2015年7月31日金曜日

社長や政治家やリーダーに「内向型人間」が大勢いるという話と、「外向型人間が良い」という思い込み


「内向型人間」について書かれた、あるウェブ記事が目に留まりました。
2013年にアメリカで発売されてミリオンセラーになった書籍(「内向型人間の時代」:講談社 スーザン・ケイン著)を紹介している内容で、社長や政治家やリーダーに、実は内向型人間が大勢いるという話でした。

この書籍からウェブ記事に引用されたところによると、科学者のアインシュタイン、音楽家のショパン、小説家のプルースト、映画監督のスピルバーグなど、内向型が多そうな学者や芸術家とともに、ビジネスや政治の世界でも内向型リーダーは数多く存在し、マイクロソフトの共同創業者ビル・ゲイツ、グーグルのラリー・ページ、政治家アル・ゴア、インド独立の父・ガンジーなどを例として挙げています。

ある発達心理学者の実験によると、生後4カ月の乳児に様々な刺激を与え、その反応を観察したところ、全体の2割は元気よく泣いて手足をばたつかせ、4割は静かに落ち着き、残り4割は中間の反応を示したそうです。
その乳児たちが成長してから再び観察したところ、物静かな内向型になるのは、手足を元気よく動かした「高反応」グループであり、落ち着いていた「低反応」グループは外向型になっていたということでした。ここには環境的な要因も複雑に関係しているだろうということです。

外向型は社交的で、内向型は人間嫌いだという説があるが、乳児は人間に対して反応しているのではなく、高反応な乳児は、単に“刺激に敏感なのだ”という結論が導かれていました。

同書では思慮深くて理性的、真面目で謙虚、孤独を求める「熟考の人」を内向型、意気軒高で明るく、社交的で目立ちたがり屋の「行動の人」を外向型と定義しています。

内向型は外向型に比べて、物事を注意深く考え、行動する前に熟慮し、難しくとも簡単にはあきらめず、より正確に作業を行うという特質を持っていて、知的作業を行う面で外向型よりも優るということです。
また、内向型は金銭などではなく、仕事そのものを愛する傾向が強く、物事に完全に没頭している「フロー」という状態になりやすいのだそうです。

私自身、自己評価をすれば、どちらかと言えばたぶん「外向型」で、自分でそれが良いことと思っていました。「内向型」の人を見ていると、何となく歯がゆい感じがしたり、理解できないところがありました。ただ、定義を見ていると、自分にも「内向型」の要素はありますし、一概に二者択一で切り分けられない部分があるようにも思います。

また何よりも、世の中の人全般が、「外向型が良い」という思い込みを持っている感じがします。これは、自分自身が「内向型」の人であっても同じです。しかし、実は「内向型」の方が優れているような特性がたくさんあります。

最近、人材の多様性を認めようという動きが高まっており、「内向型人材を評価しよう」という考え方は、そんな流れと共通する部分も感じますが、あらためて様々な人それぞれの個性を認め、それを活かしていくことの重要性を感じました。

少なくとも、今までのような「外向型人間が良い」という思い込みは、これからどんどん変わっていくような気がします。


2015年7月29日水曜日

誰にでもある「置き忘れたままの間違い」は防げるのか


皆さんは、普通は誰でも知っているような基本的なことを、結構な大人になるまで、ずっと間違ったままで覚えていたという経験はないでしょうか。

私は童謡の「どんぐりころころ」の歌詞で、「どんぐろころころ、どんぶりこ」を、大学卒業の頃まで、「どんぐろころころ、どん“ぐ”りこ」だと思っていました。
言葉の意味や使い方、漢字の読み方、ちょっとした常識などで、こんな「置き忘れたままの間違い」は、誰でも一つや二つはあるのではないでしょうか。

これと同じようなことは、ビジネスの現場でもあります。
私が関わる中で、中小零細企業のオーナー経営者などは、特に法律がらみのところで、こんな「置き忘れたままの間違い」が起こります。

よくある一例として、残業単価の算出方法が、必ずしも法律に合致していないということがあります。なぜそうなってしまったのかを聞いていくと、法律を理解していても対処していないという確信犯という人よりも、そこに問題があるなどとは心の底から全く思っていなかったような人の方が、数は多いと思います。「悪気はなく、ただ知らなかった」ということです。

以前ある会社の社長から、「有給休暇は翌年にも繰り越しをするっていうのは本当か?」と質問されたことがあります。
有給休暇の繰り越しは、社会人として企業で働くことを何年か経験すれば、全員が必ず遭遇することですし、誰でも知っていそうなことだと思いますが、この社長の経験からは、この部分がぽっかりと抜け落ちていたようです。

なぜかというと、まずこの社長は、学校を卒業してからすぐに、家業であった自分の親の会社に入っていて、それ以外の会社への勤務経験はありませんでした。
少人数の零細企業でしたので、これは良いことではありませんが、有給休暇は病気になった時ぐらいしか取れず、休暇日数を気にしているような人は社内に誰もいませんでした。休暇を使い切るような人は未だかつて誰もいないので、有給休暇の取得日数が問題になることも、そもそも管理する必要すらなかったわけです。

そんな中で、会社も少しずつ人数が増え、いろいろな経験を持った社員が入ってくる中で、就業規則をきちんと見直そうとした時に、初めてそのことを知ったということです。
 この社長自身は、非常に真面目で順法精神も強い方なので、知らなかったということは、ご自身としても結構ショックだったようです。そんな方なので、それからすぐに有給休暇の運用の見直しをして、法律に合致するようにしていました。こういう不備が発覚しても、「そんなのは法律がおかしい」などと言ってしまう社長もいる中では、見習うべき対応だと思いました。

こういうことを防ぐには、情報に接する機会を増やす、プレーンを増やす、知識を持つ人から指摘を受けられる場を作る、などということが必要でしょうが、本人がそうとは思っていない「置き忘れた間違い」というのは、他の例と同様に、なかなか表には出づらいものです。

結局は、本人がどこまで疑問を持ち、どこまで意識して見ているかに委ねざるを得ないことなのかもしれません。「見つけた不備は、謙虚に直す」ということが大事なように思います。


2015年7月27日月曜日

いい人だけど、他人にも自分にも甘い社長の話


社長というのは、どんなに人当たりが優しくても、どんなに腰が低くて謙虚でも、必ずどこかに厳しい一面を持っています。そうでなければ、事業を成功させることが難しいからだと思います。

私がお付き合いさせて頂く経営者の方々も、会社規模や事業規模にかかわらず、皆さんが何かしらの厳しい一面をお持ちです。仕事への向き合い方の厳しさ、仕事の質に対する要求の厳しさ、礼儀に関する厳しさ、お金に対する厳しさ、その他いろいろあります。

また、こういう方々は、自分自身に対しても、非常に厳しい一面をお持ちです。相手に要求することは、自分でも当然同じように実行しようとしますし、相手には要求しないようなことでも、自分を律した行動を取っていたりします。

もちろん人間ですから、中には自分に甘いところもありますが、成長性や安定性がある会社では、社長のそういう部分を理解してフォローしてくれる部下が必ずいます。なぜフォローされるかといえば、尊敬、恩義、お手本、その他いろいろな事を含んだ広い意味で、「いい人である」ということだと思います。
そういう人材が身近におらず、他人に厳しく要求していることを、自分には甘く済ませているような人は、必ずどこかで事業が行き詰まっているように感じます。

 ただ、私の知り合いのある社長に、この定義にはまったく当てはまらない人がいます。厳しい一面というものが、どこにも見当たらないのです。他人に対しても自分に対しても、どちらにおいてもです。
一生懸命見つけようとして観察しましたが、結局見つけられず、周囲の人たちにいろいろ様子を聞いても、そういう部分はまったく出てきません。「ああ、あの人はそんな感じ」などと言う話ばかりです。

他人に対してきついことを言うことがなく、甘さを認めてしまうので、評判としては「とりあえずいい人」ということになっています。

ただ、仕事上で関わる人たちの評判は少し違っていて、「自分からは何もしようとしない人」と言われていました。自分と他人の両者に甘いという背景には、「やらずに済むことはやりたくない」という行動回避の願望があるようで、そのため、「他人に要求すると自分もやらなければいけなくなる」ということからか、何事も甘いままで済ませてしまう行動になっているようでした。

会社の過去からの状況を見せてもらうと、売上は多少伸びているがそれほどでもない、負債はないけど投資もしていない、固定顧客はいるけど新規開拓はほとんどない、そんな状況でした。「事業的に失敗はしていないが、成功しているとも言い切れない」、そんな中途半端な感じがしました。
この会社は、最近諸々の事情で別会社と合併することになりましたが、これもあまり主体的に決めたことではなかったようです。

こんな様子を見て思ったのは、やはり経営者には厳しさが必要であり、中でも自分に対する厳しさは、事業を成功させるためには必須なのではないかということでした。

自分にも他人にも厳しさを持ち続け、しかも「いい人」でいるということは、かなり矛盾しているようにも思えます。ただ、少なくとも私の周りでは、この矛盾を克服している経営者が成功しているように感じます。
やはり社長というのは大変なお仕事です。


2015年7月24日金曜日

「予定されていないものこそ“未来”である」という定義


東京大学名誉教授で、「バカの壁」の著者として知られる養老 孟司さんの講演を聴く機会があり、その中のお話からです。

養老氏は、初めに「過去」「現在」「未来」の、それぞれの定義ということからお話されました。

ここでは、「現在」を単純に“今”としてしまうと、「現在」はほんの一瞬しかなく、すぐに「過去」となって流れていってしまうので実質的ではない。本来言っている「現在」とは「手帳に書けるもの」、すなわちすでに予定されているものということで、例えば東京オリンピックは、まだ先のことであるが、すでに予定が決まっていて、それに向けて多くのことが動き出しているということでは「現在」である。そんなお話でした。

さらに、最近よく子供たちの「未来」がない、「未来」が暗いなどと言われるが、それは何でもレールを敷き、見通しを立て、計画しようとするせいで、予定されていないからこそ存在する「未来」を、大人たちが「現在」に変えてしまっているからで、一昔前までは大人になる前に死んでしまう子供たちがたくさんおり、先がどうなるかわからなかったがゆえに、子供たちの先の予定を立てる事をあまりしなかったために、「未来」がたくさんあったのだということでした。

何でも予定されていることが安心で良いことのようになっているが、人の死や病気など、絶対に予定できないことは確実にあり、本来の人間らしく生きるためには、予定されている「現在」と、予定されていない「未来」のバランスが取れていることが必要である。そして、特にビジネスの世界では、何でも計画をして見通しを立てようとするが、そうやってわかったことばかりやろうとするのは、自分たちの「未来」をなくしているのだということでした。

この話で印象的だったのは、「自分たちで“未来”をなくしている」というところです。確かに計画として予定されている範疇では、新しいものは生まれてこないでしょうし、不確定だからこそ、それが夢や希望であるともいえます。

これはビジネスでも同様で、何でも計画的に、見通しを立てて行うことばかりが良いことのように言われますが、「予定されていないからこその“未来”」を狭めているといえます。
「未来」に抱く夢や希望、ワクワク感、どうなるかわからないという良い意味での楽しみがなくなっているということです。

予定する、計画するということは大事です。でも、未確定で見通しがない、「予定されていないからこその“未来”」を少しでも持っていることは、人として必要なことではないかと思います。


2015年7月22日水曜日

任せられない人ほど要求する「権限委譲」


「権限委譲」とは、管理者が部下に仕事と行動を任せることをいい、うまく行われれば、仕事の時間効率や生産性向上の効果があります。理想を言えば、できるだけ多くの仕事を権限委譲すれば、仕事の効率は最大限になる訳ですが、なかなかそうは行きません。

ある会社で、中堅からマネージャークラスの社員数名が、「自社の権限委譲のしかたに問題がある」と言います。
聞けば、自分たちに権限を与えないせいで、「仕事がスムーズに進められない」「判断に時間がかかる」「臨機応変な対応ができない」など、様々な弊害があるのだそうです。
問題提起の内容としては、それほどおかしなことはなく、なるほどと思える部分もあります。

そして、この話を担当の部門長に確認してみると、ちょっと呆れた笑みを浮かべながら一言、「彼らには任せられないです」とおっしゃいます。
話を聞くと、権限委譲を求めている部下たちは、“途中経過の報告や相談がない”“大事なことでも自己判断だけで勝手に進める”といったことが日常的にあり、そのために、顧客との小さなトラブルや、作業の大きな手戻り、重要な仕事の後回しといったことがしばしば発生しているそうです。

こうなると、上司の立場としては、途中経過の報告を義務付けたり、上司である自分の判断を仰ぐように指示したり、ということになりますが、これが彼らにとっては不満なことで、その結果、「権限委譲に問題がある」と言い張っているとのことでした。

正しく権限委譲を行う上でのポイントの一つに、「どの部下にどこまで任せていいのかを事前に見極めて判断する」ということがあります。管理者の中には、「誰にでも平等に任せる」という人がいますが、これは正しい権限委譲とは言えません。経験、能力、本人の資質ややる気などは、その人によって様々だからです。任せる部下の人選をしっかり行う必要があるということです。

その後、「権限委譲」を求める社員に対して、私からは、「上司が“任せよう”と思うだけの信頼が必要で、信頼されるかどうかは日常の仕事ぶり次第だ」という話をしましたが、その場ではピンと来ていない様子でした。
自分たちでスピーディーに仕事を進めようという意欲は買えるので、これからの意識と行動がどう変わっていくかにかかっていますが、いずれにしてもまだまだ時間はかかりそうです。

うまくできれば効果的な「権限委譲」ですが、任せられない人ほど要求することが多いような気がします。


2015年7月20日月曜日

“給与テーブル廃止”まであった「制度がダメなら変えればいい」という話


先日、グループウェアで国内トップシェアのサイボウズ株式会社、青野慶久社長の講演を聴く機会があり、そのお話から思ったことです

ユニークな社内制度を数々取り入れている会社で、副業OK、出戻りOK、育児関連、その他多様なワークスタイルを認めていますが、その中で、「給与テーブルを廃止した」という話がありました。

給与テーブルがあることによって、内向きの視点で社員同士の他者比較が始まることを好ましくないと考えたからだそうで、どうやって社員の給与を決めているかというと、「市場価格」なのだそうです。

採用活動を継続的におこなっていると、どの程度のレベルの人が、どのくらいの給料をもらっているのかという市場価格が体感的にわかるので、それに合わせて給与設定をするのだそうです。
社員同士の比較がしづらくなったというデメリットはあるものの、あくまで社員個別に、「あなたの今の仕事ぶりではいくらの市場価格になるか」という観点で話し合うのだそうです。

最近は、IT系エンジニアの人手不足により、市場価格も上がっているので、仮に社員の仕事内容に変化がなくても、市場価格に合わせて給与が上がるということもあるそうです。

私は人事制度の策定をいろいろな企業でお手伝いしますが、給与体系が決まっていないような会社から制度を作って欲しいと依頼されることはあっても、すでに制度を運用している会社がやめたという話は聞いたことがありません。

たぶん、世の中のほとんどの会社は、制度をやめるということイコール後退と捉えますし、まして給与テーブルのようなものは、人事制度でいえばわりと根幹に位置するものですから、それを無くすなどという選択肢は持っていないことがほとんどでしょう。

ただ、私はお話をうかがっていて、企業理念や風土、会社として目指す方向によって、一つの方法としては考えられるものだと思いました。

給与体系はその会社固有の制度ですから、必ずしもその人の市場価値を反映したものではありません。価値を生み出さない人でも年令とともに昇給していくような制度によって、仕事内容と市場価格のギャップが大きくなりすぎているという問題を抱えている会社がたくさんあります。

また、社員同士の他者比較というのは、どこの会社でも見かけることですが、それはお互いの切磋琢磨につながるようなことばかりではなく、どちらかといえば、「なぜあの人が・・・」「なぜ自分は・・・」という不満や苦情につながっているケースの方が多いように感じます。
これは、あまり生産的とはいえない話ですし、その原因の一つに給与テーブルがあるならば、これを廃止するという考え方は確かにあるでしょう。

青野社長がおっしゃっていたことで印象深かったのは、「制度がダメなら変えればよい」ということです。多くの人は「確かにその通り!」と思うでしょうが、それが給与テーブルを廃止するというような発想までには至らないと思います。
ただ、やはりそれは固定観念であって、給与テーブルであっても、絶対に無ければならないというものでは確かにありません。

社内制度というのは、その会社の業績を上げるために存在するもので、その会社ごとに独自で考えるべきものです。もっともっと柔軟な発想があっても良いのではないかと考えさせられた一件でした。


2015年7月17日金曜日

「部下を守る」ということについてのいくつかの形


最近、ある団体のブログ記事が目に留まりました。

クレーム対応について書かれた記事でしたが、それによると、ある有名外資系のショッピングセンターで、明らかにクレームを通り越し、スタッフに「イチャモン」をつけて、商品を「タダにさせてしまおう」という魂胆のお客がいたそうです。
そこへ出てきた欧州系の外国人支配人は、「出て行け!お前は客じゃない!」と物凄い剣幕で怒りだし、「スタッフはお前の奴隷じゃない、謝れ!」と言ってクレーマーに謝らせたそうです。

その支配人は、「このラインを超えたら客じゃない、というところまではスタッフに努力させるが、それ以上やらせると、スタッフが仕事に恐怖を感じるようになってしまう。それを絶対に避けるために、クレーマーがラインを超えた瞬間からは、スタッフを守るのが義務だ」と話していたそうです。

 これを読んで少し考えたのは、この支配人が日本人だったらどうしただろうかということです。
多くの人は、同じように部下を守らなければならないと思うでしょうが、その行動として、たぶん、部下と一緒か、もしくは部下の身代わりになって、クレーマーに謝っていたのではないかと思うのです。

これもあるところで読んだものですが、海外の会社で、ある社員が仕事上の失敗を犯し、その社員の上司のもとへ、上席部長がクレームを言いに来たそうです。
ガラス張りの部屋の中の姿しか見えませんが、初めは冷静に話している様子だったのが、そのうちお互いにヒートアップし、大声で言い合いをしている状況だったそうです。
そこから漏れ聞こえてきたのは、「彼一人の責任ではない。責任者は私だ!」という直属上司の声だったそうです。

その言い合いは何とか落ち着いて終了した後、直属上司はその失敗を犯した社員を呼び、今度は烈火のごとくその社員を叱ったのだそうです。周りの圧力からは徹底的に守るが、直接的な間で言うべきことははっきり言うということだと思います。

欧米の場合は、こうやって守らなければすぐに社員は切り捨てられるでしょうし、それを逆手に、気に入らない部下を排除する人がいるような話も聞いたことがあります。それぞれの文化の違いは、確実にあるでしょう。

「部下を守る」と一言でいっても、その方法はこのように意外に多様です。また、何が正解ということはないのだと思います。

ただ、前述のショッピングセンターの外国人支配人は、こんなことも言っていたそうです。
「日本のお客さんは、商品とサービスの品質に厳しいが、時にその限度が超えると、単なるわがまま客に変身してしまうことが多く、さらに店から断られることに慣れていない。これは、全国的に頭を下げる接客しか教えてこなかったからだろう」

日本人のサービスは世界一だと、多くの人は胸を張りますが、その一方で、こういうクレーマーのような人たちを生み出してしまっているのかもしれません。こんな形で部下を守らなければならないということについては、日本人としての反省が必要ではないかと思います。
そして「部下を守る」という方法についても、考えていかなければならないのだと思います。


2015年7月15日水曜日

その仕組みや制度は、本当に会社に合っているか?


企業にはいろいろな仕組みや制度が存在すると思います。そこにはユニークなものもたくさんあります。

例えばグーグルでは、社員が仕事の創造性を維持するため、できる限り組織階層をつくらず、仕事の管理をしないことを実践しています。

また、「20%ルール」といって、会社と社会をよくする目的であれば、就業時間の20%を、個人的に好きなテーマに割いてもいいというルールがあったりします。会社の考え方をよく反映していると思います。

私が最近お話をうかがったある会社の社長は、新たに「提案制度」の導入を考えているそうです。

「現場の意見を吸い上げて問題解決につなげる」という一般的な目的とともに、“自分なりの意見を考えて発信することで、自律性や積極性を育てる”、“今起こっている課題を、他人任せにせずに自分のこととして考える”“自分から発案させることで、その後の行動まで責任を持たせる”“行動力、実行力につなげる”などという意図があるそうです。
知人の会社がこういう制度を取り入れていることを耳にして、社長自身の自社の現状に対する問題意識から、自分たちでもやってみようと思ったようです。

社長は、自分の意図や、どんな効果を狙っているのかということを、かなり熱心に話すので、私は「とりあえず3カ月後にあらためて検証してみましょう」と言いましたが、こちらの会社の場合、正直言って私は、この「提案制度」は、簡単には定着しないと思っています。なぜかというと、この会社の今までの企業風土が、提案ということにはなじまないからです。

この社長はオーナー経営者で、会社での判断や決裁事項は、現状ではすべて社長に集約されています。良くも悪くも、社長がうんと言えば話が通るし、首を横に振る限りは、何も前に進みません。
 とにかく、いかにして社長の意向に沿うかが、この会社で仕事を進める秘訣になります。意向に沿わないことは、いくら提案しても無駄だということを、社員たちはみんな身にしみてわかっています。

そんな企業風土ですから、自律的な志向の人にとっては、息苦しい環境であることは間違いありません。自律的な人材は辞めてしまいがちで、今いる社員たちは、上からの指示に従順な人材がほとんどです。

ここからは想像ですが、これから「提案制度」を始めても、たぶん提案らしい提案はほとんど出て来ず、それに業を煮やした社長から、提案を出すことを、何らかの形で義務付けるような動きが始まり、多少何かが出てきたとしても、意味がある内容とはならず、制度として機能しないまま終わっていくような気がします。

 この会社で「提案制度」を機能させるには、社員の意識を変える取り組み、提案を出しやすくする制度上の仕掛け、象徴的に取り上げられる実績など、企業風土に合わせた工夫が必要だと思います。、

「提案制度」自体は、機能すれば良い仕組みだと思いますが、その運用に耐えられる土壌があるのか、発想できる人材はいるのか、そもそも提案が受け入れられる環境はあるのかなど、その会社特有の問題があります。これはどんな仕組み、制度においても同じことです。
 もしも、グーグルの「20%ルール」を真似して導入したとしても、会社によってはただのサボりの口実に使われるだけかもしれません。

構想している仕組みや制度があるならば、それが本当に自分たちの会社に合っているのか、あらためて慎重に見直してみる必要があると思います。その上で、自社の環境に合わせた工夫をする必要があります。


2015年7月13日月曜日

「枠を決めて欲しい」大企業人材と、「何でもやって欲しい」中小企業の経営者

大企業で40代、50代の人材が余剰となっている一方で、特に中小企業の場合は、多くの会社でマネージャーレベルの人材が不足しがちです。
この大企業人材のキャリアを、中小企業で活かそうという取り組みが、いろいろな形で行われていますが、結果的に適応できないケースが意外に多く見受けられます。

私も、実際に人材を受け入れた中小企業を数多く知っていますが、そこでいつも感じるのは、受け入れる中小企業と大企業人材との間にある認識のギャップです。特に見受けられるのは、大企業人材が、環境の違いを理解できていないということです。

一般的な中小企業の実態として、ある程度の制度や仕組みはあっても、職務権限や業務分担といったことについては、そこまで厳密に決められていないことも多く、とにかく自分の身のまわりで起こることは、何でも我がこととして捉える必要があります。

受け入れる中小企業の経営者として、大企業出身の経験豊富な人材ともなれば、より一層「組織とか専門とか担当とか、枠を決めずに何にでも取り組んで欲しい」と期待するでしょう。

一方、大企業の場合は、制度も仕組みもすべて整った環境が当たり前で、分担や権限といったことは細かく決められており、それぞれを担っている人材も豊富にいます。自分の担当外のことは、誰かにまかせておけば、会社の仕組みの中でつつがなくこなされていき、お膳立てがされた上で行動することに慣れてしまっています。

ですから、大企業人材の多くは、まずはとにかく「自分の関わる範囲、役割、職位など、自分の枠を決めたがる」という傾向が強いように思います。

仕組みがあることが当たり前なので、それがないと「○○社(前職の会社)では・・・」といった言い方で批判したり、周りがお膳立てしてくれることに慣れているので、ともすれば受け身で、周りが何かしてくれるのをただ待っていたりという状況に陥ることがあります。当然結果は出ないし、周囲から認められることもありません。

こうなってしまうと、「現状否定」「自分から何もしない」「給料ばかりが高い」などと言われ出し、結局は会社に適応できず、退職ということになってしまいます。

中小企業の場合、自社のマネージャー人材には多くの期待をし、多くの貢献を望んでいます。それが大企業の管理職経験者となれば、やって欲しいことへの期待はさらに大きくなります。
一方の大企業人材は、今までの環境と大きな違いがあるということを、思った以上に理解していません。

しかし、中小企業に適応して大きな貢献をしている大企業人材も大勢います。うまくいっているケースでは、特に大企業人材が環境の違いを十分に理解し、行動レベルで適応した場合です。こうなると、それまでの経験を活かせる場面がどんどん増えてきます。

「枠を決めて欲しい」という大企業人材と、「何でもやって欲しい」という中小企業経営者との認識ギャップはほんの一例ですが、個人的な資質まで含めれば、これ以外にも多くのギャップがあります。

大企業人材が中小企業で活躍するために、まずはこういう違いがあるということを、お互いに理解することが大事ではないかと思います。


2015年7月10日金曜日

社内異動の捉え方で、ちょっと気になったこと


ある有名企業の経営者が、「社内異動なんかしている余裕はない」と言っている記事を目にしました。

世間に通用するような、一定の専門スキルを身につけようとすれば、関連性のない社内業務をローテーションしているようなことは、社会人人生の限られた時間の中では、そんな余裕はないという意味のようです。

私自身、この話については、確かに一理あるとは思いつつも、社内異動には、当然メリットもあります。

話に出てきた「専門性が積めない」ということは、確かにデメリットでしょうが、その一方で、いろいろな業務経験を積むことができる、視野や人脈が広がるなど、一般的に言われるようなメリットがあります。また、異動によって、同じ人が長く同じ部署に留まらないということでは、癒着や不正が起こりやすい土壌につながるということもあります。

結局は、これら社内異動による効果を、バランス良く活用していくことが大事なのだと思いますが、いくつかの大企業に所属している複数の人たちから聞いた話で、少々気になったことがあります。

それは、もともとは優秀な素養を持っているはずの人たちが、自分がやりたい仕事の希望や、将来の展望について尋ねても、それらに対しては何のイメージも持っておらず、会社から言われる異動や職種転換については、「とにかく精一杯忠実に、出来る限り応えていきたいと考えている」と言っていたことです。

愛社精神が旺盛、従順、現状に肯定的などということはできますが、その反面で、自分のキャリアを100%会社に委ねているということです。自分の身の上は会社が決めることが当然と思っていて、そのことに対する疑いは持っていないということです。

もちろん、自分のキャリアについて自分なりの危機感を持ち、異動に関する希望を出したり、自分なりに何かを学んだりという人もいますが、どうも会社が存在し続けることは当たり前、そこに在籍し続けることが最優先で、自分の職種へのこだわりや専門性へのこだわりは、比較的薄いという人が多いように感じます。

私は、年功序列も終身雇用も、その会社の企業文化に応じた使い分けだと思っているので、一方的に否定するようなことはありませんが、このように、自分のキャリアへのこだわりが希薄なのは、「今の会社にずっといる、いられる」と思い込んでいるという、年功序列や終身雇用による弊害ではないかと思います。

 専門人材もローテーション人材も、組織としては両方が必要ですが、どちらにも相応の専門スキルが必要です。
専門人材が身につけるべき専門性は、現場の技術や業務スキルにおける専門性であり、こちらは比較的意識されているところではないかと思いますが、ローテーション人材が身につけるべき専門性である、経営知識、マネジメント、リーダーシップといったことは、本当の意味で身に付いている人は、残念ながら少ない感じを受けます。社外に出た途端に通用しなくなる人が大勢いるからです。

社内異動に関して、実際に辞令が出れば、基本的にはそれに従うしかありません。
ただ、そんな中でも、自分の専門性は何なのか、自分のスキルや経験は他へ行っても通用するのか、そもそも自分のやりたいことはどんなことなのかなど、常に自分自身のキャリアを意識しておくことは必要だと思います。

どんな組織に属していたとしても、自分のキャリアを人まかせにすることだけは、絶対にするべきではないと思います。


2015年7月8日水曜日

今どきの先進企業がこだわる「直接対話のコミュニケーション」


この1、2年のことですが、再び渋谷周辺にITベンチャー企業が集結してきているのだそうです。

アメリカのシリコンバレーになぞらえて、渋谷の(渋い:Bitter)と(谷:Valley)をかけて「ビットバレー」と呼ぶそうですが、そもそもは1990年代後半に、ITバブルとともに盛り上がった動きでした。

その後、ITバブルの崩壊による企業の倒産、撤退が相次ぎ、この動きは下火になっていたようですが、その当時に生まれたサイバーエージェント、ディー・エヌ・エー、LINEといったIT企業が、渋谷に拠点を構えながら“メガベンチャー”に成長し、それらの企業を取引先とする“スモールベンチャー”が、渋谷周囲に集まる動きが広がっているのだそうです。

渋谷に集まる理由としては、流行に敏感でクリエイティブな感性を持った人が集まりやすい場所柄、IT企業の欲しがる人材が多い、交通の便が良いなど、いろいろあるようですが、その中に「お互いが近くにいることで、気軽に会って同僚感覚で話ができる」というものがありました。

今どきのIT企業というと、様々なツールを駆使し、直接対面のコミュニケーションにはこだわらないと思いがちですが、実際にはかなり違っていて、直接会って話すことをとても重視しています。

今の技術では、それこそネット環境さえあれば、在宅勤務でもノマドでも、どこでも仕事をすることはできますし、メールやチャットのような手軽なテキストコミュニケーションがあります。さらに、テレビ電話やテレビ会議といったものも、大げさな設備不要で使うことができます。

ただ、日常業務はそれでよくても、事業連携やパートナー探し、資金集めといったことでは、そうはいきません。気軽な話から熱い話まで、その時の雰囲気に応じて語り合い、お互いの性格や相性を確認しながら、お互いのより良い距離感を見つけていくためには、やはり同じ時間と場を共にすることが必要になってきます。直接会って交流を重ねることが重要です。

さらに、商談や打ち合わせを、濃い密度で効率的に行うことを考えると、思い立ったらすぐに会って話ができる、徒歩圏内のような近い距離にいることが、ビジネスの上ではとても有効だということでした。

技術の進歩により、コミュニケーションの手段は多様化してきました。それらの手段をどう使い分けるかが肝心になってきますが、手段の選択肢が増えたおかげで、従来のアナログ的なコミュニケーションの特徴がはっきり見えてきたという面があります。

特に、コミュニケーションツールを作り出す側でもあるIT企業の人たちほど、手段を使い分けることへの意識が高く、その中でも、直接対話のコミュニケーションを重視しているのは面白いことであり、必然でもあると思います。

あるコンサルタントの団体では、年配者が多いため、メンバーの3割は未だにメールアドレスすら持っておらず、電話か郵便でしか連絡が取れないそうです。そういう方々でも同じように、「直接対話するコミュニケーションが大事だ」と言いますが、説得力が全く違う感じがします。

その場に応じた適切なコミュニケーション手段を考えて実践するということ、その中でも実際に会っての対話を大切にするということは、先進企業や新興企業、若い人達の方が、よほど意識が高いのではないかと思います。
こういう人たちこそ、本当の意味でのコミュニケーション上手と言えるのではないでしょうか。


2015年7月6日月曜日

遺伝子レベルで向いていない人もいるらしい「朝型勤務」


この7月1日から、国家公務員を対象として、「ゆう活」と名付けられた朝型勤務のキャンペーンが始まったという話題がありました。勤務開始時間を1~2時間早めて、原則として17時前後には仕事を終わらせることで、残業時間を抑制して、夕刻からは趣味に取り組みなど、自分の時間とするのだそうです。

長時間労働や残業過多は、業種を問わず、大きな問題となっていますが、この解決策の一つとして位置づけられる「朝型勤務」に、国家公務員が率先して取り組むことで、これを民間企業にも浸透させたいという意図があるようです。

私自身は、まぁまぁ朝は強い方で、その方が仕事の能率が良いという実感もあるので、「朝型勤務」には基本的に賛成しています。
ただ、この「朝型勤務」には、遺伝子レベルで適応できない人がいるのだという話です。

様々な研究結果を調べてみると、朝型人間になるか夜型人間になるかは、遺伝子レベルであらかじめ決まっていることが分かっているそうです。
大昔の人類は、集団生活する上では、仲間が寝ている間に起きている人がいることで、外敵から身を守ることができました。朝型と夜型の両方の人間がいることが好都合だったようです。

しかし、現代の社会生活では、例えば仕事であれば、朝9時から夕方5時までの決められた時間帯が当たり前となっています。朝型でも夜型でも、同じリズムを求められている訳ですが、実はこの時間帯であっても、一部の夜型人間にとっては、頭の働きが鈍った状態に陥ることがあり、近年は「ソーシャルジェットラグ(社会的時差ボケ)」と呼ばれて問題視されているそうです。

朝型人間と夜型人間では、脳の質自体も違っていて、朝型の方が、感情を安定させ気分をよくするセロトニンやドーパミンなどのホルモンが通る神経経路が多いことが分かっているそうです。
逆に、夜型人間は、創造性や認知能力が高い傾向にあり、また冒険心が旺盛なことが分かっていて、危機的状況への反応がすばやいのだそうです。

また、朝型人間は起きてすぐに行動できるかわりに、夜型人間に比べると早く疲れてしまうことも分かっていて、朝型人間と夜型人間は、起きてから1時間後の反射速度はほぼ同じですが、10時間後になると、夜型人間の方が高いのだそうです。

研究者によると、体内時計にはDNAから作られる多様なタンパク質が作用しており、遺伝子コードのわずかな違いが、朝起きる時間に影響を与えているとのことでした。

朝寝坊は怠け者に思われたり、夜更かしは体によくない、成功者は早起き、午前の方が効率的に仕事ができる、等々、いかにも“朝型人間が望ましい”という話が多々語られます。

しかし、人による特性の違いが、このような遺伝子レベルであるとすると、「朝型勤務」へのシフトは、今まで以上に適応できない人が増える可能性があります。もしかすると、総合的な生産性が下がってしまうかもしれません。

「朝型勤務」のように、個人の生活リズムにかかわる話は、実はもっと慎重に考える必要があるのではないかと思います。

2015年7月3日金曜日

さんまさんが語った「安定を目指すより、不安定をどう生きるか」に思うこと


新入社員の意識調査、その他若者を対象にした各種の調査では、若者の安定志向の傾向が言われていますが、タレントの明石家さんまさんが、安定志向の20代に関して、ラジオ番組で語った生き方についての自論が話題になっているという記事を見ました。

番組で紹介された川柳、“20代・今後の安定・考える”という作品に対して、
「安定になろうと思っただけで、もう不安定」
「安定を目指そうとするのは無意味」
「不安定をどう生きて行こうってこと」
「不安定な方が面白い」
と語っていたということです。

私は安定志向が悪いこととは思いませんし、誰しも「先行きの心配をせずに、平穏に生きたい」と思うことはあるでしょう。
ただ、実際には、どんなに金銭的に裕福な人でも、夢をかなえた人でも、先行きの不安がなくなることは絶対にありません。安定していると思えるような状況は、あったとしてもほんの一時のことでしょうし、人生の中では、先が見通せない不安定な時期の方が、圧倒的に多いと思います。

これは仕事でもいえることで、例えば、安定していると言われる公務員のような仕事であっても、何かしらの先行き不安を持つ人が大半で、安定を満喫しているということは、ほとんどないでしょう。
また、ある分野を極めたカリスマのような人で、誰が見ても安定した地位にいると思える人であっても、本人は“これで自分は安泰だ”などとは思っていないでしょう。

さんまさんの言うように、「圧倒的に多い不安定な時間を、どうやって過ごしていくかの方が重要だ」という考えは、なるほどその通りだと思います。

以前、あるテレビ番組で、日本の起業が増えないことに対する議論をしているのを見ている中で、外部からの感想として、「起業なんていうイチかバチかの行為は、そもそもハードルが高すぎて、しようという気にならない」というものがありました。

これについて、私は起業をした立場の人間ですが、そこから言わせてもらえば、起業には確かにリスクはありますが、そもそもそんなイチかバチかの賭けやバクチのようなことはしません。成功させる見通しを立て、リスクをできるだけ低くする取り組みを、数々考えて実行しながら進めていくものです。
私からすれば、会社に属していて、自分の待遇や仕事内容が、他人に委ねられている状況の方が、逆によほど不安定と思えることがあります。

右肩上がりの経済が転換してから、ずいぶん時間が経ちますが、そのせいもあってか、最近は、先が見通せないことを、必要以上に恐れる人が増えているように思います。
不安定を面白いと思えるかどうかは、人によって違うと思いますが、人生は不安定なものであるということを、そもそもの前提として考えるということは必要だと思います。
「さんまさん、いいこと言うな」と、結構感心しているところです。


2015年7月1日水曜日

「老害」と「長老」の間の違いはどこにある?


いろいろな企業、組織の中で、「老害」という話を聞くことがあります。

辞書で調べると、
「企業や政治の指導者などで、中心人物が高齢化しても実権を握りつづけ、若返りが行われていない状態」
「能力の衰えた高齢者が社会や組織の中で活動の阻害をする際に使われる」

などと書かれています。

「老害」と言われがちな要素としては、考えが古い、頑固、威張る、その他いろいろあると思いますが、“扱いに困る年長者”という定義になるのでしょう。

これに対して、「長老」という言葉があります。

こちらは、
「年老いた人をうやまっていう」
「特に経験が豊かで、その社会で指導的立場にある人」

とあります。

指導者やご意見番として、“一目置かれるような存在”ということだと思います。

同じような指導的立場にいる年長者でも、かたや「老害」と言われて煙たがられ、かたや「長老」と言われて、様々な場面で意見や判断を求められます。

この違いはどこにあるのかを、私なりにいろいろ考えた上での答えは、
○今でも相応の能力を持っているのか
○年下から認められ、愛されているか
という二つだけのことでした。

まず、「相応の能力を持っている」ということですが、これは人としての“総合力”という意味です。年令を重ねるほどに、体力や記憶力は落ち、目や耳といった体の機能も低下していきますが、一方で様々な経験は増えていきます。そのすべてをまとめたものである“総合力”は、どんなに年をとっても向上させることができるものだと思います。

やはり「老害」と言われてしまう人は、昔の知識に安住して新たに学習をしない人、学習をする必要がないと思っている人であり、「長老」と言われる人は、古い知識だけでは通用しないことを理解し、新しい仕組みや知識を学習し続けている人だと思います。

次の「年下に認められ、愛される」ということですが、これは能力的に認められるとともに、 自己中心的な振る舞いをしたり、一方的に決めつけたり、自らの非を認めなかったりということをせず、周囲から人として認められ、愛されているということです。

「老害」の場合は、過去に実績があったとしても、現在では認められていない人、特に年下から、人として嫌われるような態度、言動が見受けられる人であり、「長老」の場合は、今の能力が認められていて、人として愛される行動、態度ができる人だと思います。

こうやって考えると、たいして年を取っていなくても「老害」と共通する行動の人はいますし、周りをうまくサポートしている「長老」的な人もいます。
頑固さやわがままさは、年を取るにつれて加速するとも言いますが、きっとそれは、その人がもともと持っていた本性が現れてきたということなのだろうと思います。

「老害」と「長老」の違いは、初めの些細な小さい差が、後々で大きな差になっているように感じます。
私の年代では、「老害」、もしくは「長老」と言われるのは、もう少し先のことだと思いますが、今から少しでも、「長老」と呼ばれるような習慣づけをしていく必要がありそうです。まずは新しいものに興味を持ち続け、謙虚さだけは失わないようにしたいと思っています。