2021年3月29日月曜日

変えられない「上意下達」の人材育成

ある新聞記事で、人材育成に関係する興味深いものが目に留まりました。自身が立ち上げたサッカークラブから多くのプロ選手を輩出するなど、実績豊富なサッカー指導者が語っていたエピソードです。

 

ご自身が20代半ばのまだ若かった頃、外部指導者としてある中学サッカー部の監督をしていました。

ある日の練習試合で大敗して頭に血が上り、部員に「ダッシュ50本」を命令したそうですが、ある少年が動こうとしなかったそうです。「なぜ走らない!」と声を荒げると落ち着いた口調で「負けた罰として走るなら、監督にも原因があるのだから一緒に走ってください」と言われたそうです。感情のままでしごきを科した愚かさに気づいて返す言葉もなく、足ががくがくになりながら一緒に走りました。

ちなみにこの時意見を言ってきた中学生が、のちの日本代表になった中田英寿さんだったそうです。

 

ご自身はこれをきっかけに指導方法を学び直さなければと海外にサッカー留学し、還暦を迎えた今も指導者として成長したいと学び続けています。「みんながヒデのように言えるわけではない」「俺たちに怒鳴りつけられて潰れた才能がいくつもあったかもしれないと考えるとゾッとする」と言っています。

記事は「サッカーがうまくなかったり気が弱かったりしても、選手と指導者が気兼ねなく意見を言い合える環境を整えるべき」「まず歩み寄るべきは大人の方から」と締めくくられていました。

 

この話には、企業での人材育成で近年言われていることとの共通点がいくつもあります。

「気兼ねなく意見を言い合える環境」というのは、グーグルが自社の生産性向上の調査をしている中で見出した「心理的安全性」と同じで、これは職場で誰に何を言っても、拒絶されたり罰せられたりする心配もないオープンで穏やかな状態をいいます。

「サッカーがうまくなかったり気が弱かったりしても・・・」という点は、一律に同じ指導をするのではなく、その人の特性に合わせた指導が必要だとする「個別化」の方向性と共通します。

「まず歩み寄るべきは大人の方から」という点も、ただ「見て覚えろ」というような相手任せの姿勢でなく、上司をはじめとした教える側から働きかけをしていくことが重要とされるところと似ています。

 

最近ある会社で「部下の能力不足」という話が出ました。教えているのになかなか仕事が身につかないそうですが、指導方法を聞くと「初めは説明するが、それ以降は自分から聞きに来い」という姿勢だそうです。教える側の上司は、「自分たちはそうやって自ら考えて仕事を覚えてきたのだから、同じようにできるはず」だそうで、さらに「そうしてもらわなければ困る」「できないならば仕事に向いていないのではないか」と言います。

 

どこの会社にもわりとありがちな話で、一見すると正論のようにも思えますが、ここで言っているのは「自分たちのやり方に合わせられない、ついて来られない部下の側に問題がある」ということで、近年言われている望ましい人材育成の進め方とは正反対の話です。

前述の新聞記事に、「30年前の話が今でも新鮮に聞こえるのは、上意下達の指導方法が今も変わっていない現実の裏返し」とありました。

 

企業の人材育成については、新たなツールやカリキュラム、その他の手法が様々に提示されていますが、まずは教える側の意識変革が、最も重要なことなのかもしれません。

 

 

2021年3月25日木曜日

「リアル」と「リモート」を使い分ける考え方の違い

在宅勤務をはじめとしたリモートワークが一般的になってきた中で、また感じ方と判断基準の差が人ぞれぞれで大きく、どう判断するかが難しい事柄が増えてしまいました。

それが直接対面する「リアル」と、ウェブ会議などによる「リモート」の使い分けに関することです。

 

現場で悩んでいる話としてよく聞くのは、上司と部下の関係でのことです。たまには表情を見たり近況を聞いたり、「リアル」で対面して様子を確認したいと考える上司と、そんなことは不要で「リモート」で十分と考える部下との認識ギャップです。

 

上司が「たまには対面でミーティングをしたい」と部下に出社を要請しても、「なぜそれが必要か」「リモートではダメな理由がわからない」などと反論され、なかなか会って話すことができません。

コロナに関係して、外出に対する危険認識の個人差もからむので、何かルールでもない限りは、無理強いすることもできません。

 

部下と対面する時間が極端に少なくなり、心理的距離がどんどん離れてしまうような不安を持つ上司が増えていますが、「別に仕事上の支障はない」とビジネスライクに割り切っている部下とは、コミュニケーションの取り方が難しくなっているという話をよく聞きます。

もともとどんな関係だったかにも左右されるところですが、コミュニケーションが取りづらかった部下ほど、「リモート」が増えることでさらに疎遠になってしまう傾向があり、上司が心配になる気持ちはよくわかります。一方、部下の気持ちとして、苦手な人との接触を必要最低限にとどめたいと思ってしまうのは、仕方がないところがあります。

実際に上司と部下のどちらが正しい、間違っていると、一概に言えることではありません。

 

この「リアルが必要」、「いやリモートで十分」という分かれ目の基準は、本当に千差万別です。

あくまで私が聞いていて個人的に感じていることでは、どちらかと言えば「シニア」「男性」の方がリアルを求め、「若手」「女性」の方がリモートで問題なしと考える傾向が強いように思います。

そこにはこれまでの経験、ITリテラシー、コロナ禍への考え方、対人関係に関する価値観、その他いろいろなことが関係していますし、さらに業種や職種といったことでの違いや、同じ業界でも基準は正反対ということまでありますから、単純に類型化することはほぼできません。

 

理解しておかなければいけないのは、こういうことはコミュニケーションツールのバリエーションが増えるたびに、常に起こるものだということです。

以前、ビジネスで電子メールが使われ始めた頃も、本来は電話するべき、会いに行くべきといった批判や、隣の席同士でメールしていることへの驚きや嫌悪といった話がありました。

つい最近でも若手社員がクレームへの謝罪をメールでおこなって、先方の怒りを買って取引停止になったなどというエピソードがありました。「メールでの謝罪なんて非常識」という声があった一方、若手社員は「電話で相手の時間を奪うのは失礼」と考えた上での対応だったことへの同意や、「この程度のことで取引停止なんて感情的でやりすぎ」という相手企業への批判もありました。

 

こういう話は、一つの答えが出ることはたぶん永久になく、そのばらつきが問題だと考えるならば、会社としての基準を決めるしかありません。そして、基準を決めたとしてもすべてを制御することはできませんから、ある程度の違いは許容するしかありません。

 

ここで一つだけ思うのは、自分の価値観をもとにした一方的な批判だけはするべきでないということです。一概に善し悪しは言えないという前提を共有したうえで、お互いの価値観をすり合わせるように話し合っていくしかありません。決めつけることは絶対に避けなければなりません。

 

 

 

2021年3月22日月曜日

「緩み」という言葉の感じ方

コロナ禍での感染対策に関する広報や評価の中で、「緩み」という言葉がしばしば使われます。

自治体の首長や政治家から一般市民まで含めた様々な人たちが、「気が緩んでいるから感染が増えている」と指摘し、「だから気を緩めるな」と発言します。現状に対する感想を求めると、「周囲の人の気が緩んできている」などと言います。確かにそういう面はあるでしょう。

ただ、私はこの「緩み」という言葉に対して、何か心から納得できない反感を持ってしまっています。理屈が間違っているとかではなく、ほぼ気持ちやとらえ方の感情的な問題です。

 

その反感の理由を深く考えることもないままに時間が過ぎていた中で、ある記事を目にしたときにその理由を見つけた気がしました。それは「緩んでいる」という言葉は、基本的に目上の者が目下に対して言うもので、さらに他人の行動に一方的にダメ出しをする苦言のニュアンスであるとの指摘でした。

だから、必ずしも自分にとって目上とは言えない人たちから「緩んでいる」などと言われても、あまり素直に受け取れずにかえって反感を買うこともあるという話で、コロナ禍においてみんなで協力し合わなければならない時に、この「緩んでいる」という言い方はあまり適当ではないと記されていました。私は自分の気持ちの理由が、この説明で腑に落ちた気がしました。

 

私自身の過去を振り返ってみて、この「緩んでいる」という言葉、さらにもう少し広げて「たるんでいる」といった言葉を直接言われた記憶は、正直思いだせることがありません。もしかすると学生時代の部活動か何かで、先生か先輩にそんなことをいわれたことはあるのかもしれません。

ただ、当時のような明確な上下関係の下で、目上の人から一方的に怒られるような場面でない限り、この「緩んでいる」「たるんでいる」という言葉は投げかけられないでしょうし、自分の口から発したことも、冗談のニュアンス以外ではないはずです。実は対等な人間関係の中では、それくらいめったに出てこない言葉で、そのニュアンスが感覚的に受け入れられなかったように思います。

 

こういったことから考えて、例えば普通の会社の仕事上で、この「緩んでいる」「たるんでいる」という言葉が出てくることは、たぶんほとんどないはずです。もしそれがあるとすれば、上下関係が厳格な会社か権威主義的な姿勢が強い会社で、少なくとも近年好ましいとされている組織運営のスタイルとは、かなり異なるところでしょう。

「緩んでいる」という言葉を発する人には、「自分以外の周りの意識が低いから」など、心のどこかに他責の気持ちがあったり、無意識のうちに相手を自分より下の立場だと見下したりしているのではないでしょうか。こういった本音や本心が、使われる言葉に表れている感じがします。

 

言葉はちょっとした使い分けで相手のとらえ方は大きく変わります。ほんの少しの言い方の違いで、共感を得られたり反感を買ったりします。特にリーダーの立場にいる人は十分に考える必要があります。私自身の自戒も込めて、注意しなければなりません。

 

 

2021年3月18日木曜日

たかが挨拶、されど挨拶

「挨拶が大事」ということを否定する人に、私は今まで出会ったことがありません。これは会社でも同じで、新人研修であれば必ず挨拶に関するカリキュラムがあり、日常行動の中でも挨拶を重視しているところはたくさんあります。ただ、すべての会社でいつも活発に挨拶が交わされているかというと、決してそんなことはありません。

 

私はいろいろな会社に訪問する側の立場なので、その違いを感じることはよくあります。

ある会社にうかがったときのことですが、初訪問で先方の担当者とは面識がなく、誰が来るのかわからないまま受付で待っていると、ちょうど昼休みが始まったタイミングだったため、社員たちがおもてに出て来ました。見た目では20代、30代の若い感じの社員が多い会社です。

 

笑顔で近づいてくる人がいるので、てっきり担当者だと思っていたら、「こんにちは!」「いらっしゃいませ!」と挨拶して去っていきます。出てくる人がみんな私に挨拶をしてはそのまま出かけていきます。多くの会社に訪問している中でも初めての体験で、その挨拶に感心していたところで担当者が現れました。

これがいつものことなのかを聞いてみると、挨拶についてはこの習慣が普通になっているそうです。新入社員にはしつけや訓練をするそうですが、周りの社員みんなが挨拶をするので、うるさく言わなくても自然にそうなっていくそうです。

挨拶が多い会社、丁寧な会社はいくつもあり、その度に感心しますが、顔を合わせる社員全員が活発で元気な挨拶をするこの会社は、今でも特に印象に残っています。

 

その反面「うちの社員は挨拶ができない」と嘆く会社は、こちらもかなり数多くあります。挨拶が少ない会社を見ていると、それ以外の会話などコミュニケーション全体が少ないと感じます。「報告がない」「言った、言わない」「知らない」といったトラブルの話をよく聞くのは挨拶が少ない会社です。

積極的に挨拶をする会社では、この手のトラブルはほとんど聞きませんから、「コミュニケーションの基本は挨拶」というのは、あながち間違いではありません。

 

みんなが大事なことだと認識している挨拶なのに、それができたりできなかったりする理由は何なのか、私もいろいろ考えてみて思い当たることはいくつもありますが、「確実にこれ」というものは、正直言ってわかりません。

「接客頻度の高い会社の方が良い」とか、「社員が若い方が良い」とか「いや逆だ」とか、職種の問題、社風の問題、教育の問題、経営者の価値観の問題、その他いろいろありますが、みんな当てはまったり当てはまらなかったりで、絶対的なものはありません。

 

ただ、一つだけ確実に言えるのは、ちょっと逆説的ですが「挨拶が多い会社の社員はみんな挨拶をする」ということです。つまり一部の社員が率先して積極的に挨拶をして職場の挨拶の総量を増やすと、他のみんなも挨拶をするようになります。これはその気になりさえすれば、どこの会社でもできることです。「上の人ほど挨拶しない」という会社は、残念ながらよく目につくところです。

 

社員同士のコミュニケーションが良好な会社は、概して業績も良いことが多いですが、「コミュニケーションの基本は挨拶」だとすれば、挨拶を活発にすれば業績が上がるということになるのかもしれません。

本当にたかが挨拶、されど挨拶です。

 

2021年3月15日月曜日

「老害」と「長老」のわずかな差

ここ最近、高齢の政治家の振る舞いや言動を発端にして、「老害」の言葉をよく聞くようになりました。非難された当事者や同世代の政治家から、「老害という言葉は嫌い」「老害は差別用語」といった反論もありました。

確かに老人でも優秀な人はたくさんいますし、すべての高齢者に対して言うのは失礼なことでしょう。

 

この「老害」の定義を調べると、項目としてはいろいろ挙がっており、

・古い価値観を修正しない。

・頑固で自分の意見を曲げない。

・怒りっぽい。

・他人に対して攻撃的。

といったものがありました。

私の周りには明らかに「老害」と言えるほど言動や行動のひどい人はいませんが、地位や権限にいつまでもこだわって、立場を明け渡さずに居座り続けようとする人には、この「老害」の傾向があるように感じます。「後進に道を譲らない人たち」に対する批判を込めて「老害」という表現をしているのだと思います。

 

これとは反対に、ベテランを敬う意味合いの言葉として、「長老」というものがあります。

そもそもは、経験豊富でその組織や団体、社会の中で指導的立場にある人、年長で徳の高い僧侶などを指して言うようで、主に経営者もしくはその経験者、技術や経験が必要な職人、ある分野を極めた熟練者などが対象とされることが多いようです。好ましいニュアンスとして使われることが多い言葉でしょう。

 

「老害」と「長老」は、高齢者のとらえ方としては正反対ですが、その最も大きな違いは「周囲からの期待の有無」です。

「長老」と言われる場合は、その人の知見や経験が周りから求められている、あてにされているのに対して、「老害」と言われる場合はそうではありません。周囲は望んでいないのに独りよがりで思い込んでいたり、「自分の方が知識経験が上」と過信していたりして、その思いのままで行動しています。

 

しかし、「老害」の定義に挙げられていた「古い価値観」という点は、「長老」であっても別に新しい知見を求められるわけではないので、価値観は同じく古いでしょう。「怒りっぽい」「攻撃的」という点は、期待の周囲がないことへの反発だと考えれば、「長老」も同じ境遇に置かれれば同じ反応になる可能性があります。

考えれば考えるほど、「老害」と「長老」の違いは紙一重であると感じます。ちょっとしたことでどちらにも転換することがあり得ます。

 

周りが「老害」といって排除することで、なおさら反発して「老害」の度合が増します。期待を持って相談するようにすれば、承認欲求が満たされて「老害」のような行動は減るはずです。周りの扱いが「老害」を助長したりおさめたりすることがあります。

一方、本人には「あの人に相談してみよう」と周りから思われるような経験と知見、そして人格が必要です。「教える」のと「押しつける」のは違い、一度でも押しつけるような態度を取ると、周りはもう二度と「相談しよう」とはなりません。「老害」と言われるのは、本人の振る舞いに大きな原因があります。

 

「老害」では本人の問題が大きいことは間違いありませんが、周囲の接し方の影響もそれなりの大きさであるでしょう。

「老害」を減らして「長老」と呼ばれる人を増やすには、周りがその人の知識経験に期待を持つことと、本人の過信や横柄さのない自覚した振る舞いの両立が必要です。