2013年8月31日土曜日

なかなか変わらないキャリアの会社依存


「未来への不安を払拭するため、自分のキャリアを磨く努力をする」
ごく当然の流れのように見えますが、自営業者を除く全国の有職者を対象にした調査で、「語学、IT、マネジメント力など仕事に役立てるための勉強をしていますか?」と聞いたところ、「勉強をしていない」と答えた人が過半数(約54%)に及んだのだそうです。
調査結果の分析としては、先行きが見えない中で、何をどう学べばいいのかわからない人が多いのだろうということでした。

確かに自分の会社員時代を考えても、きちんと目標を定めて勉強していたかと言われれば、あまりそうではなかったように思います。ただ、独立心だけは持っていて、会社には頼らないぞという意識はあったので、自分なりに人脈や見聞を広めようとはしていました。

そう考えると、そんな独立心がないのであれば、会社にいればとりあえず目の前の仕事は常にあるし、目の前に仕事があれば差し迫った危機感は感じづらいだろうし、そうなれば、日常業務の中でよほど自分のスキル不足を感じる場面でもない限り、あえて自分の時間を使って勉強はしないかもしれないなぁと思います。

そんな中、最近読んだある著名な方のコラム記事で、イチロー選手を題材にしたものがありました。
ちょっと要約すると、「例えばアスリートは試合に出るために毎日練習する。イチロー選手のような天才でも、練習せずに試合だけ出ている人はいない。ビジネスパーソンもプロフェッショナルとして仕事をする以上、勉強にもっと時間を割くべきだ。」とありました。「勉強しないのは、脊髄反射で日々の仕事を乗り切れてしまうからだろう。」ともありました。

こう考えれば「何をどう学べばいいのかわからない」なんていうのは、「とりあえず試合には出られているので練習はしません」と言っているのと同じことのように思います。でも、いつ試合に出してもらえなくなるかわからないし、そうなってからあわててもたぶん手遅れです。そんな甘えたことを言っている場合ではないように思います。

これは自戒も込めてですが、やはりきちんと学ぶべきことを見つけて学ばなければならないです。自分のこれまでのキャリアをもとに、専門性はどの部分なのかを考えることが第一歩だと思います。幸い私は自分の専門性は見つけていますが、今やっている内容はいつか陳腐化するので、そのままでは絶対に通用しません。ではどうするかと言えば、実務経験を積みながら自分なりに学ぶ以外に方法はありません。

少なくとも「何をどう学べばいいのかわからない」は、やっぱり言い訳だと思います。


2013年8月30日金曜日

せっかくのアピールがアピールになっていないと感じる言い方


ある学生さんとの面接でのやり取りです。

「自分の長所は“人が嫌がることに進んで取り組むこと”です」
「具体的にはどんな取り組みがありましたか?」
「学校の○○説明会に、クラスの誰か一人が代表として発表しなければならないのですが、みんな嫌がってやりたがらなかったのを、自分も嫌だったけど引き受けました」

自分の長所のアピールなのですが、この言い方や内容だと、相手の受け取り方によってずいぶんニュアンスが変わってしまうように思います。

「人が嫌がることを引き受けた」ということはすばらしいことだとして、
“でも結局は自分も嫌だったんでしょ?”
“イヤイヤやってもねぇ・・・。”
“人の嫌がることってこのレベルのことなんだ・・・。”
“社会人は発表する機会っていっぱいあるから、それが嫌だと大変だよね・・・。”
などというとらえ方もあります。

相手のとらえ方によっては、アピールどころか逆効果になっていることもあり得るということです。(実際に他の面接官はそのようにとらえていました)

これは“人が嫌がること”という主観的な事柄を、“引き受けた”という入口の部分だけでアピールしようとしたせいだと思います。アピールできるほどの実態がなかったのかもしれませんが、少なくとも“人が嫌がること”を引き受けた後の取り組みについて話した方が、いろいろアピールできることがあると思うのです。
例えば、
「初めはイヤイヤだったけど、責任もって取り組んで最後まで成し遂げた」
「発表内容を褒められ、嫌でもやってみると評価してもらえることもあるという体験をした」
「経験したおかげで、人前で話すことに苦手意識が減った」など・・・。
そして、
「そんな経験をしたおかげで“人が嫌がること”にも進んで取り組むことができるようになった」などとなれば、誰が見てもケチのつけようがないアピールです。

実際の中身が伴っていないから言えないのかもしれませんが、特に学生さんとの面接の中では、話すポイントや話の主旨と内容が少しずれているように感じることが多々あります。相手がどんな基準や価値観で話を聞いているかということへの感度が、少し弱いのだろうと思います。こればかりはできるだけ多くの人と接して、相手との距離感をつかむ経験を重ねていくしか改善の方法はありません。

せっかく良い経験があるのに、それがうまく表現できず、相手に伝わらないのはちょっともったいないことです。相手のことを少しだけでも意識して、少しだけでもうまく表現できるようになれば、今より少しだけでも、良い結果につながっていくのではないかと思います。


2013年8月28日水曜日

新社会人たちは意外と飲みに行きたいらしい


この1、2年の間に行われたいくつかの調査を見ていると、新社会人は意外に「飲みュニケーション」に期待を持っているという話題を目にしました。

調査によって多少の差はありますが、少なくとも6割前後の人が「職場の飲み会に行きたい」「仕事以外のプライベートな話もしたい」と答えているそうです。

調査では“行きたくない理由”の項目もあり、「帰りが遅くなる」「お金がかかる」「疲れる」「プライベートの時間を大切にしたい」などとありました。でもこれは、単純に「だから行かない」とはならないものの、私たちのような世代だって同じですよね。

また、“不安なこと”という項目もあって、「何を話していいか分からない」「社会人としての飲み会マナーが分からない」「お酒の無理強いが不安」ということが挙がっていました。

私が研修などで新入社員に接していても、彼ら彼女らは、結構細かい事に気をつかっていて、失礼だったらどうしよう、常識外れと思われたらどうしよう、と心配しています。調査で挙がっている“不安なこと”と共通しているように思います。
「積極的にコミュニケーションを取りたい」「いろいろ教えてもらいたい」「いろんなことを吸収したい」とは思っているものの、相手に対して気をつかうあまり、実際に行動するのを躊躇してしまうようです。「怒られないように・・・」「失敗しないように・・・」という意識が強いと言われる、世代的な特徴も多少はあるでしょう。

特に飲み会のマナーなどというのは、確かに重要ではありますが、お酌とか席順とか、その他もろもろは場数を踏んで経験しないと分からないものです。また誰かがちょっと教えれば、それで済んでしまうことが大半だと思います。

お酒の無理強いも、今はほとんどの会社で見かけなくなっていますし、もし今でもあるのだとすれば、これは特に上司先輩の側が十分に配慮すべきことです。そもそもお酒の無理強いは典型的なパワハラに当たりますし、飲めない人や飲みたくない人が「飲めません」と気軽に言い出せる雰囲気を作ることも大事です。

最近は、上司先輩の方が、「今の若い子たちは飲み会は嫌がるから・・・」と、逆に気をつかい過ぎているようなところもありますが、常識的な頻度で普通に誘い、調子に乗って説教たれずに普通に話せば、それなりに付き合おうとする子たちは結構いるということです。

不安を理解して、それをちょっとだけ解消してあげれば、お互いいい感じの飲み会で、いい感じに交流を深められるのではないかと思います。


2013年8月27日火曜日

そんな方法もあるのかと感心した今どきのコミュニケーション


先日、昼食で立ち寄ったお店の隣の席に、一見20代後半から30代前半くらいの男性が一人でいました。
食事後に新聞を読んでいたのですが、ときどき独り言のようにぶつぶつ何かを話しています。チラッと見ると、机の上にスマートホンがスタンドで立ててあり、どうも彼女か奥さんかを相手にビデオ通話をしているようです。

別に普通の電話のように面と向かって話し続ける訳でなく、どうもお互いが勝手に自分の用事をしながら、気が向いた時に会話をしているようです。まさにバーチャル“自宅のリビング”という感じです。もしかしたら私が情報にうといだけで、こんな使い方はごく普通のことなのかもしれませんが、「そうか・・・、こういう使い方でこういうコミュニケーションの方法もあるんだな」と、ちょっと感心してしまいました。

こういう話をある世代以上の人にすると、だいたいが「やっぱり実際に会わないとダメだよね」「直接会話した方がいいよね」などと言います。それは確かにそうだと思いますが、直接会うことにこだわると、どうしても時間や頻度は限られてきます。普通の電話も話題がないとかけないし、かけるとどうしてもそれにかかりきりになるので、他に何かしながらということはやりづらいでしょう。

私が見かけた光景はビデオ通話という機能だからこそだと思うのですが、こんなバーチャルであったとしても、日常の昼休みのほんのひとときで、家族や親しい人との時間を共有できるのであれば、それはなかなか良いことだと思います。

最近はこのビデオ通話のように、直接会えないけどその代用になるような中間的なコミュニケーションツールがたくさん出てきています。旧来のコミュニケーション方法にこだわり過ぎて、こういうものを排除していると、実は損することが多々あるように思います。

リアルを大事にして、きちんと実際にお会いすることは重視しつつも、こんなツールを活用することで、さらにコミュニケーションを深めていく事ができるように思います。


2013年8月24日土曜日

「さとり世代」っていうんですね・・・。


バブル世代とも、ゆとり世代とも違うという「さとり世代」という言葉があるそうです。

私は少し前に知りましたが、そもそもはもう数年前にネットから出てきた造語だそうで、今の若者世代の「車は乗らない」「ブランド服はいらない」「スポーツしない」「酒は飲まない」「旅行は行かない」「恋愛は淡泊」などの性向から、「結果をさとり、高望みしない世代」ということの表現だそうです。
社会が先行き不透明であるため、「結果をさとらざるを得なかった世代」、また「現実的な将来を見通す賢い集団」「無駄なことをしない合理的な世代」でもあるということでした。

私は何でもひとくくりにしてしまう世代論というのはあまり好きではありませんが、それでも確かに世代ごとの大まかな特徴はあると思うので、こういう側面も意識する必要はあると思っています。

私自身も「無駄なことはしたくないし、合理的に考えたい」というところが結構あるので、似た考え方といえばそうかもしれませんが、実際にはいろいろなことに遭遇する中では「無駄なのか無駄じゃないのかわからない」ということもたくさんありました。そんな事柄に対しては、たぶんそこそこの比率で「とりあえずやってみる」という行動をしています。

その結果として良かったことも悪かったこともありますが、少なくとも初めに思っていたままということはほとんどありませんでした。いろんな経験をお持ちの多くの方がそうだと思いますが、「さとっていた通り」にはならなかったということです。

人間は、「無駄なことをしない」という心理が強いと、どうしても「行動しない」という方向に流れがちです。この「さとり世代」という表現が、合理的、現実的、寛容、賢く見通す、という意味であれば良いですが、「無駄なことをしない」ということばかりでは、「行動しない」という方向にどんどん加速がついてしまう危険があるように思います。

きっと個人差はあるのでしょうが、若者たちに行動的になってもらうためには「とりあえずやってみろ」だけではダメで、「やってみるとこんな良いことがあるよ」ということを、具体的に示すように工夫をしていく必要があるように思います。

「やってみないとわからないこともある」ということを伝えて、そういう経験を積んでもらっていかないと、行動を躊躇する若者ばかりになってしまうかもしれません。
そうならないために、私たちのような年長者がサポートすることも必要なのだろうと思います。


2013年8月23日金曜日

素直さと問題意識


皆さんの会社に、「素直で、現状を肯定的にとらえ、不平不満を言わず、多少つらいと思っても黙々と仕事をこなす社員」がいたとしたら、きっと上司や周りからの信頼も厚く、高い評価がされるのではないでしょうか。こういう社員は理想的な人材だととらえる人もいるでしょう。

しかし、こういう人を別の観点から見たときに、「問題意識がなく、改善提案ができない社員」という可能性があるかもしれません。問題意識を持っていて、本来あるべき姿を描いていた上で、現状を肯定的にとらえて不平不満を言わないのであれば、これは非常に良いことですが、もしも問題意識を持っていないとすれば、単に周りにとって扱いやすい作業者ということになってしまいます。言われたことはやるけど、それ以外のことは気がつかないとか、間違ったやり方、非効率なやり方を続けていたりします。

逆に、社内には「不平不満が多くて、扱いづらい社員」がいるかもしれません。しかしこれも別の角度から見たとき、本人の行動が伴い、他人への伝え方を良く考えた上での不平不満であれば、これは「問題意識を持っている」という見方ができます。不満というのは、“本来あるべき姿”とのギャップがあるから生まれるものであり、このギャップこそが「問題」にあたるので、それを自分なりに考えているということができるからです。

この「問題意識」に関して言えば、“本来あるべき姿”を意識しているか、していないかを聞くことで、その有無を確認できます。ちょっと面談でもして話を聞けば、すぐに何となくはわかるのではないかと思います。

こういうことだけに限らず、“上司や周りにとって扱いやすい人”というのは、当然裏の面も持っています。例えば、自分の意見が希薄、積極性が足りない、何も考えていない、などと言う事もあり得ます。
 自分たちにとって扱いやすい人材だったりするとついつい見逃しがちですが、こんな逆の面からの見え方も想定し、よくコミュニケーションを取っておくことが必要だと思います。


2013年8月21日水曜日

「当たり前の研修」ではダメなのか


「そんなのわかり切ったこと」「当たり前じゃん」・・・。研修をやっている中で、こんな反応をされることがあります。そういう声が出てくるということは、その研修を前向きにはとらえていないということでしょう。私も今は講師の立場が多くなりましたが、自分が受講者のときはこんな風に思うことがありました。

でも、良く考えれば「当たり前の内容の研修」というのは“当たり前”のことです。誰も知らない新しい理論で、みんながみんな初めて見聞きするような内容の研修なんて、そうそうあるものではありません。

研修でやることといえば、ほとんどが今まで言われてきているもの、セオリーとしてすでにあるもの、昔からの原理原則として存在するもののはずです。“当たり前”のことにあえてスポットをあてたり、あらためて意識させたりして、知っている当たり前のことだけど、できていないんじゃないか、実行していないんじゃないかということに気づいてもらうために、講師の人たちは伝え方や意識の向け方にさまざまな創意工夫をします。

先日あるところで聴いたお話ですが、研修などのOff-JTでできるのは、「無意識で出来ていない」ことを“意識させる”ところまでで、その後の「意識してもできない」→「意識すればできる」→「無意識でもできる」というステップを踏んでいくためには、本人の自覚と周りの人からの働きかけが大きいのだそうです。研修でできるのはほんの入り口の部分で、人材育成全体で考えればその1割程度とのお話でした。
「たった1割だから研修なんて無駄なのか」というと、そういうことではなくて、「気づき」という人材育成の入口として、いかにうまく活用するかが大事ということでした。

だいたいよくあるパターンは、研修を受けた直後は感度が上がって「目からウロコ」なんて思っていても、そんな気持ちとは裏腹のいつもの環境に戻ってしまえば、徐々に火が消えていつの間にか元通りということです。せっかく点いた火を消さないためには、職場の雰囲気作り、上司の意識改革も必要になります。研修で学んだ内容を、日常の仕事でかかわる直属上司や、所属する職場全体で共有するなんてことも重要かもしれません。

「そんなの当たり前」という人はおおむね研修に対して好意的ではありませんが、そんな人に限って、やっていない、実行できていないということが多いはずです。自分自身を振り返ってもそうですし、やっぱり「知っている」のと「できる」のとは大きく違います。

もちろん研修のやり方に工夫は必要ですが、その後をどうやって行くのかがもっと大事なことのように思います。
「当たり前の研修」という批判が出たり、「研修が無駄になっている」と感じるならば、研修そのものの問題とともに、職場環境、そういう発言が出る雰囲気、その人を取り巻く周囲の人たちの方にも大いに原因があるように思います。


2013年8月20日火曜日

「自己裁量の程度」で変わる働く時間の感じ方


あるブログを読んでいる中で同じようなことが書いてあり、なるほどと納得したことです。

私が会社に在籍している頃は、自分がプライベートと考える時間に仕事が入り込んでくることがイヤでたまりませんでした。毎日の定時後も週末の休日も、そこが仕事にならないようにするために、できる限りのことを考えていました。もちろん相応の責任感は持って仕事をしていましたが、一方で自分の時間を会社に奪われたくないという思いは常にあり、その時の状況によってはよけいなことに手を出さない、適当にサボるなど、真面目に働いているとは言えないこともありました。

それが独立した今では、全く感覚は変わっています。仕事とプライベートという境目をはっきりさせることが難しく、区別をすること自体あまり意味をなさなくなっているので、いつが仕事でいつがプライベートということはあまり考えなくなりました。働いている時間も、たぶん会社員時代に比べて圧倒的に長いと思いますが、実感としてあまりそうは感じません。どちらかというと、会社員時代の方がよほど一日は長かった気がします。

そこの違いはただ一つ「自己裁量の程度」です。今はほぼ100%自分の裁量で動きます。時間もスケジュールもその時にやる内容もすべて、取引先だって選ぼうと思えば自分次第です。でも会社員時代はそうはいきません。勤務時間も休日も決まっているし、もちろん仕事内容も自分の好き勝手に選べるわけがありません。私はいちおう組織上の役職もあったので、任されている部分は多い方だったと思いますが、それでも自己裁量の比率を表現すると、50%に行っていたのだろうかという程度に感じます。

実は人間は、人に命令されて動くことは絶対になく、仮に命令されたとしても、「この命令には従っておこう」“自分で決めて”動くのだそうです。もしもその命令が自分の意志と離れているなど、自己裁量を制限されるような状態があると、人は拘束感を持ち、それが不満となっていつか爆発します。

創業社長など、自分が常に仕事中心でいた人は、ついつい社員にも自分と同じようなノリで仕事をさせようとすることがあります。ただ、社長は100%自分の裁量で動いているのに対し、社員たちにそこまでの裁量はありません。こうなると、社員にとっての働く時間の感覚は、社長のそれとは全然違うはずです。
働く中での「自己裁量の程度」というのは、いろいろな物事の感じ方につながる大事なことだとあらためて認識しておく必要があると思います。


2013年8月17日土曜日

いいように思い込んでくれる人


人事関連の仕事をしている方々は皆さんそうでしょうが、私もずいぶん長らく人事の仕事をしていることで、人が入社する、退職するという場面に数多く立ち会ってきました。

やっぱり入社や退職というのは、どんな人にも節目の印象深い場面だと思いますが、そのせいか、しばらく時間が経ってから改めて話す機会があったり、久しぶりに再会したりという時に、その頃の話題が出ることがあります。まぁ懐かしい昔話だったりすることが大半ですが、ときどき私のことを勝手にいいように思い込んでいてくれている話をされることがあります。

例えばこんなことです。

「採用してもらったおかげで・・・」
(いやいや俺一人で決めたわけじゃないし、自分の実力とご縁があったということでしょう。)

「全然貢献できないうちに辞めてしまって、合わせる顔が無いんですが・・・」
(そんなのいろんな事情があるし、今さら関係無いんじゃない?・・・)

「あの時、○○って言ってもらったおかげで、気が楽になったんですよ」
(それは良かった!でも俺は全然覚えてないけど・・・)

これは、悪口や自分に都合の悪い話を耳にしないだけかもしれないし、お世辞や社交辞令で持ち上げてくれているだけかもしれません。
ただ、もしもこれが本心だとしたら、私が入社や退職の場面で心掛けていたことは、「入ってくる人はできるだけ快く迎え、去っていく人はこれからも付き合いが続けられるように快く送り出す」ということで、説得したり責めたりということをしませんでした。本来はやるべき時があったのかもしれませんが、それをしなかったおかげで「いいように思い込んでくれる人」がいる気がします。

私自身は結構きついことも言っているはずだし、不満を持たれたこともあるはずですが、相手にとって節目の重要な場面で、真面目に相手を尊重して対応すると、その印象が良いようにクローズアップされて、後々まで心に残るせいではないかと思います。節目での対処を間違わなければ、後々まで良い付き合いが続けられるのだとも思います。

入社退職の場面でいえば、快く迎えることはできるけど、快く送り出すことのできない人が意外に大勢います。「お前なんて辞めちまえ!」だったり、「辞めるなんて許さん!」だったりします。これをやったら、やっぱり縁は切れてしまうでしょう。

最近は入社の場面でもイヤな話題を耳にしました。内定辞退者に「お前のせいで予定が狂った!」とののしったり、その後の就職活動を妨害するような行為があったりするとか・・・。
こんなことをされたら、その会社のことは悪い印象だけ、もしかしたら一生恨むようになるかもしれません。そんな会社の商品は買いたくないし、サービスも受けたくないでしょう。嫌われる会社の業績が上がる訳もなく、結局自分たちの行為が自分たちに返ってくる訳で、そんなこともわからないのかと理解に苦しみます。

「いいように思い込んでくれる人」は、自分に何かあった時に手伝ったり助けたりしてくれたりします。相手の節目に真面目に向き合うことでそんな人が増やせるならば、それは役得なのかもしれないと思っています。


2013年8月16日金曜日

出戻り歓迎の会社、送別会禁止の会社


社員がいる限り、退職者が永遠にいない会社はありません。何らかの理由での別れはあるものですが、最近は一度退職してしまった人も、あらためて会社に呼び寄せたり、本人が復帰を希望すれば優先して受け入れをする「出戻り歓迎の会社」が増えています。

その人の働きぶりや人となりを知っていること、外の空気を吸った上であらためて自社を良いと思ってくれたことなど、出戻りを“より望ましいこと”ととらえる経営者もいらっしゃいます。ここまでではなくても、会社を辞めて独立した人やその転職先の会社と、仕事上の関係を持ったり取引をしたりするようなことは、それほど珍しくはないと思います。

こんな話の一方、あるところで「退職者の送別会は禁止」という会社に出会ったことがあります。実際には内輪でこっそりやっていることもあるようですが、オフィシャルには定年まで勤め上げた人以外、やってはダメなのだそうです。この社長さんいわく、「目をかけて、一生懸命仕事を教えて、家族と同じと思って接してきた人間がドライに辞めていってしまうことを、本心ではどうしても許せず素直に送り出す気持ちになれないから」とおっしゃっていました。

これを見たほとんどの方は、後者の「送別会禁止」の社長さんにはあまり共感しないでしょうし、私も基本は同感ですが、「それほど社員に真剣に向き合った証拠で、だから失望も桁違いに大きい」とも言えるので、一概に非難ばかりもできないように思います。
このあたりはもう根本的な人間観の違いであり、辞めた人をそのまま仲間と思い続けるか、裏切り者と思うかの違いです。

ただ、もうあらためて言うほどのことでもありませんが、裏切り者とは二度と付き合えない訳で、二度と付き合えないような人は少ない方が、ビジネス的には良いに決まっています。ビジネス的な環境が厳しい昨今だからこそ、今までは眼中になかった退職者とも縁をつないだ方が得策だと考えるようになり、それが「出戻り歓迎」にもつながっていると思います。

特に、私たちのような小規模事業者がお仕事の依頼をいただくのは、本当にご縁しかありません。前述の「送別会禁止」の社長さんも、もう一歩進んで開き直る事ができればもっと新しい世界が開けて来るように思うのですが・・・。


2013年8月14日水曜日

見方を変えれば気分も変わる・・・「ネガ・ポジ変換」っていいかも


「ネガ・ポジ変換」ってお聞きになったことはありますか? そもそもは写真の世界での言葉みたいですが、最近は本来の意味とともに、「ネガティブ(否定的)な言葉を、 ポジティブ(肯定的 )な言葉に言い換える事で、前向きになってやる気を出そうという思考方法」のことも言うようです。「ネガ・ポジ言い換え」などとも言うようです。
これに関する書籍や、言い換えを助けるスマホアプリまであるようで、そもそもは女子高生の発案なんてことも聞きました。

例えば、
「ケチ」→「物持ちがいい」
「いい加減」→「おおらか」
「落ち着きがない」→「行動的」
「飽きっぽい」→「切替が早い」
なんていう感じです。

つい最近のことですが、私の母親(歳を取ると人間は大体グチっぽくなってくる・・・・)が趣味でやっている短歌のことで、「楽しいことが何にもないので、後ろ向きな悲しい歌しかできない・・・」などと言っておりまして、私は「でも短歌を作ること自体が創作活動なわけで、それって前向きな活動なんじゃない?」と言ったところ、少し気持ちが変わった様子が見えたりしました。

私の仕事でかかわる採用面接でも、よく「自分の長所と短所は?」などという質問をしますが、ほとんどの場合は自分が持っている同じ要素を、どちらの面から見るかということのように思います。
「周りが見えない」「集中力がある」「作業が遅い」「慎重」「丁寧」「八方美人」「人見知りしない」「交友が広い」など、言い換えができます。

 こんな言い換えをしていると、自己暗示の効果も出てきて、言い換えた結果(長所)につながる方の意識が強まり、同じ要素であっても、短所的に捉えられる行動より長所につながる行動が増えます。「長所を伸ばして短所を無くす」という、まさに一石二鳥かもしれません。

「ネガ・ポジ変換」は、物事の見方をちょっと変えたり、表現の仕方をちょっと変えたりするだけで、少し意識すれば誰でもできる事です。またその割には効果が大きいように思います。
私自身も今まで以上に「ネガ・ポジ変換」を意識して見たいと思います。


2013年8月13日火曜日

何のための評価制度改定なのか


「人事評価制度を見直したい」というご相談を受けることが、特に最近多くなったように感じます。課題を抱えているという企業がそれだけたくさんあるということですが、「なぜ評価制度の見直しなのか」という事情は各社各様です。

こんな中で、起こっている現象が明らかに評価制度に起因する問題で、それを直すことが解決策として最優先というケースは実は少なく、「活気がない」「マネジメントが弱い」「退職者が多い」「人材が育たない」などの人事上の課題を、「評価の仕方にも問題があるだろう」と考えているケースが意外に多いです。

「活気がないのは、給与の評価反映が少ないからだろう」
「マネジメントが弱いのは、ルールが細かく決まっていないからだろう」
「正当に評価されていないと感じるから辞めてしまうのだろう」
「その人の評価に合わせて仕事を与えないから、人材が育たないのだろう」

など、“きっと~だろう”という推測の中で起こっている現象と評価制度の関係を考え、課題としてご相談を頂きます。特に社長さん、役員さんなど会社の上層部の方からお話を頂く場合、「優劣、白黒をはっきりつける」ことが組織化や活性化につながると考え、“だから評価制度だろう”ということが多いように感じます。

 これはこれでまったく間違いではありませんが、“優劣、白黒をはっきりつける”ことと“組織化や活性化につながる”ことは必ずしもイコールではありません。結果主義が行き過ぎてプロセスに注目しなくなることで、社内の活気がなくなってしまうこともあるし、ルール化を進め過ぎて社員が自律的に判断することをしなくなり、結果としてマネジメントがさらに弱くなったり人材が育たなくなったりもします。

このあたりは起こっている現象とともに、在籍している社員のタイプ、性格、資質といったところにも左右されますから、いきなり競争をあおる制度を入れても、みんなが上昇志向で競争し始めるとは限りません。もしかすると草食動物の群れに「明日から肉を食え!」と言っているようなことになりかねません。

人事評価制度に課題がある企業は非常に多いですが、起こっている現象とともに、社風や職種にからんだ人材タイプ、集団として見える社員の性格特性、人にまつわる過去からの経緯、今後その人材特性を維持したいのか変えたいのかなど、周辺事情を総合的に見る必要があります。私たちが制度作りをするにあたっても、このあたりを見極めることから始めます。
「なぜ評価制度改定なのか?」。自社の状況を今一度見直していただければと思います。


2013年8月10日土曜日

「能力不足」か「度量不足」か


「アイツは能力が低い」「仕事ができない」というような言い方で、自分以外の他の社員の「能力不足」を批判する声というのは、程度の違いはあってもほぼすべての企業で聞かれるものです。この指摘がすべて間違っているわけではないと思いますが、私は一方で「度量不足」を感じることが良くあります。

“度量”とは、辞書によれば「他人の言行をよく受けいれる、広くおおらかな心」とあり、同じような意味の言葉として、“器の大きさ”“寛大さ”“ 寛容性”“ 包容力”“心の広さ”“慈悲深さ”“懐の深さ”などが出てきます。
要はその「能力不足」の人に対する、仕事を与える側、指導する側、雇っている側の姿勢や態度にも問題があるのではないかということです。

確かに今のビジネスの世界では、スピードは早いし結果もシビアに問われますから、やむを得ない面はありますが、大して教えもせず、フォローもフィードバックもせず、自力で出来ないから「能力不足」だといい、すぐに「使えないから辞めさせろ」などと言います。あまりにも見切りが早く無責任な気がします。

また、そういう言い方をする人は、おおむね「自分はできている」という自負を持っています。しかし第三者として客観的に見ると、ある一面ではそうであっても、できていないことはまだまだたくさんあることが多いです。たまたま顕在化したところはできていたというだけで、それをよりどころにして他者攻撃をしているだけです。自分のことを謙虚に客観視することはできていません。

人によって「能力不足」は確かにあるし、本人が自覚して努力、克服することが最も必要ではありますが、会社にもその人を採用した責任があります。能力の見込み違いは自分たちのせいであり、成長速度が遅いのは周りの指導に問題があるかもしれません。成果を出しづらい仕事を与えているかもしれません。これを棚に上げて排除しようとするのは、やっぱり「度量不足」と言わざるを得ません。

「度量不足」「能力不足」の陰に隠れてしまいがちですが、ほぼ同列にあるものです。これを自覚できないと、他者攻撃をして人の見切りが早い風土がどんどん定着していきます。そして組織の中での他者攻撃は、確実に業績の足を引っ張ります。もしも自社に気になる点があるならば、一度じっくり見なおして頂ければと思います。


2013年8月9日金曜日

「仕事」の対極は「休み」か?「遊び」か?


トリンプインターナショナル元社長の吉越浩一郎さんのお話をうかがう機会がありました。ご自身の経験を踏まえたワークライフバランスの考え方、効率的な仕事術のヒントのようなお話でした。
良いお話がたくさんありましたが、特に印象に残ったことを一つだけ・・・。

「仕事の対極は?」という質問をしたときに、欧米人は「遊び」と答え、日本人は「休み」と答えるのだそうです。
なぜこういう違いになるかというと、仕事に自分の能力をつぎ込んでいる人は「遊び」といい、体力をつぎ込んでいる人は「休み」というのだそうで、日本人は長時間の残業がプライベートな時間どころか睡眠時間にまで食い込み、体力的に疲弊してしまう働き方が多いためにこうなってしまっているということでした。

整理するとこんな感じです。

○仕事の対極が「休み」という人のスパイラル
体力をつぎ込む(残業が多い)→睡眠時間に食い込む→週末の寝ダメ
→倦怠感(サザエさんシンドローム・・・日曜夕方のサザエさんを見ると休みが終わりだと
憂鬱になる)→「あーあ、もう月曜だ・・・」

○仕事の対極が「遊び」という人のスパイラル
能力をつぎ込んで効率的に働く(自分の時間がある)→体力は温存されている
→週末に遊ぶ元気がある→「さぁ月曜だ!」(そこまでいかなくても「まぁやるか・・・」)

このスパイラルが一週間単位だけでなく、職業人生すべてを通しても同じようになってしまうともおっしゃっていました。
ずっと仕事に体力をつぎ込んできたので、定年後は「遊びたい」ではなく「休みたい」「新たな生」ではなく「余生」と思っていて、いざ定年になると何をして良いかわからない、今まで遊びに時間を使っていないので、いざ時間ができると何にもできない、のだそうです。

「体力は温存して能力を発揮する効率的な働き方が非常に重要である」ということで、また「ただ単に早く帰るのでは会社の仕事は成り立たない、残業せずになおかつ今まで以上の成果を上げなければならないともおっしゃっていました。

ワークライフバランスというと、どうも仕事時間を減らすことばかりに偏っていて、本来あるべき姿である「仕事時間は減らしてもそれまでと同等かそれ以上の成果を上げる」ということが忘れられがちになっている気がします。労働時間がなかなか減らない大きな原因であると思います。

自分なりに意識はしていたものの、「効率的に仕事をする」ということが、自分の人生にとっても大事だと改めて思えるお話でした。


2013年8月7日水曜日

上司・部下間の「距離感」の捉え方の違い


このところ、体罰に関する話がいろいろなところで取り上げられています。
この件にからんで、柔道全日本女子の監督が辞任するということがありましたが、この会見の際に「コミュニケーションは取れていると思っていたが、一方的な信頼関係だった」という主旨のことを話されていました。自分は「理解し合えている」と思っていたが、実際には一方的な思い込みだったという事です。

私が企業を見ている中でも、上司部下の関係や先輩後輩の関係において、これとまったく同じような事がよくあります。

・飲み会に誘うといつも喜んでついてきていると思っていた部下から、面談の席で「誘われるのが嫌でたまらない」と真顔で訴えられた。
・部下を軽く叱ったつもりが、本人はものすごく思い悩んでいた。
・とっくに解決したと思っていたコミュニケーションの行き違いの問題を、今になってまた再び持ち出された。

その他、セクハラ、パワハラなどに類することも、こんなお互いの認識違いがそもそもの発端であることがほとんどではないでしょうか。

このお互いの距離感の認識違いについて、私が見てきた中では、上司・先輩の方が部下や後輩よりも、相手との距離が近いと思い込んでいることが多いように思います。「上司、先輩、指導者は近しい関係と思っているが、部下、後輩、指導を受ける側はそう思っていない」ということです。最近の若者は、特に年長者と接する機会が少なくなっていると言われるので、なおさらそう感じているかもしれません。よく理解できないけれど、相手との衝突を避けるために、一生懸命相手に合わせようとしていたりします。

どちらかといえば権威や権力を持った上の立場の者の方が、自分に都合よく「近い関係」と思っているので、これを下の立場の者から否定するのはなかなか難しいことでしょう。こんな関係は、実は身近に沢山あることで、それが良くない作用を引き起こしていることも多いのではないでしょうか。

これを解決するには、特に上の立場の者から「相手(部下後輩)との距離感を把握する」ということを、継続して相手に働きかけていくしかありません。自分の経験則や価値観だけにとらわれず、できれば客観的に、相手の態度や様子を見ながら、観察や雑談、オンの時もオフの時も含めた様々なコミュニケーションを、できるだけ頻繁に行っていくしかないと思います。(もちろん部下からも、上司と良い関係を作る努力はできるだけして頂きたいですが・・・)

上司からすれば、「実はよくわからない遠い人と部下から思われていた」なんてことは、とてもショックなことです。でもそれは、ある日突然事実を知ってしまうからショックなのです。日頃から距離感をつかむ努力をしていれば、ショックを受けるようなことは減っていくと思います。

お互いの関係を近づけることができれば、仕事の上でも組織運営の上でも、それに越したことはないはずです。

2013年8月6日火曜日

「機能体」と「共同体」・・・企業の捉え方の違い


先日うかがったお話が興味深かったので、ご紹介します。
同じ資本主義経済であっても、アメリカと日本では企業の捉え方が全く違うというお話でした。それが表題の「機能体」「共同体」ということです。

アメリカの場合、企業というのはあくまで収益を上げる「機能体」として認識されていて、すべて経済原則で動くのだそうです。あくまで自分たちの利益を追い求め、損するとなれば法に触れない限りは約束も反故にします。M&Aなどでは合併先の顧客やフランチャイズ先に対しても、過去の条件に関わらず自分たちが提示した条件での新契約を求め、合意できないところは切り捨てもします。解雇やレイオフでは、個人を狙い撃ちするのではなく事業撤退、売却、その他「仕事がなくなった人」を対象にします。職務主義で仕事の分担がはっきりしているので、本人も自分の仕事が無くなったことはわかるし、仕事が無くなれば解雇になっても仕方がないとの捉え方です。マネージャークラス以上も、はっきりとした数字でコミットメントを求められ、これに達すれば相応の報酬、達しなければ解雇というように基準が明確です。

これに対して、日本の捉え方はどちらかというと「共同体」です。会社への帰属意識や一体感を求め、社員は家族と同じなどと言ったりします。あいまいな役割分担でも、お互いがあうんの呼吸で調整しながら、間の仕事を拾っていきます。長い付き合いだからと、多少割高な条件でも発注を行います。“損して得とれ”などと言って、必ずしも目先の利益にこだわりません。自分だけが手柄を立てて多くの報酬を得るようなことはあまり良しとしません。もし社員に辞めてもらわなければならないような事態になると、感覚的なことも含めたあいまいな理由で迫るので、感情的にこじれたり恨みを買ったりすることもあります。

これをどちらがいいとか悪いとか、一概には言えません。結局はその国の歴史や国民性を踏まえた文化だからです。私は日本人なので、アメリカ流の目先の利益追求は性に合いませんが、この考えのままアメリカでビジネスをしようとしたら、向こうの人にとってはただの非常識でしょう。

最近ちょっと気になっているのは、国内で議論されている解雇規制緩和に関する話が、日本の文化的背景を無視して、このアメリカ型のうわべだけ取り入れようとしているように見えることです。今の日本の企業のように、仕事の分担があいまいだったり役割を拡大解釈されがちな環境の中で、解雇のハードルだけを下げたとしたら、今まで以上にあいまいな理由で切り捨てることができてしまい、今まで以上に恨みを買うことが増える気がします。役割分担や評価基準を数値などで明確に示すことは、たぶん今の日本企業ではやりきれないでしょうし、そのドライさを認める社会的な合意もないでしょう。日本的な柔軟性や組織力を失う可能性もあります。

うわべの都合が良い部分だけ真似しようとしても、実は経営者が自分の首を絞めることになりかねないと思います。


2013年8月3日土曜日

“誘われた時の振る舞い”でチャンスを失う人がいる


私自身、これでも結構いろいろな会合の幹事役をやる機会があります。
飲み会でもイベントでもその他会合でも、何度も幹事をやられている方はわかると思いますが、返事を待っている中で、その相手の人による傾向というのがあります。これは同じ人であれば、いつまで経ってもだいたい変わりません。

幹事として困るのは、行く行くと言って結局ドタキャンが多い人、返事がいつも遅い人、行けたらいくなどとはっきりしない人です。いつも断る人なので連絡しなくなったら、たまに会った時に「誘ってくれ」なんて言われたこともありますが、あらためて誘っても結局は来ません。「来る気がないなら言うなよ・・・」なんて感じです。
逆に出欠の連絡が早い人、参加率が高い人という人というのは、声もかけやすいし何かあればすぐにその人の顔が浮かびます。

同じようなことは仕事上でもあります。アポイントを決めた後での予定変更の多い人がいます。もちろん急用や大事な予定はありますからそこは十分理解していますが、それがあまりにも頻繁だと自分が軽く扱われている気がして、あまり会いに行きたくなくなります。人を格付けして扱い方を変えているように思ってしまうからです。
逆にこちらから見ても忙しいことはわかるのに、わざわざ時間を作って下さる方もいます。申し訳ないと思うのと同時に、つながりは継続したいと思います。

私の周りを見ていて、「人脈の広い人」「運がいい人」「チャンスが多い人」でもあるように思います。周りの人が運を運んできてくれ、いろいろな機会を作ってくれます。そして「人脈の広い人」“幹事を困らせない人”がほとんどです。この理屈で行くと、誘われた時の振る舞いで“幹事を困らせない人”「運がいい人」ということになりますが、何となく一理あるように思います。

逆にいえば“幹事を困らせる人”は、チャンスを失っていることが多分にあるのではないかと思います。また本人がそのことに気づいていることはあまり多くないように思います。「気づかないうちにチャンスを失っている」ということです。
こういうたぐいの話は、結局は相手に対するちょっとした気遣いや心配りということに尽きる訳ですが、こんな「誘われた時の振る舞い」なんていう小さなところでも、実は周囲にはいろいろなことが見えてしまっているということも自覚しておく必要があると思います。

2013年8月2日金曜日

「任せる側」と「任される側」の意識のすれ違い


「任せてくれない」と不満を漏らす若手社員がいた時、私は「あなたに任せようと思ってもらうためにはどうする?」と問いかけます。そうやって自分の視点を変えると「相手からの信頼」「これまでの実績」「日頃の行動や態度」など、必要な事が見えてきます。相手は変えられないけど自分は変えられるので、“まずは自分から”という意識はとても大切な事です。

・・・というような研修をやったりしますが、実際の現場ではこんなキレイ事ではありません。やはり「任せる側」にも大いに問題があります。経営者や上司など「任せる側」の意識と、部下や一般社員など「任される側」の思いは、結構すれ違っているものです。

例えば、誰かに任せれば良いと思うような、細かい事務作業をやっている社長さんや管理職の方がいます。理由を聞くと、あんなことこんなことでいろいろ説明されますが、だいたいは「自分が今までやっていたから」という程度のことがほとんどです。
事務担当者は「本来自分がやるべきだよなぁ」などと思いながら、「そこは社長がやりますので・・・」なんて言っていたりします。(不満に思っているのかあきらめているのかはわかりませんが・・・)

一方、商談の場面などで、現場の営業担当は「最後はトップ営業で決めたい」「一押しフォローしてほしい」などと思っていても、社長や管理者はなかなか出て来てくれないというようなこともあります。「そこは俺の出る幕じゃないだろう」などと言ったり、「自分たちで責任を持ってやれ!」などと怒られたりします。
やたら自分が出て行こうとして抑えるのが大変な人がいるかと思えば、腰が重くて担ぎ出すのが大変な人がいます。

例えば誰がやっても結果に差が出ないような仕事ならば、できるだけ給料が安い人に任せるべきだし、同じような仕事でも緊急だが人手が足りない、できる人が他にいないような場合は、上位者であってもそれをやるべきでしょう。部下の経験のため、育成のためというような要素もあるでしょう。

このあたりを判断するのは基本的には上位者ですが、どうも「自分の気になる事か、気にならない事か」や、「やりたい事(得意な事)か、やりたくない事(不得意な事)か」で決めているように思えることが、結構たくさんあります。本来ならば、「その仕事は任せるべき事なのか、任すべき事でないのか」で判断すべきところですが、「自分が気になる事、やりたい事だから抱え込んで任せない」「こだわりのない事、苦手な事だから、それを人にやらせて任せた事にしている」というような様子をときどき見受けます。

これを解決するには、やはり「任せる側」の意識が変わらなければなりません。組織内での立場が上になればなるほど、「自分ならではの仕事」の比率を上げなければなりません。そのためには任せるべき仕事は他人にどんどん任せていかなければなりません。

ただ、「任せるべきか、任せるべきでないか」を、自分だけで客観的に的確に判断するのはなかなか難しいように思います。
そんな時、たまには「任される側」の意見にも、しっかり耳を傾けてみることが大事ではないかと思います。