2018年11月29日木曜日

「センス」で終わらせず「違っていること」を考える


「センスがいい」とは、基本的に誉め言葉で使われます。
いろいろなスポーツでの「競技センス」、音楽や美術などでの「芸術センス」をはじめ、これは一般的な仕事の中で言われる「経営センス」「営業センス」「技術センス」といったものがあります。

「競技センス」のようなものは、そもそもの体の作りや体力が違ったり、「芸術センス」ではその人固有の感性の違いであったり、他人では真似できない要素がたくさんあるので、それはセンスというほかありませんが、仕事で発揮する能力については、必ずしもそうとばかりは言い切れません。

「あの社長は経営センスがある」「あの営業はセンスがない」など、仕事の結果の良しあしを、センスの一言で解決していることは、結構良くありますが、気をつけなければならないのは、センスに理由を求めると、そこで思考停止に陥ってしまうことです。
何か良かったら「センスが良い」と言われるのか、反対に「センスがない」と言われるのは何をした時なのか、センスの言葉だけでは具体的にわかりません。
そもそもセンスが良いと言われる本人でさえも、なぜそう言われるのかをわかっていなかったりしますし、センスが悪いという指摘では、本人はなおさら、何をどうすればよいのかがわかりません。

もちろん、その人でなければできないセンスにかかわる要素はありますが、仕事に関してはそればかりではありません。結果が違うということは、必ずそこに至るまでのプロセスに違いがあります。
この違いに注目し、センスが良いと言われる人の行動パターンを分析、可視化して、それと同じように行動すると、同じような結果につながるといわれます。センスには真似できる部分があるということです。
以前から言われている「コンピテンシー」というのはまさにそのことで、ハイパフォーマーの行動を分析して、それを真似ることで成果につなげる方法です。

しかし、「センスが良い」と言われる人は、概してそれを直観的にやっていて、しかも関連する要素の組み合わせは多岐に渡っていて、数多くのパターンがあるので、他人になかなか説明できません。
成果の良し悪しを「センス」と言って終わらせてしまう理由には、「説明しづらい」ということも影響しているでしょうし、「見て覚えろ」というような育成方法も、言葉で説明しづらい結果として、そうなっていることがあるでしょう。

個人の「センス」としか言いようがない部分は確かにあります。一方、行動を分析することで真似できるセンスもあります。センスと言っていた中身を分析してみると、「当たり前のことをやっていたかどうか」「地道な継続をしていたかどうか」というような、実は基本的なことだったケースは意外に数多くあります。

「センス」の一言で片づけず、「違っていること」を探し出していくことで、改善できることはまだまだあるはずです。


2018年11月26日月曜日

「パワハラ対策」の議論への何となくの違和感


厚生労働省は、職場でのパワハラ対策について、法律で企業に防止措置を義務付ける方針とのことです。
最近、その手の行為の動画をよく目にしますが、本人がそれを犯罪行為に準ずるという意識ならば、たぶんそんな証拠は残さないはずで、こういったイジメ行為には、加害者にその意識がほとんどないことが一番の問題です。
対策強化としての法制化は必要だろうと思います。

ただ、報道されている記事を見ていると、経営者側からは、パワハラは定義があいまいで、業務上の適正な指導や叱責との線引きが難しいという指摘が出ていて、「法制化ではなく、指針によって企業に対策を呼びかけるのが現実的だ」といっているそうです。
上司が必要な指導に尻込みするなど、「人材育成に支障が生じる」という懸念があり、経営に悪影響があるとみているとのことです。
いくつかの記事で共通して、どんな行為がパワハラに当たるかの定義づけがテーマとなり、現場が混乱しないように、パワハラの判断基準や具体例を指針で明示する必要があるとしていました。

こんな話を聞いていて、私はいくつかの違和感を持って、少し考えてしまいました。
まず、パワハラの具体的な例や判断基準、定義などが必要とのことですが、これについては典型的な例は示せるでしょうが、白黒はっきりさせるような基準の明示ははっきり言って無理でしょう。それは行為を受けた側がいじめや嫌がらせと思えば、基本的にハラスメントにはあたるという、個人の主観によって違いがあるものだからです。

何らかの指針や基準は絶対に必要だと思いますが、セクハラやパワハラをはじめとした職場でのハラスメントの場合、行為や言動はまったく同じでも、誰にされたかで感じ方は違いますし、起こる場面やお互いの人間関係によって事例はまちまちですから、事実関係に基づいて個別に判断するしかありません。判例を積み重ねることで判断基準を作っていくようなことが必要です。

部下から上司に対する逆パワハラなど、問題の形は多様ですし、具体的ということには限界があるでしょう。定義や判断基準を明確に示すことが法制化の重要なテーマだと言われると、果たしてそうなのか、それが実現できるのかと考えてしまいます。
初めは多少包括的な基準でも、やむを得ないのではないでしょうか。

もう一つ、気になったのは、経営者側から法制化に後ろ向きな声がある点です。
上司が指示命令や指導がしづらくなって、人材育成や経営上の悪影響があるとのことで、確かに「パワハラと言われてしまうので、部下に強く言えない」という上司の話は聞きますが、私はそれと反対のことも気になっています。
それは、上司のパワハラ的な言動や行動を、部下が言わずに黙っていたり、やり過ごしたりしている例が、かなりたくさんあることです。私が現場を見ている中では、「上司の部下指導の悩み」と同じくらいに、「部下のパワハラ沈黙」があります。パワハラ対策の不足が、上司の育成に悪影響を及ぼしているといえます。

さらに、上司のパワハラ的な行動や言動を、部下もそれが「指導」だと思っていることがあります。スポーツ界で見られるパワハラには、このパターンが多いようですが、当事者同士が合意しているので、例えばひどい体罰などがあっても、「これは指導」「本人が納得しているからいい」となってしまいます。
このように、経営者側が言うような当事者任せの対策では、効果に疑問があります。

私の違和感の理由は、パワハラが根絶されることが最高の理想にもかかわらず、現場感の不足が感じられることであったり、一部の問題を取り上げた自分都合の利害主張であったり、本来目指すべきところから、少し離れた話が出ていることです。
まずは「パワハラ被害者を出さないため」という、原点に立ち返った議論がされることを望みます。


2018年11月22日木曜日

「オッサンの定義」を見ていて気づいたこと


ある記事に「オッサン」の定義なるものが出ていました。
(1)古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
(2)過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
(3)階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
(4)よそ者や異質なものに不寛容で、排他的
ということです。
この定義からすれば、決して年齢によるものではなく、年令が若かったり、女性であったりしても、該当する場合があります。

最近、世間で話題になった不祥事のたぐいは、ほとんどがこの「オッサン」によるもので、組織の中で登り詰めて大きな権力を握っている人ばかりだと言っています。世間の感覚と大きくズレた、常識では考えられないことが、組織内部で平然と行われていたりするとあります。
そう言われると、官僚、企業幹部、スポーツ界、政治家など、確かに悪さをしているのは中高年男性がほとんどです。

この「オッサン」の定義ですが、自分自身に照らして見ていくと、(1)はそのつもりはなくても、周囲からはそう見えている可能性がある点で危うく、(2)は自分も成功体験はあるものの、既得権益というものを持ち合わせていないのでたぶん該当せず、(3)と(4)は独立して仕事をしているため、会社のような階層組織、同質の閉じたコミュニティに属していないので、こちらも当たらないだろうと思います。

ここで気づいたことですが、この「オッサン」の定義は、何らかの組織やコミュニティ、その他メンバーが限定されて集団に属していることが、実は大きな要件になっていることです。組織があってこその「オッサン」なのです。
既得権益は、一定の環境の中での力関係が維持されていなければ成り立ちませんし、一部クレイマーのような個人行動の場合もありますが、基本的には階層構造の組織に身を置いていなければ、目上も目下もありませんので、媚びることも威張ることもできません。

会社をはじめとした、ある種の閉鎖的な組織に属していなければ、「オッサン」化は防げることになりますが、こうやって見ていくと、組織上で起こっている多くの問題は、どうもこの「オッサンの定義」とつながっている感じがします。パワハラやセクハラなどは、まさにそうです。
会社という組織のありかたが、人のオッサン化を促進していて、たくさんのオッサンを生み出しているように感じます。「オッサンの定義」そのもののような会社を目にすることもあります。

「オッサン」にならないための一番の秘訣は、必要以上に群れないことです。多様な価値観を寛容に認めて、フラットな関係で多くの人と交流していけば、「オッサン」の定義からは外れるわけですが、確かにそういう人の方が若々しく見えて、オッサン的ではない気がします。

特定の組織や集団への帰属が行き過ぎるのは、いろいろな意味で良いことではないようです。