2021年2月25日木曜日

大事なことをきれいに忘れる困った顧客先責任者

もうずいぶん前のことなので、一応は時効ということでのお話です。

あるクライアントと仕事をしたときのことですが、相手の責任者がちょっと困った人でした。わりと大事なことでも要所要所で、何事もなかったかのようにすっぱりと忘れてしまうのです。

仕事を始めた最初のうちは、ときどき同じ話の繰り返しがあり、ただ前回の確認なのかと思って対応していましたが、どうも本気で忘れているらしいと気づいたのは、その後結構時間がたってからのことでした。

 

前回説明したことと同じ話を何度も聞かれたり、同じ質問を何度もされたりということが発端でしたが、記憶のどこかにその残像があれば、普通は「聞いた気がするけど何だっけ?」という感じで、それなりに「忘れているかも」という表情があるものです。しかしこの人は、すでに話し合って結論を出したようなことでも、後から「俺は初めて聞いた」という感じで言ってくることがたびたびありました。忘れているらしいと気づいたきっかけは、目が本気で怒っていてこちらを責める様子があったことからでした。

 

そんな中で一番参ったのは、役員向けの説明の際に、みんなで事前確認した注意事項が全く反映されなかったときでした。

周りの人たちに聞くと、やはりそういうことがたびたびあるらしく、同じように困っている様子でした。常に書面にしたり、何度も細かく確認したり、いろいろ工夫しているそうですが、大半のことでは問題がないものの、ちょっとしたトラブルはいろいろあるようです。もしかするとこの人には疾病的なものも含めた何かがあるのかもしれませんが、厳密なことはよくわかりません。

 

私がこの人に接している当時の気持ちは、「こんな常識が通じない人には付き合っていられない」というものでした。当初予定していた仕事の目的は一通り達成されましたが、本当にそれで大丈夫だったのかは、今ではもう評価できません。

 

ただ、今となっていろいろ考えてみると、反省することがいくつかあります。

その中で一番大きいのは、「忘れてしまうことが多いのがこの人の能力だ」と受け入れることができなかったことです。ある程度の責任ある立場の人であれば、必要なことをきちんと記憶し、約束などを間違えずに対応することが当たり前だと思っていて、この時の振る舞いを肯定的に見ることは、当時の私の理性ではやり切れないことでした。

 

今となれば、「きれいさっぱり忘れてしまう」ということをこの人の能力の一環として受け入れて、そのことに対する対応は多少なりともできると思っています。常識的には腹立たしい責任者ですが、それがこの人の能力だと割り切って、そのメリットの最大化とデメリットの最小化を考えれば、やるべきことはいろいろ浮かんできます。

 

その昔、ある社長から「能力不足を責めるのはイジメと同じ」と言われたことがあります。

例えば、足が不自由な人に「もっと早く歩け」という人はほとんどいませんが、能力は目に見えないがゆえに、自分基準で「なぜできない」と責めてしまいがちで、そうやって相手ができないことを要求して責めるのはイジメと同じだという話でした。話を聞いた当時も、さらに今でも、私はこの言葉はその通りだと思います。

ちょっと常識的とは言えないレベルで「忘れてしまう」ということも、その人の能力として受け入れて対応方法を考えなければならないということです。

 

自分の常識から外れたことは、受け入れるのが難しいことも多いですが、「相手の能力に合わせて対応する」というのは、こんなことも含めてあり得ることです。決めつけたり感情に任せたりせずに、とにかくやるしかありません。

 

2021年2月22日月曜日

「細かい人材要件」の善し悪し

採用活動を進める上で、求めている「人材要件」をきちんと具体的に明示することは大事です。

特に中小企業の採用では、退職者の欠員補充などの場面が多いこともあり、人材要件の明示も共有もあまりされていないことが多いように感じます。

 

ただ、だからといって「人材要件」は細かく決める方がいいのかといえば、決してそうとはいえません。

ある会社では、それまでに「採用してみたらクレームばかり言ってくる人材」「入社直後の早期退職の連続発生」「能力の過大評価による業務支障」など、様々な採用上のミスやトラブルを経験したこともあり、採用活動にあたって、わりと細かい人材要件を定めるようになりました。

しかし、要件を絞ったことで当然応募者は少なくなり、なかなか採用に結び付きません。過去の体験から慎重になりすぎて、せっかく応募があっても「あれがダメこれがダメ」と粗探しばかりになっているところもあります。

 

「人材要件」が細かいとなれば、それは組織の多様性には逆行します。よく「多様な人材がいる組織の方が強い」と言われるでしょう。

しかし、その反面「組織にはビジョンと方向性が大事」とも言います。これはみんなで同じ方向を向くということなので、人材が多様になると必然的にそれは達成しづらくなります。

 

このように矛盾することが両方大事だと言われるとき、だいたいはその両方のバランスを取ることが必要で、そのバランスが状況によって違っている場合です。

この「人材要件」のケースでいえば、あくまで私が経験上で感じていることですが、方向性重視か多様性重視かは、その組織の成長ステージによると思っています。

 

スタートアップから事業が軌道に乗って拡大し始めるミドルステージの前あたりまでであれば、同じ目標に向かって方向性を合わせて進むことが優先され、その認識を共有できるような共通した価値観や、その認識をベースにした一体感が重要です。そういう場合ではビジョンや方向性が必須で、多様性はともすれば邪魔になってしまう場面があるかもしれません。

しかし、事業が安定、成熟したレイターステージ以降となると、組織規模は当然大きくなり、様々な人材が様々な仕事に取り組む多様性が重要になってきます。ビジョンと方向性も必要ですが、多様な人材を最低限の共通的な価値観で、緩やかに包み込むようなものに変わっていくでしょう。

 

いずれにしても、この「人材要件」のように、組織運営の中では矛盾することがどちらも重要視されていて両方求められるようなことは結構良くあります。はっきりした正解はなく対応は常に難しいですが、少なくともどちらか一方のみが大事だと思い込んだり決めつけたりすることだけは、避けるように意識する必要があるでしょう。

「人材要件」一つをとっても、その場面に応じた善し悪しがあります。

 

 

2021年2月18日木曜日

「不透明感」がもたらす良くないこと

東京オリンピックの組織委員長が辞任して、事務局長は新たな委員長を選ぶに際して重要なのは「透明性」と話していました。しかし、選考委員会は開催時間も場所もメンバーも、すべて非公開だそうです。一部情報が漏れ聞こえてきますが、公に発表されることはあまり多くはありません。「透明性」とは程遠い「不透明感」を持ってしまいます。

 

最近見聞きする様々な不祥事や批判の中に、この「不透明感」が原因となっていることがずいぶん多いと感じます。「隠す」「言わない」「論点をずらす」「根拠ない楽観論」「情報の小出し」など、あえて正確な情報は伝えないことを意図しているようにさえ見えます。

 

ある程度以上の権限を持った人が、「何を伝えるか」を選別しようとするのは、企業の中でもよくあることです。確かに個人情報や人事情報など、公に言えないことはあります。

しかし、ここで「何を伝えるか」と情報の選別を考えるのではなく、すべての情報を伝える前提で「どうやって伝えるか」とそのニュアンスや方法を考えている方が、その後の結果は良い形で現れます。関係する人たちが事実を知って納得し、一緒に考えながら行動してくれます。事実をフラットにきちんと伝えることで、「透明性」が高まった効果だと言えるでしょう。

 

企業の人事評価では、それをおこなうにあたっての重要な原則として、「公正性」「透明性」「納得性」の三つが言われます。どれも大事な要素ですが、三つは並列の関係ではありません。「納得性」は感情であり、「公平性」と「透明性」は、あくまでその感情へ導くための手段です。評価のプロセスと結果に「納得」していることが大事で、この「納得性」を高めるために「公平性」と「透明性」があります。ですから、「透明性」が高いからといって、必ず「納得性」も高まるとはいえません。逆もまた同じです。

 

例えば、カリスマ経営者や尊敬する上司に「あなたの評価はこれ」としか言われなかったとして、ここでのプロセスは公平でも透明でもありませんが、本人は十分に納得していたりします。

「透明性」が納得のための必須要件ではなく、反対に「不透明感」がすべて不満につながるわけではありません。何でもかんでも「透明性」ということは確かに不要です。

 

ただし、「不透明」でも納得するには前提があります。その相手を「心から信頼しているか」ということです。信頼関係があれば、多少知らされていないことがあるなどの不透明な要素があったとしても、相手の言葉に「納得」できます。「不透明感」を持ってしまうのは、信頼関係のないところで伝えられなかったり隠されたりすることから始まっています。

 

一部の人たちが内輪の論理で物事を決めていると、その外側にいる人たちへの配慮は薄れます。「あうんの呼吸」が通じない人たちに、きちんと伝えて納得してもらおうとは思わなくなります。情報開示や共有を避けたり軽視したりし始めます。その輪から外れた人たちにとっては「不透明感」しか残りません。

 

信頼関係がない状態での「不透明感」は、いろいろ良くない状況を生み出します。特に「納得性」には大きな影響を及ぼします。

今あちこちで起こっている問題の一番のポイントは、そういったことにあるのではないでしょうか。

 

 

2021年2月15日月曜日

「ベテランに向いた役割」を考えてみる

ここ最近、政治の世界やいくつかの組織運営において、高齢男性の振る舞いに対して、「老害」などと批判されることが目立ちました。

私の身の周りでも、業界団体や任意団体、地域の集まりといった中で、なぜか高齢男性ばかりが牛耳っているようなところがいくつかあります。ただこれは「高齢だから」というよりは、その人たちはたぶん若い頃からそういう資質があった人たちで、徐々に自分の思い通りにできる場所が少なくなってきて、その気持ちが充足できる場所にみんな集まってくるせいのように見えます。

こういうことは、ステレオタイプに見るよりも、しっかり個人の資質で見る必要があるでしょう。


私自身ももう十分にベテランといわれる年齢ですが、「老害」などと言われるのは個人の問題と思う一方、私も含めたほぼすべての人が、加齢とともに一律に衰えてくることもあると思っています。それは単純な体力や記憶力のようなものだけではありません。

最も大きいのは「新しいことへの順応性」です。新しい環境への慣れ、新しいツールの理解などは以前より時間がかかるようになってきましたし、新しい知識の吸収といったことでも、自分の興味から外れたことへの取り組み度合いは、年とともに減っている気がします。

 

実はもう一つ、みんな一律に衰えていると感じるのは、一見ベテランが得意そうに見える「総合的な判断力」です。なぜかというと、総合的な視野の中に「今どきのこと」「新しいこと」が含まれている比率がとても低いからです。そのためそういう人たちが判断した結果は、過去の経験を重視してそれを踏襲した保守的なものに偏ります。内輪の意見や自分が気に入った狭い意見だけで、こぢんまりとまとめようとしたがります。

一律に年齢でいうのは良くないですし、ベテランの定義も一概に言えないところがありますが、少なくとも私は、そういうベテランが最終判断や決断を下す役割を担うのは、あまり向いていないと思っています。

 

私の知人の会社で、ベテラン社員をうまく活用して組織を活性化しているところがあります。70代後半でまだ現場の中心にいて手を動かしている人もいますし、60歳以上でも中途採用で社員として迎え入れています。そこで期待しているのは「知識」「経験」「人脈」です。マネジメントの仕事やリーダー的な役割は一切求めません。組織内の権限も限定したものしか与えません。

そのかわり、社長をはじめとした管理職、マネージャーたちは、このベテラン社員たちに常に意見やアドバイスを求めます。とにかく良く話を聞きに行っています。

 

ベテラン社員は、過去の経緯や歴史的な背景といったことは、その真っただ中に身を置いていたことがあったりするので、リアルにいろいろな経験をして、いろいろな知識を得ています。社長やマネージャーたちは、それを知識や情報として吸収したうえで、そこに「新しいこと」を加えて判断、決断をしています。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言がありますが、ここで言っている経験とは「自分が経験したこと」で、歴史と言っているのは「自分では経験できないが先人たちが経験したこと」の意味です。この歴史にあたる部分をベテラン社員に頼って、自分たちの学びとして仕事に活かしています。ベテラン社員たちは意外にその役割に満足していて、組織内の肩書や立場にはこだわっていないようです。

 

私も最近のコンサルティングの現場では、「こうしましょう」とは決めつけず、過去の経験や事例から選択肢を示したり、アドバイスをしたりすることに徹しているケースがほとんどになっています。自分なりに新しい情報は仕入れていて、それに基づく話もしますが、最終判断は自分よりも若くて柔軟に人たちにしてもらった方が、それ以降の結果が良いからです。

 

「老害」といわれないで済むような、ベテランに向いている役割はこんなところにあるのではないでしょうか。特に「判断力」の過信は禁物と思います。

 

 

2021年2月11日木曜日

何でも「罰則」でコントロールしようとする社長

ずいぶん前になりますが、仕事で少しお付き合いしたことがある社長のお話です。

 

組織改革を目的に、いろいろな施策をやろうとするまでは良いのですが、それぞれ若干ピントがずれていてなかなか機能しません。

 

ある時は「提案制度」でしたが、業種的な難しさもあって社員からの提案はほとんど出てきません。ごくたまに「職場環境の改善」という名目での苦情が上がってくるだけです。

これを見ていた社長は「建設的な提案しか認めない」としたために、ますます提案はなくなって制度として無いも同然の状態に陥ります。

 

ここでこの社長が言い出したのは、「提案数のノルマ化」とそれに伴う「罰則」です。マネージャーには部下から出てくる提案の数を管理させ、それに満たない者は人事評価で一律に減点すると言います。ほぼ全員のマネージャーが反対しますが、社長は言うことを聞きません。

その後どうなったかというと、社員たちは「ノルマを決められても出せないものは出せない」「勝手に減点すればいい」と開き直り、社長の根気も尽きたのか、この「提案制度」はそのまま立ち消えになっていきました。

 

この会社ではこういった話が年に数回あり、そのたびに打ち出される改善策は「罰則」です。時には罰金徴収などという明らかな法律違反が言われたこともありました。本来ならばどう活性化するかの「インセンティブ」なども合わせて考えるべきですが、この会社ではそういう動きはほぼありません。当然かもしれませんが社員は定着せず、退職者の多い会社でした。

 

その後この会社がどうなったのかは人づてに何となく聞きましたが、人材流出で業績が低迷して、会社は社員も一緒に他社へ事業売却、社長はそれとはまた別の会社で一従業員として淡々と仕事をしているそうです。

やはり「罰則」主体の組織運営では、社員はついてきてくれなかったということでしょう。

 

最近、新型コロナの関連法で罰則に関する議論がされましたが、「順序が逆」「効果的でない」などの批判が数多くありました。「罰則」を安易に使わない運用をするとのことですが、よく注意して見ていかなければなりません。

「罰則」というのは確かに必要な場面はありますが、例えば飲酒運転を厳罰化しても無くなりはしないように、「罰則」だけで人の行動をコントロールしようとするには限度があります。「アメとムチ」などと言いますが、その時の状況に応じて必ず両面が必要です。

 

「罰則」をはじめとした圧力だけでは、人の行動は変えられないことを認識しておかなければなりません。

 

2021年2月8日月曜日

それは「差別」か「区別」かの難しさ

 

東京オリンピック組織委員会会長の元首相による、会議の場での男女差別的な発言が批判されています。

前後の文脈からすると、本人にそこまでの意図はなかったのかもしれませんが、公の場での発言だったということと、それと合わせてご自身の立場を考えても、相当に不適切な発言だったと思います。過去の言動を見ても似たような舌禍が多々あるので、もともとこういう価値観を持った人なのでしょう。本音ではそこまでの問題認識はないのかもしれません。

 

ただ、こういった男女差別にかかわるような事柄について、私自身にすべてきちんと感じ取れるだけの感性があるかというと、正直そこまでの自信はありません。常にフラットに思い込みなく見ていこうと意識はしていますが、どこかに無意識の決めつけや偏見が隠れてしまっているのではないかと気にしています。

 

これは以前あったことですが、電車の中で若い男女のカップルが乗っていて、席が空いたところで男性が座って女性はそのまま立っていました。この時の私の感覚は「なぜ女性を立たせておくのだろうか」という疑問符です。

 

しかし、この話をカップルと同世代の若い女性にしたところで言われたのは、「男性が座って女性が立っていた方が、目線の高さが合って向かい合わせで話しやすい」ということでした。その方が合理的だし別におかしいとは思わないとのことです。こういう考え方は確かにその通りですし、私が思った「女性に席を譲るべき」という見方は古い感覚の思い込みで、「男が強くて女は弱い」という男尊女卑の発想が無意識のうちに基点になっていたのかもしれません。

これ以外にも「男らしく」「女らしく」のような感覚は、やはりどこかに持っています。いつ表に出てくるかは自分ではわかりませんし、指摘されない限りはたぶん気づかないでしょう。

そんなことも含めて、「差別」につながらないように律するのは、自分の感覚だけではなかなか難しいことです。

 

ただ、いくら男女平等だからといって、特に体力的なことに関しては「区別」をして配慮することが必要です。

例えば、単純に重いものを運んだりするのは、女性の力では難しいことがありますし、仕事上の訪問であっても、出入りする行先や時間帯によっては、一人で行かせるのは危険という場合もあります。

トイレや更衣室の掃除など、男性用を女性がしているのはあまり気になりませんが、女性用を男性がするのはかなり気にする人がいるでしょうし、一般的にはやっていないでしょう。

 

絶対に「差別」をせず、でも必要な「区別」をするのは大事なことだと思いますが、その違いをしっかり認識して適切に振る舞うのは、やはりいろいろ難しさを感じます。こればかりはいろいろな人から話を聞き、常に自分の感覚を修正し続けながら対処するしかありません。

 

自分の当たり前の感覚が、もしかしたら「差別」につながっているかもしれないという認識を持って、常に確認、修正をし続けることが必要ではないでしょうか。