2020年10月29日木曜日

「一人だけ」からの影響

ある会社のマネージャーが、最近入社したばかりの若手社員と面談をしたとき、「雰囲気がギスギスしている」と言われたそうです。

理由をよく聞いていくと思い当たることがありました。ある一人の男性社員が周りの人とのコミュニケーションを避けるような態度を、あからさまに取っていたからです。仕事上での雑な対応からミスをして、それを批判した同僚数人に逆ギレして、それから周囲との関係が悪くなっていました。


周りからの接し方は特に以前と変わりなく普通にしていますが、本人の態度だけが良くないせいで、事情をよく知らない新入社員は、職場全体の雰囲気が悪いと感じていました。

マネージャーとして、その社員一人を除いて他のメンバーは全くそんなことはないと思っているのですが、「一人だけ」の影響で職場全体が良くない評価をされてしまっていたのです。

 

別のある会社では、特に女性社員同士の派閥意識が強く、それを嫌った退職者の多いことが問題になっていました。

しかし、ある時を境に状況が急激に改善していきました。派閥の中心人物だった女性一人が退職したことがきっかけでした。

実はほとんどのメンバーは、敵と味方を区別するようなそれまでの状況を好ましく思っていませんでしたが、中心的な女性社員との個人的な対立を避けたい気持ちで、やむなく現状に合わせていました。その人から距離を取りたい人が何となく別のグループになり、それも周囲から見ると派閥に見えていましたが、実際はそうではありませんでした。

これも、たった「一人だけ」の影響が、職場全体に波及してしまっていた結果でした。

 

「組織で起こったことにはみんなに何らかの責任がある」というのは、確かにそういう面もありますが、実はある一人だけ、もしくはある一つだけのことが、全体に波及して問題を生み出していることはたくさんあります。

新入社員につらくあたる「一人だけ」が、社員定着を妨げていたり、「一人だけ」の頻繁なミスが全体の品質を下げていたり、「一人だけ」の作業の遅さが全体の残業時間を増やしていたり、似たような状況はいろいろです。

 

そういう問題を組織全体の問題として対応するのは、「一人に責任を押し付けない」「個人攻撃をしない」といった精神論であれば悪くはありませんが、問題の本質は見誤っています。これは悪い意味での連帯責任となってしまっています。

 

本当は全体に責任があるのにそれを一人に押しつけることは、問題の本質から逃げていますが、同じように「一人だけ」の影響による問題を全体責任のように扱うのは、これも同じように問題の本質から逃げていることになります。

 

問題が「一人だけ」の影響だと指摘するのは、心情的にはしづらいことですが、実際にそういう場面は起こり得ます。「個人責任への押しつけ」は避けなければなりませんし、同じく「本質を間違った連帯責任」も避けるように意識しなければなりません。

「一人だけ」の影響は間違いなく存在します。 

 

2020年10月26日月曜日

「思い込み」の善し悪し

企業の中で、特に採用基準や人材像の話をしているとき、「思い込み」と感じる会話に出会うことがよくあります。「男性は」「女性は」という性別の話、「若い者は」「年配者は」という年齢の話、「○○の卒業生は」という学歴の話をはじめ、さらに細かい話では「出身地」「産まれ順」「趣味」「親の職業」「家族構成」「生い立ちなどの家庭環境」「食べ物の好き嫌い」「やっていたスポーツ」ほか、本当にいろいろなことで「これはいい」「これはだめ」という話を耳にします。

 

聞いている中では確かにそういう場合もありますし、そんな傾向もあるかもしれないと、すべてが否定できるものではありません。

例えば「年配者は新しいものが苦手」と言われて、確かにそういう傾向があるとは思うものの、すべての人に当てはまるわけではありません。新しいものといっても様々な分野があり、苦手といってもそれぞれの人によって程度が違います。さらに年配者が何歳なのかという基準もありません。

 

採用の場面での思い込みは、活躍できる人材を排除している可能性と、反対にミスマッチを助長していることもあります。「○○な人だから大丈夫」など、思い込みで善意な解釈をして失敗する場合ですが、いずれにしても思い込みによる判断はあまり良い結果になりません。

これらの思い込みは先入観と言い換えられるようなものですが、これを避けるためには性格テストなどの結果も見ながら複数の人が会って評価し、客観的な事実をもとに、できるだけ思い込みにとらわれない判断をおこなう必要があります。採用時の「思い込み」には注意が必要です。

 

一方、優秀な経営者やリーダーは、その場面に応じた適切な決断と行動ができる人たちですが、その決断や行動のすべてが、客観的な事実や正論かどうか、ほか善悪のみに基づくようなものではありません。自分が「こうあるべき」と考える価値観であったり、「こうしたい」という願望であったり、信念や過去の経験など、どちらかといえば「思い込み」のような判断基準であることが多々あります。

ここでいう思い込みは、どちらかといえばこだわりに近いのかもしれませんが、そんな思い込みのようなものを持っている人たちの方が、優秀な経営者、リーダーという評価を得ているように思います。思い込みを貫いて結果を出した人たちですが、ここではこだわりや思い込みが、良い方向に作用しています。

思い込みが強すぎる人はやっぱりうまくいっていないので、程度の問題というところはありますが、人を引っ張っていくには「思い込み」のようなものも必要です。

 

このように、「思い込み」と一言でいってもその中身はいろいろで、時と場合によって良いものも悪いものもあります。

思い込みが「先入観による排除」「決めつけ」といったことにつながっているのであれば、それは直さなければなりませんが、「こだわり」「信念」といったものにつながっているのであれば、それが良い方向に作用することもあります。

 

「思い込み」には善し悪しがあり、状況によって使い分けが必要なようです。

 

2020年10月22日木曜日

社員の意思を「尊重する会社」と「縛ろうとする会社」

最近こんな話を聞きました。

あくまで伝え聞きなので、本当かどうかも定かではありませんが、ある会社でコロナの緊急事態宣言解除後に、通常通りに出社しての勤務に戻ったそうですが、プライベートも含めて社外の人と会う際には、すべて上司に報告して承認をもらわなければならなくなったそうです。

会合や会食、人が集まる場所への出入りについては行動把握をしたい、できればやめさせたいという気持ちはわからなくはありませんが、ここにプライベートまで含めてしまうのは、さすがに行き過ぎではないかと思います。

私が同じ目にあったら、即座に辞表?などと考えてしまいそうですが、この会社にとってはこれも必要で当たり前のことという感覚なのかもしれません。

 

最近は「リモハラ」というリモートワークにまつわるハラスメントが言われています。この中には上司が部下の様子を常に確認するためにコミュニケーションツールのつなぎっぱなしを命じたり、離席の禁止や数時間おき頻繁な報告を要求したりという過剰な監視をすることが問題になっています。

 

これも、目の前にいない部下のマネジメントに混乱する上司の気持ちは理解できますが、過剰な監視で生産性が上がることはそれほどなく、逆に部下との信頼関係が崩れて何もいいことはありません。過剰な監視に走るのは、そもそも部下との信頼関係が築けていなかったせいなのかもしれません。

 

このように社員を何らかの形で「縛ろうとする会社」は、その程度はいろいろですが、私の周りでもよく見かけるものです。

そういう会社のほとんどは、あまり活気がある雰囲気とは言えず、イキイキしているのは威張っている上司ばかりです。自分で考えて行動することが良しとはされないので、若手でも優秀な人から辞めていきます。それを見ながら上司たちは、「考えが甘い」とか「これから苦労する」などと捨て台詞のような言葉を発します。会社に残るのは、上司から振り回されることに耐えられる人たち、自分で考えない方が楽だと考えるような人たちです。

 

別のある会社でも、リモートワークの進め方を悩んでいましたが、そこでは「あまりにも本人に仕事の進め方を任せすぎていないか」と、逆にマネジメント不足を危惧する話でした。社員を信頼、尊重して任せる雰囲気が強い会社だそうですが、それが行き過ぎているのではないかという心配です。

リモートワークの試行錯誤の中で、最低限の報告を制度にして義務付けるといったことを始めていますが、もともと自律的に仕事を進める社員が多かったので、特に何か問題があったわけではありません。適切なマネジメントができればもっと生産性が上がるのではないかというような、レベルが上の問題意識です。

私の経験上では、このように社員の意思を「尊重する会社」の方が、業績をはじめとした様々な面で優れていることが多いです。

 

社員を「尊重する会社」と「縛ろうとする会社」は、やっていることは正反対ですが、実は共通していることがあります。それは社員を「尊重する会社」は、別に尊重しているつもりがなく、社員を「縛ろうとする会社」も、同じく縛っているつもりがないことです。

それぞれ自分たちは普通に振る舞っているつもりのことが、客観的にみると大きく違っているのです。

 

これは自分たちのことを客観視できていないということであり、そのことで何か問題が起こった時、自分たちの力では修正できないということでもあります。社員を過剰に締め付けることはもちろん問題が多いですし、反対に社員の意思を尊重しすぎて、わがままやルーズさにつながってしまうこともあります。

 

コロナで働き方が変わってきたことを機に、自社のことをあらためて客観的に見直してみてはいかがでしょうか。

 

 

2020年10月19日月曜日

「イノベーション」と「働きがい」と「多様性」

日本企業の競争力の低下が言われるようになってから、ずいぶん時間が経ちました。

かつては時価総額ランキングの上位を日本企業が占める時代がありましたが、GAFAなどをはじめとした海外のIT企業が台頭して、今はトップ50にトヨタ自動車が唯一ランクインするだけという状況です。

 

日本企業の競争力が落ちてしまったのは、デフレなどの要因が言われますが、それよりも新しい産業やイノベーションを起こせなかったことが大きいという話があります。

確かに企業の現場の様子を見ていると、新しいことに取り組もうという雰囲気は少なく、せっかく新しい取り組みをしていても、企業内の承認のエスカレーション・プロセスの中でつぶされたり、特徴をそぎ落とされて普通になってしまったりして、イノベーションといわれるものは起こっていません。

そういうことへの危機感も薄い感じで、このまま日本がどんどん貧しくなっていってしまうのではないかという怖さを感じます。

 

多くのイノベーションは、既知のことの組み合わせから起こりますが、近しいものや似たもの同士の組み合わせではあまり画期的にものは生まれず、相互の関係が遠いほど、革新的な技術やビジネスにつながるとのことです。

例えばラーメン店同士、もう少し広げて飲食店同士の組み合わせよりは、まったく異業種相手の方が、イノベーションの可能性があるということです。

 

このイノベーションのために重要なのが、「多様性」だと言われます。専門性、価値観、その他属性の違う者同士が組んだ方が、革新的なものにつながります。

しかし最近は、どちらかというと自分と異質なものを遠ざけたり批判したりして、似た者同士や気が合う者同士で物事を進めようとすることが多いように感じます。企業の中でも、気心が知れた者同士のあうんの呼吸だけで仕事をし続ければ、新しいものなど産まれようがありません。

 

社員に企業理念への共感を求めるのはある程度必要なことですが、これも一種の同質性を求めていることになるので、行き過ぎには注意しなければなりません。「多様性」と「理念への共感」を両立させるには、いろんな人の価値観に刺さる多彩な共感ポイントを作ることが必要です。

企業としての基本的な価値観やバリューは共有しつつ、それぞれの社員の多様性を認め、その状況を保ち続けることが重要になってきます。「多様性」が企業の成長には不可欠な時代になっています。

 

もう一つ、この「多様性」は、社員の働きがいにとっても重要だという話があります。社員の定着や生産性を高めるために、働きがいを重視した取り組みを展開する企業が増えていますが、働きがいという個人の主観に対応するには、「多様性」に応えることが必須になります。

「多様性」が認められる環境では、お互いの価値観が尊重され、一方的な強制がなくなり、自律的な行動が可能になります。そこから自己肯定感や納得感が高まり、最終的には生産性や業績の向上にもつながるのです。

 

一見すると関係が無さそうな、「イノベーション」と「働きがい」ですが、このように「多様性」を橋渡しにして相互でつながっています。どうも日本の企業は「多様性」を認めるのが苦手なところがありますが、これからはそうはいきません。

 

2020年10月15日木曜日

「無駄なハンコ」とつながる3つの問題

「脱ハンコ」の話が取り上げられるようになって、特に官公庁で見直しが進むとなれば、かなり多くのことが変わってくるでしょう。

捺印することが他の方法でも代用できたり、そのこと自体が意味をなさずに不要であったりする場合が該当するのでしょうが、考えてみると金融機関や保険の手続きでは、ずいぶん前から署名だけで済むようになっていますし、今でもハンコが必要といわれるのは、様々な行政手続きと企業内での事務手続きが多いようです。

 

最近では、婚姻届と離婚届の捺印を廃止する方向という話を聞きました。これらのハンコには儀礼的な要素や気持ちのけじめといったものも含んでいるので、私は必ずしも廃止でなくても良いと思っていますが、それ以外にたくさんの無用な捺印行為があるのは確かなので、できるだけ無くす方向というのは当然の流れだと思います。

今は行政機関の外部と内部の書類手続きが数多くやり玉に挙がっていますが、実は民間企業の内部手続きでも、相変わらずハンコがやめられないところはまだまだ多いです。

 

「無駄なハンコ」の話は、それが本人の意思表示として必要なものだとされてきたのが、実はいらないのではないかということから出てきたわけですが、「事務手続きの簡素化」という中でのそういった無駄というのは、大小さまざまなことを多くの場所で見かけます。これは普通の会社で私が見かけた範囲だけでも、かなり多くのものがあります。

 

同じような提出書類の重複や、必要と思えない記載事項があり、それぞれの担当者に理由を尋ねると、「今までそうしてきたから」という答えをもらうことがたくさんあります。

そうなった理由を追いかけていくと、ある時期の担当者が自分たちの都合だけで手続きを決めた結果だったり、みんな無くても問題ないと思っていたものの、やめて問題が起こると嫌だから続けているだけだったり、ただ今までのしきたりというだけだったり、そんな無駄なことにたくさん出会います。

 

こういうことが起こっている組織では、大きく3つの問題を見かけます。

・変えることで損失を起こしたくないという「現状維持バイアス」

・自分が変えたという責任を負いたくない「責任回避」

・今おこなわれていることに疑問を持たない「思考停止」

の3つです。

 

これは、人間の本能的な心理という部分もありますが、そういった本人たちの意識の問題だけでなく、組織風土をはじめとした環境が影響していることが多々あり、それらにも大きく3つの要素が見られます。

・提案ができない、承認までの手続きが複雑など、「変えることへのハードルが高い風土」

・加点よりも減点が多い「失敗を責める風土」

・上司に力が強い「上意下達の風土」

で、この中では、誰か力がある人のリーダーシップがない限り、見直しや改革は難しいものとなります。

 

この「3つの問題」と「3つの風土」を持つ会社は、変革、改革、見直しができない点で共通しています。典型的な官僚組織は、まさにこの状況に合致しているのではないでしょうか。

改革、改善が進まないのは、それができづらい理由と環境があります。そういう悩みがある会社は、この「3つの問題」と、その原因につながる「3つの風土」にあたる状況がないかどうかを、今一度見直してみてください。

 

2020年10月12日月曜日

どんどん難しくなる「ハラスメント」の境界線

 「ハラスメント」にはいろいろな種類がありますが、最近聞いたものに「ロジハラ」というものがあります。

ロジハラとは、「ロジック・ハラスメント」の略で、正論ばかりを突きつけて、相手を追い詰めたり自分が優位に立ったりしようとするハラスメントを指すそうです。

論理的に説明しようとして、そのことまでハラスメントと言われてしまうと、私もさすがに絶対にしないという自信がありません。「正論だけで責めるな」「思いやりや共感が大事」というのはよくわかりますが、これをすべての人に対して実践するのは相当に難しいことです。

 

例えば、セクハラであれば、これをしてしまう人の言い訳は、親近感を示すためとか場を和ませるためとか、もっともな感じのことを言いますが、仕事の上で性的な話は一切なくても困りません。

言い訳しているような目的のことは他の手段でやればいいことで、セクハラに少しでも触れそうなことは、すべて職場から排除することができます。そのことに対するデメリットはありません。

 

これがパワハラになると少し違っていて、誰が見ても明らかな威圧や嫌がらせ行為はある一方、仕事上の指示命令や人材育成の一環としてやっているつもりだったことが、相手の感じ方によって誤解されるということがあります。

職場には上司・部下をはじめとした上下関係が存在しますが、すべてのパワハラを排除するには、この上下関係を職場から排除しなければならなくなり、現実的には難しいことです。これを防ぐには、誤解されないように相手との信頼関係を作り、自身の言動に気をつけるということになりますが、ハラスメントは相手の主観なので、なかなか全廃とはいきません。

他にもいろいろなハラスメントがありますが、そのほとんどが何らかの上下関係や人間関係上の強弱がある中でおこなわれる「強制」や「嫌がらせ」です。ほぼすべてが「上」の人(最近は部下からのパワハラもありますが)の言動や態度による問題で、その人たちの良識や自制、改心が解決手段になります。

 

ただ、このロジハラとなると、上下関係によらないすべての人間関係が対象になってきます。言われた相手が嫌だと感じれば、それは「ハラスメント」だということになりますが、そこには必ずしも威圧や強制のようなものがあるわけではなく、それを言われた人の「納得できない」「気分を害した」「意見が違う」などの負の感情があるだけです。「正論だけど思いやりがない」とか、「正論でもあなたに言われたくない」といった感情によるものなので、その感じ方のさじ加減は当の本人にしかわかりません。

 

正論を感情でとらえて、それが気にならなければ「ハラスメント」となってしまうと、それを防ぐには常に相手の顔色をうかがって、気分を害する言動をしないようにするしかなくなります。

特に「誤りを指摘する」「ダメ出しをする」というような、相手にとってマイナスの感情を持たれがちな話をする時は、できるだけ論理的に話して納得を得るようにすべきだと言われますが、そのちょっとした言い方によって「思いやりがない」などと言われて、ロジハラなどとされてしまうようでは、もう他人に対して苦言を呈することはできなくなってしまいます。

 

企業の現場を見ていると、確かにひどいハラスメントは存在していて、それは絶対にやめさせなければなりませんが、どうも最近はハラスメントといわれることが増えすぎているようにも感じます。

自分の気にいらない話でも聞いてみて、内容次第では反省して自分の行動を変えていかなければ、人としての成長はありません。もし可能であれば、相手から自分には受け入れられない言い方や態度があったら、これをその場で確認し合って直していけば、ハラスメントという状況にはならずにすみます。

最近のハラスメントの言い過ぎが、どんどんコミュニケーションを委縮させてしまわないか気になります。

 

 

2020年10月8日木曜日

「教えること」への遠慮

人材育成はどの会社でも課題の上位に挙げられるものです。

育てるためには「教えること」が必要ですし、他人に頼らずに「自分で学んでもらうこと」も必要ですが、このバランスが一番難しいところです。

 

「自分で学ぶ」の極端な例は、「見て覚えろ」「盗め」といった、古い職人の世界であったようなやり方です。よほどのことがなければ直接教えてもらえることはなく、練習する時間が与えられるわけでもなく、休日返上や睡眠を削ることで学ぶ時間を捻出します。

今の時代となっては非効率で、あまり良いやり方とは言えませんが、あえてこういうやり方の利点を考えると、自力で身につけたという成功体験とか、思い通りにならないことに対する打たれ強さが養われることとか、自己解決を工夫する力とか、そんなことが考えられますが、やはりあまりにも非効率で、身につくまでの時間がかかりすぎます。

昔はよくありましたが、球拾いをやり続けても野球はうまくなりません。

 

反対に「教えること」ですが、最近は職人のような世界でも、きちんと教えて少しでも早く一人前にしようとする取り組みが普通になりました。ここでは教えすぎのデメリットを言う人が今でもいますが、例えば手取り足取り教えた方が身につくのが確実に早い人がいたとすれば、教える側にとっては不本意な感じがしても、そうすることが一番効率的な指導方法になります。

 

特に最近は、教えを乞うと怒られそうな職人気質に見える人でも、昔のように心の底から「見て覚えろ」とは思っておらず、「教えること」の重要性は、実は多くの人がすでに理解しています。自分の持っているノウハウをできるだけ部下や後輩に伝えて、それを相手に役立ててほしいと思っていて、どう教えればよいのかと常に考えていたりします。

 

ここで問題なのは、自分自身はあまり教えてもらった経験がないために、何をどんなやり方で相手に教えればよいのかが、今一つ理解しきれないことです。ついつい教えられることがうっとおしいのではないか、自分なりに考えながらやりたいのではないかと思ってしまうのです。

こういう時に起こりがちなのが「教えること」への遠慮です。自分で道を切り開いてきた人ほど「教えること」には遠慮がちなところがあります。その状況を傍から見ていると、積極的に教えようとしない姿は昔ながらの「見て覚えろ」の世界と変わらないため、「教えること」を軽視しているかのように言われてしまいます。

ただ、その中身は実は昔とは全然違っています。「面倒を見てあげたい」「教えてあげたい」とは思っているのに、教えることへの相手の反応や、どこまで教えればよいのかという距離感を気にして、結果的に遠慮につながってしまっています。世代の違いや職業観、技術の違いも「教えること」への遠慮を助長します。

 

人材育成を、本人まかせで終わらせていたり、本人に丸投げしていたりする問題は、多くの会社で話を聞きますが、それは単純に教えることが嫌だとか面倒だとかということではなく、教える気持ちはあるのにその方法に悩んで、結果的に「教えること」に遠慮している状況が多数含まれています。

 

今は、人材育成の大切さを理解して、自分の経験やノウハウを部下や後輩に伝えていこうと思っている人が大勢います。「教えること」への遠慮を取り除いてあげれば、もっとスムーズに育成が進められるようになるかもしれません。

 

 

2020年10月5日月曜日

「プロ意識」と「転職」の関係

退職者に関する問題意識を持っている会社は相変わらず多く、相談される機会が多いテーマです。

ここ最近は「働き方改革」の流れもあり、職場環境の整備に力を入れる会社が増えました。もちろん会社によって対応できるレベルに限度はありますが、処遇、労働条件、職場環境をできうる限りまで高めようと、工夫や努力を重ねる会社がたくさんあります。

 

ただ、その効果が上がっているかというと、こちらも会社によっていろいろな状況がありますが、自分たちが満足するレベルになったという話は、残念ながらあまり耳にしません。

 

効果が上がらない理由の一つに、「働きがいの不足」が挙げられています。「働きがい」の定義として“働きやすさ+やりがい=働きがい”というものありますが、今は客観的に見えやすい“働きやすさ”に対応が偏っているように見えます。

この話は、現場の取り組みを見ている中では、それなりに根拠があると感じますが、では“やりがい”を高める方法はというと、これは簡単なことではありません。“やりがい”はほぼ個人の主観に基づくものなので、対応するにはとても多様な取り組みが必要になるからです。

「いろいろな仕事が経験できること」にやりがいを感じる人も、反対に「一つの仕事を長くじっくりできること」にやりがいを感じる人もいて、その矛盾した両方にこたえるには、それぞれ個別の主観に応じた対処をしなければなりません。これまでは普通のことだった会社主導の配置異動やキャリアパス設定では、もう対応していくことはできないでしょうこれまでの考え方を根本から考え直さなければならない時代になっています。

さらに、この“働きがい”が提供できたとしても、特に「プロ意識」が高い人の転職は、たぶん止められないだろうと思っています。

 

プロフェッショナルの転職で、私が思い浮かべるのはサッカー選手の移籍です。活躍したらさらに上のステージのチームを目指しますし、出場機会が得られないなど不本意な環境は、移籍でチームを変えることによって打破しようとします。

逆に選手が残りたくても残れないときはありますが、生え抜きで一つのチームしか知らないで引退するような選手は、特にサッカーではほとんど見かけません。

移籍金のシステムで、選手を送り出せばチームは報酬が得られるということはありますが、最高の環境のチームでも、選手は次を求めて移籍していきます。その理由は、やはり選手がプロで、自分にとってより良い環境を常に求めているからです。

 

これと同じような感覚での「転職」の話を、最近よく聞くようになりました。主に20代後半から30代あたりまでの若手社員です。

「働きやすくてやりがいがあって愛着もある良い会社だけれども、この会社でできることは経験したと思うので、卒業して次の会社で頑張る」などと言います。自分なりのキャリアパスを描いていて、そこで不足している経験やさらに上のレベルの仕事経験が、その会社ではできないとわかれば転職という選択をします。プロ意識が高い人ほどそういう傾向があります。

 

ここからすると、どんなに“働きやすい”環境を作っても、さらに“やりがい”を導いて“働きがい”を作り出しても、やはり辞める人は辞めてしまいます。プロ意識が高い“仕事ができる人”ほどその傾向が強いかもしれません。自社の努力で退職を食いとめることの限界です。

 

ただ、だからといって“働きやすさ”や“やりがい”を高めることが不要というわけではありません。今のところは、どちらかといえばそこまで高いプロ意識を持たない人の方が大半でしょう。今は多くの働き手のために、“働きやすさ”と“やりがい”が必要です。

なかなか思うようにいかない退職者対策ですが、「会社に頼らない」という意識が高まっていくと思われるこれからは、ある程度は仕方がないこととして割り切る必要があるのではないでしょうか。

 

2020年10月1日木曜日

「対面すること」の価値が上がる

コロナのせいで、人と会うことが難しくなっています。アフターコロナの働き方は、「会わずに済ませる」「移動しない」ということが、ごく普通になっていくだろうと言われています。コロナが収束したとしても、もう以前のようには戻らずに、出かけない、会わないが当たり前で、リモートの方が主流になっていくという話です。人が集まることや出会うこと、場を提供することをビジネスにしていた人たちは、これからの先行きに大きな不安を抱えています。

 

実際に様々なリモートツールを使って仕事をしてみると、結構不自由はなく、かえって生産性が上がるように感じるときもあり、意外にどうにかなるものだと思う反面、実際に人と会う機会があると、「やっぱり直接会って話せるほうが良いなぁ」と思います。会う機会が少なくなったせいもあって、そう思うことがよけいに多くなりました。でもこれからは、「いちいち人と会う手間は省こう」と考える人は、きっと増えていくのでしょう。

 

そんなことを考えていた中で、ある知人のコンサルタントに言われたのが「これからは“対面すること”の価値が上がっていく」という話でした。「対面のプレミア化」ということです。価値が上がるということは、それに関するビジネスの可能性もあるということです。

 

例えば、いまは経営が厳しくなっている飲食店が多く、みんなテイクアウトなどの工夫で頑張っていますが、料理というのは基本的に出来立てを食べた方がおいしいに決まっています。ここで、テイクアウトで構わない人とお店で食べたい人に分かれていくでしょうが、これはその場に行くことの方が、提供される価値は高まることになります。どこかの港に行かないと食べられない魚があるのと同じような話ですが、お店に行くことの価値が高ければ、対価もそれに見合ったものにしてよいはずです。

 

また、これからの営業活動は、直接「対面する」ということがたぶん段階を踏まないと難しくなります。アポしてとりあえずリモートならコンタクトできて、それを突破してようやく対面できるかどうかです。リモートだけで売れるものもあるでしょうが、高額なものほど直接対面して話した上で契約するという形は続くのではないでしょうか。これも「対面すること」の価値が上がっている一例でしょう。

 

ライブや音楽イベントで、これを機に「もうリモートでいい」と言っているファンには出会ったことがありません。その場で体感することの素晴らしさを知ってしまった人たちならば当然ですが、イベントが途絶えてしまったことで、逆にイベントの価値は上がっていると思います。もし再開されたら、どんなに高額なチケットでも、待ちわびた人たちが殺到するのではないでしょうか。

 

コロナが過ぎても「対面する機会は減ってしまうだろう」「だから自分たちのビジネスは難しくなるだろう」と、憂鬱な気持ちでいる人は多いかもしれませんが、対面することの良さや楽しさを知っている人たちは、そんな簡単に人と会ったり集まったりすることを切り捨てはしません。ただし、「対面で会うことに価値はあるのか」「その場に行くことに価値はあるのか」という判断は確実にするようになります。これも対面することがプレミア化しているからだと言えるでしょう。

そうなると、「あの人に会いたい」と思われる魅力や信頼関係、「あそこに行きたい」と思わせる楽しさや付加価値が大事になります。

 

私は、これからもずっと人と会う機会が少ないままで、人間関係が希薄になるようなことはないと思っています。逆に「対面」の大事さをあらためて感じて、その価値が上がっています。ただしそこでは、「大事な時間を使って対面する相手は誰か」という選別がされるようになります。

対面の価値が高まることで、これからは意義がある楽しい時間が増えていくのではないかと、今はちょっと前向きに考え始めています。