2015年6月29日月曜日

仕事でさらに重視され始めている「人望」というもの


あなたは、自分に「人望」があると思いますか? 自分の「人望」には自信がありますか?

ここで、はっきりと自分の「人望」に自信があると答えられる人は、それほど多くはないように思います。「人望」は、あくまで相手からどう思われているかということなので、自己評価しづらいということがあるからだと思います。

ただ、最近は仕事の場面で、この「人望」を重視するような動きが各所に出てきています。
ある記事によると、トヨタの管理者層の人事考課制度には、「人望」という評価項目があり、全体の10%程度の評価ウエイトを占めているのだそうです。

ここでいっている「人望」の具体的イメージは、主に「部下から信頼されているか」ということだそうで、「あの人のような仕事をしたい」「あの人のように信頼されたい」と思われているかどうか、ということだそうです。

私は「人望」をもう少し広い意味で捉えていて、「周囲から信頼され、他人を自分の仕事に巻き込んでいく事ができるような人間関係を構築する力」だと思っています。リーダーシップとも、指導力とも、コミュニケーション能力とも言えるかもしれませんし、仕事そのものを遂行する知識や事務処理能力も持っている必要があるでしょう。

これらは、人それぞれに持っているバランスが違うでしょうが、これらの力を総合して、周囲と信頼関係を作り、難しい仕事であってもこの人について行こうと周りに思わせ、仕事を遂行することができるような力が「人望」なのだと思います。

「人望」などと言われると、ついつい持って生まれたセンスや、もともと持っているその人の性格によるものだと思ってしまいがちです。ただ、「人望」が人事考課の評価項目になっているような会社があるということは、それを仕事上のスキルとして、身につけなければならないものとして捉えているということです。また、実際にそういう手法を解説するような書籍が、いくつも出版されています。

「人望」が、“人をひきつけ、巻き込み、動かす力”だとするならば、相応の仕事の質を持っていることは前提として、自分の発する言葉やコミュニケーションの取り方、日々の行動を意識していけば、身につけることができるはずです。

例えば、具体的には、
・相手の話への傾聴
・適切な褒め方と叱り方
・放任でも過剰でもない、相手への適度な関与
・責任回避や責任転嫁、他者攻撃ではない言葉の表現や行動態度
・時間を守る、約束を守る、挨拶といった基本行動やマナー
などといったものです。
他にも挙げて行けば、まだいろいろあるでしょう。

「人望」は、論理を超えた感情の部分でも、相手から好感を持たれていなければ成り立ちません。
どんなに理屈が合っていても、自分のことを徹底的に論破して、聞く耳を持たないような人には、誰もついて行きたいとは思わないでしょうし、時間を守らない人から“時間厳守”と言われても、その相手に対しては、反感しか残らないはずです。

これからは、仕事を進める上での能力として、ますます「人望」が問われるようになっていくと思います。ビジネスパーソンとして、「私には十分な人望がある」と、自信をもって言えるようになる必要があるのだと思います。こればかりは、こうやって偉そうに言っている私自身もまだまだです・・・。


2015年6月26日金曜日

「良い伝承」と「悪い伝承」の、似ているようで大きな違い


ある知り合いの社長さんの会社では、これまでやってきた事業とともに、昨年から本格的に一店舗の飲食店経営を始め、つい先日が開店一周年だったそうです。

そこでおっしゃっていたことですが、特にアニバーサリーイベントもせず、こちらからは誰にも一周年ということを知らせていなかったにもかかわらず、お付き合いがある方々の何人もから、一周年記念のお祝いが送られてきたそうです。
もしかしたら、飲食業界ではよくあることなのかもしれませんが、その社長としては思ってもいなかったことで、その気遣いや、そもそも開店日を覚えていてくれること自体にとてもびっくりし、同時にとてもうれしかったということでした。

「どうして覚えているんだろう?」などと言いながら、私と一緒にいろいろ話している中で、「きっとお花を贈ってくれた人たちは、自分も同じようにしてもらった経験があり、同じようにうれしかった思いがあって、それからは周りにも同じことをしているのではないか」という話になりました。
ある誰かの行動が、良いことであると感銘され、自分もそれにならおうという共感を生み、それが伝わって循環しているという「良い伝承」なのではないかということです。

その一方で、飲食と言えば、「悪い伝承」といってよいような過去の例があります。
例えば、食品偽装というような話では、初めは食材が手に入らないとか、コストを少しだけ下げたいとか、そんなちょっとした気持ちでやり始めたことが、バレなければいいだろうとどんどんエスカレートして、それが当然のことのようになって、「悪い伝承」として伝わっていったということです。

こんなことを考えながら思ったのは、「良い伝承」と「悪い伝承」の起こる背景というのは、それぞれ似ているようで、実は大きく違うということです。
「良い伝承」というのは、それが良いことであるとの意識が薄れていってしまうと定着せず、逆に「悪い伝承」は、初めはあった罪悪感という意識が、徐々に薄れていくことによって定着していくということです。どうも「悪い伝承」の方が、定着へのハードルが低そうです。

食品偽装のようなひどいことではなくても、会社の中では、例えば入社当初は良く挨拶をしていた新入社員が、入社半年もたつと挨拶しなくなっているなどということがあります。先輩たちが挨拶をしなければ、新入社員の意識も薄れて行ってしまいます。これも一種の「悪い伝承」です。

良いことは何もしないと定着しづらく、悪いことは何もしないと定着してしまうということです。
良いことを伝えていく、「良い伝承」のためには、当事者がそれを意識し続けなければならないということを、あらためて思っているところです。


2015年6月24日水曜日

イヤなら行かなければいいだけの「学歴フィルター」の会社


少し前になりますが、ゆうちょ銀行が「学歴フィルター」をしているという話題がありました。
「東京大学」で登録しているとセミナー予約ができるが、他の大学だと満席表示になるとのことです。

意見がいろいろなところに出ていて、「けしからん」「当然だ」「やむを得ない」「気にしない」「どうでもいい」など、その中身は様々です。
能力と学歴にはある程度つながりがあると見られていて、多すぎる応募者の絞り込みには必要だという会社側の都合など、表や裏の事情についても、すでにいろいろなところに書かれているので、ここでは特に言及しません。

私が単純に思うのは、そうやって区別されることがイヤなら、そんな会社に行かないか、その学歴要件を満たすかのどちらかしかありません。学校に入り直すような時間はないはずなので、ほぼ前者の選択しかないでしょう。

「学歴フィルター」というのは、今に始まったことではなく、ずいぶんと昔から行われていることです。就活がネットで行われるようになるずっと前からで、希望者に送る会社資料を学校別に時間差を作って送付したり、電話連絡の優先度を学校によって細かく分けたり、アナログの手作業が多かったせいもあり、ネットを使う今よりも、よほど細かく、緻密に、露骨に区別していたと思います。

今はネットのおかげで、学生が持つ情報量も飛躍的に増え、差別的な扱いや不公平に見られることは、すぐに口コミで広がってしまいます。「学歴フィルター」をおおっぴらにはやりにくくなっているのだと思いますが、少なくとも就活サイトの機能として、学校ごとに対応を区別するものがある訳ですから、そういうことをしたいという要請があるということでしょうし、それを使う企業があっても当然だと思います。

私がいろいろな会社の採用活動をお手伝いするとき、その会社に対して、「採用活動は広報活動の一環でもあることを理解しておいてほしい」というお願いをします。
礼を失したような対応や差別的な対応は、どこかで表沙汰になって口コミなどで広がる可能性があります。ばれなければいいと思ってやっていることほど、どこかでばれてしまい、それは企業イメージそのものも悪化させてしまいます。

ゆうちょ銀行のような大企業にとっては、あまり関係がないかもしれませんが、中小企業でそのような噂が立ってしまうとこれは致命的で、払しょくするには相当の時間がかかります。その影響は採用活動だけでなく、会社イメージそのものにも及びます。

そんなリスクも含んだ上での「学歴フィルター」なら、やりたい会社はやればよいし、そんな姿勢の会社が許せないなら、あえて行かなければいいだけの話です。

「学歴フィルター」などというものは、学歴が強みの人はそれを利用し、そうでない人はそれ以外の強みで勝負すれば、もうそれで良いのではないでしょうか。

2015年6月22日月曜日

天職が常に天職であり続けるとは限らないという話


今の仕事が自分にとって“天職である”と思えるならば、それはとても幸せなことだと思います。
「自分はそもそも天職なんかに出会っていない!」という人も大勢いると思いますが、天職に出会ったという人も、それが常に天職であり続けるわけではないというお話です。

私の知人に、エアロビクスのインストラクターをしている女性がいます。昔から体を動かすことが大好きで、友人の誰からも「天職だね」と言われるそうです。

ただ、ある時本人に話を聞くと、「最近、運動するとストレスがたまる・・・」などと言います。聞けば、どんなに体調が悪くても、どこかが痛くても、気分が乗らなくても、みんなの前で目一杯の笑顔で、誰よりも元気に、仕事としてエアロビクスをしなければならないことが、とてもつらいと思うことがあるそうです。

実は同じ職場の中で、他のインストラクターにも同じようなことがあるらしく、みんな自分たちの仕事とは正反対の、例えばスポーツクラブの案内状を送る事務作業などがあると、それをやりたがって仕事の取り合いになるそうです。その事務作業をやりながら、「私って事務職が天職かも・・・」などと思うのだそうです。

これは、何人かのプロスポーツ選手が話していたことですが、周りからは「好きなことが仕事にできていいね」と言われ、その競技が好きで好きでたまらないのだと思われ、いつも楽しくて仕方がないのだろうと言われるのだそうです。
でも、本人たちにしてみれば、好きな仕事ではあるけれど、競技することは仕事であり、毎日が楽しいなどという感情はないと言うのを聞いたことがあります。

同じくカーレーサーの人も、周りから「レースのスリルが味わえていい」などと言われるそうですが、本人にとっては、レースは日常の仕事であり、レース中は車をいかにコントロールするかばかりを考えていて、怖いと思うことはあっても、楽しいとかスリルとか、そんなものを感じる余裕はないそうです。

こういう職業の人たちは、それぞれ特別な才能があってのことなので、その人にとってはまさに天職と言って良いのだと思いますが、それでも仕事としてたずさわっている中では、常に天職と思ってやっている訳ではありません。

自分に向いていると思って始めた仕事でも、周りの誰から見ても天職と言われる仕事であっても、自分では天職と思えない時があると思います。
私が思うに、たぶん天職というのは、自分自身の主観的な捉え方であって、自分の感情によって常に揺れ動くものなのだと思います。うまくいっていなければ天職とは思えないでしょうし、ある日突然、今まで以上の天職に出会ってしまうかもしれません。

逆に言えば、今取り組んでいる“天職でない仕事”でも、それを天職と思って取り組めば天職になり得るということではないでしょうか。
「今の仕事がつまらない」という人はたくさんいると思いますが、今やっていることの視点をちょっと変えてみてみると、意外と天職らしきものが見えてくるのではないかと思います。
天職に出会っていない人の天職は、実はすぐ近くにあるのかもしれません。


2015年6月19日金曜日

「悪気のない不作為」が業績を悪くする


最近は「働かない○○」など、仕事に真面目に取り組まない者が増えているかのような話があります。
人間ですから、そこまで完璧であるはずはなく、多少のサボりや緩みはもちろんあると思いますが、実際にはそれなりに真面目に働いている人が大多数だと思います。特に日本の企業では、平均的に真面目で信頼できる社員が多いのではないでしょうか。

どんな会社でもほとんどそうですが、大多数の社員は、基本的には真面目に一生懸命働いています。ただ、どんなに立派な会社であっても、その真面目な一生懸命が、本来やるべきことと結びついていない場合があります。業績の伸び悩みや悪化の要因は探っていくと、ほとんどの場合でここに行き当たります。

「本来やるべきこと」「やらないでいること」が当たり前になっていて、やるべきことをやっていないという状態になっていますが、当事者の管理者や社員は、真面目に一生懸命やっているので、その不作為の状態に気づいていません。多少気づいていたとしても、当たり前のことではなく、何か特別のことをやっているつもりでいます。

これはつい先日、数千人規模で相応の組織体制を持った会社でのことですが、社内で起こっている問題をいろいろ聞いていく中で、管理数値の集計の一部が、未だに手作業でやたらと時間がかかったり、情報自体がなかったり、ということがありました。

当然経営判断は遅れるでしょうし、現場の人たちも状況把握に困るはずですが、それを改善しようという動きには、なかなかなっていません。予算の問題や部門間の調整に関する問題はあるにしろ、動き自体が非常に鈍い感じです。

なぜそうなってしまうかを考えて思ったのは、みんなそのことに対する問題意識はある一方で、相応の組織体制を持ち、「自分たちはやるべきことはきちんとやっている」という意識があるせいか、世間一般の会社ではできていて当たり前ということに気づいていないということです。実態として、当たり前のことをやらずにサボっていることと同じになってしまっています。

業績が思わしくないという会社の様子を見ていると、こんな「悪気のない不作為」ということに、あちこちで行き当たります。

著名な経営者の経営論などを見ていても、そのほとんどは「当たり前のことをいかにきちんとやるか」というものだと思います。しかし実際には、「それが当たり前のことと気づいていない」「やっていると言いながら実はやっていない」ということが多いです。

「私たちはやっている」と思っていても、実はそれが「悪気のない不作為」になっていないか、今一度見直すことが必要ではないでしょうか。

2015年6月17日水曜日

中小企業でもなってしまう「大企業病」の理由


「大企業病」という言葉は、誰でも聞いたことがあると思います。

その定義としては、「組織が大きくなることで内部の意思疎通が不十分となり、官僚主義、セクショナリズム、事なかれ主義、縦割り主義など、組織の非活性をもたらす事象が蔓延すること」とされています。社員は不要な仕事を作り出したり、細分化された仕事だけをこなすようになる傾向があると言われます。

ただ、「大企業病」とは言われるものの、これは大企業だけに限ったことではありません。

ある会社で見かけた光景ですが、部門間で共同の取り組みをする必要がある業務が、まったく手つかずで抜け落ちていたことがありました。
事情を聴くと、それぞれの部署の担当者は、お互いに相手の部門が取り組むものと思っており、自分がやるべきこととは全く思っていなかったようです。その業務があること自体は覚えていたようですが、その状況確認や役割分担などのコミュニケーションは、一切取っていませんでした。
コミュニケーション不足とセクショナリズムで、細分化して自分に与えられた定常業務だけをこなしていたということで、まさに「大企業病」の定義そのままです。

また、別のある会社では、顧客からの営業関連の問い合わせを事務担当者が受け、これを営業部門に確認しようとしたところ、事務担当者と数人の営業担当の間で、こんなやり取りがされていました。
「その件は、自分が担当じゃないからわからないなぁ」

「それって誰が担当だっけ?」

「確か○○さん?」

「いや、××さんだよ」

「××さんなら、今は外出中だから回答できないね」

「担当が戻ったら連絡するって伝えてくれる?」
というような具合です。

やはり、コミュニケーション不足、自分が直接関わっていることしか把握していないという一種のセクショナリズム、さらに、関係ないことには関わりたくないという事なかれ主義が感じられます。これも「大企業病」の定義に当てはまっています。

そして、これが起こっていた会社は、全然大きな組織ではなく、それぞれ社員が30~40名ほどの、社員全員が顔見知りのような会社です。個人同士でちょっと話せば、コミュニケーション不足などは起こり得ない規模の会社です。
「大企業病」の原因は、必ずしも組織が大きいからではないということの証明でしょう。

私が現場を見ている中で思う「大企業病」の根本原因は、人任せの無責任がまかり通る雰囲気、風土があるからだと思います。「誰かがやるだろう」と人任せにして、もしもそれが抜け落ちていた時のことは考えていないという社員が、多く存在するようになってしまった組織です。

そうなってしまう理由には、いろいろな事が複合的に考えられます。そもそも社員のモラルが低い、責任感がない、マネジメントが弱い、コミュニケーションや情報共有の仕組みがない、その他にもいろいろあるでしょう。一言で言ってしまえば、悪い意味で「緩んだ組織」ということになるのだと思います。

組織人事の課題というのは、こういうたぐいのことがほとんどですが、原因が複合的であるということは、何か一つを直したからといって、劇的に変わることはないということです。
今の経営にはスピードが大事と言われますし、すぐに解決したいという気持ちはわかりますが、こういうことには、地道で気長な対応が必要だろうと思います。


2015年6月15日月曜日

「相手の立場に立っているつもり」を考えさせられたこと


最近、一方的に自分の主張ばかりをしたり、価値観が違う相手を攻撃したり無視したり、相手の立場や、自分と異なる考え方の人を、尊重しないような風潮が気になっています。

せめて自分はそういうことがないように、「相手の立場を考える」ということを、常々意識するようにしていて、自分では実行しているという自負もありましたが、それは、ただ自分がそういうつもりになっているだけではないかと、考えさせられることがありました。

それは「めでたし、めでたし?」というタイトルの、ある広告コピーを目にしてのことです。
「僕のおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という子供が書いた文字に、涙を流す子鬼のイラスト、合わせて「一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。広げよう。あなたが見ている世界。」というメッセージが記されています。

これは、日本新聞協会広告委員会が開催した「2013年新聞広告クリエーティブコンテスト」の最優秀賞、東京コピーライターズクラブの2014年TCC賞最高新人賞を受賞した、コピーライターの山﨑博司氏の作品です。

山﨑氏がこのコピーを考案したきっかけは、シリア内戦に対するアメリカの軍事介入だったそうで、「世の中は正義と思っていたかもしれないが、限られた情報の中で、物事を一方的に決めつけてしまうことが本当に正しいのか。それを桃太郎の話に重ね合わせて世に問いたかった」とのことで、政治的アピールや反戦運動をしたかったわけではなく、“物事を様々な側面から考えること”、“相手の立場に立って考えること”の大切さを伝えたかったということでした。

「桃太郎は正義で、鬼は悪い奴と決められているが、これは桃太郎からの視点であり、自分の価値観で見えている世界と、他の人の立場で見えている世界は全く異なる」「一つの側面からだけで判断してしまっては、誰かの幸せの裏で誰かが不幸になるかもしれないということに気が付いて欲しかった」ということでした。

私は「相手の立場を考える」などと言いながら、ここまでの視点は、正直言ってありませんでした。桃太郎が正義で、鬼が悪ということには疑いがなく、悪が罰せられるのは当然のことだと思っていました。
でも、それはしょせん自分本位の価値観であり、本当に相手の立場を考えるのであれば、そういう前提で決めつけてはいけないのだと思いました。

結局、今まで意識していたのは、自分の価値観の範囲内で相手の立場を考えていただけであり、それは自分の主張ばかりする人たちと、根本的には何も変わっていなかったということです。
これは、「相手の立場に立っているつもり」というだけで、本当の意味で、「相手の立場に立って考える」ということは、実はものすごく難しいものだということを痛感しました。

考えてみれば「めでたし、めでたし」は、それで終わりの思考停止の言葉なのかもしれません。それではいけないという山﨑氏の言葉が、とても心に染みました。


2015年6月12日金曜日

「やる気が出ない理由」を解決するとやる気が出るのか


組織風土や企業の課題を調べる一環で、社員の方々に対するヒアリングやインタビューをすることがあります。そういう場では、会社に対する不平不満という話は、当然のように出てきます。

その中身は、事業展開や商品、提供サービスといった経営に関するもの、社内制度や仕組み、「給料が安い」「休みが取れない」「仕事がつまらない」といった労働環境にかかわるもの、「あの上司の態度が悪い」「指示をするときの言い方が悪い」などといったコミュニケーションに関するもの、人の好き嫌いや相性といったといった人間関係にまつわるもの、その他多岐に渡ります。

あらゆるものが不満や批判の対象になりますが、そこで「だからやる気が出ない」「だからモチベーションが上がらない」と言う人がいます。
 やる気の火を消してしまうような動きが、組織内に存在することは確かにあります。それが、社内の生産性や業績自体に悪影響を及ぼしていることもあります。
もちろん大きな課題なので、対策はいろいろ考えますが、それをやったからといって、社員のやる気やモチベーションが上がるかといえば、一概にそういうものではありません。

ある会社でお話を聴いた社員の方で、社内の人事評価結果があまり良くない方でしたが、それは「給料が安く、自分が希望する仕事ができていないせいで、やる気が出ないためだ」とおっしゃいます。他にも日常的な細かいことで、自分のやる気を失わせることが、自分の周りにいかに多いかということを、延々とお話されます。

あまりにも他責が過ぎると感じたので、失礼ながら私から一言、「では○○さんは、今の話がすべて解決されたら、見違えるようにやる気にあふれて仕事に取り組むようになるのですか?」と尋ねると、一瞬ハッとした顔になり、そのまま黙ってしまいました。

その方には「今の他責の姿勢では、いつまで経ってもやる気なんか出ないし、周りから評価もされない」「やる気が出ないと言って、力をセーブしているつもりが、いつの間にかそれが実力になってしまう」など、ちょっとお説教じみた話をしましたが、これが、何でも他責にしてしまうことの怖さです。

また、こういう人たちが言う「やる気が出ない」という理由を解決してあげたとしても、それでやる気が出ることは絶対にありません。安い給料をアップしたとしても、上司が気を遣うようになったとしても、結局は次のやる気が出ない理由を探してくるだけです。

これほど極端ではなくても、実は自分のやる気が出ないことを周りのせいにしているケースは、意外に多く見かけます。
やる気が出ないことで損をするのは、結局は自分自身です。
「それが解決すると、本当にやる気が出るのか?」と、自分にも問いかけてみて欲しいと思います。
 

2015年6月10日水曜日

「脳科学から見た様々な差」に関する話から


つい先日の新聞記事で、脳科学者の中野信子さんのインタビュー記事が掲載されていました。
興味深い研究結果が多数語られていて、例えば男女の差についてでは、「脳の左耳上あたりに『上側頭溝』というコミュニケーション能力をつかさどる器官があり、男女で比べると女性が大きく、話をしたり、空気を読んだりという気質は、女性の方が高いと言える」のだそうです。

インタビューしている記者が「自分のまわりの男性には、空気を読みそうな人が多いが?」と尋ねると、「新聞社の男性はマス“コミュニケーション”がなりわいなので、他の職業に比べると、空気を読める人が多く偏って存在するのでは」とのこと。
「科学研究はなるべく偏らないサンプルを多数取って、『男性全体と女性全体で比べると平均的にこう違う』と統計的にデータを評価する」のだそうです。

一連のお話の中で興味深かったこととして、一つは神経伝達物質のセロトニン分泌の男女の違いで、「セロトニンの合成能力は、男性が女性より52%高い」とのことで、「セロトニンが多いと安心感を覚え、減ると不安になりやすいので、将来予測をすると、男性よりも女性の方が暗く厳しくなる傾向がある」のだそうです。

個人をみれば、男性でも慎重な人はいますし、女性でも不安を持たずに挑戦する人がいますが、一般的には男性はイケイケで投資志向、女性は慎重で保守的ということになるようです。

もう一つは、「セロトニンを有効利用しやすい遺伝子の組み合わせを持つ人は、日本人では3%、米国人では32%」という研究結果があるそうです。セロトニンが多いと不安感情が和らぐので、リスクがあっても怖がらず、米国人は日本人の約10倍も挑戦的な人がいると推察されるのだそうです。
日本は、地震のような激甚災害が多いなどということで、慎重な人の方が生き延びる確率が高く、米国人は、リスクを冒して移民した人が多く、セロトニンをうまく使える人の比率が高かったのではないかということでした。

ここから見ると、日本人にはベンチャー企業は難しく、日米間にある起業率の差には、こんな要因もあるかもしれないということです。反対に、日本人は一度生まれた企業を大切に育てて、長く生かしていくことには、向いているかもしれないということでした。

他にも興味深い話がいろいろ出ていましたが、私がこのような脳科学に興味を持つのは、今まで多くの人材や組織を見てきた中で、人に関して感覚的に思っていた傾向と、脳科学的な知見で合致するものが多かったということです。

また、最近の人事、人材開発の世界では、脳科学や心理学のような、科学的知見を取り入れて行こうという方向性があります。個人を細やかに見極めることとともに、研修プログラムやキャリアプラン、組織内の役割、配置といったことに、科学的知見を活かして、より効果を高めて行こうということです。

中野先生も繰り返しおっしゃっていますが、こうした見方はあくまで平均値を統計学的に分析したものであって、個人の努力や個性を否定するものではありません。一般的な傾向や平均的な枠に当てはまらない人はたくさんいるでしょう。
しかし、感覚や都市伝説のような話では、ただのレッテル貼りになりますが、科学的知見があれば、それは一つの根拠になり得ます。

人事、組織という役割で、多くの人と接する上では、脳科学や心理学を理解しておくことは、これからますます必要になってくるのではないかと思います。
感覚を科学と突き合わせることは、自分なりの根拠を得るためにも大事なことだと思います。


2015年6月8日月曜日

「人事制度の形骸化」に対してやるべきことを考える


私がご相談を頂くテーマには、人事制度の関するものも多いですが、その中でも「制度の形骸化」という話は良く出てきます。

形骸化というのは、当初の意義や目的が忘れられて、手続きなどの形だけが継続されているような状態です。会社にはいろいろな制度や仕組みがありますが、人事制度はその中でも形骸化しやすいものの一つです。

その理由はいくつもありますが、最も大きなものは、手間がかかる割には自分に直接どんな影響があるのかを実感しづらいということがあります。社員の処遇を決める重要な仕組みであるにもかかわらず、特に評価を担当する上司の側には、そういう意識の薄いケースが見受けられます。

マネージャークラスの人たちにとって、時間や手間が取られる割に、自分の仕事への直接的な影響は感じられないとなれば、それはただの「めんどくさいこと」になります。
立場上でその「めんどくさいこと」をやらなければならないとなれば、事務的にイヤイヤこなすだけになり、まさに形骸化していきます。

こんな形骸化をさせないための方法はただ一つで、制度を運用することによって、自分へのメリットが感じられるかどうかに尽きます。しかし、それはなかなか簡単には行かないことで、そのためには小さなことも含めて、「めんどくさい」と感じさせない様々な工夫が必要になります。

初めは、記入書式や処理手順といった事務処理プロセスの工夫があり、さらに、評価人数などの作業工数を軽減する工夫や、面談などのコミュニケーションの場を実務に活かしてもらえるようにする工夫などがあります。
特に、制度を導入したばかりの頃に出てくる些細な不満は、それを放置すると、社内に「今の人事制度はめんどくさい」という認識が噂のように広まり、後から立て直すことが難しくなります。できることには迅速に対応することが望ましいです。

そうは言っても、この手の不満が出始めると、それを増幅するような動きというのは、なかなか止められないということがあります。
そんな中で、これはある会社で実際にやったことですが、人事制度や評価の手続きに関して、中には理不尽とも思えるような批判までがされていたところで、あえて「それでは言う通りに全部やめましょう」と、すべての人事制度を一時廃止したことがあります。多くの会社に適用できる方法ではありませんが、この会社での不満の発信のされ方、マネージャーたちの態度などを総合判断した上でのことです。

ここまでやってしまうと、それまで声高に批判していたマネージャーたちは、人事制度を通じて行っていた部下とのオフィシャルなコミュニケーションや、仕事上の評価を含めた様々な話を伝える機会を失います。
制度で決められたものが無くなってしまうと、それを補完する方法は自分で考えなければなりませんが、実際にそれをやろうとすると、時間調整その他で意外と手間がかかることに気づきます。もしも手間を惜しんでサボってしまうようなことがあると、今度は部下たちから突き上げられたりします。

このように、人事制度が本当になくなってしまうと、自分たちにも困ることがあるということを、はっきりと思い知ると、そこで初めて、何が必要でどんな仕組みにすればよいのかという建設的な議論が成り立つようになります。

人事制度を形骸化させないためには、それを運用する社員たちに、それなりのメリットを感じてもらう必要があります。
人事担当者はしっかりと現場の意見を聞き、できるだけの対応をしていくことが原則ですが、それではどうしてもうまく行かない時には、こんな荒療治が必要になるかもしれません。


2015年6月5日金曜日

「人付き合いが苦手」という社長の周りで起こること


ある調査によると、「仕事をしていて、社外の人脈の必要性を感じますか?」という問いに対して、ほぼ8割の人が「必要と感じる」と答え、その傾向は年代が上がるほど高まっていくのだそうです。
私自身の今までの経験でも、人付き合いから生まれたつながりにいつも助けられてきましたので、人脈は大事だと思いますし、年令とともに必要と感じる人が増えてくるという話も、実感として理解できます。

仕事をしていく上では、「人とのつながりや人脈が大事」という人と、「人脈などという属人的な仕事のしかたは合理的でない」という人の両方がいると思いますが、経営者の方々というのは、一般的には人付き合いが好きで、「人と会うのは大事」「人脈が大事」とおっしゃる人が多いです。

中には、やれ人脈作りだ、人付き合いだと言って、宴会やゴルフばかりに精を出し、本業がおろそかになってしまうような人もいます。こうなってしまうと、「経費の使い過ぎ」「公私混同」「それってホントに仕事なの?」「どこに行ってるのかわからない」などと批判的な目で見られて、あまり好ましいことではありません。

一方、その正反対で、私が今まで出会った中ではごく数名しかいませんが、「人付き合いが苦手」という社長がいます。経営者の姿としてあまり想像がつかないかもしれませんが、これはこれで結構な困りものです。

人脈がなければ、当然トップ営業のような引き合いもありません。そもそも人と会う約束自体がほとんどないので、あまり外出もせずに社内をウロウロしていたり、社長がやらなくても良いような事務作業や、管理資料の取りまとめなどをしていたりします。

また、社長という立場であると、儀礼的に誰かに会ってほしいなど、部下からの対外的な面会依頼があったりしますが、「任せた」などと言って会わずに済まそうとしたり、アポイントを先延ばしにしたりします。これでは対外的に顔が立たなかったり、非常識な会社とみられてしまうこともあるでしょう。

さらに、業界情報や生の情報に接する機会が少ないので、持っている情報量も少ないです。ただ、ご本人にはあまりその自覚はなく、メディアからの情報による一般論ばかりを語ります。

「人付き合いが苦手」という中には、“コミュニケーションが苦手”という面もありますが、そのためか、社内でも、社員の総意をくみ取ったり意見を集約したりということは、あまり得意ではないようです。「いくら何でもやりすぎでは?」と感じるような施策が、ごく当たり前のことのように出てくるときがあります。

こうやってみてくると、年令が上がり、組織内の立場が上がるほど、「人付き合い」「人脈」ということの重要度は確実に増してくると思います。社長ともなればなおさらです。どこにいるかわからなくても誰かに会っている社長の方が、誰にも会わずに社内にいる社長より、よほどマシなのではないでしょうか。

社長になる人のみんながみんな、社長に向いている訳ではありませんが、こと「人付き合い」「人脈作り」ということに関しては、少なくとも私は社長としての必須要件ではないかと思います。

2015年6月3日水曜日

目につくことが増えた気がする「“権威”を振りかざす人」


ある飲食店でのお昼時のこと、60代くらいの初老の男性が、「生ビール!」との注文です。アルバイトと思われる店員さんが「大きさはどうされますか?」と尋ねると、この人は「普通の!」と言います。

「グラスですか?ジョッキですか?」「だから普通の!」という変なやり取りがあった後、このお店にはランチビールのメニューがあるらしく、お店の人はそれを出したところ、「普通と言ったら中ジョッキに決まってるだろ!」とのクレームです。
その後も、何かを注文しては、ああでもないこうでもないとクレームをつけています。本人は「教えてやっている」という態度のようで、店長とアルバイトの子がかわるがわる対応しています。

こういう人にはついつい口出ししたくなるタイプの私なので、火に油とならないようにぐっと我慢して聞いていましたが、結局はただ文句を言って絡みたかっただけとしか思えませんでした。店員さんが反論しないことを見越したような態度に、腹立たしさを感じました。

最近は、ツイッターなどで発覚する土下座の強要騒ぎなどをはじめとして、“権威”を濫用しているような光景を目にすることが増えた感じがします。
目につくのは、店員と顧客のような関係の中で、顧客の側が一方的な主張をする場面ですが、これほど露骨でなくても、ビジネスの場面でも同じような“権威”の嫌な使い方を感じることがあります。

ある知人の会社でのことですが、堅い業種の某大手有名企業から、すでに合意したはずの契約条件について、契約直前に一方的な変更依頼をしてきたことがありました。「下請けいじめ」「下請けたたき」と言われても仕方がないレベルです。

もっと日常的なことでは、部下の意志を無視した一方的な指示命令、退職の強要やパワハラのような問題も、“権威”を振りかざすという意味では同じようなことです。

“権威”を振りかざす人から感じることが三つあります。
お互いの上下関係に敏感であるということ、支配欲が強いということ、そして、本当の意味で自分に自信を持っていないということです。

自分よりも下と見れば強い態度を取り、自分よりも上には、媚びたり取り入ろうとしたりします。面従腹背で影口を言ったりはしますが、直接意見を述べようとはしません。

人望が不足していて、自分の考えに理解を得る自信がないので、言うことを聞かせるために“権威”に頼ります。「社長が・・・」「会社が・・・」など、他人の権威を使って説き伏せようとするのは典型でしょう。

“権威”を振りかざすことには、様々な理由があると思います。中にはやむを得ない事情もあるでしょう。それは理解した上でも、仕事をする相手として、そういう人を私は絶対に信用しません。“権威”を振りかざす人は、自分の立場を相対で捉えるので、言動や態度が相手によって変わってしまうからです。

“権威”を振りかざす人は、Win-Winに鈍感な人」とも言えます。自分中心の相対で物事を判断するので、お互いが良くなるための“Win-Win”への道筋が考えられません。

Win-Win”にならない関係でのビジネスは、絶対に成功しないと思います。


2015年6月1日月曜日

「みんなそう思っている」と言われたリーダーの思い込み


ある会社の社内ミーティングに、たまたま同席していた時のことです。

仕事の進捗状況の確認をしている際に、リーダーがあるメンバーのことを、かなり厳しい口調で叱責し始めました。私が見ている限りでは、別に仕事上の進捗遅れがある訳でもなく、ごく一般的な話の流れの中からだったので、何がきっかけだったのかがよくわかりませんでしたが、俗にいう、“キレた”に近い様子の言動です。

そして最後に一言、「みんなそう思っているのを、俺が代わりに言っているんだ!」と言います。
私もコンサルタントとして同席している立場上、その場では、「原因はともかく、この場でその言い方は問題だ」ということをリーダーに伝え、後であらためて話を聞いてみることにしました。

リーダーによると、叱責を受けたそのメンバーは、仕事はそれなりにできるものの、先輩や同僚からすると、ちょっと生意気に見える態度や行動を取ることが、よくあるのだそうです。

リーダー自身は当初それほど気にしていませんでしたが、ある日配下のサブリーダーの一人から、「そのメンバーの態度や行動は問題である」「周りのメンバーはみんな自分と同じように、苦々しく思っている」という話をされ、何とかしてほしいと言われたそうです。

そう言われるので、気にして観察していると、確かにそんな様子に見えなくもありません。サブリーダーは相変わらず「アイツは問題だ!」と繰り返し言ってきますし、そういう話を何度も聞いていると、「みんなそう思っている」と言われたこともあって、自分の中でも徐々に問題意識が強くなっていったそうです。
自分がリーダーだからという責任感もあって、冒頭のミーティングでの「みんなの代わりに言っている」という発言になったようでした。

この話を、他のメンバーたちに、あえてストレートに聞いてみました。
するとみんな、“あれはそういうことだったんですね”と言いながらも、
「確かにそういうところはあるけど、別にそれほど気にはならない」
「仕事はちゃんとしてますしね」
「いいんじゃないですか、生意気なところがあるくらいで」
など、“みんながそう思っていた”とは、ちょっと違う状況です。

さらに、
「サブリーダーの○○さんは怒ってましたけどね」
「リーダーからも尋ねられたので、“そんなところはありますね”とは言いましたが、それほど問題とは思っていませんでした」
という話も聞きました。
 
どうも、あるサブリーダーが個人的に抱いていた不満が、“みんなそう思っている”との言葉で増幅されて、リーダーもそう思い込んでしまい、結果的にはピント外れの強い叱責になってしまったようでした。

単にコミュニケーション不足と言ってしまえばその通りですが、特に人間関係にかかわるような話で、この「みんなそう思っている」というような、いかにも世論を背景にしているかのような言い方には注意が必要です。
今回の件でも、リーダーは一応自分なりの情報収集はしたようですが、“信頼しているナンバー2クラス”のサブリーダーからの話を、わりと鵜呑みにして思い込んでしまったことが問題でした。

人のうわさ話のようなことは、こんな仕事上のオフィシャルな場面でも起こります。リーダーの立場として、こういう思い込みに陥らないようなコミュニケーションを、十分に意識していく必要があると思います。