2021年2月8日月曜日

それは「差別」か「区別」かの難しさ

 

東京オリンピック組織委員会会長の元首相による、会議の場での男女差別的な発言が批判されています。

前後の文脈からすると、本人にそこまでの意図はなかったのかもしれませんが、公の場での発言だったということと、それと合わせてご自身の立場を考えても、相当に不適切な発言だったと思います。過去の言動を見ても似たような舌禍が多々あるので、もともとこういう価値観を持った人なのでしょう。本音ではそこまでの問題認識はないのかもしれません。

 

ただ、こういった男女差別にかかわるような事柄について、私自身にすべてきちんと感じ取れるだけの感性があるかというと、正直そこまでの自信はありません。常にフラットに思い込みなく見ていこうと意識はしていますが、どこかに無意識の決めつけや偏見が隠れてしまっているのではないかと気にしています。

 

これは以前あったことですが、電車の中で若い男女のカップルが乗っていて、席が空いたところで男性が座って女性はそのまま立っていました。この時の私の感覚は「なぜ女性を立たせておくのだろうか」という疑問符です。

 

しかし、この話をカップルと同世代の若い女性にしたところで言われたのは、「男性が座って女性が立っていた方が、目線の高さが合って向かい合わせで話しやすい」ということでした。その方が合理的だし別におかしいとは思わないとのことです。こういう考え方は確かにその通りですし、私が思った「女性に席を譲るべき」という見方は古い感覚の思い込みで、「男が強くて女は弱い」という男尊女卑の発想が無意識のうちに基点になっていたのかもしれません。

これ以外にも「男らしく」「女らしく」のような感覚は、やはりどこかに持っています。いつ表に出てくるかは自分ではわかりませんし、指摘されない限りはたぶん気づかないでしょう。

そんなことも含めて、「差別」につながらないように律するのは、自分の感覚だけではなかなか難しいことです。

 

ただ、いくら男女平等だからといって、特に体力的なことに関しては「区別」をして配慮することが必要です。

例えば、単純に重いものを運んだりするのは、女性の力では難しいことがありますし、仕事上の訪問であっても、出入りする行先や時間帯によっては、一人で行かせるのは危険という場合もあります。

トイレや更衣室の掃除など、男性用を女性がしているのはあまり気になりませんが、女性用を男性がするのはかなり気にする人がいるでしょうし、一般的にはやっていないでしょう。

 

絶対に「差別」をせず、でも必要な「区別」をするのは大事なことだと思いますが、その違いをしっかり認識して適切に振る舞うのは、やはりいろいろ難しさを感じます。こればかりはいろいろな人から話を聞き、常に自分の感覚を修正し続けながら対処するしかありません。

 

自分の当たり前の感覚が、もしかしたら「差別」につながっているかもしれないという認識を持って、常に確認、修正をし続けることが必要ではないでしょうか。

 

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