特に全然座れないような満員電車では、ただ乗っているだけか、ケータイでも眺めているのがせいぜいです。その間でできることには限りがあります。

最後に、これが一番感じることですが、やっぱり遠距離通勤の人は皆さんお疲れです。仕事の能率に良い影響があることはないでしょうし、もしも通勤時間がそのまま実際の仕事に置き換わったとしても、仕事自体は早く進みますから、疲労感もずいぶんマシなのではないかと思います。

ネットサービス大手のサイバーエージェントでは、「2駅ルール」といって、会社がある場所から2駅以内の賃貸物件に住めば、家賃補助が月に3万円もらえるという制度があるそうです。
満員電車などの通勤ストレスから開放され、リフレッシュして働いて欲しいという想いからスタートした制度で、実は通勤交通費やタクシー代と比較すると、会社の費用負担はさほど変わらないのだそうです。

これからは、もう少し多くの会社が、「職住接近の効用」にもっと目覚めて行っても良いのではないかと思います。


2014年1月6日月曜日

「判断」は頭で、「決断」はハートで


野球の野村克也さんのコラムで、「不真面目の勧め」という話があり、これがとても印象に残りました。

要約すると、以下のような内容でした。

「ビジネスでも同じだろうが、勝負事には“判断”“決断”の両方が要求される」
「なんらかの基準があってなされるのが“判断”であるのに対し、“決断”には基準がない」
「基準がないから“決断”はいわば賭けであり、勇気が必要なものである」
「賭けには失敗がつきものだが、真面目一辺倒の人間は失敗を極度に恐れるから、的確な“判断”はできても、実行する“決断”ができない。そもそも失敗するリスクがあるようなことは、はなからやろうとしない。」
「大きな果実を得るために、成長しようとするならば、ある程度の不真面目さが必要である」

特に心に残ったのは、
「失敗を恐れる人は、“判断”はできても“決断”はできない」
“判断”は頭で行い、“決断”はハートで行う」
という二つの言葉です。

私が真面目かどうかは別にして、特に失敗したくない時というのは、いろいろなことをロジックで考えて、何とか失敗することを避けようとします。
失敗しないように、事前事後でできるだけの手を尽くすということは、それはそれで当たり前なことだと思いますが、結果的には“無難に”“安全に”という傾向が強くなり、新規の取り組みや、前例が少ないことでは、あまり大きな飛躍は無くなってしまっているように感じます。

また、人材育成の場面で、新入社員や若手社員に素直で真面目な人が増えてきたような印象がありますが、これが若者に対する一般論として言われる、「失敗を恐れてチャレンジしない」という話と少し通じる感じがします。

成功も失敗も含めていろいろな経験を積んでいけば、「判断」をする能力は上げていくことができると思いますが、「決断」というのは、それだけでできるようにはならないように思います。
「判断」する“頭”はある程度は作れるけど、「決断」をするだけの“ハート”は、単に経験を積んだからといって、一概に作れるとは言えないということでしょう。

何でも“判断”という形の理屈ばかりで考えず、勝負どころでは論理を超えた“決断”が必要なことは理解できますが、頭でわかっていてもなかなか実行できるものではありません。
ただ、“決断”が必要な勝負どころはできるだけ見誤らないように、『「判断」は頭で、「決断」はハートで』という言葉だけは、常に意識しておこうと思います。


2014年1月3日金曜日

実践を自覚するための「有言実行」


新年を機に、何か計画したり目標を立てたりする人は多いと思います。それと同時に、計画や目標を立ててもそれに向けた実践がなかなかできず、計画や目標を達成できないということも、また意外に多いのではないでしょうか。

スポーツ選手などからよく「有言実行」という言葉を聞きます。口に出したことを責任持って必ず実行することという意味ですが、そもそもは、黙ってやるべきことをやるという意味の「不言実行」“不言”を“有言”に置き換えて作られた言葉なのだそうです 。

昔は、よけいなことを言わずに行動で示す「不言実行」が立派と考えられていましたが、逆に最近は、やろうとしていることを言わないのは、失敗を他人に知られずにすむための安全策であり、やるべきことを初めに宣言するというリスクを取っている方が、より立派だと考えられるようになってきていて、そんなことから「有言実行」という言葉がポピュラーになってきたようです。

どんな人でも、守れない約束なら最初からしないでしょうし、約束したことは基本的には守ろうとすると思います。これをそれぞれの言葉に置き換えてみると、初めから約束をしないのが「不言実行」、約束をしてそれを守ろうとするのが「有言実行」ということになります。

やはり、自分の計画や目標を他人に宣言するということは、それが他人との約束になり、そのことで、より自分の責任感が増すという効果があります。責任感が増せば、その計画や目標に向けた実践をしなければならないという自覚が生まれ、取り組みを実行せずに終わってしまうような確率を減らす事ができると思います。

今まで、自分の心の中だけで計画や目標を立てる「不言実行」だった人は、あえて「有言実行」にトライしてみると、いつもと違う結果につなげる事ができるかもしれません。
実践を自覚するために、「有言実行」を活用するという方法も、あるのではないかと思います。