2015年4月29日水曜日

服装感覚の違いから見える社風


まだ5月にもなっていませんが、ここ数日で急激に気温が上がってきました。最近はクールビズも定着し、この開始時期を早めたり、期間を長くしたりする会社も増えています。
私も、真夏にネクタイを締めて大汗をかくようなことはほとんど無くなりましたが、それでもお会いする相手との関係次第では、まだまだ気を遣わなければならないことがあります。

職場での服装に対する考え方というのは、会社によって実に様々です。
以前私が在籍していた会社では、カジュアルフライデーを導入していましたが、そのドレスコードをどうするかで、何かと議論になりました。同じ会社の中でも、アウトとセーフの基準は人によって全く違います。

ある高級ホテルで会社のパーティーをする機会があり、たまたま金曜日だったのですが、部門によってスーツ着用の指示が出たところから、何も言われずにかなりラフな服装のまま参加したところまで、様々ということがありました。同じ会社の中でも、ずいぶん感覚が違うものだと思ったことがあります。

今、いろいろな企業におうかがいする中でも、この服装に対する考え方は、本当に幅があります。
ある会社は、全社員に制服着用を義務づけていますが、その理由は、スーツをだらしなく着たりする者が出てきて、いくら注意しても直らなかったためということでした。

またある会社は、夏の期間の自社内では、スーパークールビズとしていて、Tシャツでも短パンでもサンダルでも、服装は何でもいいそうです。ただ、その時期の社内を見せて頂くと、仕事をする環境としては、若干微妙な感じがしてしまいました。あくまで私の感じ方なので、一般的にどうなのかは何とも言えません。

他にもスーツとネクタイ必須の会社、ビジネスカジュアルでOKの会社、その中のドレスコードの有無など、本当に会社によって様々です。

私がいろいろな会社を訪問させて頂く中で思うのは、服装に関する価値観を生む、その会社なりの理由があるということです。

ここで一番多いのは、お客様の価値観に合わせたというものです。堅いお客様であればこちらも堅く、カジュアルであればそれなりに、先方の会社に許される基準に合わせるということです。
ただ、最近は取引先ごとの差が大きく、自社の中でも部門ごと、顧客ごとに統一できなくなって、ちょっと収拾がつきづらくなっている会社があります。、

次に多いのは、社長をはじめとした経営幹部、管理職の感覚に合わせたというものです。ご自身がきっちりスーツの社長であれば、やはり社内もそれに合わされますし、カジュアルな社長でもそれは同じで、なおかつカジュアルの度合いもだいたい似た感覚の基準になっています。

このように、こと服装に関しては、個人による感覚の差があまりにも大きいと感じます。服装感覚には、まさにその会社の社風が見えてしまいます。

そう考えると、私自身はあまり規則や基準などを作らなくても、各自の良識に任せればよいと思ってしまう方ですが、最近は、暗黙の了解や常識の範囲では伝わらないことが多くなっています。特に服装に関してはそういう傾向があります。

服装感覚からは、その会社の社風が見えますし、見られてもいます。
対外的に持たれる印象の上からも、自社で考えるドレスコードは、ある程度示しておいた方が良いのではないかと、特に最近は思っています。


2015年4月27日月曜日

良い仕事ができるのは「Yesマン」か「Noマン」か?


Yesマンというのは、あまり良い意味でいわれることはありませんが、その反対のNoマンも、実際に身近にいるとかなり困ります。

Yesマンの場合は、指示する側の考えが偏っていたり、自己中心的だったりすると、それを正す機会が失われて上の人間の暴走を許す、誰かが仕事を一方的に抱えてしまうなどということで、困った事態になりますが、どちらかというと直接では見えづらい、中長期的な悪影響になります。

これがNoマンの場合となると、何事もこちらが思う通りには動かない、動き出すまでに手間と時間がかかるということでは、直近の業務が進まないという短期的な悪影響なので、向き合う上司にとっては、さらに困ったことになるだろうと思います。

実際の現場でも、Yesマンと言われるような人は、陰で批判されることはあっても、それが公式の場で問題になることはほぼありません。これに対してNoマンの場合は、業務効率や周囲のモチベーションを下げる、雰囲気を害するなどと言われて、組織上の問題になることがあります。
「Yesマンは出世できるが、Noマンは出世できない」などと言われるのも、こういう部分があるからでしょう。

この見方を少し変えてみると、YesマンにもNoマンにも、良い意味の捉え方があるはずです。
Yesマンであれば、素直、前向き、真面目などと言うことができるでしょうし、Noマンであれば、慎重、意見が言える、うのみにしないなどが挙げられるでしょう。

ただ、こうやって見ても、Yesマンは一見良い人で好感をもたれ、Noマンは取っつきづらく扱いに手間がかかるように見えてしまうので、やはりYesマンはNoマンよりも、得をすることが多そうです。

このような一般論で言っているYesマンもNoマンも、実際にはかなり極端な例だと思います。
一言で言ってしまうと、「従順すぎるYesマン」「頑なすぎるNoマン」ということですが、そこまで何でも受け入れる人や、何でも全面的に拒否する人はめったにいないはずです。
Yesマン、Noマンと批判的に言われる人は、この「従順すぎる」「頑なすぎる」という部分の比率が多い人ということになるのでしょう。

「従順すぎるYesマン」「頑なすぎるNoマン」のように、偏った人は困りますが、「適切なNoが言えるYesマン」「適切なYesが言えるNoマン」がいれば、それは好ましいことだと思います。さらに周囲から好感を持たれるということでは、「適切なNoが言えるYesマン」が、最も望ましいということになるのでしょう。

自分自身が良い仕事をしていこうとすれば、自己主張も周囲との関係も、どちらも重要なことです。
これらのバランスを取るのは大切なことですが、この一つの形にあたるのが、「適切なNoが言えるYesマン」と言えるように思います。


2015年4月24日金曜日

採用広告のちょっとの一言への反応で思った日本語のすごさ


ある会社が社員募集をしたときのお話です。

車を使って客先を巡回する仕事でしたが、、今まで普通に出していた採用広告の片隅に一言、「車の運転が好きな人に向いた仕事です」と書いたところ、これが思いのほか反響があったそうで、希望に近い候補者がたくさん集まったのだそうです。
応募書類には、ここに言及したアピールが書かれたものも多く、担当の方は「試しに書いてみて良かった」とおっしゃっていました。

少し考えてみると、車で客先を回る仕事であれば、“安全運転”、“道を覚える”といった能力が重要になってくると思いますが、「運転が好きな人」というくくりに合致する人であれば、たぶん事故は少なく、道を覚えるのも早く、仕事上のメリットは大きいはずです。これをただ、「運転免許要」とか「車が運転できる人」などというよりは、「運転が好きな人」という方が、来てほしい人の表現としては、確かに合っている感じがします。このように、言葉の表現は、それをどう言うかによって、相手の捉え方が大きく変わることがあります。

少し話がそれますが、実は日本語というのは、他の国の言葉に比べても、語彙がとても多い言語なのだそうです。
例えばフランス語であれば、1000語の単語を覚えると、日常会話の約83パーセントが理解できるそうですが、日本語の場合は、単語を1000語覚えても、日常会話の60パーセントほどしか理解できないそうです。
各国語の90%以上を理解しようとすると、フランス語なら約2000語、英語なら3000語、ドイツ語なら約5000語、日本語なら10000語が必要と言われているのだそうです。

確かに英語の“I”を日本語に表現すれば、私、俺、僕、うち、・・・。まだまだたくさんあります。他国語に正確に訳すことができない日本語が、いくつもあるという話も聞いたことがあります。

このように日本語は、同じことを言うのにも、少しずつ違うニュアンスを表現できる語彙がたくさんあり、細かな感情を表現することに優れた言語なのだと思います。

日本人は、こういう環境の中にいるために、様々な言葉の表現に敏感な感じがします。ちょっとしたニュアンスの違いを敏感に感じ取って反応する、前述の採用広告の話も、そんな部分があるように思います。

グローバル化の中で、外国語を学ぶ人が増えていますが、同時に日本語の良さも見直すことができると良いと思います。
特に、自分たちの想いや考えをアピールしなければならないとき、気持ちを純粋に表現したいとき、日本語だけに許された豊富な語彙を駆使すれば、さらに良いコミュニケーションが取れていくのではないかと思います。


2015年4月22日水曜日

「上司から先に研修すべき」が当てはまらないと思う時


企業研修を行う中で比較的よく言われることとして、「上司から先に研修すべき」という話があります。

実際に研修をしていると、受講者から「この内容の研修を上司たちは受けているのか」「できていない上司が先に受けるべき」などという批判が出るのは、わりとよくあることです。こんなことから、研修を行う場合には、役職が上位の者から順番に下位に向かって実施していくということが良しとされます。

確かに自分たちが受けた教えを上司が実践していなかったり、その正反対と思われるような行動を取ったりすれば、そんな文句の一つも言いたくなるでしょう。
こういう私自身も、社内研修を受ける立場だった頃は、いつも「俺たちよりも上司が先だろう!」と思っていました。これまでの階層別教育の考え方も、基本は同じようなことだと思います。

“上司から先に”という考え方のすべてを否定するものではありませんが、いろいろな企業の社内研修をお手伝いする中で、この考え方が当てはまらない場面に出会うことが、特に最近は多くなりました。
 これは、「研修予算をいかに有効に活用するか」と考える企業が増えてきていることに、大きな理由があります。、

どういうことかというと、社内研修などを通じて学ぶことで、その内容を身に付けて行動変革できる余地が大きいのは、若手から中堅社員までがせいぜいであり、どうせ投資をするなら、実になる可能性が高い階層を集中的に研修したいという話です。上の人間に画一的な研修をしても、良い効果は得られない確率が高いので、より投資効果が高いところに注力したいということで、少し冷たい感じはするものの、当然と言えば当然のことです。

ある会社では、受講者の上司に対しては、部下と同じことを学ばせて率先垂範を期待するのではなく、部下が学んでいる内容の概略と、それを否定したり邪魔したりしないように釘を刺すような話だけをします。上司に対しては、「もしも学びたいならば、自分の力でどうにかしなさい」ということなのだそうです。

私が現場に関わる中での実感として、これまでの階層別教育のような、ある対象者に一律の研修を施すような手法は、これからどんどん減っていくように思います。「みんな一緒」というものは必要最低限になり、伸びしろが見込める若手、幹部候補として選抜された者、評価の上位者など、研修を必要とする者、投資効果が高いと思われる者を選び、その人たちに対して集中的に実施していくようになるのではないかと思います。

今は「社内研修なんてつまらないし面倒くさい」などといっている人も、これからは社内研修を受けたくても受けられなくなる、受けさせてすらもらえないという時期が来るかもしれません。

自ら学ぶべきものを見つけ、学ぶ姿勢を常に持ち続ける必要性があることを痛感する今日この頃です。


2015年4月20日月曜日

「会社への不満」で見える会社業績の良し悪し


同じ会社の人間が集まれば、自分の会社に対するグチや不満が話題になるのは、よくあることだと思います。

私がいろいろな会社を見てきた中で、この「会社への不満」の程度や中身と、業績との関連性を感じることがあります。
まず、この不満がある会社と不満がない会社ということで見ると、実は不満がある会社の方が業績が良い、もしくは伸びていることが多いと感じます。一見よさそうな「不満がない」という状態は、言い換えると「現状に満足している」ということなので、現場での守りの姿勢や改善意欲の低さ、活気のなさを感じることが往々にしてあります。

また、会社不満があったとして、その中身が直接的な待遇に関する場合、例えば会社全体の給与水準が世間一般から見て低い、残業過多、休みが取れない、その他ハードワークにあたるようなことが見られると、業績にはマイナスに作用している傾向が強いと思います。
しかし、ハードワークであっても、それなりの報酬になる、自分のスキル向上につながる、仲間との関係が良いなどということがあると、業績向上につながっている会社があります。

この会社不満の見え方で、悪い影響が最も多いのは、「上司が部下に会社の不満を言うこと」「当事者意識を持たない他責の姿勢」です。こういう会社は、「不満がない」という問題意識が低い会社よりも、雰囲気が悪く行動もしないという点で、さらに性質が悪いです。

逆に、会社への不満が活力につながっている会社を見ると、不満を発信するのは主に部下で、その不満を上司が受けとめ、一緒に不満を言ったとしても、プラスして前向きな取り組みに仕向けています。

不満の言い方も、ただ会社や上司、その他周囲を批判して終わりではなく、その人たちにどうやって関与するか、自分たちはどうやって行動するか(うちの部門だけでやろうとか、中には反骨心からの活動と思われるものも含まれますが)など、少なくとも当事者意識を持って行動しようとします。

最近は従業員満足(ES)の重要性が認識されてきていますが、この本質を勘違いして、ただ不満を言われないことだけに腐心したり、逆に甘やかしだと批判的に捉えたりする向きがまだまだあります。

会社不満への対応には、解消が必要なもの、受け入れさせなければならないもの、活力に転換するように仕向けるものの3つがあります。

「会社への不満」は、ただ取り除けば良いものではありません。「社員からの不満がない会社」があったとすれば、特に業績面では決して良いことにつながらないと思います。


2015年4月17日金曜日

ときどき出会う「困った応募者」は、結局自分が損をしている


採用を担当していると、いろいろな人が応募してきます。最近のような人手不足の環境になって来れば、なおさら応募して頂けるのは大変有難いことですが、ときどき扱いに困る応募者に遭遇することがあります。

単純に求人要件に合わないような人であれば、それは普通にお断りをするしかありませんので、これに対して困るということはありません。要はそれ以外の理由で、応募自体を受け付けることが難しいというような応募者です。

私の経験で最も印象にあるのは、数年前に出社拒否のような状況で辞めて行った人が、エージェントを通じて自社に応募してきた時のことです。
会社は経営統合などで社名も変わっていましたので、ご本人は気づいていなかったようですが、ホームページなどを少し調べればわかることなので、たぶんそういうことすらしなかったのでしょう。

さらに、経歴書上では、私たちの会社に在籍していた期間が違っています。ただの勘違いにしてはズレが大きく、途中に空白期間があったか、別の転職先があったか、いずれにしてもご自身にとって不利なことを少しでも消したかったのではないかと思ってしまいました。

間にエージェントが入っていたので、ウソを言う訳にもいかず、過去に在籍していたが気づいていない様子だということ、在籍期間を勘違いしているようだということを伝えてお断りしましたが、他人の人生の裏側を見てしまったような気がして、何とも言えないイヤな気持ちになった記憶があります。
 
こんなことはめったにありませんが、困った応募者で意外によく遭遇するのは、“直近の不採用者の再応募”です。特に求人広告などは予算の問題もあり、通年で採用をしていたとしても、ずっと切れ目なく出し続けるということはあまりありませんが、この広告を出すたびに同じ人が応募してくるということがありました。しかもそういう人が同時に複数いることもありました。
新卒でも、一度不採用にした人が、知らないうちに説明会に再エントリーしていたようなこともありました。

ご本人に不採用理由をお伝えできることは少ないので、やむを得ない面はありますが、会社としては相応の採用基準を持っていますから、単なる人数合わせはしませんし、何度も受ければいつか合格するというものではありません。可能性があるとすれば、しばらく経験を積んで、経歴書に書かれる内容が変わったような場合だけです。

にもかかわらず、期間を置かずに再応募するというのは、少なくとも可能性があると思っている訳で、正直言って、私はその感覚をあまり理解できません。
さらにこういう方は、応募書類が明らかに使いまわしだったり、汚かったりと、そもそもの印象が良くないことも多かったです。自分の行動態度が相手からどう見られるのかということに、少し鈍感な感じがします。

就職活動というのは、お互いの相性を確認するお見合いの要素が強くあります。相性の中には、知識、経験、性格、その他多くのものが含まれます。こういう本質を理解していれば、何度も再応募するという発想にはならないのではないかと思います。

就職活動は、相手との駆け引きをするゲームではありません。「困った応募者」になると、結局自分が損をしてしまうと思います。


2015年4月15日水曜日

決して多くない「自分の意志で引退できる人」と、定年後の継続雇用のこと


あるテレビ番組で、プロ野球OBの張本勲氏が、サッカーの三浦知良選手に対して「もうお辞めなさい」と発言したということで、ネット上ではかなりの批判が見られます。

一方の三浦選手は、「『これなら引退しなくていいよと言わせてみろ』と(張本氏に)言われてるんだな」と、前向きに受け取ったとのコメントを出されていて、三浦選手の方が一枚上手だったような感じがしますが、この“引退”という話で、以前ある芸能人が言っていたことを思い出しました。

一字一句がその通りの内容ではありませんが、概略として、
「いつ引退?とか言われるけど、仕事の声がかからなくなったら、続けたくても引退せざるを得ない
「結局は自分のニーズが無くなったら引退な訳で、それは自分で決められることではない
「仕事があるうちはまだ望まれているものだと思って、とりあえず続けようと思う」
というようなことをおっしゃっていたと思います。

また、これはサッカーのある代表選手の話ですが、
「代表引退とかいうけれど、自分の意志にかかわらず、選ばれなくなったらそれが引退だ」と言っていました。

この「引退は自分の意志では決められない」ということは、私は本当にその通りだと思います。
私のようなコンサルタントも、仕事が無くなれば、自分の意志にかかわらず廃業を考えなければならなくなるでしょう。

自分の意志で“引退”を決められる人は、恵まれた才能がある、誰からも認められる成果を残したなど、ごく一部の一流の人にしか許されないことではないかと思います。

これが企業に勤めるサラリーマンの場合はどうでしょうか。
まず、多くの会社には定年があります。入社した時から辞める時が年令で決まっているというのは、“自分の意志で決められない”という中でも、相当に理不尽な部類ではないかと感じます。働く側が不満に思っても仕方がないでしょう。

その一方で、企業には、定年後であっても65歳までは継続雇用することが義務付けられています。
定年後の継続雇用について、特に企業側の反応はあまり前向きとは言えないことが多いですが、これは社員本人が辞めると言わない限り、会社が雇い続けなければいけないという面があるからだと思います。本来は一部の一流の人しかできない、“引退は自分の意志で決められる”ということです。

会社側は成果とコストが見合わないからとお荷物扱いをし、一方で社員の側も、自分の能力を高める努力をしないで組織にしがみつこうとします。組織に残る以外の選択ができないのは、そういうキャリアにしてしまった会社の責任でもあるし、キャリアを人任せにしてしまった本人の責任でもあります。

最近は、定年制をなくし、年長者でも働きやすい環境を作って業績を伸ばしている会社があります。不安定さから必ずしも良い捉え方をされない歩合給も、ある程度の生活基盤ができた年長者からすれば、自分の都合に合わせた働き方ができるということがメリットになるようです。会社と社員のお互いの事情が一致した、望ましい形だと思います。

雇う側と働く側のいびつな関係は、やはりお互いにとって幸せなことではないと思います。


2015年4月13日月曜日

目標を具体的イメージにした方が現実化しやすいという話


今はほとんどの会社で、“目標管理制度”のような仕組みを取り入れています。そこでは、「目標を具体化する」ということが重要であるとよく言われます。これは、後から評価をする上で必要なこととして言われることが多いように思いますが、目標の達成度を高めるという意味も当然あるでしょう。。

これを、心理学や脳科学的な観点からみると、「目標が具体的になっていると、それが現実化しやすい」ということがあるのだそうです。

例えば、「○○を買おう」と思って買い物に行くと、目的に見合ったそれなりのものが買えますが、漠然と「何か良いものがないかな」などと思って行くと、結局何も買えなかったり、逆に余計なものを買い過ぎてしまったりするのだそうです。

何かの目標に向かって物事に取り組むとき、具体的なイメージを持って決めていこうとする人と、抽象的なフィーリングで判断しようとする人とでは、その実現性に差があるのだそうです。

確かに、具体的なゴールイメージを持っていると、それに向かって行動しやすいですし、その時の状況に応じて現実に見合った選択ができるので、目標が現実化しやすいのはわかる気がします。
一方、抽象的な感覚で判断していると、これよりもっと良いことがあるのではないかと夢見がちになったり、向き合い方が消極的になったり、逆に積極的すぎてしまったりということがあると思います。

私が同じように思い当たることで、「中途採用の人材要件」の話があります。現場に対して人事部門の立場で、その時に採用したい人材要件を尋ねると、時として「できるだけ良い人」などという抽象的な要件が出てくることがあります。内容を良く聞くと、概して「そんな人はめったにいないでしょう・・・」というスーパー人材を求めているとしか思えないものであったりします。

しかしそんな現場に、言ってきた要件レベルにはほとんど達していなくても、活かせる可能性があるだろうと判断した具体的な人材を紹介してみると、意外にすんなり採用に結びついたりします。
抽象的なイメージの状態では、あれもこれもと高望みをして、現実からかけ離れたスーパー人材が要件になってしまうことがありますが、実際の人材が目の前に現れると、イメージが具体的になり、現実的な判断ができるようになります。
結果として、「自部門に見合った必要な人材を採用する」という目標を現実化することができます。

 「具体的なイメージを持てば、目標は実現しやすい」ということは、やはり重要なことだと思いますし、逆に言えば、「実現したいことがあるならば、目標イメージを具体的に持て」とも言えます。
私自身の傾向でいえば、ついつい感覚的な判断を下しがちなところがあるので、注意しなければいけないと思っています。


2015年4月10日金曜日

もしも私があの女性議員の立場だったら、すんなり辞められたのだろうか・・・


実際に不祥事があったのかどうか、はっきりしない部分はありますが、維新の党から除名処分になった女性国会議員は、辞職せずに議員を続けるつもりのようです。

この件に関しては、以前から本人や取り巻きの人たちの素行に問題があったという話もあり、何よりも除名になった政党の比例票での当選となれば、早々に議員辞職するべきという声には納得できます。

でも、もしもこれが自分だったらどうしただろうか、辞めて当然などと思っているが、当事者だったらそう思えたのだろうかと、ついつい考えてしまいました。
自分があの立場だったと仮定して、倫理性などは関係なく、議員を一つの職業と位置づけて、そこで自分のキャリアのことを考えたとしたら、実は同じことをするのではないかと思ってしまうのです。

女性議員がどうしても辞めないと言う理由は、私はキャリアの問題だと思っています。議員という職を失うと、その後の生活が見通せないから、今は何とか現状を維持したいと考えているのではないでしょうか。

 この女性議員の経歴を見る限り、大学を卒業してから6,7年の社会人経験はあるようですが、特に専門性がある仕事ではなかったようなので、転職に有利なスキルを持っている訳ではなさそうです。

さらに29歳で国会議員になったということは、その年令で急に大企業の重役になったような感覚ではないでしょうか。周りの人からは何かとチヤホヤされ、報酬も世間一般から見れば相当に多く、さらには議員特権という、企業でいう福利厚生が相当に充実しています。そんな生活も3年目となれば、いろいろなことに慣れてきて、手抜きのしかたも覚えてきた居心地の良い時期だったのではないでしょうか。

幸い自分から言い出さない限りは職を失うことはなく、党から除名になったことで余計なしがらみもなくなる、それならばできる限り今の職に留まって、その間に当面の生活と次の仕事に向けたを準備しよう、こんなに条件が良い職場を自分から放棄することはない、そう考えても不思議ではありません。
先行きが見えない状態で、辞めた後の展望もなければ、もしもこれが私自身であっても、同じように「とりあえずは今の職に留まろう」と考えるのではないかと思うのです。

ここで思うのは、例えば「働かないオジサン」の話です。辞めたら行き先が無くなるので、定年までおとなしく、かといって何をする訳でもなく、会社員人生を生き長らえようとしている人と似ている感じがします。
共通するのは、自分のキャリアに自信がなく、特に経済状況は、辞めれば今より悪くなることが明らかだということです。

ここまで書いたことは、すべて私の思い込みで、まったく事情が違うかもしれません。議員という職には特殊な倫理性もありますから、同じ次元では言ってはいけないのかもしれません。ただ、自分の職業人生、キャリアという視点だけで考えれば、こんな選択をすることは誰でもあり得ると思います。

「しがみつかなくて良いキャリア」を積むことは難しいですが、大切なことだと痛感します。


2015年4月8日水曜日

「残業代ゼロ」制度で語られる、本質を見失った論点


ある大学教授の方が書かれたウェブ上のコラムで、4月3日に閣議決定された労働基準法の改正案に関して、あたかも「成果で報酬を決める制度」が導入されるかのような報道がされているのはおかしいという話が出ていました。

新たに導入されようとしている「高度プロフェッショナル制度」は、成果で報酬を決める制度ではなく、あくまで「労働時間に応じた賃金を払わなくても良い制度」で、使用者に対する労働時間規制を撤廃するだけのものであり、論点隠しや論点ずらしがされているという指摘をされています。

私もこの話に関しては、同様の感想を持っていました。法律に書かれるのは、「ある条件に合致する人は、従来の労働時間の規制を撤廃する」ということだけであり、「成果に応じた報酬を支払わなければならない」とは一言も書かれません。
「早く帰れる」「メリハリをつけて働ける」などと宣伝されていますが、これはあくまで本人が働き方を自己決定できればの話であり、もしもこれを上司などの他人が決めるのであれば、「時間に縛られずに都合良く働かせることができる」ということばかりになりかねません。

“時間”は万人に等しい単位ですが、“成果”はそうではありません。売上かもしれないし、利益かもしれないし、もしかすると「俺の言うことを聞くか聞かないか」などという基準が出て来ないとも限りません。少なくとも「労働時間に応じた報酬」と「成果主義」を対比して話すことには、かなり無理があると思います。

同じような論点で語られる話として、「年功制」の問題があります。年令に応じて報酬が決まる「年功制」は不公平であり、もたらした成果に応じた報酬である「成果主義」が、より公正で望ましいものであるなどという話です。
しかし、これも万人に等しい基準と言える“年令”と、時と場合によって基準が異なる“成果”を対比している点では、同じように無理がある話です。そもそも「年功制」の対極が「成果主義」であるなどということはまったくありません。

このように、異なる論点、異なる尺度、異なる基準のものを対比して、二者択一のごとく議論するのは、問題の本質を見失います。「残業代ゼロ」「年功制」「成果主義」には、それぞれメリットとデメリットがありますし、それぞれが二者択一でなく、組み合わせによる中間もあり得ます。

以前聞いた話ですが、海外のある金融機関では、100%年功制の賃金体系を取っているところがあるそうです。「経験がある人の方が仕事の結果が良い」のは当然であり、これを最も合理的に判断できる基準は年令ということだそうです。その良し悪しは別にして、これも一つの考え方であり、すべてを否定できるものではありません。“成果”の中に経験値という項目があるとすれば、その判断材料の一つとして、年令を活用するという考え方はあるでしょう。

二者択一のように単純化した議論や、一方の意見だけに肩入れした論点隠しが、良い結果を生むとは思えません。さらに言えば、「残業代ゼロ」や「年功制」と「成果主義」のように、異なる視点の事柄を、あたかも同一線上にあるがごとく対比して論じるのは、好ましい議論に結びつかないのではないかと思います。


2015年4月6日月曜日

「自立心旺盛な新入社員」のちょっと困ったこと


最近の新入社員は、受け身の姿勢が多いなどと言われますが、これは人によりけりで、自分から積極的に周りに働きかけ、自立的に行動しようとする人も大勢います。
ただ、そんな「自立心旺盛な新入社員」には、ときどき困ったことも起こります。

これは、つい最近ある会社であったことですが、入社に関するちょっとした事務手続きを、自己判断でやったことで間違いがあり、それを修正するように指示したところ、またまた自分で何かを調べて勝手な思い込みをしたらしく、ほぼ同じ種類の間違いを再びしてきたということがありました。

あらためて教えて手続きをさせ、何とか無事に完了したものの、本人はあまり反省している様子ではありません。そこまで重大なことではなかったということもありますし、そもそもよく知らなかったことを、自分なりに考えてやった上での結果だから、仕方がないと思っているのかもしれません。

この新入社員は、何事にも前向きで積極性があり、知らない人の輪の中にもどんどん自分から入っていける、周りの上司や先輩からもかわいがられそうなキャラクターです。

自分のことはできるだけ自分で解決しようと考えていて、わからないことは周りに聞く姿勢もありますが、自分の考え方には自信を持っていて、さらに若さゆえの世間の狭さがあるので、本来は周りに確認すべきと思われることでも、自分だけの自己判断でやろうとしてしまう傾向があるようです。

指示待ちの傾向が強い人の場合は、初めは細かく指示しながら成功体験を積ませ、徐々に自信をつけて自分から行動できるように仕向けるような指導をしますが、そもそも自信を持っている人への指導というのは、さらに難しい部分があります。自分に自信があるので、先にどんどん行動してしまうため、何かと失敗につながりやすく、それなりのプライドも持っていますから、失敗を失敗と思わないようなところがあります。

新入社員がこのようなタイプの場合、指導する側としては、ついつい「経過報告をしろ」「事前に指示を仰げ」などとなりがちですが、これは「自分では決めるな」と言っていることと同じなので、自立した志向を持っている人にとっては、最も息苦しいことです。そんな対応に終始すれば、「辞めたい」などと言い出すのも時間の問題です。

こういう人の指導で意識しなければならないのは、「これは自分で決めたこと」と思わせる手順です。
「○○をしなさい」という一方的な指示でなく、「○○をするのに必要なことは何だと思う?」など、自分で考えさせながら、正しい結論に導くということです。
これは、相手がどんなタイプでも当てはまる方法ですが、自立的に考えようとする志向を持つ相手には、より意識的に行う必要があります。

 また、自分で考えて行動する人は、あまり途中経過を報告しない傾向がありますから、指導する側から「あれはどうなった?」などと確認する必要があるでしょう。

 「最近の新入社員は受け身で困る」などと言う人は多いですが、“自立心旺盛で行動的な新入社員”を指導していくことも、これはなかなか大変なことです。

相手がどんなタイプの人であっても、新入社員の指導はとても難しいということの、一つの証明だと思います。


2015年4月3日金曜日

「男はなぜ予定を聞かれるのがイヤなのか」という話で思い当たること


あるテレビ番組で、「男性は自分の予定を聞かれることを本能的に好まない」という話がされていました。

その理由は、そもそも太古の男性の役割は“狩猟係”が中心であり、狩りというのはいつ獲物に出会うか、今日どれだけ捕れるか、いつまでに終わるかといった予定ができない仕事であり、そんなどうなるかわからないことを、いちいち他人から聞かれることについて、不快に感じてしまうとのことです。

これに対して女性の役割は“採集係”であり、どこに行けばどんな実がなっているか、どの程度の時間でどのくらい収穫できるかなど、予定がある程度わかるので、男性にも同じ感覚で、その予定を尋ねるのだそうです。

最近は、男女お互いに予定を共有した方が、合理的に物事が進む世の中になっているので、「食事がいらない」「これから帰る」など、自分の予定を家族に知らせる男性も多いですが、実は男の本能としては好ましく思えないことなのだそうです。

この話を聞いて、ちょっと思い当たることがあります。
一つは、部下の業務や勤務状況を管理する中で、報告がない、何をやっているかわかりづらいという問題があった人は、圧倒的に男性が多かったということです。思えば、女性で報告をあげてこない、相談がないといったことで困った経験は、ほとんどなかったように思います。
これに本能的な要素があると言われれば、なるほどそうなのかという感じがします。

そしてもう一つ、これは自分自身のことですが、サラリーマンとして会社の人事部門にいた頃は、家族に予定を知らせることを当たり前のようにやっていましたが、独立して自分で仕事をし始めてからは、その時々の予定をいちいち知らせることは、必要最低限しかしなくなりました。

そのように変わったことは、家族にとっては迷惑なのかもしれませんが、急な予定や突発的な付き合いが入ったりと、自分のスケジュールを見通せないことが増え、そんな不確定なことをいちいち他人に伝えるのがわずらわしい感じになり、いつの間にかそうなってしまったというのが本音のところです。

たぶんサラリーマン時代は、自分のスケジュールが見通しやすい“採集係”に近く、独立して何でも自分でやらなければならなくなった今は“狩猟係”に近くなってきたということで、そのせいで行動も変わってきたということなのかもしれません。

そう考えると、部下管理でも、営業職や外勤など毎日の予定がまちまちの人の方が、社内にいる人より状況が把握しづらいですが、ただ外にいるから見えづらいというだけでなく、外回りの人は“狩猟係”なので、他人に予定を聞かれることを好まないという面もあるのではないかと思います。

こうなると、営業部門のような“狩猟係”にあたる“男性”は、最も報告や連絡を好まず、行動を把握しづらいということになります。
ただ、ここに本能的な部分があるのだとすれば、最低限の報告は求めたとしても、途中経過は本人に任せ、最終的な“獲物”という結果で見極めようとすることは、意外に理にかなっているのかもしれないと思いました。

いずれにしても、他人に気持ちよく動いてもらうということは、なかなか難しいことだと痛感しています。


2015年4月1日水曜日

今年は「消せるボールペン型」の新入社員。でも当てはまらない人が増えている気が・・・?


いよいよ新入社員が入社してくる時期になりました。
毎年発表される「今年の新入社員は○○型」という話題ですが、今年は「消せるボールペン型」なのだそうです。

その意味は「見かけはありきたりでも、書き直しができ、変化に対応できる」とのことで、さらに注意点として「不用意に熱を入れると、色(個性)が消え、使い勝手の良さから、酷使しすぎるとインクが切れて、離職をしてしまう」のだそうです。
ちなみに昨年は「自動ブレーキ型」で、こちらは「敏感で就職活動も手堅く進め、何事も安全運転の傾向がある」「人を傷つけない安心感はあるが、どこか馬力不足で、どんな環境でも自在に運転できるようになるには、高感度センサーを活用した開発(指導、育成)が必要」だそうです。

毎年見ていて、「うまいことを言うなぁ」と感心する部分と、「毎年違う言い方だが本質は同じでは?」とこじ付けを感じる部分の両方があります。批判的に捉える意見も聞きますが、いろいろなところでこれだけ話題として取り上げられるということは、それなりに注目されているということなので、まぁそれはそれで良いのではないかと思います。

ただ、私が企業の現場で、若手も含めたいろいろな人と接している中で感じるのは、志向や意見が多様化しているということです。

例えば、「若者の飲み会離れ」が言われていて、ある調査では「会社の飲み会が嫌い」と答えた20代の男性サラリーマンは、全体の56%だったそうです。
確かに全体としてはそういう傾向があるのでしょうが、一方でこの調査の残り46%は「飲み会が好き」か「特に何とも思っていない」かのどちらかなので、そういう意味では飲み会離れがものすごく進んでいるとも言い切れません。

たまに大学生や新入社員クラスの人に話を聞いてみますが、飲み会というシチュエーションは確かに多くはないけれど、みんなで一緒に食事をするような機会はそれなりに持っていて、そこではお酒を飲みたい人もそうでない人もいるので、どちらでも対応できそうなお店に行く事が多いそうです。“お酒を飲むだけの店”は、一品が定食を食べられるような値段であったりするので、高くてもったいない感じがしてしまうそうです。

また、若くても「飲み会大好き」「お酒大好き」と話す人もいます。バーでウイスキーを飲むことに凝っているという“昔ながら”と言ってもよさそうな渋い志向の人や、いろいろな国のワインを試すのが好きという人など、本当にいろいろな人がいます。
他にも「車離れ」「テレビ離れ」「海外旅行離れ」など、いろいろ言われますが、それそれで「いや、私は大好き」という若手は意外に存在します。

こうやってみると、多様化が進む今の時代で、ある同じ属性の人たちをひとくくりにして、一般化して表現することは、これからどんどんやりにくくなっていくように思います。今年の新入社員も、どう考えても「消せるボールペン型」とは言えない人が、意外にたくさん混じっているかもしれません。

季節の風物詩のようになっている「新入社員は○○型」の話題ですが、いつかはなくなってしまう運命なのかもしれません。