2017年3月31日金曜日

人材を「駒」と見てしまう危うさ



ある金属部品の加工メーカーで、熟練の職人Aさんが退職することになりました。雇用延長を重ねてきたもうすぐ70歳の人で、さすがに体力的にもつらくなってきたので、いよいよ退職だということです。
会社は時短勤務などでの契約延長を打診しましたが、ご本人は「キリがなくなってしまうから」と固辞されたようです。

現場の工場長を始め、若い職人たちからは一目置かれている人ですが、決して面倒見が良いわけではなく、どちらかといえば無愛想で、ちょっととっつきにくい雰囲気の、いかにも職人さんらしい人です。
 管理職経験もなく、何か先頭に立ってやるわけでもなく、会社の制度の中では決して高い評価をされたということもない、目に見える実績だけで言えば、「その他大勢」と言われても仕方がない人です。

この方が退職してからすぐ、会社で製品の品質トラブルがありました。原因を突き詰めていくと、ちょっとした確認事項の漏れがあったそうですが、今までこのあたりについて、何かとアドバイスをしていたのが、実は退職したAさんだったそうです。

Aさんがいた頃は、「こういう製品の場合はここに注意しなければ」「この部分だけは確認しておいた方が良い」、「こういう加工の仕方をすればやりやすい」「こういう処理をすれば加工できる」などといった、経験に基づく細かなアドバイスをしていたそうです。

自分から積極的に声をかけるわけでも、体系的に教えてくれるわけでもなかったようですが、勘所を押さえた細かなアドバイスが、会社全体の品質に大きく貢献していたということです。

だからこそ現場の社員たちから一目置かれていて、みんなが自分からアドバイスをもらいに行くのもこういうところからだったようですが、本人は直接手を下しているということでもなく、成果としては目に見えづらいものであったということに、本人の控えめな性格が相まって、会社としては実態をあまり認識できていなかったということです。
「いなくなって初めてその価値がわかる」という典型だったようです。

最近は多くの業種で人手不足が言われていますが、企業によって景気はまだら模様であり、規模はそれほど大きくなくても、人員削減を行っている企業は今でもあります。

こういう人員削減の際に、多くの場合で意識されるのは、人数規模の問題です。
どの部署、どの職種、どの年齢層から何人減らすかということですが、人件費から見た価値は同じであったとしても、どこの誰が対象になるかということによって、その後の現場の状況は大きく変わってきます。「人材」という経営資源は、費用だけでは把握できない価値の違いがあります。

企業の経営資源を分析するために使われるフレームワークに、「VRIO分析」というものがあります。経営資源の価値は、その資源がビジネスでもつ「経済価値(Value)」「希少性(Rareness)」「模倣可能性(Imitability)」「資源組織化の程度(Organization)」の4つに区分されており、その区分ごとに分析をすることで、その企業の経営資源がどれだけ優位性を持っているのかを把握できるということです。

「経済価値」とは、市場で企業の経営資源が経済的な価値があると認識されているかどうか、「模倣可能性」とは、同レベルの人材をつくり上げるのにかかる時間と手間、「希少性」とは、外部から調達できる可能性の評価、「組織」とは、スキルは同じでも、特定の人と組むとパフォーマンスが上がるなど、組織化の度合いということです。

多くの企業でよくあることですが、「一人ぐらい辞めても大丈夫」「彼がいなくても現場は回る」「辞めたらまた採用すればよい」といい、人材を「駒」のようにとらえて、人の入れ替わりを問題視しないことがあります。

ただ、人材というのは単にスキルだけではなく、意欲や気分や会社への帰属意識などの心理的な側面が伴って、初めて企業にとって価値ある資源になります。
他の経営資源とは異なり、人材には心があります。人材をただ企業としての構造改革や事業戦略上の駒として、目に見える数字の上だけのとらえ方ではなく、こういう複雑な側面があることも考えた意思決定が必要になっていると思います。

いなくなって初めてわかること、それが思いのほか大きな価値であったということは、特に現場レベルの仕事では、本当によく見かけることです。

2017年3月29日水曜日

なぜ「インセンティブ」が「インセンティブ」にならないのか



インセンティブとは、奨励や刺激、報奨を意味しており、会社においては、社員に刺激を与えてやる気を起こさせることをいいます。

私の知人のある社長は、社員のモチベーションを大きく上げるため、この夏の賞与を思い切って増額するつもりだそうです。増額分は高評価者を中心に振り分け、それまでの努力に報いることを見せつけて、多くの社員のやる気アップにつなげたいとのことです。
「インセンティブがなければ、人は行動しない」「だから経営者はインセンティブを用意しなければならない」と考え、そのための投資の位置づけだということです。

産業再生機構のCOOを務められた冨山和彦氏の著書の中に、「人間はインセンティブの奴隷」という言葉があります。「人は自分がやりたいと思うことに忠実に従う」ということで、動機が不十分では自分の目的達成を優先するので、会社は社員のインセンティブと会社の方向性を合わせなければ、社員の本当の力を発揮させることはできない、という話です。

この言葉からすれば、「インセンティブを用意する」というのは正しいことです。私もインセンティブは間違いなく必要だと思います。
ただ、私が昨今の企業の人事管理の現場を見ていて、前述の社長のやり方で、思い通りの効果を発揮することは、たぶん難しいだろうと思います。
その理由は、用意されたインセンティブが「お金」だけだからです。しいていえば、それにつながった「名誉」と「優越感」くらいはあるかもしれません。

ここで、「お金をもらって困る人はいないだろう」と言われれば確かにそうですし、「お金をもらえばうれしいだろう」と言われれば、まぁ不機嫌になる人はいないでしょう。ただ、だからといって、そのためだけに一生懸命働くようになるかと言えば、それはまた別の問題です。

20代、30代の若い世代では、よく「物を買わなくなった」などと言われますが、自分にとって必要なものについては、積極的に消費をします。ただし、必要な物は人によって様々で、テレビやパソコン、冷蔵庫といったものでも不要という人がいます。
もちろん将来に備えて貯金したりもしますが、何か目的がある訳ではないので、それほどの執着はありません。どうしても欲しいものは、それほど数は多くなく、「いまたくさんお金をもらっても、どうしてよいかわからずに困ってしまう」などという人もいます。
要は、大勢の人に共通した「インセンティブ」になり得るものが、なくなってきているということです。

かつては「お金」や「役職」「地位」「肩書」などが共通的なインセンティブになっていましたが、今はそうではありません。「お金」よりは「時間」や「場所」や「仕事内容」であったり、「会社のため」よりは「社会のため」「家族のため」であったりします。「役職」に就くことを嫌がり、あえて良い評価を望まない人がいます。

しかし、いま会社の経営にあたっている世代の人は、そういう発想がなかなか理解できません。そもそも企業の中で一定以上の地位に達した人たちですから、会社が用意した「給料」「地位」といったインセンティブに魅力を感じ、それに忠実に応えて、なおかつ勝ち残ってきた人たちです。自分の成功体験とは正反対の価値観を、理解できないのは無理もありません。

今の時代、万人にまんべんなく受け入れられるインセンティブは、なかなか見つけられなくなっています。ここ最近で従業員満足度が高いといわれる会社では、社員一人一人に細かく向き合って、限りなく個別論でのインセンティブを用意しています。

人の嗜好や行動を“マス”でとらえようとする考え方は、私はもう成り立たなくなっていると思います。手間はかかっても、多くの人の気持ちを網羅できる多様なインセンティブが用意できるそんな仕組みと風土を実践できる会社しか、生き残れなくなってくるのではないでしょうか。

2017年3月27日月曜日

「この話は役に立つのか」といった人が、受け止め方で損していると思ったこと



ある会合のセミナーの後、いつものように懇親会がありました。
そこで何度か見かけたことがある、たぶん年齢60代前半くらいと思われる男性が、私に「今日のセミナーの内容は、皆さんは聞いていて役に立つのですか?」と聞いてきました。

当然ですが、セミナーテーマは事前に告知されていますし、その時の内容は、心理学的な知見を対人コミュニケーションやマネジメントに活かそうというものだったので、たぶんほとんどの人に何らかの形で役立つものだと思います。ただ、その男性にとっては、どうもそうではなかったようです。

私自身は、わりとどんな分野の話でも興味を持って聞く方ですし、その道の専門家の話というのは、どんなテーマであったとしても、一つや二つは必ず学びになることがあります。
ただその人は、「自分にとっては何が面白いのかさっぱりわからない」「もっと自分の専門分野につながる話が聞きたい」などとおっしゃいます。共感できることがよほどなかったのかもしれませんが、他の聴講者の反応から見ても、かなり異質の捉え方です。
セミナーテーマは初めからわかっている訳ですから、「それなら初めから聴きに来なければいいのに・・・」と言いたいのを飲み込んでいました。

その後、この男性は別の女性にも同じ話をしていましたが、その女性からはこんな反論をされていました。
「自分の知らない話だからこそ、面白いのではないですか?」
「自分の専門分野の話は、そのつもりになればすぐ聞けるのではないですか?」
「私は自分があまり知らない分野な話だったので、興味深くてものすごく面白かったです!」
「自分の仕事に活かせそうなことが、いくつもありました!」
このやり取りを聞いていて思ったのは、情報を自分の身になるようにするには、結局はその人の好奇心の持ち方と、受け止め方の違いしかないのだということです。
ちょっと言い方を変えると、「いかに自分事に置き換えることができるか」ということで、さらに言えば、「何でも面白くないという人は、何でも面白いという人より損をする」ということです。

たぶんこの男性は、自分にとってあまり興味がない話で、何に活かせるかをイメージできず、自分事にはできなかったのだと思います。本人にとっては、あまりにも自分からかけ離れた内容の話だったかもしれず、それについて責めることはできませんが、もともとの好奇心の幅は、あまり広い人ではなかったのではないでしょうか。

一方、反論した女性の方は、もしかしたらもともと自分の興味が強い分野の話だったかもしれませんし、直接的に役立つ話だったのかもしれませんが、自分事として取り込む力と好奇心の広さがあることはわかります。「知らない話が面白い」というのは一種の知的好奇心ですし、過去にもそれが満たされる経験をしていて、そういう受け止め方をするようになったのではないでしょうか。

この受け止め方というのは、自分がちょっと意識するだけで変えることができます。自分の身の回りであったことと重ね合わせたり、過去の経験と突き合わせたりすることで、自分事につなげることができますし、「面白い」「役に立つ」という成功体験が増えれば、好奇心の幅も広がります。

これは個人的な話ですが、「あの時に興味がないといって何もしていなければ、その後の大きな展開はあり得なかった」という出来事が、ここ最近続けて何度かありました。
とりあえず話を聞いてみて、参加してみて、そうやって受け入れてみた上であらためて考えることが、やっぱり何かと良いように思います。