2014年8月29日金曜日

「自己キャリアの人任せ」の危惧


主に大手企業のシニア層からミドル層の人材に対して、ただのぶらさがり人材にならずに、外部でも通用する人材になるべく、研修を通じてマインドセットをし直すという取り組みをしている団体のお話を聞きました。
大きい会社にいる人ほど、自社に順応しすぎて視野が極端に狭くなっていることがあり、いざ自分の先行きが見えてきた時、どう対応すればよいかを見失ってしまうということがあるのだそうです。

実際に行っているカリキュラムはすばらしく、参加された方々の感想を聞いてみても、多くの気づきがあって意識も180度変わったということで、取り組みに見合うだけの効果はあるのだと思います。
特に自社では当たり前のことが、実は世間一般とはかけ離れているような、自分たちが視野狭窄してしまっていることに関する気づきが多い様子でした。
よく言われる人材流動化に向けた施策の一環としても、とても重要で意義がある取り組みだと私は思います。

ただ、一つだけものすごく気になることがありました。
それは社会人経験が豊富なはずのミドル、シニア層で、なおかつ大手企業で活躍できるような優秀な人材が、そこまで手間ひまをかけ、手を変え品を変えで周りから刺激を与えなければ、自分の視野の狭さに気づく事ができないほど、自社の内向きな考え方に染まってしまっているのかということです。

つぶれることを心配する必要がなく、よほどの不祥事でもない限りクビになることはなく、手厚い処遇や福利厚生があり、常に自分の居場所が確保されている環境に20年、30年と身を置けば、必然的にそうなってしまうのかもしれません。
良い捉え方をすれば、これは心からの愛社精神と、高い帰属意識があると言えるのかもしれませんが、私はあまりにも会社に依存しすぎている気がして、正直ちょっと怖いと思ってしまいました。言葉は良くありませんが、「自分のキャリアを人任せにしている」と感じてしまいました。

会社というのは、資本主義の原則に則って動くものであり、自分の居場所などは保障されないのが本来の姿です。ただ、それではあまりにも不安定な労働環境になってしまいますから、解雇規制をはじめとした様々な制約がある訳です。
しかし、こういう状況を見てしまうと、実は過度に甘やかしてしまっている側面もあるのではないかと思ってしまいました。

私は会社と社員が対等な立場にあってこそ、それが良い成果につながると思っています。何の制約もないと、雇う側の力が強いのは当たり前なので、労働者保護の観点は絶対に必要だと思います。
しかし、だからといってそれに甘えていれば良い訳ではなく、働く側も自立して、変化に対処できるように自己研鑽しておく必要があります。

せっかくの良い環境が、「自己キャリアの人任せ」につながってしまっているのであれば、それは働く人自身にとって良いことではありません。
だからこそ、今回お話をうかがった、マインドセットをし直すような取り組みが必要なのかもしれません。


2014年8月27日水曜日

理解できるが共感できない「うちには来てくれない」と嘆く採用担当


私が採用活動をお手伝いするような企業は、名の知れた有名企業であることはまずありません。優秀な人は欲しいが、なかなか思ったようにはいかない中堅企業から中小零細企業がほとんどです。

また、人の採用に関しては、そのレベルに違いがあるとしても、結果に100%満足と言う話は、企業の規模や有名無名を問わず、ほとんど聞くことがありません。
人の採用には数と質の両面があり、特に質というのは、仕事をさせて初めてわかることが多々あるので、やむを得ないところではないかと思います。

このように、なかなか満足には至ることがない採用活動の中で、特に若手から中堅あたりの年齢層を採用対象にした際に、ときどき耳にするのは「この人はきっとうちには来てくれないなぁ・・・」という採用担当者の嘆きのような言葉です。中には「どうせ大手に行くに決まってる」とか「うちの会社に優秀な人なんて来るわけがない」などというあきらめのような話を聞くこともあります。

苦労して応募者を集め、ようやく内定までこぎつけても、それを辞退されるようなことを繰り返していると、こういう気持ちになるのは良く理解できます。ただし、私はこの言い方にあまり共感はしていません。ある会社では、社長自ら「うちにはこんな人は来てくれないよなぁ・・・」などと言っていましたが、これははっきり言って固定概念による言い訳だと思っています。

確かに一般論として、一流校の出身者などは大手企業を希望することが多いですし、学生の大手志向というようなことも言われます。
ただ、大手企業に入ったからといって、本当にその人の社会人的な能力が高まるかというと、必ずしもそうではありません。私もかつて企業人事として、大手企業出身の人材を受け入れた経験が何度もありますが、なかなかフィットしなかった経験の方が多いです。

これは受け入れる側にも問題がありますし、大手企業人材の全員がそうではありませんが、大手企業の人の方が「会社のおかげ」で仕事をしている部分が多くあることは確かだと思います。

「整えられた仕組みに乗って仕事をする」
「会社の看板で顧客や関係先にアプローチする」
「細かいことは自分以外の誰かがやってくれる」
「周囲から多くのサポートが受けられる」 など、自分の力か周りのおかげかを勘違いしやすい環境があります。

そしてそんな人材が中小企業に舞台を移した途端、それまでできていたはずの仕事が遂行できなくなってしまいます。「あんな人はうちには来てくれないなぁ」などと言われていた、優秀な人材であるはずなのに・・・です。

人材の質には、基礎能力などの先天的な要素があり、これが高いに越したことはありませんが、それ以上に後天的な要素がかなりあると思います。その後天的な要素には、自分で直接かかわって、手を動かした経験が重要になります。俗にいう現場経験であり、自分でストリートファイトができる力があるかというようなことです。

自分の力を勘違いしなかった大手企業人材は、様々な環境の中で、中小企業では経験できないスケールの仕事を自分自身の手で動かしていますが、そうでない人はどんなに基礎能力が優秀であっても、少しの環境変化で職務遂行ができなくなってしまいます。こういう部分まで含めての人材の質ということです。

こう考えてみると、「優秀な人はうちには来てくれない」などと嘆くのは、実は言うだけ無駄で、意味がないことではないかと思います。


2014年8月25日月曜日

「一体感」と「多様性」はどちらを大事にすればよいのか


組織作りやチームビルディングの中で、そのグループの「一体感」を醸成することの大切さは、いろいろなところで言われていることです。「経営理念」「行動規範」「目標の明確化」「方向性を示すこと」などは、この一体感を作り出すための道具や手段にあたるのだと思います。

私は人事が専門の立場なので、これらに注目した取り組みが必然的に多くなり、「一体感」を得るために、様々な施策や取り組みを実施します。また、このあたりを重要視する傾向も強くなります。

その一方で、最近はダイバーシティという言葉でも表現される、「多様性」ということの重要性も言われています。私が今まで見てきた組織の中でも、成長が速いところは構成している人材が非常に「多様性」に富んでいることが多いように思います。

年令や性別、国籍や出身地、学歴などの一般的に言われる属性だけでなく、その人の生い立ちやこれまでの経歴、個々の持つ価値観や職業観、性格的な特性など、俗にいうエリートのような人から、苦労人と言われるような人まで、本当に様々な人が在籍しています。またこういう組織では、いろいろな人を自分たちの仲間に迎え入れることができる度量の広さも感じます。

組織作りの中で、「一体感」を作り出すような取り組みを行っていくと、自分たちが気に入った人、気が合う人ばかりを選別しようとする動きが目立ちだすことがあります。主に採用や人材登用の場面で起こってきますが、それが行き過ぎると、誰かをはずす、辞めさせるといった「排除の論理」につながっていってしまいます。これでは「多様性」はどんどん失われていってしまいます。

「一体感」を高めようとすると、それにつれて「多様性」が失われ、「多様性」を求めると、その中では「一体感」が維持しづらくなります。
「一体感」と「多様性」、は、どちらも大切であるとは言われるものの、これを両立することはなかなか難しいことです。

ただ、これが難しいとは言っても、できる限り両立を図る努力は必要になります。
このどちらに重心を置くか、どんな進め方をするかは、その組織規模と現在のステージがどこかによって違ってくると思っています。

例えばスタートアップに近い組織、50名程度以下の小企業であれば、どちらかと言えば「一体感」が大事ではないかと思います。この時期には、構成メンバーの多くが、同じ気持ちで同じ方向を目指すということが、より必要だと思います。

逆に企業規模がそれ以上になってくると、今度は徐々に「多様性」の重要度が増してきます。多様な人材がいることで、対応できる事業内容の幅、顧客の幅などに広がりを持つことができ、これが会社の成長につながります。またこれを実現するために、会社には様々な人を受け入れるだけの器に広さ、度量の広さが求められるようになります。

ただ、会社が大きくなったからといって、「一体感」をおろそかにして良い訳でははありません。例えば30~50名規模は、大企業であれば課から部単位にあたるような人数ではないかと思います。
この単位では「一体感」を高めるような取り組みを行い、一方で課や部の相互の間では異なる性格を持った集団にしていけば、組織全体での「多様性」を維持していくことができます。こんな形で両立を考えていくことになるのでしょう。

「一体感」と「多様性」はどちらが大事かと聞かれれば、どちらも大事だという答えになってしまいます。
ただ、このどちらに重心を置くか、どんな進め方をするかは、その組織の中で工夫していく必要があると思います。


2014年8月22日金曜日

「内集団バイアス」が強まっているように感じる怖さ


社会心理学では、自分が帰属している集団には好意的な態度をとり、外の集団には差別的な態度をとる心理現象のことを「内集団バイアス」(または「内集団びいき」)と言うそうです。

「内集団」とは、その人が所属していて、自分がメンバーであると認知している集団のことで、学生なら学校やクラス、サラリーマンなら会社やその部署などになります。これに対して、自分が帰属していない集団や結びつきが弱い集団、対立している集団は「外集団」と言います。
人間には自分が所属する集団を評価したいという欲望があり、そのため「内集団」の評価はより高く、「外集団」をより低く評価したいというバイアスがあるのだそうです。

例えば、以下のようなことは、内集団バイアスが関わっている思想なのだそうです。
・喫煙者は非喫煙者に比べて、自己管理能力が低い。
・女性は男性に比べて、論理的に考えるのが苦手。
・女性は管理職に向かない。
・○○民族は××民族より優れている。
・○○人は××人により優れている。
など。

これらは人間の深層心理に由来することなので、なかなか避けられないことなのかもしれませんが、最近特に感じるのは、政治でも国際情勢でも社会の動きでも、この傾向が強まっているのではないかということです。
自分の身内は大事にするけれど、知らない人は完全に無視していたり、何かあれば徹底的にたたいたりということです。
例えば電車内の化粧や飲食も、「知り合いに見られなければよい」との心理があると言われるので、ここに共通する部分がある気がします。

これらは結局、自己防衛的な心理であり、これを進めて「内集団」の結束が高まるほど、「外集団」には攻撃的になる感じがします。様々な差別行為も、出発点はこんなところにあるでしょう。

会社の中でも、俗にいうセクショナリズムや他責といわれる問題があります。マネージャーによっては、自分の部署の結束を高めるため、他部門より優れている意識をメンバーに植え付けたり、他部門を攻撃して優位に立とうとしたりする人がいます。

これは自部門にとっては都合が良いかもしれませんが、組織の全体最適を考えると決して良いことではありません。また、私がいろいろな会社を見てきた中では、こういう手法で組織をまとめようとすると、ある一時期は良くても、その後のあるちょっとしたきっかけで組織がバラバラになってしまうことがあります。差別のような負のパワーで結束を保とうとしても、決して長続きはしません。

にもかかわらず、最近は自分と他人、敵と味方のように、人を「内集団」と「外集団」に切り分け、そこに生まれる優性意識を、集団や組織の結束につなげようとするやり方が目立っているように感じます。

繰り返しますが、「内集団バイアス」は全体最適にはつながらないと思います。最近の様々な社会の動きにはちょっと怖さを感じます。


2014年8月20日水曜日

組織でも重要な「血液検査」


国立がん研究センターなどが、13種類のがんを1回の採血で発見できる最先端の検査システムの開発に着手し、数年後の実用化を目指すと発表したそうです。
この手法では1回で複数の疾患を検査でき、症状が認識できない段階でも発見できるという画期的なものだそうです。

こういう研究が実用を前提にしておこなわれるということは、技術の進歩によるところも大きいのだと思いますが、こんな取り組みを見ていると、血液検査で発見できることは、かなり多いのだという気がします。

血液というのは体のすみずみまでくまなく流れている訳ですから、その中には多くの情報が秘められているということで、それを注意深く調べれば得られる有益な情報は、まだまだたくさんあるのではないかと思います。

このように体の健康を守る考え方は、会社などの組織にも当てはめることができます。
組織全体を人間の体に例えたとすれば、血液にあたるのは組織内の様々な情報であり、これを組織内で行き来させるための血流が、人と人とのコミュニケーションと情報流通という捉え方になります。

そして、もしも組織上で何らかの課題がある時、多くの場合では誰が悪い、どこの部署が悪いという捉え方になりがちですが、実際に起こっている組織課題の多くは、誰か個人が悪さをしているという場合より、上司部下のコミュニケーションが悪い、部門内の情報共有が悪い、拠点間の連携が悪いなど、人と人との間に存在する場合がほとんどです。
人体に置き換えれば、血液そのものの質や血流の良し悪しに関わる部分であり、組織の一部で血行不良のようなものが起こっている場合が多いのではないでしょうか。

組織課題の解決というと、ともすれば問題がある場所を特定し、それを排除、矯正することで問題解決を図ろうとしますが、これは人体の治療方法でいえば、外科手術的な手法ということになります。
しかし、実際の組織課題というのは、このように病巣がはっきりしている場合ばかりではなく、病気というほどではないが何となく調子が悪い、何となく気分がすぐれないなどという場合もあります。そんな場合の多くは、ちょっとした血行不良に類するような場合です

組織の健康を守り、健全な組織を保つ上では、人の体と同じように、血液の健康が大事になります。人と人とのコミュニケーションや情報流通の状況、情報そのものの質がどうかということです。

組織上の課題解決においても、血液や血行状態にあたるコミュニケーションの質や流通している情報の質に注目し、この「血液検査」のような意識で取り組むと、本質的な問題解決につながっていくのではないかとおもいます。


2014年8月18日月曜日

「バカンス中のメール自動削除」は日本企業でもできるのか?


あるニュース記事で、ドイツの自動車大手ダイムラーが、社員が仕事に関わるメールを気にせずに休暇が過ごせるようにするため、休暇中の社員宛てに届くメールを自動削除するシステムを導入したという話題を目にしました。

メールの送付元には「休暇中で受け取れない」との説明と、対応できる別の担当者の連絡先を知らせるメールが自動返信され、個別設定で特定の相手からのメールだけを受け取ることもできるとのことです。
社員は休暇中にメールチェックや返信をせずに済み、休暇明けにたまったメールをチェックする必要もなくなるということでした。

私がこの話題からまず感じたのは、「ドイツでさえもここまでの対応をしなければ落ち着いて休めないのか」ということでした。

最近は携帯電話やスマートフォンほかのモバイル機器、メールやチャットなどのITツールの普及により、どこにいても仕事ができて効率的という反面、時間や場所を問わずに仕事がどこまででも追いかけてくるようになってしまうということがあります。

私のように独立して仕事をしていて、スケジュールをすべて自分で決められる立場では、メリットの方が大きいと思いますが、組織に属して社員として働いている多くの人たちにとっては、仕事か否かのケジメがあいまいになり、実はデメリットの方が大きいのかもしれません。

日本の企業は休暇の消化率もまだまだ低いですし、長時間労働や休まないことを良しとするような風潮もまだまだ存在します。長期の休暇ともなれば、「休暇中も電話やメールに対応できるようにしておくこと」などと指示するような会社も、たくさんあるのではないでしょうか。
ITの進化で確かに便利で効率的にはなったものの、「きちんと休む」ということは、逆にやりにくくなった面があると思います。

さらにそんな日本ではなく、短い労働時間で効率的に働いて、休む時にはしっかり休むことが社会に根付いているドイツでさえ、IT活用によるワークスタイルの変化とともに、個人の時間に仕事が入り込みやすくなってしまっているということでしょう。

休暇中のメール自動削除は、日本人的な感覚で見ればかなり思い切った対応で、人によっては常識外れと捉えるかもしれません。
しかし、メールの相手には休暇中であることと、別の対応窓口を知らせる訳ですから、休みの社員がいた際に一般的に行っている対応と大差なく、単にそれをシステム化しただけということです。

さらに休暇中にもメール対応を求めた際の対応方法は、基本的にはすべて本人任せということになります。返信をするかしないか、いつするのか、どんな内容で返信するのかは、本人の判断次第でまちまちになるでしょう。
これをシステム化することで、個人差が出ないということでいえば、顧客に対してはむしろ誠実な対応と言えるかもしれません。

でも、もし仮にこれと同じことを日本でやろうとしても、現状では仕事の分業がうまくできておらずに属人化していることも多いので、なかなか簡単にはできないように思います。

こんなことを見ても、日本とドイツでの働き方の意識や環境の違いは、思った以上に大きいのではないかと思います。


2014年8月15日金曜日

成長をジャマする「教えすぎ」に陥っていないか


特に若手社員や新人のOJTなどの際に、「わからないことがあれば質問しなさい」という指示をすると思います。
「わからないことがあればすぐに聞け」という場合も、「聞く前に自分で調べてから来い」という場合もあるでしょうが、積極的に質問することは良い行動として捉えられることが多いのではないでしょうか。

また教える側の上司先輩も、質問されればできるだけわかりやすく説明しようとし、きちんと答えに導いてあげようとするでしょう。特に若手や新人の育成を任されるようなタイプの人には、俗にいう面倒見が良い人が多く、相手に合わせて懇切丁寧に指導をしているように感じます。

一見すると育成意識が高く、良さそうに感じるこの一連の行動については、もうお気づきでしょうが、教えられる側の若手社員や新人が、問題解決のために自分で考えようとする習慣や、自己決定しようとする行動を阻害する可能性があります。

これは子育てなどでも同じだと思いますが、いつまでも手取り足取りの指導をし、具体的なやり方まで細かく指示をするような形では、結局はいつまでも自立することができなくなってしまうということです。
要は「教えすぎ」は禁物ということですが、もうそんなことは当たり前に意識して取り組んでいると言われるかもしれません。

ただ、最近の現場での人材育成の様子を見ていて、そこに関わる人たちの行動から感じるのは、この「教えすぎ」を、今まで以上に意識しなければならないのではないかということです。
教える側は無意識のうちに「教えすぎ」の傾向になりがちであり、教えられる側は以前にも増して直接的な答えを求めがちであると感じるからです。

その背景には、マニュアル主義的な傾向が増していることに一因があるように思います。今は何でもインターネットを通じて調べることができ、参考資料や事例はすぐに手に入れることができます。自分で悩んだり考えたり、わざわざ作り上げたりしなくても、すでにあるものをそのまま引っ張ってきた方が手軽ですし、それが簡単にできます。すぐに答えに行きつくことが、何となく当たり前の感覚になってしまっているのではないでしょうか。

また、直接的な答えを求める傾向は、教えられる側だけでなく教える側も同様です。
「すぐに答えを!」という感覚もそうですが、自分たちが教えられる側に立った時には、すぐに答えがほしいと思う相手の気持ちはわかる訳で、その要望に応えようとするあまりに、「教えすぎ」になってしまうということもあるのではないでしょうか。

答えを教えずに自分で考えさせるということは、時間もかかりますし、教える側の辛抱も必要です。ただ、今の世の中の傾向を見ていると、なおさら「教えすぎ」は禁物ではないかと思います。


2014年8月13日水曜日

あって当たり前の「衛生要因」ばかり増えていないか



アメリカの臨床心理学者であるハーズバーグが提唱した「二要因理論(動機付け・衛生理論)」というものがあります。
人間の仕事における満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるということではなく、満足に関わる「動機付け要因」と、不満足に関わる「衛生要因」があり、これらはそれぞれ別のものであるとする考え方です。

「動機づけ要因」は、それがあることが満足につながり、「衛生要因」は、それがあることは当たり前で、不足すると不満につながるということです。

「動機づけ要因」にどんなものがあるかというと、「達成」「承認(成果が上司に認められるなど)」「仕事そのものへの興味」「責任(大事な仕事を任されるなど)」「昇進」「成長」などが挙げられ、「衛生要因」には、「会社の政策と管理」「監督技術」「監督者との関係」「作業条件」「給与」「同僚との関係」「部下との関係」などが挙げられています。

この理論自体には、調査方法などに問題点が指摘されるというようなことがありますが、最近の企業の現場事情を見ていると、ちょっと気になることがあります。
満足度が上がる「動機づけ要因」より、無いことが不満につながる「衛生要因」の方が圧倒的に多く、なおかつそれが増えてきているのではないかということです。

例えば、労働条件や給与のような会社の制度は、どちらかといえば「衛生要因」として見られます。休みが増えたり給与が上がったりしても、その効果は一時的で、すぐにそれが当たり前の「衛生要因」になってしまいます。

企業の人事制度作りは私が良く関わるテーマですが、会社の制度が「衛生要因」となると、それを通じてやる気につなげるのは難しいということになります。
制度の運用が大事だというのは、そんなところにも意味がありますが、最近は運用にいくら工夫をしてもなかなかやる気にはつながらず、「衛生要因」と捉えられることが多いように感じます。

マネジメントにおいても、上司や監督者との関係は「衛生要因」となると、上司のおかげでやる気が高まることは稀で、ちょっとした振る舞いが不満を招くことの方が多いということになります。上司や管理者によるマネジメントは、できて当たり前ということなのでしょう。

「衛生要因」というのは、私は他者への要求水準というイメージで捉えていますが、最近いろいろな場面でこれらが高くなりすぎているような気がします。俗に言われるクレイマーなどというのは、こんな傾向を表す一つの要素なのかもしれません。

私はこの「二要因理論」は、結局周りから与えられるものに対して一喜一憂しているだけのように感じてしまいます。自分自身のやる気なのに、それが他人のせいなのです。

会社としての環境作りが必要なことは理解するものの、「動機づけ要因」を増やすことも、「衛生要因」を減らすことも、自分の捉え方次第でできるのではないかと思います。すべてが会社のせいではないと思います。

2014年8月11日月曜日

良いことばかりではないと思う「研修制度の充実」


採用活動のように、特に対外的な自社のアピールが必要な場面では、「整った研修制度で能力を伸ばすことができる」など、「研修制度の充実」を挙げる会社をよく見かけます。
また応募者の側も、特に新卒の学生さんなどの場合では、「研修制度の充実」会社選びの条件とする人は多いように思います。

「教育環境が整っている中で教えてもらいたい」「優秀な上司に自分を成長させてもらいたい」など、自分の能力が少しでも早く伸ばせる環境がある会社が望ましいと考える気持ちはよくわかります。充実した制度を活用して少しでも早く成長ができれば、それは会社にとっても良いことですし、自分のためにもなります。

ただ、そういうことを望む人に限って、入社してから自分で努力するかというと、あまりそうではないことが多いように思います。与えられる課題に対してそれほど積極的に取り組む訳ではなく、かといって何もしない訳でもなく、学生時代と同じようにとりあえず単位が取得できる60点程度が取れればよい、そんな感じの取り組み方です。

これがなぜかを考えてみると、会社に対して「研修制度の充実」を求めているということは、心のどこかの本音の部分で、「自分の仕事は誰かが教えてくれるもの」「自分の能力向上は会社から与えられるもの」という受け身の姿勢、人任せの気持ちがあるのではないかということです。そもそも自己の力で成長していこうという意識が乏しいとも言えます。

これは、会社に研修制度が不要と言っている訳ではありません。会社として教えるべきことはきちんと教える必要があり、そのための環境作りは絶対に必要です。

その一方で、研修などの形でカリキュラム化して教えられることは、仕事の中でも一部のことに限定されます。実務でなければ経験できないことも、一度は失敗しなければわからないこともあります。何でもかんでも他人が教えられる訳ではありません。

また会社はただ学ぶための場ではないので、結果と育成のバランスを取る必要があります。新しい経験をさせるにしても、会社として痛手を負うような致命的な失敗はさせられません。
本人に何をどの程度やらせるかを判断する上で、ただ言われたことだけしかやらない受け身の姿勢の者では、自分から発信する力やチャレンジする意識が弱い傾向があります。そうなると今の能力を超えるような仕事は任せづらく、結果として経験できる仕事の幅や難易度は抑えられ、自分が成長する速度は遅くなっていくでしょう。

会社が「研修制度の充実」を売り物にするのは、悪いことではありません。また応募者や社員が、会社に対して「研修制度の充実」を求めるのも、これまた悪いことではありません。
ただそこには、自分の力で学ぼうとしない、「会社から与えられるもの」という意識を助長している可能性があります。

充実した制度には、必ずそれにぶらさがる者が出てきます。「研修制度の充実」も、決して良いことばかりではありません。現状がどうなのか、よく注意する必要があると思います。


2014年8月8日金曜日

決めるまでにかかる時間の差


人材関係のビジネスをされている方と最近話している中で、私も同じように感じたことがありました。

企業支援を人事や人材開発、組織といった切り口でしようとしたとき、その窓口になるのは中小企業であれば経営者自身か担当役員クラスの方々が多く、中堅から大手企業となると、人事部門をはじめとする管理部門のどこかのご担当者になります。

人にまつわる課題というのは、組織の中では幅広く存在するので、関係する部署は複数にまたがることがほとんどです。
私がたずさわっている内容でいえば、人事施策の企画や人事制度という切り口ならば、経営企画部門や人事部内の制度担当、研修などの取り組みであれば人材開発部門や研修担当、採用に関わることであれば採用担当などということになります。
このあたりは企業規模が大きくなるほど担当が機能別に細分化され、新卒採用と中途採用は担当が違うとか、研修の内容によって主管部署が違うとか、組織体制上の違いがさらに出て来ます。

そんな中でお話を進めていると、「いつまで経っても決まらない」「誰も決めようとしない」という状況に比較的頻繁に遭遇します。例えば、新卒採用からその後数年の人材育成の話を、ストーリー性を持って話そうとしても、「そこは担当外だから自分では判断できない」などとなってしまうのです。

これが中小企業の場合であれば、そこまで機能化された組織にはなっていませんし、窓口として接するお相手はまさに最上位の決裁者なので、そういう状態に陥ることはほとんどありません。
また、外資系企業の場合は、各ポジションの責任者の権限が大きく、線引きもはっきりしているので、キーマンがOKしさえすれば、話はどんどん進みます。

ただ一般的な企業で、ある一定規模を超えたようなところでは、なかなかそうはいきません。担当者は「自分だけでは判断できない」と言って上位のマネージャーに話が行き、そのマネージャーも「自分だけでは判断できない」さらに上席の管理者に話が行き、場合によるとさらに上の役員クラスまで話が行ったり、そうなると今度は役員や管理者が現場の状況をつかんでいないため、「現場はどう考えているのか」などと差し戻しで意見聴取がされたりします。

担当者は意見を述べる材料集めのために、私たちに事例などの情報提供を求めますが、良く言えば慎重、悪く言うと保守的過ぎるところがあるので、あまり新しい取り組みをしようという雰囲気にはなりません。

そしてそんなやり取りをしているうちに、時間ばかりがどんどん経過していき、私たちもどこかで提案をあきらめたり、一時的にアプローチを止めたりします。その結果、課題に向けた取り組みは、“検討中”の名のもとに先送りされます。

もちろんその後も検討は続けられ、何らかの取り組みがいつかは実行されますが、それが決まるまでの時間の差は、決定が速い会社と比べると、ビックリするほどの違いがあります。
ただ、その一連の動きに関わっている当事者は、きちんと手続きを踏むことに注力していて、“遅い”という自覚がないことがほとんどです。

特に大組織で、なおかつ顧客と直接接することが少ない管理部門となると、ともすれば仕事のスピード感があまりに遅いと思われることがあります。
慎重に手続きを踏むのは必要なことですが、決めるまでにかかる時間が適切かどうかは、今一度意識する必要があると思います。


2014年8月6日水曜日

下積みはいったい何年が適当なのか


ある企業の人事担当者が書いたブログで、「新入社員が退職した」という記事が、一時期ネット上で話題になりました。

入社10日にして、「アルバイトの延長のような販売の仕事は、ずっと続けていく気にならないし、自分に向かないから辞めたい」と言ってきた新入社員に対して、「社会人の時間は長く定年までは約40年。社会人にとって入社後の10年は、大学で言えば1年生に相当する」と、運動部の一年次にたとえ、「楽しさにたどり着く前に職を変えてしまうから、幸せになれない」「楽しさに至るまでには下積みが必要」と人事が諭す内容でした。

この内容は反響を呼び、その多くは肯定的なものでしたが、中には「面白くないと思っている人に無理やりやらせても辛いだけ」などの批判的な反応や、「変化の早い時代に下積みに10年も費やすのは危険すぎる」という意見もあったようです。年功序列、終身雇用で同じ会社に定年まで勤める前提の「昭和の価値観」だということでした。

確かに「どんな仕事でも下積みが必要だ」というニュアンスには私も共感しますが、それでも「下積み10年」と言われると、必ずしもそうだとは言い切れません。10年はやっぱり長い年月です。

実際に私自身が10年前に考えていた将来のことと、今の現実の状況を突き合わせてみると、その当時に想像できていたことは、かなり少ない感じがします。
私の感性が鈍いのかもしれませんが、変化が激しく予測がしづらい時代であることだけは間違いないと思います。

これはある有名な寿司店の話ですが、今は新卒採用の形で学生を採用し、研修の形で調理に関する技術も学ばせていくのだそうです。
昔ながらの徒弟制度で、先輩がいる限りはそれ以下の下働きの仕事しかさせてもらえず、技術もただ「見て覚えろ」ということが大半では、一人前になるまでの時間がかかりすぎるし、なによりも本人の根気が続かず、途中であきらめて辞めてしまう人が多いからということがあるようです。

会社として考えれば、社員の成長速度が速まれば、それはメリット以外ないはずですが、その成長を本人のセンスや能力だけのせいにしていることが、まだまだ多いように感じます。「センスが無い」「覚えが悪い」などと本人は批判されますが、では会社としてどうやって成長を速めていくのかという働きかけが少ない場面をよく見かけます。

下積み時代は絶対に必要だと思います。また、いったいどこまでが下積みなのかの線引きはしづらく、下積みには長い期間がかかるとの考え方もあるでしょう。
ただ一昔前のように、「本人次第」「見て覚えろ」では、時代が要求するスピードには追い付くことができません。

変化が速い今の時代の会社の中で、「下積み10年」と言ってしまうのは、さすがにちょっと昭和の香りが強すぎるように思います。


2014年8月4日月曜日

うのみにしてはいけない「顧客要望」


あるテレビ番組で、「こんなものがあったら良い」という意見を、実際に試してみるという企画をやっているのを偶然見ました。

私が見たのは、アパレルショップの店員さんから声を掛けられるのがわずらわしいので、入口を“通常の接客”“声をかけない接客”に分け、お客さんが希望する接客の側から入店してもらうようにするとどうなるかというものでした。

来店したお客さんの意見は、「あまり声を掛けられたくない」「そっとしておいてほしい」「ゆっくり見たい」というものが多く、実験中に来店した人の8割以上が“声をかけない接客”の入口を選んでいました。お客さんには好評ですが、店員さんは自分から接客ができないので、手持ちぶさたでかなり暇そうです。

一見すれば、「顧客要望」には応えている訳で、良さそうな取り組みのように思えますが、実はこの実験中の時間帯の売上は、通常からは信じられないほど低かったのだそうです。顧客からは必ずしも好ましいと捉えられていなくても、声かけや接客など、店員さんの持つ販売能力というのは、売上に対する影響力が大きいということでしょう。

ここから考えれば、「顧客要望」を言われるままにうのみにして聞くのではなく、店員さんの販売能力を発揮させ、なおかつ顧客からわずらわしいと思われない声かけや接客方法を考えていくことが、とても大事だということがわかります。

ただ実際の現場を見ている中では、顧客満足と称して、顧客から出てきた意見や要望、指摘を、そのまま受け入れて直そうとする取り組みが多いように思います。顧客側がそれを強硬に要求することもありますし、企業の担当者やお店の側が、そうすることが良いことだと信じて思考停止してしまっていることもあります。

例えば、採算を度外視したサービスというのは、あくまで将来の事業のための先行投資として、ある一定期間だけ行うものであるはずです。本当に採算度外視のサービスをやり続けたら、企業やお店はつぶれてしまいますが、顧客の立場からはそれを知るよしもありません。それがあたかも“心がこもったサービス”のように賞賛し、いつしか当たり前のように思いこんでしまうことがあります。

ビジネスはWin-Winの関係がなければ、長続きさせることはできません。事業が続けられなければ、顧客に満足を届けることは永久にできなくなります。
目先の「顧客要望」をうのみにして応えても、それは本当の意味での顧客満足にはつながらないと思います。


2014年8月1日金曜日

「週休4日で月収15万」はゆるいと言いきれるのか


メンバー全員がニートで、株主かつ取締役でもあるということで話題となった「NEET株式会社」が、「ゆるい就職」と銘打って、週休4日で月収15万円を目指すという派遣事業を始めたそうです。
多様な働き方を模索する中で、私は面白い企画だと思います。

ただ、当事者も含めて「ゆるい」と言っているものの、本当にそう言い切ってしまってよいのかということを、私はあえて思います。

確かに既存の概念で考えれば、週7日のうちの半分以上の4日が休みであれば、楽なのかもしれませんし、月収15万を時給に直すと、1400~1500円くらいの計算になるので、一般的なアルバイトの時給と比べるとずいぶんな好条件に感じます。人によっては「勤労意欲の低いやつが自分の都合よく働こうとしている」という見方もあるでしょう。

ここでちょっと視点を変えて、サッカー選手としては世界一、二といってよいリオネル・メッシ選手の年俸を週給に換算すると約2,160万円、クリスチアーノ・ロナウド選手の場合は週給約2,052万円になるのだそうです。すごい金額だと感心はしますし、中にはもらいすぎと思う人はいるかもしれませんが、拘束時間が短くて時間単価が高いからと言って、単純においしい仕事、ゆるい仕事という感情はあまりわいてきません。
少なくとも私自身は、トップクラスの才能がある人に対しての尊敬の気持ちしかありません。

また、ヤンキースの田中将大投手の年俸は23億だそうですが、年間30試合に投げると仮定してこれを1試合当たりに換算すると、約7,667万円になるそうです。
さらにこれを1試合100球前後で、中4日で投げるとすると、1球投げるごとに76万円超を稼いでいる計算になるのだそうです。

これも、やはりすごいという気持ちとともに、単純に1試合換算、1球換算などをしたところで、それ以外の時間の準備に当たる部分、例えばトレーニング、食事や生活の管理や節制、その他やらなければならないことへの時間は全く計算されていませんし、実際の仕事の大変さを考えれば、ただ時間と金額を基準に数値化したことには、あまり意味がないように思います。

この見方と同様に考えれば、この「ゆるい就職」でも、普通の正社員も週2日は休みなので、あと2日休みが増えただけです。時給換算した給料も、若手の正社員並みの金額ですから、決して法外な感じではありません。

結局この「ゆるい」という表現は、それを言う人が自分の仕事内容や報酬と比較して、主観としてゆるいとかきついとか、すごいとか大したことがないとかを勝手に思っているだけのような気がします。でも実際の仕事は、そんな単純な尺度では測れないことがたくさんあります。

週休4日、月収15万の仕事でも、決して「ゆるくない部分」があるのではないかと思います。見かけ上の休みが多い、単価が高いから「ゆるい」仕事だという固定概念自体が、実は一番問題なのではないかと思います。