2015年10月30日金曜日

それは効率化なのか、それとも手抜きか・・・?



少し前のことになりますが、ある会社の部長から相談されたことです。

部下にあたるマネージャーが、すぐに指示を逸脱して勝手なことをするというのですが、それを本人に指摘すると、決まって「それをやることはムダだと思う」「こちらの方が効率が良い」などと反論してくるのだそうです。自分の行動は“仕事の効率化の一環”なのだそうです。

しかし、部長からすると、品質維持のために会社全体の取り決めとしてやっているようなこともあり、それを勝手に変えることは職務権限の逸脱であり、やらないことはサボり、手抜きであるという認識です。実際に他の部門でトラブルになったこともあったようです。

この話からすれば、本来は上司に相談したり、確認したりしながら進めるべきことを自分だけで判断してしまうマネージャーの方に問題がありそうで、実害があったことからしてもマネージャーの言い分にはちょっと分がなさそうです。また、この勝手な判断を避けようとすると、部長はマネージャーの日常業務を常に監視しなければならないことになり、それこそ非効率な話です。

しかし、この対策といっても、マネージャーを徹底して個別指導するか、マネージャーの任を解いて権限を奪うくらいしか方法はありません。ご相談いただいた部長も、なかなか大変な部下を持ってしまったと思います。

それはそれとして、この効率化と手抜きの境目というのは、いったいどこにあるのかということを少し考えてみました。

まず思った違いというのは、効率化はプラスを生み、手抜きはマイナスを生むということです。まぁ当然のわかり切ったことかもしれません。
ただ、ここでいうプラスとマイナスは、その人の立場や視点によって、捉え方が変わる可能性があります。

結果的に効率化であっても手抜きであっても、何らかの仕事が減れば、少なくともそこで直接動く人の作業負荷は減りますから、その視点だけで見ればプラスに映ります。
しかし、これが手抜きである場合、実際の問題は、「自分たち以外の社内のどこか」で起こることが大半です。本当の意味での効率化になっていれば、他に問題が発生したり、しわ寄せが行ったりすることはありません。

要は、仕事の効率化を考えるとき、もしも問題が起こるとすれば、自分たちが直接かかわらないところで起こるものであり、そこまでの影響を考慮しなければならないということです。
そのためには業務全体を見る視野の広さが必要であり、自分では見きれなければ上司や関係先に相談、確認することが必要であり、そうでなければ本当の意味での効率化はできないということです。

この手の話は実は他にもいろいろあり、典型的なものでは、システム化で書類は減った、業務のアウトソースで人は減った、でも現場でやる作業は増えたなどということが、比較的多くの会社で見られることです。
これが会社の全体最適につながっていれば良いですが、それでも一部へのしわ寄せがあるなら解消する努力をすべきですし、そもそも全体最適につながっていないことが少なくありません。

それは効率化なのか、はたまた手抜きなのか。その境目はしっかり見極める必要がありそうです。


2015年10月28日水曜日

やっぱりキーマンでなければ務まらない採用担当者



このところ、採用に苦労している会社からご相談をいただくことが多くなっています。
そもそも「うちはうまく行っているので問題はありません」などという話は、ここ数年耳にしませんから、人材を求めている企業のほとんどが、何らかの課題を抱えているのではないでしょうか。

これは今に始まったことではありませんが、採用担当者の重要性は常に言われることです。サラリーマンの生涯賃金は、平均で2億円前後などといわれますから、一人採用するということは、2億円の買い物をするということです。採用担当者にはかなりの目利きが要求されるということです。

そうは言っても、それほど能力が高くて経験豊富な採用担当者ばかりではありません。若者同士で話が合うようにと新人に近い者だったり、現場で芽が出なかった者を別の形で活かそうとして担当させたりというようなことは、多くの会社であることでしょう。

そういう不足部分をカバーするため、面接の段階が進むごとに経験豊富な上席者に面接官をさせたり、最終面接はすべて社長が行うなどということで、しっかりと人材の見極めをしようとします。ごく一般的な考え方だと思います。

ただ、最近ある会社で行なわれていた採用活動の様子を見ていて、やはり採用担当者はキーマンでなければ務まらないと思うようなことがありました。

その会社の採用活動があまりうまく行っていないので、進め方を見てアドバイスが欲しいとの依頼でしたが、採用担当者は40才くらいの男性で、他に受付などを手伝うアシスタントの女性はいるものの、説明会や初回の訪問時から一次面接まで、採用活動の前段部分はすべて男性が担当しています。

第一印象としては、少し思考が独特な人で、良く言えば視点が面白い、悪く言えばちょっと変わり者という人ですが、会社もそのあたりはわかっていて、採用活動の後段である内定に至るまでの数回の面接は、別の部門長と役員が行うことになっています。自社にそぐわないような人材を採用してしまうような誤りは、それで防ぐことができるでしょう。

ただ、実際にその人が活動している様子を見ていると、やはりそれなりのマイナス要素がそこかしこに見受けられます。
例えば、新卒向けの説明会では、ほとんど会社説明をしないまま、いきなり質問タイムに入って、小一時間をそのまま進めています。ご本人曰く、「説明するより質問に答えてあげた方が理解しやすいから」なのだそうです。全然ダメとは言いませんが、明らかに参加者が引いていく様子が見えます。本来欲しい人材を「辞退」の形で失っている恐れがあります。他の誰かが指導なりアドバイスなりをすればよいと思うのですが、そこまで手が回っていないようです。

同じようなことは一次面接の中でもあり、例えばどう考えても仕事に関係がなさそうな質問を延々としていたり、非常にピンポイントのどうでも良さそうなことを、「面白い」「個性がある」などと評価していたりします。
もちろん全然ダメではありませんが、応募者には「何でそんなことを聞くのだろう」という疑問や不満の様子が見られます。やはり同じように、欲しい人材を遠ざけている可能性があります。

これを「採用担当に向いていない人選をした会社が悪い」と言ってしまえばそれまでですが、これは極端な例だとしても、本当に「向いている」と自信を持って言える人材を配置している会社は、実はそれほど多くはありません。そもそもそういう人材は、なかなかいるものではありません。

それでも、一般的には「採用担当はいい人に決まっているから、それ以外の社員をよく見なさい」などといわれるぐらいですから、そこに到達していないと見られることは致命的マイナスです。

やはり採用担当者は、相応の能力を持つ者が全体に一貫して関わるということが、必須の前提条件だということを、あらためて感じた一件でした。


2015年10月26日月曜日

「私の年令で転職はムリ」というのは、本当に年令のせいなのか


世の中の会社では、早期退職、希望退職というような形で、中高年社員に社外に出てもらおうという動きが、特に最近いろいろなところで見られます。
そんな会社の勧めに応じて辞めた人たちの中には、もちろんうまく再就職先を見つける人もいますが、なかなか次の会社が見つからず、とても苦労している人がたくさんいます。

実際に採用現場の様子を見ていても、特に40才代の後半ともなってくると、再就職のハードルが高くなってくることは確かです。

人材募集をしている企業の多くは、どちらかといえば若手を望んでいることが多く、そういうことを意図した求人が大半のように感じますが、その理由を聞くと、やはり年令が上になるほど頑固で会社になじみづらくなると思っていたり、処遇が高いわりに仕事の能力が不足しているというような費用対効果を懸念する話をされます。

そんな人ばかりではないと言いたいところですが、採用側として中高年を受け入れた経験を持つ者としては、ある部分では真実であるとも思います。

そういう環境ですから、中高年で就職活動を余儀なくされている人は、みんな「この年令になると転職は難しい」と口々に言います。これは同世代で企業に残っている人たちも同じことを言い、今の会社に何とかしがみつこうとします。

そんな中、まだまだ少数かもしれませんが、それとは少し違う話を聞くことがあります。
これはある会社でうかがったことですが、その会社が属する業界では、若い営業担当が圧倒的に多く、なおかつ定着があまり良くないのだそうです。

その会社の40代の社長ご自身が、ある日営業担当社員との同行で、あえて経営者ということを言わずに商談に同席していたところ、商談相手から「こんなベテランの人が来てくれた会社は初めてだ」と言われて、やけに感謝されたそうです。

どうも顧客からすると、若い営業担当ではなかなか思うように話が通じず、また頻繁に担当が入れ替わるので、その度にまた一から説明をしなくてはならず、そんなことをずいぶん不自由に思っていたようです。

そこへやって来たベテラン営業は、業界経験も豊富で話も早く、アドバイスも的確となれば、「やっぱり経験がある人は違う」ということだったようで、すぐに商談は成立し、その後も継続的な取引ができるようになったそうです。

 これ以外にも、経験があるベテランを求めているという会社は、なかなか表には出てきづらいものの、潜在的にはかなり多いのではないかということが、私の持っている印象です。

そうなると、「私の年令では転職はムリ」という話は、実は年令のせいではなく、自分の仕事の能力自体が不足していること、できることに対して処遇が高過ぎること、その人の性格的問題といったことに原因があることも少なくないように感じます。

そうだとすれば、自分の意識を変えること、必要なことを学ぶこと、能力を高める努力をすることなどで、改善される部分も多いはずです。、

「私の年令で転職はムリ」は、本当に年令のせいなのか。あらためて考えてみる価値はありそうです。


2015年10月23日金曜日

「新しいことをする」のはそもそも本能に反するという話



いろいろな企業のリーダー、マネージャー、経営者の方々からお話をうかがっていると、最近は「新しい事業モデルの開発」「新たな分野への挑戦」「現状打破」「変革」といったキーワードが出てくることが非常に多い感じがします。

今いる場所に安住していては、発展が望めないどころか、現状を維持することも危ういといい、「新しいこと」「挑戦すること」ができる人材が必要だと言います。ビジネスが変わっていくスピードの速さを考えると、この生き残りに対する危機感は当然のことだと思います。

ただ、そんな「新しいこと」「挑戦すること」ができる人材は、残念ながらそれほど多くはありません。何とか育てたいが、なかなか思うように育たないとか、そもそも育てるに値する人材がいないなどとおっしゃいます。組織を率いる立場の方々は、みんなそのあたりを一様に嘆いています。

しかし、人間の生き物としての本能という点から考えると、それはごく当然のことなのだそうです。
そもそも、生物が生命を維持して子孫を残すという意味での「生き残る」ということを最優先して考えれば、決して余計な冒険などをせず、危険からはできるだけ身を遠ざけ、今まで確立された確実な方法で食料を得て、堅実に確実に毎日同じことをしながら生きていくことが、生き残ることができる確率が高くなります。

そんな大多数の安定志向の中に、ごく一部の少数派で新しいことを試そうという志向の人がいて、中には命を落とすようなこともありながら、新たな試みがうまくいくことがあり、それがその他大勢の安定志向の人たちが生き延びていく糧になっていきます。

もしも、大多数の人がチャレンジ志向では、リスクが高くて生き延びることができづらくなるので、人間が生き残るための本能としての安定志向なのだそうです。
こう考えれば、「新しいこと」「挑戦すること」ができる人材というのは、少数しか存在しないのは当然であり、リーダー、マネージャー、経営者という方々は、どちらかと言えばこの少数派に属するということになります。もしかすると、リーダー、マネージャー、経営者という方々でも、安定志向に属する人の方が多いのかもしれません。でもそれは生き物として当然だということです。

今現在のビジネスで、「挑戦する人材」「変革人材」が重要なことは間違いありません。ただし、それが多数派にはならないということを、認識しておく必要があると思います。

こういう状況に対して私が考える取り組み方法は二つ、まずは新しい物好きで、冒険をいとわない志向の人材を見極めて、その人たち中心に変革の役割を与えること、もう一つは、その他大勢の安定志向の人たちが感じる「安全」と「危険」の境目を少しずつずらすように仕向けることだと思います。

前者で重要なのは「適正な人材を選ぶ」ということであり、後者については「経験をさせる」ということだと思います。
特に後者について、その他大勢の人は、道筋さえ見えればそこについて歩こうとしますが、その道が舗装された道路でなくても、砂利道の林道でも大丈夫という経験をすれば、「安全」と「危険」の境目の基準は少し変わります。いきなり切り開くことはできなくても、少しだけ違うことは受け入れられます。

「変革人材」のような新しいことをする人というのは、人間の本能として少数派であるという前提で、育成を考える必要があると思います。
そして、多くの人は、少しずつであれば変われることを理解しておくことが大事だと思います


2015年10月21日水曜日

実は意外に避けられない「主観同士のコミュニケーション」による行き違い



あるステーキ専門のレストランで見かけた光景です。

年配の女性が、店員さんに「このお肉はかたい?」と尋ねています。
店員さんは少し困った様子で、「部位が○○なので、それほどかたい場所ではありませんが・・・」と答えています。

そのお店は、どちらかと言えば安価でステーキを食べさせるところで、値段のわりにおいしいと評判のお店ですが、誰が食べてもやわらかいと感じる、とろけるような霜降りのお肉が出てくることはあり得ません。

いろいろ尋ねていた年配の女性は、その後運ばれてきた料理を一口食べ、また店員さんを呼んでいます。
「かたくないって言ってたのにかたいじゃないの! 私はこれじゃあ食べられないわ」と怒っています。

その様子を見ていた私の感情は、「やわらかい肉が食べたいなら、そもそもこの店に来ることが間違っている」ということで、要は「安い肉を頼んているくせに、かたいとか文句を言うな」という感じでした。

ただ考えてみれば、聞かれていた店員さんも、確かに「これならたぶん大丈夫」というようなことを言っていたので、まったく責任がないとは言えません。
もしも私があの店員さんの立場だったらどうしたか、あの質問に答えるのは、たぶん同じように難しく、確実な対応はそれこそ試食でもさせるくらいしか思いつきません。

同じように、聞いていた女性のことも肯定的に捉えてみて、もし自分がその立場だったと考えてみると、実はそれほど贅沢なものを望んでいた訳ではなく、もしかしたら歯が丈夫ではないかもしれず、できるだけ自分で食べられそうなものを探そうにも、尋ねる言葉は「かたいかどうか」くらいしか思いつきません。

実はこういうケースは、日常生活の中にも結構あるように思います。
会社内の仕事上のことでいえば、
「できるだけ急いでね」
「わかりました」
   ↓
「急いでって言ったのに遅いよ!」
「できるだけ急いでやりましたよ!」
などという感じです。

こういう行き違いが起こるそもそもの原因は、人によって前提条件が違うことを、「かたい」「やわらかい」「できるだけ」などという主観的な表現で、お互いに何となくわかったつもりでやり取りをしたことにあります。

これを避けるためには、お互いに認識のずれが起こらないような、具体的な表現でやり取りをするように心がけるしかありません。「できるだけ急いで」ではなく、「○日の○時までに」といった具合です。あえて今さら言うほどのこともない、基本的なことだろうと思います。

ただ、先ほどのレストランでのやり取りのような、肉のかたさを食べる前からうまく伝える方法は、未だに思いつきません。
「具体的に表現すれば良い」などと簡単に言いますが、その対象によっては、実はかなり難しいことなのかもしれません。

2015年10月19日月曜日

「パソコンを使えない若者」の話題で思った、教えずにできる仕事はないということ



若い世代でパソコンを使えない人が増えているという新聞記事がありました。、スマートフォンの普及や、親・学校のパソコンへの理解不足、経済的に苦しい家庭が増えていることなどが原因と考えられるとのことで、IT企業でさえも使えない新入社員がいて困っているケースがあるそうです。

若者向けのパソコン講座を運営している団体によると、「学生時代までスマホだけだったため、パソコンのキーボードに不慣れで、エクセルやワードを使ったことがない人が増えている」「LINEばかりを使っていて、ビジネスメールとのギャップが大きい」ということで、就労のためにも技術習得の必要性が高まっていると言っています。

私がこの記事を見た時に思ったのは、特に不思議な感じや驚きもない、最近ではごく当然で普通のことで、若者たちがみんなパソコンが得意で使いこなしているというのは、思い込み以外の何物でもないということでした。

そもそも、若者にパソコンの使い方を教える必要がないと考えるようになったのは、いつから始まったことなのでしょうか。

私の時代の経験で言えば、新卒で入社したのはIT系の会社で当初の職種も技術職でしたが、学生時代はコンピューターなどさわったこともなく、それに関係する授業を何回か受けたのみという状態でした。当時はその程度の人がほとんどでしたから、みんな仕事をするために相当基礎的な知識から研修を通じて学んでいきました。

その後、世の中の技術はどんどん変わっていきますし、入社してくる人たちの知識や経験のレベルも変わっていきますから、それに合わせて教える内容は変わっていきます。
確かにパソコンの普及は進み、それなりに使いこなす人が増えてきたことは間違いありませんから、教える内容もそれに合わせてアレンジしてきたと思いますが、さらに時代が進むことで、今度は日常でパソコンを使う機会がなくなってきた訳です。

ですから、昨今の若者のパソコンスキルのことも、時代に合わせてこれと変わらない認識で対応すれば良いだけのように思いますが、それがなかなかそう考えられず、愚痴の一つも言いたくなる理由は何となくわかる気がします。

それは、例えば技術スキルのように時代とともに進化していくものについて、教える内容は古いものを捨てて新しいものを取り入れるような、新陳代謝をさせていくものがほとんどです。電卓をそろばんに戻すというような、時代をさかのぼる流れはありません。

ただ、、若者のパソコンスキルについては、これまで徐々に教える必要がなくなってきたことを、またあらためて扱わなければならなくなってきたということで、そこに退行現象のような事に対する抵抗感があるのではないかと思います。

以前このブログで書いたことがありますが、電話応対が苦手な新入社員が増えているという話があります。携帯電話の普及で、電話機は一人一台のパーソナルなものになり、家の電話にかかってくるのは用がないセールスの電話くらいで、他人にかかってきた電話を取り次ぐという経験自体が、ほとんどなくなってしまっていることが大きな理由の一つと思われました。
 
これについても、現場ではずいぶん嘆きの声を聞きましたが、この時の様子と似ている感じがします。教えなくて済んでいたことを教えなければならないという、後ろ向きなことに対する抵抗感です。

しかし、電話応対もパソコンも、本人に経験がなく、仕事には必要なのだとすれば、それは教えるしかありません。「今さら・・・」と思っても、それはやるしかありません。

原点に戻って考えれば、やはり「教えずにできる仕事はない」ということなのではないでしょうか。