2017年10月30日月曜日

自覚がない「他責」の人


「他責」という言葉は多くの人が戒めとして使い、何でも人のせいにしてしまう無責任だと言われるような人に出会うことは、もうめったにありません。
ただ、そうは言っても、企業には未だにセクショナリズムといわれるようなものが存在し、そこまで露骨ではなくても、「うちの部署ではない」「うちのグループではない」などと、担当する仕事や責任を押し付け合う光景を見かけることはあります。
「他責」は良くないことだと知っていても、それをすべてなくすことは難しいようです。

これはある会社でのことですが、何でも他部署、他人の責任に押し付けるという評判のマネージャーがいました。社員の誰に聞いても、「自分でやろうとしない」「仕事をできるだけ人に押し付けようとする」などといわれています。

ただ、本人にこの話を聞くと、そんな自覚はこれっぽっちもなく、まったく悪びれずに「心外だ」といいます。
周りから指摘されている一連の「他責」といわれることは、本人からしてみると、あくまで「適切な業務分担を指示しているだけ」「仕事の交通整理をしているだけ」なのだそうです。しかし周りの人たちから見ると、「割り振る先が100%自分以外の誰か」「自分で何かを引き受けることはほとんどない」ということなので、認識がずれているのは間違いありません。

この話を聞いた時、まず思ったのは「他責と言われるようなことは絶対に無くならない」ということと、「こういう“自覚がない他責”というのは、実はかなり数多く起こっているのではないか」ということです。
もし「他責だ」などと名指しで指摘されたとして、それを素直に認める人というのはそれほど多くはないと思いますが、それは「事実だが認めたくない」ということ以上に、「自分はそう思っていない」「そういう自覚はない」ということの方が実は多いのではないでしょうか。

そうなると、例えばこんなことを言っている私自身も、実は「他責」と言われる行動を自覚していないだけという可能性があります。
理屈が通った「仕事の割り振り」と、他責の感覚による「仕事の押し付け」というのは、顕在化して目に見える行動としてはほとんど変わりません。しかしやっていることの質に関しては、とても大きな違いがあります。
ただしその違いは、本人が自分を客観視できる力がなければ、なかなか自覚することはできません。それは他人から指摘されたとしても同じことです。その結果として、当の本人はまったく自覚しないままで、「他責」がまかり通っているということがあり得ます。

“自覚がない他責”というのは、実は意外に多そうです。自分の行動が「仕事の割り振り」なのか、それとも「仕事の押し付け」なのか、そこに“他責”の心理が含まれていないのかは、あらためて良く見直してみる必要がありそうです。


2017年10月27日金曜日

「“やる気”“モチベーション”は十分条件ではない」ということを忘れない



いろいろな会社でリーダー、マネージャーの人たちに話を聞くと、部下やメンバーの「やる気」「モチベーション」を課題に挙げる人が数多くいます。
「モチベーションを下げないように」「やる気を失わないように」ということを重視していて、コミュニケーションの取り方に注意し、できるだけそれに見合う仕事を与えられるように意識しています。

人の意識にポジティブな影響を与える心理学的アプローチやコミュニケーション技法は、数多くの書籍やそれに関する情報をたくさん見ることができます。それらのものを調べて組織マネジメントの参考にするのは良いことですし、リーダーには必要なことでもあります。

ただ、こういう取り組みを意識的に実行しているにもかかわらず、「うちのメンバーはやる気満々」「いつでもモチベーションが高い」などと評価するリーダーには、残念ながらそれほど多く出会えるわけではありません。いろいろ意識や工夫をして、また苦労をして取り組んでいても、なかなか思い通りに盛り上がらない、高まらないということがほとんどです。

ただ、それはある意味当然のことです。「やる気」「モチベーション」というものは、その人その人によって感じ方のツボが違う“主観”に大きく左右されるものだからです。
例えば、一般的に言われる「やりがい」「興味」「インセンティブ」などを駆使すれば、もちろんそれなりに効果はありますが、その程度は人によって違います。自分にとって「やる気」が出るような事柄でもそうは感じない人がいますし、その逆に絶対にやる気を失いそうなことであっても、全然そうではない人もいます。

ある会社に、納期が近づき仕事が切羽詰まってくるほどになぜか表情がうれしそうになり、どんどんやる気を見せるという人がいました。徹夜勤務がちらつき始めると口数が増えてきて、そうなってしまった当日は結構なハイテンションで働いています。他のメンバーの暗い疲れた表情と比べると異質ですが、その人は追い込まれると気分が盛り上がって「やる気」が出てくるということなのでしょう。

他にも、例えば細かい緻密な作業を好む人もいれば嫌がる人もいますし、責任が重いことでやる気が出る人も、逆にプレッシャーを嫌がる人もいます。そういう個人の特性に合わせようとすることは必要ですが、そんなに都合良くそれぞれのタイプに合う仕事があるわけでもありません。

もう一つの問題は、「やる気」「モチベーション」は主観に近いことであるにもかかわらず、「上司のせい、会社のせいでやる気が出ない」という人がいることです。
しかしそういう人は、指摘した原因が改められたとしても、たぶんやる気を出すことはありません。その多くは、結果が出ていない状況を、「やる気が出ない」といって正当化しているだけで、「やる気が出ない」のではなく「やる気がない」ということです。
こういう姿勢の人は、状況が変わってもまた「やる気が出ない」との言い訳になる理由を探すので、結局は同じことになります。
どんな働きかけをしても、ほとんど無駄ということになりますが、ここでも「やる気が出ない」のか、それとも「やる気がない」のかは、やはりその人の内面にあるものなので、周りから見極めることの難しさがあります。

私がお伝えしたいのは、「やる気」も「モチベーション」も、それを高めようと意識することはとても大事なことですが、それがすべてを解決する魔法の杖のように思ってはいけないということです。それをやったからといって、必ず生産性が上がるわけでも、目標達成されるわけでもありません。

「やる気」「モチベーション」を高める取り組みは、確かに必要条件ではありますが、十分条件ではありません。にもかかわらず、そのことが忘れられて、いつの間にか「やる気」「モチベーション」を高めることが目的化していることがあります。「やる気」「モチベーション」をよく口にするマネージャーほど、そんな傾向があります。

取り組まなければならない課題であることに変わりはありませんが、そのこと自体が目的ではないという意識は持っておく必要があります。

2017年10月25日水曜日

「基礎」「原点」「原則」は大事でも、こだわり過ぎるのは非効率を生む



もう何年も前のことですが、ある会社の業務改善や効率化を進めようとする中であったことです。

経理部門の一部で、未だに手書きでの帳簿記入がおこなわれていました。経理部長が「手書きでの記帳を知らなければ、経理事務の基礎が理解できないから」ということです。
そのこと自体はおっしゃる通りで、否定はできないことです。

ただ、例えば私のような経理事務の素人でも、会計システムを使うことで自分の事務所の処理は特に問題なくできています。初めはよくわからなかったことでも、続けてやっているうちに徐々に全体が理解できるようになってきました。
それでも帳票の種類や機能を細かく知っているとか、そこに何をどう書くとか、さらに全部手書きでやれなどとなると、できるかどうかはちょっと自信がありません。もしかすると知っておくべきなのかもしれませんが、独立して今までの10年間で、実務上そこまでの「基礎」は必要になったことは一度もなかったからです。

前述の会社の業務改善の場合も、このくらいの認識で問題はないと思うのですが、とにかく経理部長が古いやり方にこだわってしまったため、改善や効率化がなかなか進みませんでした。

他にも、特に技術的な仕事の場合には同じようなことがあり、「原点」「原則」がわからなくなるから、あえて昔ながらの手作業や古いやり方を知らないとダメだという人がいます。やはりその指摘自体は間違いないことですが、果たしてそこまでさかのぼった基礎知識、原点や原則の考え方が実務上で必要になるかというと、そういうことは年に何度もあるわけではありません。

確かに何か特別のトラブルなどがあったとき、古い知識があったおかげで解決が早かったというようなことはありますが、その一方それは頻繁に起こることではありません。もし頻繁に起こるならば、今の実務上必要な基礎知識として、きちんと教えておかなければならないことですし、そうではないレベルのことにこだわり過ぎると、今度は効率的に仕事を進めることができなくなります。

例えば、ゴキブリ駆除をしようとして、駆除方法に種類による違いはありませんから、家にいるゴキブリの種類を知る必要はありません。
しかしこれがヘビとなると、話が違ってきます。毒があるかないかによって処置が違いますし、ヘビの種類によって抗ヘビ毒の血清が違うと言いますから、こちらの場合は種類の違いを知っておかなければなりません。ただ最近は、より多くのヘビ毒に効く血清があるそうで、そうなるとそこまで細かく種類を見極める必要性は減ってきます。

このように「基礎」「原点」「原則」として必要な知識は、その対象や時代に必要とされる実用性のレベルによって変わっていきます。


「基礎」「原点」「原則」は、総論としては大切なことですが、それにこだわり過ぎてしまうと改善や効率化を阻みます。どこまでが「必要な知識」で、どこからが「ムダ知識」になるかは、その時代によって変わっていきます。
ちなみに古いものにこだわって効率化を阻むのは、ほとんどが年長者のベテランです。これは私自身も含めてですが、自分が過去にやっていたことや恩恵が得られたと自負していることを、今は不要と言い切るのは意外に勇気がいることです。しかし、どんなに経験豊富なベテランであっても、そういう変化と割り切りは絶対に必要です。

その時代に何が必要で何が不要なのかの線引きは、実はこのあたりの人たちの意識にも要因があるということは、よく考えておかなければなりません。


2017年10月23日月曜日

意外に大きい「年令」という相性



かつてのような年功序列制度はほとんどなくなり、仕事ぶりは年令ではなく能力、実績、成果で評価されるようになってきています。確かに年令が上だからと言って、その人が役職や立場も同じように上ではないことが増え、「年下上司」や「年上部下」の話は、どこの会社でも普通に聞くようになりました。

一般的な企業の人事制度やその他の仕組みの中で、年令による区別や有利不利というのは、少なくとも表向きのルールの中ではほとんどなくなっていますし、実際にもそれなりの運用がされるようになっています。
しかし、差別やえこひいきといったことも一切抜きにした、人間の純粋な本音の気持ちの部分で見ていると、これは私自身も含めてですが、「年令」を気にしていることは実は結構多いと感じています。

例えば、私自身のコンサルタントとしての仕事で言えば、お付き合いをしていく企業の経営者や管理者、懇意にしている関係者の年令層は、自分と同年令周辺の方々が確実に多いです。これは決してこちらからそういう選び方や営業の仕方をしている訳ではなく、顧客からの選ばれ方がそうだということです。

多くの企業で中核を担う人材は、だいたい30代後半から50代前半くらいまでが多いですが、顧客からしても、やはり自分と年令の近い相手の方が話しやすい、相談しやすい、コミュニケーションが取りやすいと思うようで、例えば私と世代が違う同業者のコンサルタントに聞いても、自分の年令とプラスマイナス5、6才の間の顧客からの仕事が一番多く、実際に仕事をしていてもいろいろとスムーズに進められることが多いと言っていました。

これは仕事以外でも同じで、もしも会社で全社員が参加するパーティーその他の集まりがあったとして、特に席次でも指定されない限りは、たぶん同じ部署でなおかつ同世代でかたまる人が多いです。

これは完全に実力主義のプロスポーツのような世界であっても、例えば同じチーム内でも行動を共にするのは比較的同世代が多いとか、代表チームなどに選抜された合宿のような場所でも、食事中や余暇などの場面では、何となく同い年くらいの人たちでつるんでいるとか、そんな話は多々あります。

もちろん、どんな場所にも世代に関係なく交流する人はいますが、これもあくまで組織上の役割を意識してのことか、もしくは日頃交流が少ない人と意識的に話そうと考えたか、いずれにしても無意識ということではないはずです。何か特に意識をしていなければ、たぶん知っている者同士、なおかつ年令が近い人同士で行動していることが多くなると思います。

こうやって見ていくと、年令の近しさというのはそれが誰にとっても気楽で落ち着いて安心できるということですから、これはもう一部の人の偏った心理ということではありません。このような「年令の相性」というのは、わりと人間の本能の近くにあるのではないでしょうか。

少し前にシニア世代の活躍について書いたことがありますが、私が現場を見ていてネックと感じるのは、自分よりも年上を受け入れる経営者や管理者が意外に少ないということです。表向きには仕事能力のことを言いますが、やはり「年令」という要素は大きく、初めは年令は関係ないなどと言う人でも、突っ込んで聞いていくとやはり年令的な縛りの意識があったりします。シニアが多く活躍している職場は、実は経営者や監督者が結構高齢で、その人にとってはみんな年下ということがあります。

もし「年令」の感じ方に、人間が持っている本能的なものが関係しているのだとすれば、これは理屈や制度だけでどうにかできることではありません。組織に属する人にとって居心地が良く、それを効率的に運営しようと考えると、この「年令」はとても重要なファクターということになります。「年令」を十分に意識して、人の組み合わせをよく考えて、それをうまく利用するということが必要になります。

「年令ではない」けれども「年令はある」というのはある種の矛盾ですが、これを意識せずに組織をまとめていくのは意外に大変だと思います。