2017年12月29日金曜日

「人材を選ぶ」が通用しない時代になっている



あまり良い話ではありませんが、「あいつは使えない」のような言い方で、人材の能力不足を指摘する話は、どこの会社でも見かけることです。
こうなってしまったとき、もちろん指導方法や仕事内容の見直し、配置転換といったことも考えますが、必ず採用時にどんな見方、判断をしていたのかという話になり、人材の選び方の教訓として扱われます。

このこと自体は決して間違ったことではありません。特に入社後まもなく起こるトラブルや早期退職といったことには、必ず採用時の見極めに関する問題があります。
こういうことにつながりそうな様子というのは、面接などの採用選考の中で誰一人全然気づきもしなかったということはめったになく、それを重要視していなかったり、大丈夫だろうと善意に解釈していたりということがほとんどです。私が企業の採用活動を支援する際にも、こういう点に注意して選考しようという話は必ずします。

ただこれからの時代は、この「人材を選ぶ」ということは、ごく一部の優良企業か人気企業でない限り、私はできなくなっていくだろうと思っています。それはとても単純な話で、日本の人口が減っていくからです。そのための対策がいろいろ考えられていますが、仮にそれが100%できたとしても、企業の人手不足という基本は変わらないでしょう。

そうなると大事なのは、まず「選ぶ」ということよりも、いかに「選んでもらうか」ということと、どんな資質の人材であっても、それをいかに「戦力化できるか」ということになります。

実はこういう動きは、もうすでにいろいろな企業で始まっています。
「選んでもらう」ということでは、例えば給料を上げたり、有給休暇を増やしたり、働きやすくするための福利厚生を充実させたりという取り組みが、すでに多くの企業で実施されていますが、さらに「やりがい」を感じられるような施策、個人のスキルアップを支援するような施策なども、力を入れた取り組みが始められています。

また、「戦力化する」ということでは、例えば女性は一般的に力仕事には不向きですが、今までであれば、そういう仕事に女性を配置しないように配慮して、他の男性従業員が肩代わりするような形でした。ただ、それでは肩代わりできる男性従業員がいることが前提になります。その人がいなければ成り立ちません。
そこで最近では、例えば女性一人でも重い荷物が簡単に動かせる補助装置を導入したり、品物の配置を考えたり、工場のラインを工夫したりすることで、力仕事自体をなくすような取り組みがされています。誰かが代わる、手伝うではなく、当事者だけで解決できる方法を考えています。

ほかにも様々な仕組みの導入やIT化といったことで、一部の人でなければできない仕事を極力減らそうとしています。
こういう取り組みは、言い換えれば「属人化の解消」ということなので、これまでの業務改善の取り組みと同じような話ですが、今はその捉え方が大きく広がってきていて、例えば10年かけて覚えると言われていた仕事を3カ月でできるようにするというようなことがあります。

だからといって、従来のままの教え方ではそれは実現できませんし、スパルタで詰め込むような教え方では人が辞めてしまいますから、それでは本末転倒になります。たとえ甘やかしと思うようなことであっても、これからは相手に合わせていかなければなりません。

こういうことをある意味割り切って進められる会社でなければ、これからは生き残っていけないと思います。
人材に関しては、「選ぶ」ということよりも、「いかに選んでもらうか」「どうやって気持ちよく働いてもらうか」を考えなければいけない時代になっています。

2017年12月27日水曜日

「パソコンができないIT志望者」の話で思うこと



先日SNS上で「パソコンができないのにIT業界に来る若者」という投稿が話題となりました。

「IT業界に来る新人さんでも、今までパソコン触ったことない層はいる」と指摘していて、「知らないことはこれから学べばよいから、そのこと自体が悪いわけではない」としつつ、「マウスの持ち方やダブルクリックの仕方からスタートするのは、教える方も教わる方も大変」と言っていて、その要因には「IT業界の売り手市場の状況」が挙げられていました。

これについて、そういう若者がいると共感する意見や、とにかく就職させようとする環境を批判する意見がありました。
私の周りで個人的に話を聞いたある人は、「特別な職人などではなく一般企業で働く限り、今はどんな業種でもパソコンを使わずに済むところはないから、初歩的なパソコン操作くらいは身に着けておくべきだ」と言っていました。確かにそれはその通りです。

ただ、私はこういうことは「多くのことを望みすぎ」というふうに思っています。
これは当然“教える側”が大変になるわけですが、最近はその大変さを“教わる側”の責任に押し付けているように見えることが数多くあるからです。
いくら教えても思い通りにスキルが高まらないとき、“教わる側”の能力を見切るような話になることはありますが、“教える側”の教え方が責められることは、あったとしてもとても少ないです。

もともとは私もIT業界に新卒で入り、8年ほど技術の仕事をしていましたが、その当時は家にパソコンを持っているような人はほぼおらず、私も入社するまでキーボードに触ったことすらありませんでした。
もちろん新人研修があって、そこで必要な一通りのことを教わりはしましたが、すべてのことまで行き届いていたわけではありませんし、結局は仕事をしながら実務の中で学んでいったというのが実際のところです。

現在ではそんなスピード感ではだめだという話で、企業はとにかく一定レベルまで促成栽培をしようと、資格を取らせたり厳しめの内定者教育をしたりします。採用段階でスキルや資格を要件にすることもあります。
厳しい競争の中で、これらは仕方がないことですが、どうもそれがどんどんエスカレートしている気がして、その責任が“教わる側”ばかりに偏っているように思います。会社が短期的なものを求め過ぎで、それに合わせて“教える側”は見切りが早く、“教わる側”はレベルを求められ過ぎている感じがします。

IT業界の志望者であれば、パソコンができないよりはできた方が良いです。同じように料理人志望は包丁が使えた方が良いし、接客業ではマナーが完璧な方が良いです。ただ、そこでどんなレベルを求めるのかは会社によってまちまちでしょうし、身に着けているものが自己流であれば、それは直さなければなりません。
何より問題と思うのは“教える側”の責任が軽くされてしまっていることです。

私は始めの投稿者が言っていた「知らないことはこれから学べばよい」が本質ではないかと思います。
人材育成には手間も時間もかかることを、今一度思い出す必要があるのではないでしょうか。


2017年12月25日月曜日

何でも「自分ごと」にできる人がうまくいく



このところ、何人かの企業経営者や管理者の人たちと、「うまくいく人の共通点」という話をする機会がありました。
強い人、謙虚な人、へこたれない人など、いろいろな人物像が出ましたが、その中に「何でも“自分ごと”にできる人」と言った人がいました。実はこれまでにも何人かの人たちから聞いた言葉です。

その定義を一言で言うと「絶対に人任せや人のせいにせず、すべて自分が当事者として何ができるかを考えている人」ということでした。
一見すれば自分には関係が無さそうなことでも、自分なら何ができるか、自分だったらどうするかという視点で、常に話を聞きながら、自分が当事者になったつもりで考えている人だということです。似ているニュアンスでは「他責にしない」というものがありますが、それよりはもう一歩進んでいて、「自分を当事者にする」というところが違うのだということです。

こんな言い方をすると、例えば「自分が中心でリーダーシップをとる」「自分で場を取り仕切る」「他人を巻き込んで実践する」などということと同じように思うかもしれませんが、こちらもまたそういうことばかりを指しているわけではありません。

もし仮にそういう動きを取ろうとすると、それは「自分が先頭に立って走るイメージ」だと思いますが、そういう中にはどこかに「自分の意志に他人を巻き込む」ということが出てきます。誰かを無理やり巻き込んでいるかもしれませんし、自分の意志だけで、自己中心的に“自分勝手”な振る舞いをしている可能性があります。

「自分ごと」には必ずその対極に「他人ごと」がありますが、私が話を聞いた人たちは、その「他人ごと」までわかった上での「自分ごと」でなければならないと言います。周りのことすべてをしっかりと視野に入れていなければならず、「自分勝手」「自分の都合」「自分のエゴ」を「自分ごと」だと勘違いしてはいけないと言っていました。

こんな話をいろいろしながら私が思ったのは、ここで言われていた一連のことは「究極の相手目線を目指す」ということではないかということです。いかに広い視野で全体を見渡すか、その前提があった上で、さらに自分ができることを考えて、自分で責任を持って実行するということです。成功するためには確かに重要なことだと感じます。

こういう話をひとしきりした最後に、「そういう“自分ごと”の人に出会ったことがあるか」と皆さんに尋ねると、ただ一人だけ、「それに近い人には一人だけ出会ったことがある」とのことでした。
やはりこんなに出来た人物には、そう簡単に出会えるはずもなく、言い方を変えれば「究極の人格者」ともいえるのかもしれません。

ただ、自分にできるかできないかはさておき、こういう人物像を整理できたことは、ビジネスをしていく上で目指すべき姿が一つ見つかったということで、私個人にとっては大きなことでした。

そこまでには到底及ばないでしょうが、本当に意味での「自分ごと」を少しでも増やせるように、今まで以上に意識していきたいと思っています。