2020年11月23日月曜日

必ずしも同じではない「決断の速さ」と「実行するまでの速さ」

変化が激しく、何事でもスピード感が大事だといわれる時代ですが、このあたりはその企業の体質によって、結構差があるところです。

「決断の速さ」という点でいえば、やはりオーナーシップが強い企業、ワンマンや少数の実力者で組織運営がされているような企業の方が速い傾向があります。基本的には個人の判断で、承認プロセスがありませんから、何か承認してほしいことがあるときに、社員たちは「社長をOKさせるにはどうするか」といったことを考えます。周りの人たちの意見を固めて、社長に納得させるという手段を取ることがありますが、これも承認プロセスというほどではなく、大企業のそれに比べれば決断のスピードは圧倒的に速いでしょう。そのかわり、議論の余地がない決定事項が、上から降りてくることもよくあるでしょう。

 

ただ、決断が速ければその先も早いかというと、必ずしもそういうことはありません。トップダウンで決定事項が指示されるような時ほど、それを実行するまでには時間がかかることがあります。断する際に、現場の実情が考慮されていない場合が結構あるからです。これはわからなくても仕方がないときもありますし、強引すぎると思われるときもあります。

 

何か施策を進めるとき、全体のスピード感を高めるには、「決断の速さ」だけでなく、「実行するまでの速さ」も重要になります。そのトータルが「施策のスピード感」になる訳ですが、どうも決断の速さ」ばかりが取り上げられることが多いのが気になります。

決断するうえでの判断材料には、それを実施するまでにはどのくらいの時間と労力がかかるのかも考えなければなりませんし、さらに定着するまでにかかる時間というものもあります。

うまくいかない施策というのは、だいたいがこの実施するまでの時間と労力を低く見積もっていて、決断後は「これくらいできるだろう」「頑張れ」「サボるな」などと、尻を叩いたりハッパをかけたりすることに終始しています。優れたリーダーは、自分が決断しなければならない時に、この「実行するまでの速さ」までを的確に考えて決断しています。そこで、自分の決断を速めるためには、日頃から現場の様子を知り、意見を聞き、情報を集めておかなければなりません。そのための仕組みや場の設定、個人的な信頼関係も含めたコミュニケーションが必要です。

 

なぜあらためてこんなことを思ったかというと、昨今のコロナ禍で出てくる国の政策が、どうもこの「実行するまでの速さ」に関する意識が薄いような印象を受けているからです。いろいろな努力はされていて、難しい事情がいろいろあるのはわかりますが、表面的に見えるのは、その時点の状況判断だけで施策を決断し、ただ「急げ急げ」と尻を叩くものの物理的にどうしようもないだけの時間がかかってしまって、トータルで見た「施策のスピード感」はどんどん失われているとの印象です。

また、途中で状況が変わってしまうというようなこともあり、そこで一度始めたことをやめる決断というのは一層難しく、いろいろなことがうまく進んでいないように見えます。

こんな様子は、会社の中での意思決定の場面でも、わりとよく見かけるものです。「見通しが甘い」「想像力が足りない」との批判はその通りですが、多くの難しさがあることも確かでしょう。

 

「決断の速さ」ばかりに目を向けてこだわるのではなく、そこからの準備を含めた「実行するまでの速さ」をトータルで見た「施策のスピード感」という視点で考えなければ、有効な施策は打ち出せません。

決断には時間がかかっても、決まった後に実行するまでが速いという、現場力が高い会社もあります。こういう会社で見たスピード感は、トータルでとても速いと感じます。

いろいろな場面での決断の様子を見ていて、そこではもっと全体像を意識することが必要だと思います。

 

2020年11月19日木曜日

個人の価値観や相性も関わる「適材適所」

今でもときどき、企業の採用面接に立ち会うことがあります。ただ、新卒を始めとした若手人材採用のとき、私は最近はできるだけ意見をしないようにしています。理由は自分の判断基準がずれているかもしれないと思うことが増えてきたからです。もちろん採用基準に照らして冷静に判断しているつもりですが、年々甘くなってきているように感じています。

 

年齢差が大きくなるにつれて父親感覚といえばよいのか、「若いうちならこの程度で上出来」「年の割に頑張っている」などと思ってしまいます。「自分の若い頃より全然マシ」などと、昔の自分と比べていることもあります。多くの応募者を「みんなそれなりにいいじゃないか」と思ってしまうのです。私と同世代の人と話すと、同じようなことをいう人がたくさんいます。

 

ただ、若い世代の面接官は違います。「こういうところがダメ」「この考えは甘い」など、指摘は私よりも全然シビアです。そして、採用した人たちの入社後の様子を見ていると、若い人たちの指摘の方が正しいことが圧倒的に多いです。

私たちも昔はもっと許せないことがたくさんあってダメ出しも多かったですが、「年とともに丸くなった」ということなのか、徐々に価値観が変わってきています。この価値観を「変えろ」「戻せ」と言われても、さすがにちょっと難しそうです。

私以外の若い誰かに代わって役割を担ってもらった方が、結果が良くなることは間違いありません。

 

これはある会社のマネージャーと話していた時ですが、その人の部下はずいぶん仕事の出来が悪いそうです。あんなこと、こんなことといろいろな話が出てきます。

「良いところはないのか」と聞くと、けなし続けてはさすがに良くないと思ったのか、一つか二つのちょっとした長所が出てきますが、すぐに話が戻ってその倍くらいの短所の話が出てきます。

私はこの部下のことを直接知らないので、事実がどうなのかはわかりません。このマネージャーの言うことが正しいのかもしれないし、少し厳しすぎるのかもしれません。

 

それでもわかることは、この部下は毎日マネージャーから怒られてばかりいて、楽しくないに違いなく、マネージャー自身もイライラしているに違いありません。私としては、マネージャーがもっと部下の長所を見ながら、本人に考えさせるように、褒められるところは褒めて指導してくれればよいと思いますが、それを意識していても今のようになっているのかそうでないのか、こちらも詳しくはわかりません。

この構図が変わるには、どちらかがものすごく大きく変わるか、お互いが歩み寄るかのどちらかしかありませんが、この一種の相性のようなものを変えようとしても難しいことがほとんどでしょう。

 

こういうとき、先ほどの面接官の話と同じように、役割を違う人に代える、代わるということが、結構重要で有効な手段になります。別のマネージャー、別の部下に入れ替えて、相性をリセットするのです。

「適材適所」という考え方の中には、このようなお互いにどうしようもない相性も含まれています。

 

自分が変化しようと努力することは大事ですが、それができないときは、そのことができる別の誰かに役割を代わってもらうことも必要ではないかと思います。それも「適材適所」にかかわります。

 

2020年11月16日月曜日

現場が「変わる必要がある」と思わないから変わらない

ある会社で、その将来に危機感を持って、組織風土改革を進めなければならないとして様々な取り組みをしていますが、なかなか成果が出ないと悩んでいます。

 

危機感を持っているとはいうものの、会社の業績自体はそれなりに伸びてきており、斜陽産業という業界でもないので、これまでの延長線上で将来像を描くことは十分にできます。

確かに安心の明るい未来というほどではありませんが、それはどの会社でも同じことで、この会社が特に危ういというわけではありません。今の段階で直面している大きな問題はなさそうです。

それでもこの会社の経営陣は、新たなビジネスを模索しなければならない、そのための人材獲得や育成を進めなければならない、そんな変化に対応できるように組織風土を変えていかなければならないという感覚を強く持っています。

 

ただ、そこでの社員との温度差は、どうもかなり大きいようです。部長クラス以上の管理職ですら、経営陣からいろいろ言われることに最低限の行動だけはするものの、本音では今のままでいくとまずいとは思っていない様子があります。

現場社員の意識改革によって組織風土改革を進めようと、外部のコンサルティングを受けたり、研修を実施したり、社内活動による取り組みをしたり、会社としてはいろいろな工夫をしていますが、なかなか芽が出るものがありません。

 

こういう話は私の経験上でもときどき聞くことがありますが、その理由は単純で「当事者の社員は変わる必要が無いと思っているから変わらない」ということです。

多少制度や評価が変わっても、部署異動などがあったとしても、仕事内容はあまり変わらず、要求される能力も変わらず、結果もそこそこ出ていて、それなりの報酬が得られているとなれば、そもそも変わることへの必然性はありません。逆に今のままの形を続けていた方が、個人的な安心、安全は保たれそうだと思うでしょう。そういう中でいくら危機感をあおっても、社員には切迫感も必要性もありませんから、風土改革は進まなくても当然です。

 

組織風土改革は、ただ「変わりましょう」「変化が必要です」とふれまわるだけでは難しく、例えば会社が取り組む事業自体が変わった、要求される仕事内容が変わった、資格を持っていないと仕事ができなくなったなど、実務上で具体的に変わらなければならない状況が、自分に降りかかってきて初めて動き始めるものです。

 

危機感を共有することも大事で、もし業績悪化が明らかならば、自分の報酬にも直接影響が出てきますから、そういう身近な変化で危機感は共有されます。そこまででなくても、会社が具体的な危機を提示して発信し続けると、社員の意識は変わらざるを得なくなります。

要は、先に身近な変化を起こすことが、組織風土改革につながっていくのであって、変化が起こる前に風土を変えようとしても、それは難しいということです。

 

外資系企業では、様々な場面で「変化することに慣れている」と感じることがあります。社長が変わるとすべての仕事の進め方が変わるとか、上司が変わると部門運営のしかたが全然変わるとか、日常的にいろいろな変化が起こって、自分たちもそれについていくことが当たり前になっている様子から、そういうように見えるのではないかと思います。

 

人間をはじめとした生き物は、変わる必要がなければ自分から変わろうとはしないものです。その方が生き延びられる確率が高いからで、変化をする時は自分の生存が脅かされるような環境変化が起こった場合に限られます。

組織風土改革は、それ自体を目的化するのではなく、改革が必要と感じる変化を起こすことから始めることが大切ではないでしょうか。

 

2020年11月12日木曜日

「前任者の評価」を一変させる上司を見ていて

企業の人事評価の中で、「評価が固定化して変わらない」という問題を言われることがあります。

ある評価者から見て、良い人はいつまでも良く、悪い人はいつまでも悪いという固定化は、ある意味仕方ないと思うところと、事実に基づかない思い込みで評価していると感じることの両方があります。

 

結果主義の要素が強い評価制度の場合は、評価が良かったり悪かったりという変動は結構ありますが、プロセスも考慮するような評価制度では、そこまで激変するという感じではなくなります。

評価制度はその会社の仕事内容によって、結果とプロセスの相関関係が強ければ、結果のみで公平に評価することが可能ですが、反対に手抜きでも結果が出てしまう結果オーライや、結果が出なかった真面目な取り組みを無視すると不公平感が増してしまうような場合は、結果とプロセスのバランスを見ながら評価することが必要になります。

やっぱり評価される側からすると、結果が良い時には結果を評価してほしいですし、結果が悪い時には最善を尽くそうとした努力のプロセスを評価してほしいと思いますから、結果とプロセスのバランスを見ることは重要です。

 

プロセス評価は、日々の仕事振りの観察から、事実に基づいた評価をしなければならないと言われますが、そこではどうしても評価者の感覚に左右される部分が出てきます。この感覚が大きく変わることは少ないですし、評価される側の仕事振りも、同じくそこまで明らかに変わることが少ないのも事実です。「評価の固定化」は仕方がないのと、思い込みがあるという両面を感じるのはこんなことからです。

 

そんな中、評価者の上司が変わって、それまで前任者がしてきた評価を一変させることがあります。その一部では「過小評価を見直した」と良い評価に変わることがありますが、大半はそれまで「普通」「標準」「並み」と評価されてきた人が、マイナス評価に変えられてしまう場合です。

 

新しい上司に評価の理由を聞くと、だいたいがその人に対するダメ出しのオンパレードになりますが、そこでは同じ仕事を地味にコツコツ続けてきたような人が、やり玉に挙がっていることが多いと感じます。「提案がない」「意欲がない」「改善がない」「積極性がない」などという言葉がよく出てきますが、要は上昇志向のようなアグレッシブさがないと言っていることがほとんどです。

そして、こういうことを言う人のほとんどが、自分に上昇志向があって、ちょっと攻撃性を含んだアグレッシブさがあって、わりと気が短くて、人の好き嫌いがはっきりしているような人という印象があります。

要は自分の感覚的に歯がゆい人材を、「前任者が見過ごしていた」という批判とともに、その人の評価をマイナス方向に一変させているのです。「評価の固定化」にも「一変する評価」にも、同じように問題があります。

 

「評価の固定化」には閉塞感、一方「一変する評価」には恣意性という問題があり、そのどちらも評価者の感覚や思い込み、そして好き嫌いという主観の問題を含んでいます。

公正な評価は大事で、そこに向けたできるだけの努力は必要ですが、人が人を評価する限りは、どうしようもない限界があるようにも思います。

 

 

2020年11月9日月曜日

リモート会議で姿を見せない出席者

ウェブによるリモート会議がごく普通に行われるようになって、その便利さを多くの人が共有するようになりました。私自身の仕事でも、もし今このリモートの環境がなかったとしたら、本当に何もできない状況に陥っていたことでしょう。同じような感想を持っている人や会社は、たくさんあると思います。ほとんどのビジネス活動が止まって、今よりもっと大変な状況になっていたのではないかと思うと、テクノロジーの大切さを感じます。

 

リモート会議をはじめとして、こういう新しいツールが日常的に使われるようになって、その使用方法やマナーなど、さまざまな細かい問題が出てきています。

そんな中で、ある会社の知人からこんな話を聞きました。

その会社にいる共通の知人の近況を尋ねたところ、定例のリモート会議に一緒に出席しているそうですが、「その人が入室しているのはわかるが、カメラを一切オンにせず、発言もまったくしないので、どんな様子なのか全然わからない」と言います。

 

コロナ禍の初めの頃、会議の場で議論に参加しない、ただいるだけで何もしないという「働かないおじさん」の存在が、このリモート会議になってからの振る舞いではっきりわかるようになったという話がありました。会議の場にいるだけで姿を見せず、そのうち出席依頼すらされなくなって、そのことに本人も気づいていないというような話でしたが、それと同じような振る舞いです。その共通の知人に対する周りからの目は結構厳しいらしいです。

今までの対面の会議ならそこまでは目立たなかったことですが、リモート会議で姿を見せない、発言しないというのは、悪い意味で結構目立つので、なおさら会議に積極的に参加して、きちんと存在をアピールすることが必要になっています。

 

また、これは私がある会社のプロジェクトミーティングに参加したときのことです。

10数名の参加者がいて、わりと頻繁にリモート会議をおこなっているようなプロジェクトですが、多くの出席者が頻繁にカメラのオンオフをおこなうのです。人数的によく発言する人とそうでない人がわかれる会議ですが、会議の開始時と終了時だけちょっと姿を見せて、それ以外はずっとカメラオフの人がいます。

カメラのオンオフが多い人を見ていると、子供の世話とか来客とか、ちょっと手を離さざるを得ないやむを得ない様子が見える一方、まったくそうとは見えない人もいます。単なる中座か、それとも内職作業でもしているのか、そんなことを疑い出せば切りがありませんが、急に画像を消されて表情が見えなくなると、本当に話を聞いているのかどうなのか、こちらからうかがい知ることはできません。

ただ、カメラオフの人に話を振ると、すぐにカメラオンに切り替わって話をし始めるので、みんな真面目に話を聞いて参加しているだろうことはわかります。逆にそれならカメラもそのままオンにしておけばいいと思うのですが、この会社ではそういうやり方を特に気にせずに許しているようです。

 

ウェブカメラによる常時監視を要求するような、「リモハラ」といわれる行為が一時期問題になりましたが、確かにリモート会議の場でカメラを自由にオンオフされると、何か入退室自由のような感じになってしまっていて、見ている側としては結構気になります。

 

リモート会議に関する私の気づきは、カメラオフで姿が見えないと、リモート会議の良さは半減してしまうということです。確かにプライバシーほかの問題でカメラオンが難しいことはありますし、このあたりを会議ルールとして徐々に作り始めている会社もあります。

 

会議をはじめとしたコミュニケーションの場では、カメラ越しであっても「姿が見える」というのが大事だということをあらためて感じます。

 

2020年11月5日木曜日

ちょっとずつ変わってきた「リモート」と「リアル」への感じ方

最近見たテレビ番組で、コロナのせいで大会やイベント、発表の場を失ったまま部活動を終えざるを得なくなってしまった学生たちに、その舞台を与えようという企画をやっていました。当事者の学生たちの話を聞いていて、実は想像以上に大勢の人が最後の集大成の機会を失って、不完全燃焼のさびしい思いのままであきらめていることを知りました。

このテレビの企画が「みんなで集まるのは最後」と言っている学校もあり、当事者でない自分でも、とても複雑な気持ちになりました。

みんなで集まって、交流して、何かを分かち合って、同じ場所で一緒に盛り上がってという、今まではごく普通だった「リアル」な社会活動ができないことが、いかに不自由で悲しいことなのかとあらためて感じます。

 

企業の働き方は、在宅勤務をはじめとしたリモートワークが、ごく一般的なことになりました。業種や地域によって差はありますが、ほとんど出社することなく家で仕事をしているという人たちがたくさんいます。私自身もミーティングや面談がリモートになったり、それが終日続いたりして、家で仕事をする時間がかなり増えました。今までも在宅での仕事やモバイルワークの時間は、普通の会社員の人よりは多かったはずですが、さらにその比率が増して、反対に外出することは大きく減りました。

 

コロナ禍の初めの頃は、いろいろわからず怖さもあったので、ほとんど家で過ごしていましたが、仕事は意外に「リモート」でできてしまうことがわかりました。移動にかかる時間や手間がないので、ずいぶん効率的だと感じて、どうしても対面が必要な時以外はこれで十分だと思ったものです。

 

それからしばらく時間が経過した今、「リモート」と「リアル」の善し悪しに関する感じ方は、ちょっとずつ変わってきています。

まず、「やっぱり“リアル”でないとダメ」と思うことの比率が増えてきました。もともと「リモート」でできることなら、全部それでいいと思っていたタイプですが、「現地に行って見てみる」「直接会って話してみる」ということがどうしても必要だという場面が、それまで思っていたよりも多いと考えるようになりました。

もう一つは、移動しないという効率の良さが、別の弊害を生み出すことに気づき始めました。例えば活動が減ることでの運動不足や、座ってばかりいることでの腰痛といった健康上のことや、代わり映えしない自宅で、一人で黙って会話がなく仕事をし続ける閉塞感や気分転換の難しさなどです。

そんなことを総合して、本当に全体の生産性は上がっているのかという疑問も浮かび始めました。

 

「リモートでできるならそれで十分」と思っていたものが、ずっと「リモート」中心の環境が続いたことで、「やっぱりリアルでないとダメだ」と思うことが徐々に増えてきました。

電車に乗ったり、風景を眺めたり、知らない人でも他人の様子を見ていたり、そんな些細な無駄が、結構気分転換になっていたのだと気づきました。

 

つい先日、世界タイトルを防衛したボクシングの井上尚弥選手は、私の地元近くの出身ですが、あえて所属ジムの近くには住まず、生まれ育った地元から車で40分ほどかけて毎日通っているそうです。行きの時間でテンションを上げて集中を高めてトレーニングに臨み、帰りの時間で徐々にクールダウンしてリラックスしていくそうで、そのためには40分くらいの時間がちょうどよいそうです。

 

コロナ禍によって、本当のムダと、一見ムダだが実は意味があることの区別も明らかになってきたように思います。

私は「リアル」が必要だと思う比率が、今までより少しずつ高まってきています。

 

 

2020年11月2日月曜日

「2-6-2の法則」の区別に意味はあるか

「2-6-2の法則」というのは、多くの人が一度は耳にしたことがあると思います。その意味は、 どのような組織でも2割の人間が優秀な働きをし、6割の人間が普通の働きをし、2割の人間が良くない働きをするということを言っています。組織には2割の「上位」の人と、6割の「中位」の人と、2割の「下位」の人がいるということになります。

確かにそんな構成比かもしれないと、一般論としてはそう思います。

 

この法則の話をよく持ち出すのは、経営者や組織内での上位の管理職、リーダーといった人たちです。組織の課題として、下位の2割の人たちの扱い方をどうするかいったような話題で言いますが、それを積極的に言う人の大半は、「自分は上位の2割」だと思っています。そこまで上位ではないという謙虚な人でも、少なくとも「中位の6割」とは間違いなく思っているでしょう。

 

ここで、「自分は下位の2割」と自覚しているようなケースは、数字などの明確の基準で序列付けをされているか、上司などから「あなたは下位の2割」と指摘され続けているような人です。序列をはっきりと認識するような機会がなければ、ほとんどの人は「自分は普通かそれ以上」と思っているものです。

 

では、本当の意味での実態がどうかと考えたとき、この「2-6-2」の区分けというのは、実は明確にはわかりません。の区分けの基準は「優秀さ」となりますが、何を基準に取るかによって、優秀かどうかの見方は変わるからです。

上位2割の優先的な育成や、下位2割の底上げや切り捨てといったもの、さらに中位6割の能力向上などと言いますが、誰がどこに該当するかは厳密にはわかりませんから、そもそもそんな区別をすること自体に意味があるとは思えなくなってきます。

 

この「2-6-2の法則」に基づく発想で人材の扱いを考えていると、実際にはあまりいいことは起こりません。下位2割のレッテルを張ることで奮起するような人はあまり見かけませんし、この人たちを左遷や解雇のような扱いをしていると、中位6割の人たちにも「いつか自分に降りかかってくるかもしれない」という不安を与えます。「2-6-2」の区分けは厳密にはわかりませんから、判断基準によっては「自分が下に落ちるかもしれない」と、余計に不安は増していきます。

 

最近の企業での人材開発では、どんなレベルの人材でも能力が上がればそれは業績向上につながると考えられています。仮に基準の2割程度の能力しかないような人材がいたとしても、切り捨てるのではなく指導をして、能力が基準の3割に向上したとすればその分は間違いなく成果につながります。これは上位でも下位でも、やる気があってもなくても、優秀でもそうでなくても関係ありません。

 

働く人のすべてがやる気満々で能力が高いことはあり得ず、企業にとって好ましい人材は全体の2割くらいという感覚は確かにその通りかもしれませんが、その2割の人だけで組織全体を引っ張れるほど簡単な時代ではありません。

「2-6-2の法則」は存在していたとしても、その区別をすることの意味は、もう薄れてしまっているのではないでしょうか。

 

 

2020年10月29日木曜日

「一人だけ」からの影響

ある会社のマネージャーが、最近入社したばかりの若手社員と面談をしたとき、「雰囲気がギスギスしている」と言われたそうです。

理由をよく聞いていくと思い当たることがありました。ある一人の男性社員が周りの人とのコミュニケーションを避けるような態度を、あからさまに取っていたからです。仕事上での雑な対応からミスをして、それを批判した同僚数人に逆ギレして、それから周囲との関係が悪くなっていました。


周りからの接し方は特に以前と変わりなく普通にしていますが、本人の態度だけが良くないせいで、事情をよく知らない新入社員は、職場全体の雰囲気が悪いと感じていました。

マネージャーとして、その社員一人を除いて他のメンバーは全くそんなことはないと思っているのですが、「一人だけ」の影響で職場全体が良くない評価をされてしまっていたのです。

 

別のある会社では、特に女性社員同士の派閥意識が強く、それを嫌った退職者の多いことが問題になっていました。

しかし、ある時を境に状況が急激に改善していきました。派閥の中心人物だった女性一人が退職したことがきっかけでした。

実はほとんどのメンバーは、敵と味方を区別するようなそれまでの状況を好ましく思っていませんでしたが、中心的な女性社員との個人的な対立を避けたい気持ちで、やむなく現状に合わせていました。その人から距離を取りたい人が何となく別のグループになり、それも周囲から見ると派閥に見えていましたが、実際はそうではありませんでした。

これも、たった「一人だけ」の影響が、職場全体に波及してしまっていた結果でした。

 

「組織で起こったことにはみんなに何らかの責任がある」というのは、確かにそういう面もありますが、実はある一人だけ、もしくはある一つだけのことが、全体に波及して問題を生み出していることはたくさんあります。

新入社員につらくあたる「一人だけ」が、社員定着を妨げていたり、「一人だけ」の頻繁なミスが全体の品質を下げていたり、「一人だけ」の作業の遅さが全体の残業時間を増やしていたり、似たような状況はいろいろです。

 

そういう問題を組織全体の問題として対応するのは、「一人に責任を押し付けない」「個人攻撃をしない」といった精神論であれば悪くはありませんが、問題の本質は見誤っています。これは悪い意味での連帯責任となってしまっています。

 

本当は全体に責任があるのにそれを一人に押しつけることは、問題の本質から逃げていますが、同じように「一人だけ」の影響による問題を全体責任のように扱うのは、これも同じように問題の本質から逃げていることになります。

 

問題が「一人だけ」の影響だと指摘するのは、心情的にはしづらいことですが、実際にそういう場面は起こり得ます。「個人責任への押しつけ」は避けなければなりませんし、同じく「本質を間違った連帯責任」も避けるように意識しなければなりません。

「一人だけ」の影響は間違いなく存在します。 

 

2020年10月26日月曜日

「思い込み」の善し悪し

企業の中で、特に採用基準や人材像の話をしているとき、「思い込み」と感じる会話に出会うことがよくあります。「男性は」「女性は」という性別の話、「若い者は」「年配者は」という年齢の話、「○○の卒業生は」という学歴の話をはじめ、さらに細かい話では「出身地」「産まれ順」「趣味」「親の職業」「家族構成」「生い立ちなどの家庭環境」「食べ物の好き嫌い」「やっていたスポーツ」ほか、本当にいろいろなことで「これはいい」「これはだめ」という話を耳にします。

 

聞いている中では確かにそういう場合もありますし、そんな傾向もあるかもしれないと、すべてが否定できるものではありません。

例えば「年配者は新しいものが苦手」と言われて、確かにそういう傾向があるとは思うものの、すべての人に当てはまるわけではありません。新しいものといっても様々な分野があり、苦手といってもそれぞれの人によって程度が違います。さらに年配者が何歳なのかという基準もありません。

 

採用の場面での思い込みは、活躍できる人材を排除している可能性と、反対にミスマッチを助長していることもあります。「○○な人だから大丈夫」など、思い込みで善意な解釈をして失敗する場合ですが、いずれにしても思い込みによる判断はあまり良い結果になりません。

これらの思い込みは先入観と言い換えられるようなものですが、これを避けるためには性格テストなどの結果も見ながら複数の人が会って評価し、客観的な事実をもとに、できるだけ思い込みにとらわれない判断をおこなう必要があります。採用時の「思い込み」には注意が必要です。

 

一方、優秀な経営者やリーダーは、その場面に応じた適切な決断と行動ができる人たちですが、その決断や行動のすべてが、客観的な事実や正論かどうか、ほか善悪のみに基づくようなものではありません。自分が「こうあるべき」と考える価値観であったり、「こうしたい」という願望であったり、信念や過去の経験など、どちらかといえば「思い込み」のような判断基準であることが多々あります。

ここでいう思い込みは、どちらかといえばこだわりに近いのかもしれませんが、そんな思い込みのようなものを持っている人たちの方が、優秀な経営者、リーダーという評価を得ているように思います。思い込みを貫いて結果を出した人たちですが、ここではこだわりや思い込みが、良い方向に作用しています。

思い込みが強すぎる人はやっぱりうまくいっていないので、程度の問題というところはありますが、人を引っ張っていくには「思い込み」のようなものも必要です。

 

このように、「思い込み」と一言でいってもその中身はいろいろで、時と場合によって良いものも悪いものもあります。

思い込みが「先入観による排除」「決めつけ」といったことにつながっているのであれば、それは直さなければなりませんが、「こだわり」「信念」といったものにつながっているのであれば、それが良い方向に作用することもあります。

 

「思い込み」には善し悪しがあり、状況によって使い分けが必要なようです。

 

2020年10月22日木曜日

社員の意思を「尊重する会社」と「縛ろうとする会社」

最近こんな話を聞きました。

あくまで伝え聞きなので、本当かどうかも定かではありませんが、ある会社でコロナの緊急事態宣言解除後に、通常通りに出社しての勤務に戻ったそうですが、プライベートも含めて社外の人と会う際には、すべて上司に報告して承認をもらわなければならなくなったそうです。

会合や会食、人が集まる場所への出入りについては行動把握をしたい、できればやめさせたいという気持ちはわからなくはありませんが、ここにプライベートまで含めてしまうのは、さすがに行き過ぎではないかと思います。

私が同じ目にあったら、即座に辞表?などと考えてしまいそうですが、この会社にとってはこれも必要で当たり前のことという感覚なのかもしれません。

 

最近は「リモハラ」というリモートワークにまつわるハラスメントが言われています。この中には上司が部下の様子を常に確認するためにコミュニケーションツールのつなぎっぱなしを命じたり、離席の禁止や数時間おき頻繁な報告を要求したりという過剰な監視をすることが問題になっています。

 

これも、目の前にいない部下のマネジメントに混乱する上司の気持ちは理解できますが、過剰な監視で生産性が上がることはそれほどなく、逆に部下との信頼関係が崩れて何もいいことはありません。過剰な監視に走るのは、そもそも部下との信頼関係が築けていなかったせいなのかもしれません。

 

このように社員を何らかの形で「縛ろうとする会社」は、その程度はいろいろですが、私の周りでもよく見かけるものです。

そういう会社のほとんどは、あまり活気がある雰囲気とは言えず、イキイキしているのは威張っている上司ばかりです。自分で考えて行動することが良しとはされないので、若手でも優秀な人から辞めていきます。それを見ながら上司たちは、「考えが甘い」とか「これから苦労する」などと捨て台詞のような言葉を発します。会社に残るのは、上司から振り回されることに耐えられる人たち、自分で考えない方が楽だと考えるような人たちです。

 

別のある会社でも、リモートワークの進め方を悩んでいましたが、そこでは「あまりにも本人に仕事の進め方を任せすぎていないか」と、逆にマネジメント不足を危惧する話でした。社員を信頼、尊重して任せる雰囲気が強い会社だそうですが、それが行き過ぎているのではないかという心配です。

リモートワークの試行錯誤の中で、最低限の報告を制度にして義務付けるといったことを始めていますが、もともと自律的に仕事を進める社員が多かったので、特に何か問題があったわけではありません。適切なマネジメントができればもっと生産性が上がるのではないかというような、レベルが上の問題意識です。

私の経験上では、このように社員の意思を「尊重する会社」の方が、業績をはじめとした様々な面で優れていることが多いです。

 

社員を「尊重する会社」と「縛ろうとする会社」は、やっていることは正反対ですが、実は共通していることがあります。それは社員を「尊重する会社」は、別に尊重しているつもりがなく、社員を「縛ろうとする会社」も、同じく縛っているつもりがないことです。

それぞれ自分たちは普通に振る舞っているつもりのことが、客観的にみると大きく違っているのです。

 

これは自分たちのことを客観視できていないということであり、そのことで何か問題が起こった時、自分たちの力では修正できないということでもあります。社員を過剰に締め付けることはもちろん問題が多いですし、反対に社員の意思を尊重しすぎて、わがままやルーズさにつながってしまうこともあります。

 

コロナで働き方が変わってきたことを機に、自社のことをあらためて客観的に見直してみてはいかがでしょうか。

 

 

2020年10月19日月曜日

「イノベーション」と「働きがい」と「多様性」

日本企業の競争力の低下が言われるようになってから、ずいぶん時間が経ちました。

かつては時価総額ランキングの上位を日本企業が占める時代がありましたが、GAFAなどをはじめとした海外のIT企業が台頭して、今はトップ50にトヨタ自動車が唯一ランクインするだけという状況です。

 

日本企業の競争力が落ちてしまったのは、デフレなどの要因が言われますが、それよりも新しい産業やイノベーションを起こせなかったことが大きいという話があります。

確かに企業の現場の様子を見ていると、新しいことに取り組もうという雰囲気は少なく、せっかく新しい取り組みをしていても、企業内の承認のエスカレーション・プロセスの中でつぶされたり、特徴をそぎ落とされて普通になってしまったりして、イノベーションといわれるものは起こっていません。

そういうことへの危機感も薄い感じで、このまま日本がどんどん貧しくなっていってしまうのではないかという怖さを感じます。

 

多くのイノベーションは、既知のことの組み合わせから起こりますが、近しいものや似たもの同士の組み合わせではあまり画期的にものは生まれず、相互の関係が遠いほど、革新的な技術やビジネスにつながるとのことです。

例えばラーメン店同士、もう少し広げて飲食店同士の組み合わせよりは、まったく異業種相手の方が、イノベーションの可能性があるということです。

 

このイノベーションのために重要なのが、「多様性」だと言われます。専門性、価値観、その他属性の違う者同士が組んだ方が、革新的なものにつながります。

しかし最近は、どちらかというと自分と異質なものを遠ざけたり批判したりして、似た者同士や気が合う者同士で物事を進めようとすることが多いように感じます。企業の中でも、気心が知れた者同士のあうんの呼吸だけで仕事をし続ければ、新しいものなど産まれようがありません。

 

社員に企業理念への共感を求めるのはある程度必要なことですが、これも一種の同質性を求めていることになるので、行き過ぎには注意しなければなりません。「多様性」と「理念への共感」を両立させるには、いろんな人の価値観に刺さる多彩な共感ポイントを作ることが必要です。

企業としての基本的な価値観やバリューは共有しつつ、それぞれの社員の多様性を認め、その状況を保ち続けることが重要になってきます。「多様性」が企業の成長には不可欠な時代になっています。

 

もう一つ、この「多様性」は、社員の働きがいにとっても重要だという話があります。社員の定着や生産性を高めるために、働きがいを重視した取り組みを展開する企業が増えていますが、働きがいという個人の主観に対応するには、「多様性」に応えることが必須になります。

「多様性」が認められる環境では、お互いの価値観が尊重され、一方的な強制がなくなり、自律的な行動が可能になります。そこから自己肯定感や納得感が高まり、最終的には生産性や業績の向上にもつながるのです。

 

一見すると関係が無さそうな、「イノベーション」と「働きがい」ですが、このように「多様性」を橋渡しにして相互でつながっています。どうも日本の企業は「多様性」を認めるのが苦手なところがありますが、これからはそうはいきません。

 

2020年10月15日木曜日

「無駄なハンコ」とつながる3つの問題

「脱ハンコ」の話が取り上げられるようになって、特に官公庁で見直しが進むとなれば、かなり多くのことが変わってくるでしょう。

捺印することが他の方法でも代用できたり、そのこと自体が意味をなさずに不要であったりする場合が該当するのでしょうが、考えてみると金融機関や保険の手続きでは、ずいぶん前から署名だけで済むようになっていますし、今でもハンコが必要といわれるのは、様々な行政手続きと企業内での事務手続きが多いようです。

 

最近では、婚姻届と離婚届の捺印を廃止する方向という話を聞きました。これらのハンコには儀礼的な要素や気持ちのけじめといったものも含んでいるので、私は必ずしも廃止でなくても良いと思っていますが、それ以外にたくさんの無用な捺印行為があるのは確かなので、できるだけ無くす方向というのは当然の流れだと思います。

今は行政機関の外部と内部の書類手続きが数多くやり玉に挙がっていますが、実は民間企業の内部手続きでも、相変わらずハンコがやめられないところはまだまだ多いです。

 

「無駄なハンコ」の話は、それが本人の意思表示として必要なものだとされてきたのが、実はいらないのではないかということから出てきたわけですが、「事務手続きの簡素化」という中でのそういった無駄というのは、大小さまざまなことを多くの場所で見かけます。これは普通の会社で私が見かけた範囲だけでも、かなり多くのものがあります。

 

同じような提出書類の重複や、必要と思えない記載事項があり、それぞれの担当者に理由を尋ねると、「今までそうしてきたから」という答えをもらうことがたくさんあります。

そうなった理由を追いかけていくと、ある時期の担当者が自分たちの都合だけで手続きを決めた結果だったり、みんな無くても問題ないと思っていたものの、やめて問題が起こると嫌だから続けているだけだったり、ただ今までのしきたりというだけだったり、そんな無駄なことにたくさん出会います。

 

こういうことが起こっている組織では、大きく3つの問題を見かけます。

・変えることで損失を起こしたくないという「現状維持バイアス」

・自分が変えたという責任を負いたくない「責任回避」

・今おこなわれていることに疑問を持たない「思考停止」

の3つです。

 

これは、人間の本能的な心理という部分もありますが、そういった本人たちの意識の問題だけでなく、組織風土をはじめとした環境が影響していることが多々あり、それらにも大きく3つの要素が見られます。

・提案ができない、承認までの手続きが複雑など、「変えることへのハードルが高い風土」

・加点よりも減点が多い「失敗を責める風土」

・上司に力が強い「上意下達の風土」

で、この中では、誰か力がある人のリーダーシップがない限り、見直しや改革は難しいものとなります。

 

この「3つの問題」と「3つの風土」を持つ会社は、変革、改革、見直しができない点で共通しています。典型的な官僚組織は、まさにこの状況に合致しているのではないでしょうか。

改革、改善が進まないのは、それができづらい理由と環境があります。そういう悩みがある会社は、この「3つの問題」と、その原因につながる「3つの風土」にあたる状況がないかどうかを、今一度見直してみてください。

 

2020年10月12日月曜日

どんどん難しくなる「ハラスメント」の境界線

 「ハラスメント」にはいろいろな種類がありますが、最近聞いたものに「ロジハラ」というものがあります。

ロジハラとは、「ロジック・ハラスメント」の略で、正論ばかりを突きつけて、相手を追い詰めたり自分が優位に立ったりしようとするハラスメントを指すそうです。

論理的に説明しようとして、そのことまでハラスメントと言われてしまうと、私もさすがに絶対にしないという自信がありません。「正論だけで責めるな」「思いやりや共感が大事」というのはよくわかりますが、これをすべての人に対して実践するのは相当に難しいことです。

 

例えば、セクハラであれば、これをしてしまう人の言い訳は、親近感を示すためとか場を和ませるためとか、もっともな感じのことを言いますが、仕事の上で性的な話は一切なくても困りません。

言い訳しているような目的のことは他の手段でやればいいことで、セクハラに少しでも触れそうなことは、すべて職場から排除することができます。そのことに対するデメリットはありません。

 

これがパワハラになると少し違っていて、誰が見ても明らかな威圧や嫌がらせ行為はある一方、仕事上の指示命令や人材育成の一環としてやっているつもりだったことが、相手の感じ方によって誤解されるということがあります。

職場には上司・部下をはじめとした上下関係が存在しますが、すべてのパワハラを排除するには、この上下関係を職場から排除しなければならなくなり、現実的には難しいことです。これを防ぐには、誤解されないように相手との信頼関係を作り、自身の言動に気をつけるということになりますが、ハラスメントは相手の主観なので、なかなか全廃とはいきません。

他にもいろいろなハラスメントがありますが、そのほとんどが何らかの上下関係や人間関係上の強弱がある中でおこなわれる「強制」や「嫌がらせ」です。ほぼすべてが「上」の人(最近は部下からのパワハラもありますが)の言動や態度による問題で、その人たちの良識や自制、改心が解決手段になります。

 

ただ、このロジハラとなると、上下関係によらないすべての人間関係が対象になってきます。言われた相手が嫌だと感じれば、それは「ハラスメント」だということになりますが、そこには必ずしも威圧や強制のようなものがあるわけではなく、それを言われた人の「納得できない」「気分を害した」「意見が違う」などの負の感情があるだけです。「正論だけど思いやりがない」とか、「正論でもあなたに言われたくない」といった感情によるものなので、その感じ方のさじ加減は当の本人にしかわかりません。

 

正論を感情でとらえて、それが気にならなければ「ハラスメント」となってしまうと、それを防ぐには常に相手の顔色をうかがって、気分を害する言動をしないようにするしかなくなります。

特に「誤りを指摘する」「ダメ出しをする」というような、相手にとってマイナスの感情を持たれがちな話をする時は、できるだけ論理的に話して納得を得るようにすべきだと言われますが、そのちょっとした言い方によって「思いやりがない」などと言われて、ロジハラなどとされてしまうようでは、もう他人に対して苦言を呈することはできなくなってしまいます。

 

企業の現場を見ていると、確かにひどいハラスメントは存在していて、それは絶対にやめさせなければなりませんが、どうも最近はハラスメントといわれることが増えすぎているようにも感じます。

自分の気にいらない話でも聞いてみて、内容次第では反省して自分の行動を変えていかなければ、人としての成長はありません。もし可能であれば、相手から自分には受け入れられない言い方や態度があったら、これをその場で確認し合って直していけば、ハラスメントという状況にはならずにすみます。

最近のハラスメントの言い過ぎが、どんどんコミュニケーションを委縮させてしまわないか気になります。

 

 

2020年10月8日木曜日

「教えること」への遠慮

人材育成はどの会社でも課題の上位に挙げられるものです。

育てるためには「教えること」が必要ですし、他人に頼らずに「自分で学んでもらうこと」も必要ですが、このバランスが一番難しいところです。

 

「自分で学ぶ」の極端な例は、「見て覚えろ」「盗め」といった、古い職人の世界であったようなやり方です。よほどのことがなければ直接教えてもらえることはなく、練習する時間が与えられるわけでもなく、休日返上や睡眠を削ることで学ぶ時間を捻出します。

今の時代となっては非効率で、あまり良いやり方とは言えませんが、あえてこういうやり方の利点を考えると、自力で身につけたという成功体験とか、思い通りにならないことに対する打たれ強さが養われることとか、自己解決を工夫する力とか、そんなことが考えられますが、やはりあまりにも非効率で、身につくまでの時間がかかりすぎます。

昔はよくありましたが、球拾いをやり続けても野球はうまくなりません。

 

反対に「教えること」ですが、最近は職人のような世界でも、きちんと教えて少しでも早く一人前にしようとする取り組みが普通になりました。ここでは教えすぎのデメリットを言う人が今でもいますが、例えば手取り足取り教えた方が身につくのが確実に早い人がいたとすれば、教える側にとっては不本意な感じがしても、そうすることが一番効率的な指導方法になります。

 

特に最近は、教えを乞うと怒られそうな職人気質に見える人でも、昔のように心の底から「見て覚えろ」とは思っておらず、「教えること」の重要性は、実は多くの人がすでに理解しています。自分の持っているノウハウをできるだけ部下や後輩に伝えて、それを相手に役立ててほしいと思っていて、どう教えればよいのかと常に考えていたりします。

 

ここで問題なのは、自分自身はあまり教えてもらった経験がないために、何をどんなやり方で相手に教えればよいのかが、今一つ理解しきれないことです。ついつい教えられることがうっとおしいのではないか、自分なりに考えながらやりたいのではないかと思ってしまうのです。

こういう時に起こりがちなのが「教えること」への遠慮です。自分で道を切り開いてきた人ほど「教えること」には遠慮がちなところがあります。その状況を傍から見ていると、積極的に教えようとしない姿は昔ながらの「見て覚えろ」の世界と変わらないため、「教えること」を軽視しているかのように言われてしまいます。

ただ、その中身は実は昔とは全然違っています。「面倒を見てあげたい」「教えてあげたい」とは思っているのに、教えることへの相手の反応や、どこまで教えればよいのかという距離感を気にして、結果的に遠慮につながってしまっています。世代の違いや職業観、技術の違いも「教えること」への遠慮を助長します。

 

人材育成を、本人まかせで終わらせていたり、本人に丸投げしていたりする問題は、多くの会社で話を聞きますが、それは単純に教えることが嫌だとか面倒だとかということではなく、教える気持ちはあるのにその方法に悩んで、結果的に「教えること」に遠慮している状況が多数含まれています。

 

今は、人材育成の大切さを理解して、自分の経験やノウハウを部下や後輩に伝えていこうと思っている人が大勢います。「教えること」への遠慮を取り除いてあげれば、もっとスムーズに育成が進められるようになるかもしれません。

 

 

2020年10月5日月曜日

「プロ意識」と「転職」の関係

退職者に関する問題意識を持っている会社は相変わらず多く、相談される機会が多いテーマです。

ここ最近は「働き方改革」の流れもあり、職場環境の整備に力を入れる会社が増えました。もちろん会社によって対応できるレベルに限度はありますが、処遇、労働条件、職場環境をできうる限りまで高めようと、工夫や努力を重ねる会社がたくさんあります。

 

ただ、その効果が上がっているかというと、こちらも会社によっていろいろな状況がありますが、自分たちが満足するレベルになったという話は、残念ながらあまり耳にしません。

 

効果が上がらない理由の一つに、「働きがいの不足」が挙げられています。「働きがい」の定義として“働きやすさ+やりがい=働きがい”というものありますが、今は客観的に見えやすい“働きやすさ”に対応が偏っているように見えます。

この話は、現場の取り組みを見ている中では、それなりに根拠があると感じますが、では“やりがい”を高める方法はというと、これは簡単なことではありません。“やりがい”はほぼ個人の主観に基づくものなので、対応するにはとても多様な取り組みが必要になるからです。

「いろいろな仕事が経験できること」にやりがいを感じる人も、反対に「一つの仕事を長くじっくりできること」にやりがいを感じる人もいて、その矛盾した両方にこたえるには、それぞれ個別の主観に応じた対処をしなければなりません。これまでは普通のことだった会社主導の配置異動やキャリアパス設定では、もう対応していくことはできないでしょうこれまでの考え方を根本から考え直さなければならない時代になっています。

さらに、この“働きがい”が提供できたとしても、特に「プロ意識」が高い人の転職は、たぶん止められないだろうと思っています。

 

プロフェッショナルの転職で、私が思い浮かべるのはサッカー選手の移籍です。活躍したらさらに上のステージのチームを目指しますし、出場機会が得られないなど不本意な環境は、移籍でチームを変えることによって打破しようとします。

逆に選手が残りたくても残れないときはありますが、生え抜きで一つのチームしか知らないで引退するような選手は、特にサッカーではほとんど見かけません。

移籍金のシステムで、選手を送り出せばチームは報酬が得られるということはありますが、最高の環境のチームでも、選手は次を求めて移籍していきます。その理由は、やはり選手がプロで、自分にとってより良い環境を常に求めているからです。

 

これと同じような感覚での「転職」の話を、最近よく聞くようになりました。主に20代後半から30代あたりまでの若手社員です。

「働きやすくてやりがいがあって愛着もある良い会社だけれども、この会社でできることは経験したと思うので、卒業して次の会社で頑張る」などと言います。自分なりのキャリアパスを描いていて、そこで不足している経験やさらに上のレベルの仕事経験が、その会社ではできないとわかれば転職という選択をします。プロ意識が高い人ほどそういう傾向があります。

 

ここからすると、どんなに“働きやすい”環境を作っても、さらに“やりがい”を導いて“働きがい”を作り出しても、やはり辞める人は辞めてしまいます。プロ意識が高い“仕事ができる人”ほどその傾向が強いかもしれません。自社の努力で退職を食いとめることの限界です。

 

ただ、だからといって“働きやすさ”や“やりがい”を高めることが不要というわけではありません。今のところは、どちらかといえばそこまで高いプロ意識を持たない人の方が大半でしょう。今は多くの働き手のために、“働きやすさ”と“やりがい”が必要です。

なかなか思うようにいかない退職者対策ですが、「会社に頼らない」という意識が高まっていくと思われるこれからは、ある程度は仕方がないこととして割り切る必要があるのではないでしょうか。

 

2020年10月1日木曜日

「対面すること」の価値が上がる

コロナのせいで、人と会うことが難しくなっています。アフターコロナの働き方は、「会わずに済ませる」「移動しない」ということが、ごく普通になっていくだろうと言われています。コロナが収束したとしても、もう以前のようには戻らずに、出かけない、会わないが当たり前で、リモートの方が主流になっていくという話です。人が集まることや出会うこと、場を提供することをビジネスにしていた人たちは、これからの先行きに大きな不安を抱えています。

 

実際に様々なリモートツールを使って仕事をしてみると、結構不自由はなく、かえって生産性が上がるように感じるときもあり、意外にどうにかなるものだと思う反面、実際に人と会う機会があると、「やっぱり直接会って話せるほうが良いなぁ」と思います。会う機会が少なくなったせいもあって、そう思うことがよけいに多くなりました。でもこれからは、「いちいち人と会う手間は省こう」と考える人は、きっと増えていくのでしょう。

 

そんなことを考えていた中で、ある知人のコンサルタントに言われたのが「これからは“対面すること”の価値が上がっていく」という話でした。「対面のプレミア化」ということです。価値が上がるということは、それに関するビジネスの可能性もあるということです。

 

例えば、いまは経営が厳しくなっている飲食店が多く、みんなテイクアウトなどの工夫で頑張っていますが、料理というのは基本的に出来立てを食べた方がおいしいに決まっています。ここで、テイクアウトで構わない人とお店で食べたい人に分かれていくでしょうが、これはその場に行くことの方が、提供される価値は高まることになります。どこかの港に行かないと食べられない魚があるのと同じような話ですが、お店に行くことの価値が高ければ、対価もそれに見合ったものにしてよいはずです。

 

また、これからの営業活動は、直接「対面する」ということがたぶん段階を踏まないと難しくなります。アポしてとりあえずリモートならコンタクトできて、それを突破してようやく対面できるかどうかです。リモートだけで売れるものもあるでしょうが、高額なものほど直接対面して話した上で契約するという形は続くのではないでしょうか。これも「対面すること」の価値が上がっている一例でしょう。

 

ライブや音楽イベントで、これを機に「もうリモートでいい」と言っているファンには出会ったことがありません。その場で体感することの素晴らしさを知ってしまった人たちならば当然ですが、イベントが途絶えてしまったことで、逆にイベントの価値は上がっていると思います。もし再開されたら、どんなに高額なチケットでも、待ちわびた人たちが殺到するのではないでしょうか。

 

コロナが過ぎても「対面する機会は減ってしまうだろう」「だから自分たちのビジネスは難しくなるだろう」と、憂鬱な気持ちでいる人は多いかもしれませんが、対面することの良さや楽しさを知っている人たちは、そんな簡単に人と会ったり集まったりすることを切り捨てはしません。ただし、「対面で会うことに価値はあるのか」「その場に行くことに価値はあるのか」という判断は確実にするようになります。これも対面することがプレミア化しているからだと言えるでしょう。

そうなると、「あの人に会いたい」と思われる魅力や信頼関係、「あそこに行きたい」と思わせる楽しさや付加価値が大事になります。

 

私は、これからもずっと人と会う機会が少ないままで、人間関係が希薄になるようなことはないと思っています。逆に「対面」の大事さをあらためて感じて、その価値が上がっています。ただしそこでは、「大事な時間を使って対面する相手は誰か」という選別がされるようになります。

対面の価値が高まることで、これからは意義がある楽しい時間が増えていくのではないかと、今はちょっと前向きに考え始めています。

 

 

2020年9月28日月曜日

「自分で何とかする意識」が強すぎる気がする若い世代

ときどき電車の中で見かける光景ですが、つい先日も座席に紙屑のようなゴミが落ちていて、ある若い女性が拾って自分のカバンにしまっていました。たぶん後で捨てるのでしょうが、いろんな人が気づいているのに見て見ぬふりをしている中で、こういう行動ができるのは素晴らしいと思います。

 

電車の中をペットボトルが転がっていて、それを拾って下車する大学生くらいの男性がいましたし、忘れ物の傘をわざわざ駅員に届ける若い男女のカップルもいました。どれもみんなが知らん顔で放置してしまいがちなものです。

 

ある年配の男性が財布のようなものを落として気づかずに下車してしまったのを、見た瞬間に拾ってダッシュで追いかけた若者がいました。発車間際だったのでそのまま電車のドアは閉まってしまい、彼は再乗車できませんでしたが、ホームで落とし主から何度もお礼されている姿が見えました。私も落としたところは見えたので、たぶん届けようとしたとは思いますが、その時の自分の予定とか、あとから駅員に届ければいいとか、そんなことを考えてしまって、あんな瞬時に行動することはできなかったでしょう。

 

多少の印象の偏りはあるかもしれませんが、こういうことで私の目につくのは、ほぼすべてが20代から30代前半くらいまでに見える若い世代の人たちです。もちろんすべての若者がそうではないですが、自ら行動する人には若者が多いと感じます。私も含めた年令が上の世代は、男女ともに見て見ぬふりや知らんふりする人がほとんどです。

 

こういう行動について、若い世代に話を聞いてみると、何人かから言われたのは「どうせ誰かがやらなければならないのだから、気づいた自分がやればいい」「人任せにしないで自分がやった方が早い」「自分が気になれば自分で解決するだけのこと」などという話でした。他人のせいにしないで自分で行動する姿勢です。

 

ただ、こんな話を含めて、最近の若者たちを見ていて感じることがあります。それは、「自分のことは自分で何とかする意識」、すなわち“自己責任”の意識が強すぎるのではないかということです。

ある会社であったトラブルですが、若い担当者からの報告が遅かったことがトラブルを大きくする原因となってしまっていました。しかし、あとからわかったのは、とにかく自分のミスなので、上司や先輩に迷惑をかけずに何とか自分だけで解決しようと動いた様子でした。

「上司に怒られたくない」などという気持ちは一切なく、ただひたすら「自分のことは自分で」「他人に迷惑をかけてはいけない」という一心だったようです。

 

最近の新人研修では、何かの課題に関して「お手本はないか」「マニュアルが欲しい」といわれることが多いですが、これも単なる依存心ではなく、「調べられることは自分で調べる」「自分のことで他人の手を煩わせたくない」という自己責任の意識があるように見えます。

また、「失敗を恐れる若者が多い」と言われますが、これも「自分の失敗で他人に迷惑をかけたくない」という自己責任意識を含んでいるように感じます。

 

実際にこういう傾向があるのかどうかを調べていると、立命館大学社会学部の富永京子教授の記事の中に、「特に今の若い世代は社会に広がる自己責任論の洗礼を受けてきた人が少なくなく、何かと“自分のせい”にしがちな傾向にあるように思う」と書かれていました。「もっと社会や環境のせいにする視点は必要」とのことで、私も今の若者を見ていて「もっと周りに頼ればいいのに」「もっと他人をつかえばいいのに」と思うことがあります。

 

記事の中には、「日本人は成功と失敗どちらも自分のせいにしたがり、たまたま運がよかったから成功したとか、環境が悪かったから失敗したとは、あまり考えない」という話がありました。自己責任は、若者に限らず日本社会全体の傾向なのかもしれません。

他人にあまり自己責任を求めず、お互いが気軽に頼り合い、支え合っていける社会になればよいと思います。

 

 

2020年9月24日木曜日

あらためて考えた地方企業との事情の違い

このコロナ禍で、出張をはじめとした移動はずっと先延ばしにしてきましたが、最近は多少落ち着いてきたという判断で、久しぶりにある地方都市の企業を訪問してきました。

 

幸いコロナで大きな影響を受ける業種ではなかったため、ほぼ前年並みの業績で推移しているとのことで安心しましたが、それでも小さな影響はいろいろあったようです。そんな話を聞いていると、首都圏の企業とは結構大きなギャップがあることを感じます。

それは危機感や温度差の違いもありますが、もともと前提となっている職場環境や生活環境の違いも、かなり大きい感じがします。最近に言われている「新しい生活様式」は、首都圏で生活しているとその必要性が納得できますが、地方では当てはまらないことがたくさんあります。

 

訪問した企業から聞いた話ですが、やはり社外からの訪問は、緊急ではない限りは断ったり先延ばししたりしていることが多いようで、社員の間で、感染への警戒感と予防意識は徹底されているようです。ただ、地域の感染状況からして、ちょっと気にし過ぎではないかという人は結構いました。街中の店舗などの様子を見ても、首都圏に比べると結構ゆるさを感じます。

 

この会社でも、一部でテレワークを実施したそうですが、その事情は首都圏の企業とはだいぶ違っています。実施したのは、感染拡大時期にどうしても東京出張しなければならなかったごく一部の社員の帰郷時に、経過観察の待機のために実施したということでした。ほとんどの社員は、まったく通常のままの勤務体制で、仕事を続けていたということでした。

 

この会社では、通勤でごく一部にバス路線を使う社員がいるものの、社員の95%以上は自家用車での通勤です。そもそも地域としての生活スタイルが車社会で、自転車に乗るのも高校生くらいまで、歩いて移動することはほとんどないと言っていました。通勤時の密などは、そもそもあり得ない環境です。

 

さらに、基本が職住接近なので、通勤時間は20~30分以内の人がほとんどです。以前、この会社で在宅勤務に関する希望を聞いてみたところ、「家で仕事をするなんてとんでもない」「絶対にやりたくない」という声がほとんどでした。理由は単純で、通勤の負担感がもともとないため、わざわざそんなことをする必要性を感じていないということです。

その頃の首都圏の会社では、「テレワークを希望しても許されない」ということへの不満が言われていました。テレワークへの前向きなとらえ方は、実は通勤負担の軽減に集約されていたのかもしれません。

 

仕事のことからは少し離れますが、この地域の大人はみんな車で移動しており、比較的高齢の人でも自分で運転しています。公共交通機関はとても使い勝手が悪く、そもそも近くに駅などありませんから、車以外に日常の足はありません。

東京周辺では、特に高齢者に免許の返納を勧める動きが顕著ですが、地方の生活環境でそれを言うのはまったく不可能です。よく考えると、車が無くても生活できるのは、実は日本の中では東京くらいしかなく、東京の環境の方がかなり特殊ではないかという感じがします。

 

企業の人事施策にはいろいろな考え方がありますが、こんな地域の事情にも配慮しなければ、効果的な施策は打ち出せません。人事というのは、一般的に言われていることだけでなく、その地域に根差した生活環境までをしっかりと理解しなければ、適切な対応はできないものだとあらためて感じています。