2020年10月8日木曜日

「教えること」への遠慮

人材育成はどの会社でも課題の上位に挙げられるものです。

育てるためには「教えること」が必要ですし、他人に頼らずに「自分で学んでもらうこと」も必要ですが、このバランスが一番難しいところです。

 

「自分で学ぶ」の極端な例は、「見て覚えろ」「盗め」といった、古い職人の世界であったようなやり方です。よほどのことがなければ直接教えてもらえることはなく、練習する時間が与えられるわけでもなく、休日返上や睡眠を削ることで学ぶ時間を捻出します。

今の時代となっては非効率で、あまり良いやり方とは言えませんが、あえてこういうやり方の利点を考えると、自力で身につけたという成功体験とか、思い通りにならないことに対する打たれ強さが養われることとか、自己解決を工夫する力とか、そんなことが考えられますが、やはりあまりにも非効率で、身につくまでの時間がかかりすぎます。

昔はよくありましたが、球拾いをやり続けても野球はうまくなりません。

 

反対に「教えること」ですが、最近は職人のような世界でも、きちんと教えて少しでも早く一人前にしようとする取り組みが普通になりました。ここでは教えすぎのデメリットを言う人が今でもいますが、例えば手取り足取り教えた方が身につくのが確実に早い人がいたとすれば、教える側にとっては不本意な感じがしても、そうすることが一番効率的な指導方法になります。

 

特に最近は、教えを乞うと怒られそうな職人気質に見える人でも、昔のように心の底から「見て覚えろ」とは思っておらず、「教えること」の重要性は、実は多くの人がすでに理解しています。自分の持っているノウハウをできるだけ部下や後輩に伝えて、それを相手に役立ててほしいと思っていて、どう教えればよいのかと常に考えていたりします。

 

ここで問題なのは、自分自身はあまり教えてもらった経験がないために、何をどんなやり方で相手に教えればよいのかが、今一つ理解しきれないことです。ついつい教えられることがうっとおしいのではないか、自分なりに考えながらやりたいのではないかと思ってしまうのです。

こういう時に起こりがちなのが「教えること」への遠慮です。自分で道を切り開いてきた人ほど「教えること」には遠慮がちなところがあります。その状況を傍から見ていると、積極的に教えようとしない姿は昔ながらの「見て覚えろ」の世界と変わらないため、「教えること」を軽視しているかのように言われてしまいます。

ただ、その中身は実は昔とは全然違っています。「面倒を見てあげたい」「教えてあげたい」とは思っているのに、教えることへの相手の反応や、どこまで教えればよいのかという距離感を気にして、結果的に遠慮につながってしまっています。世代の違いや職業観、技術の違いも「教えること」への遠慮を助長します。

 

人材育成を、本人まかせで終わらせていたり、本人に丸投げしていたりする問題は、多くの会社で話を聞きますが、それは単純に教えることが嫌だとか面倒だとかということではなく、教える気持ちはあるのにその方法に悩んで、結果的に「教えること」に遠慮している状況が多数含まれています。

 

今は、人材育成の大切さを理解して、自分の経験やノウハウを部下や後輩に伝えていこうと思っている人が大勢います。「教えること」への遠慮を取り除いてあげれば、もっとスムーズに育成が進められるようになるかもしれません。

 

 

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