2014年7月30日水曜日

自称「現場主義」のマネージャーは本当に現場主義なのか


日本企業の強みは「現場力」にあると、よく言われます。経営面の弱さの裏返しと言えなくもないですが、海外企業に比べても、現場の強さではまだまだ優位性を保っている部分がたくさんあると思います。

経営者やマネージャークラスの人でも、「現場主義」とおっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。現場を回り、現場の人と直接コミュニケーションを取り、そこで得た情報を経営判断やマネジメントに活かそうとします。
私自身の企業勤務の時代も、自分の心がけとしては現場を重視していたつもりです。ただ、それが本当の意味で「現場主義」と言えるものだったのかどうか、ちょっと疑問に感じることがありました。

それはある記事で読んだ、靴修理チェーン「ミスターミニット」を展開する会社で、入社わずか1年3カ月の28歳の若さで就任した社長のお話からです。

この方は社内のポジションを徐々に上げながらも、とにかく一貫した「現場主義」にこだわり、店舗に毎日通って、お客様に一番近い従業員一人ひとりに話を聞き、ビジョンと戦略を語って実際の仕組みを変えていく、「棚がほしい」と言われればその場で注文し、「必要な機械がない」と言うならすぐに導入する、「店舗が使いにくい」との声があればすぐさま改装する、ということを実行していったそうです。

「お客様に満足してもらうから売上が上がる。そのためには、従業員が楽しく働いて、いいサービスを展開すること。お客様に一番近いのは現場の人間なので、コミュニケーションするとどちらのニーズもくみ取ることができるので、そこに光を当てて、リソースをかけて、サービスとして展開できる形にして、全店に広げていくプロセスを回すことが自分の仕事だと思っている」ということでした。

この話を読んだとき、少なくとも私自身の場合、現場主義とは言いながら、ここまで明確に現場のニーズをくみ上げて、それに対応していたかと言えば、決してそうではなかったと思います。
「今は難しい」と先送りしたり、「工夫すれば対応できる」と現場側を説得したり諭したり、悪く言えば丸め込んだりしていたことがあります。

たぶん、「現場主義」と言っている経営者やマネージャーの方々も、多くの人にそんな経験があるのではないかと思います。
「俺たちの頃はもっとひどかった」とか「それは現場のわがままだ」とか、その他いろいろな理屈を言いながら“現状を変えない”という対応をしていることがあるのではないでしょうか。
現場からの話は聞いていたとしても、その意見や要望の一つ一つをきちんと取り上げて対処していたかというと、決してそうではなかったのではないかと思います。

この社長ほどの徹底した現場主義に対しては、「うちの会社では無理」とあきらめたり、「これが良いやり方とは思わない」と反発したりする考え方もあるでしょう。
ただ、このお話から、自称「現場主義」と言っている経営者やマネージャーは、はたして本当に現場主義なのかということを、少し考えさせられてしまいました。

「現場主義」というのは、実は軽々しく口にできない、なかなか難しいことなのかもしれません。

2014年7月28日月曜日

自分のキャリアを明確に決めようとする弊害


少し前のことになりますが、新卒採用活動の中で実際にあったことです。

ある応募者の学生さんとの最初の面接を行う際、提出された応募書類を見ると、勉強してきた内容は、自社の事業で活かせそうなことが多々あるものでした。
少し期待しながら面接にのぞむと、その学生さんが言うには、「御社の○○部門の○○プロジェクトに興味を持ちました。その仕事に関わることができるならば御社を志望します」というものでした。他の興味ややりたいことを聞いても、かたくなに“その部署でのその仕事”ということだけを話します。「他の業務内容にはまったく興味がありません」とまで言います。

結果として、この学生さんを採用することはしませんでした。
希望したプロジェクトの仕事が永遠に続く訳はありませんから、ご本人が言っている興味を満たし続けることは会社として絶対にできないですし、何よりも興味の幅が狭くて思い込みが強すぎ、あまりにも柔軟性がないと評価したからです。

目標を明確に定めて、その目標に向かって努力するということは、誰が見ても素晴らしいことです。
ただ、その目標の定め方としてどうすればよいのかは、その人が何を目指しているのかによって、多少の違いがあると思います。

例えば医師、看護師、弁護士、教師、美容師、保育士など、国家資格や所定のスキル習得が必要で、学生のうちから取り組んでいかなければその仕事に就けないものであれば、早い時期からピンポイントで目標を定めて、その目標に向かって勉強に取り組んでいかなければなりません。

就職活動においては、自分が目指すことを明確にするようにという指導がされることがあります。きちんと目標を定めて活動することは大事なことだと思いますが、「この会社に行きたい!」にこだわれば、その会社でどんな仕事をするかまではあまり言えないでしょうし、逆に仕事内容にこだわれば、それをどこでやるかについては、柔軟に考えざるを得なくなります。

今活躍しているような経営者の中には、いつかは起業すると心に決めていてそれを実現した人もいるでしょうし、自分で思ってもいなかったが起業せざるを得なくなったなど、思いがけず社長になったという人もいます。

普通に働いている人たちも同様で、自分が初めに思い描いた通りの仕事を、いつまでも同じように取り組むことができている人は、たぶんほとんどいないと思います。
今まで長きに渡ってやってきた家業を継承するような場合でも、これから先も同じようにやっていけば良いというような保証はどこにもありません。

このように、その人がどんな仕事をしていくかというキャリアを、あらかじめ決めてしまうということは相当に難しいことです。

私が出会った学生さんは、あまりにも狭い範囲のこだわりが強い特殊な例かもしれませんが、目標を明確に定めることは重要である反面、それにこだわりすぎることは、自分の経験を広げるためには良いこととは思えません。

あまりにも狭い範囲で具体化しすぎて、なおかつそれにこだわりすぎると、自分の持っている可能性を減らしてしまうと思います。
特に自分のキャリアに関しては、自分なりに納得できる柔軟性を持ちながらの目標設定が、特に必要ではないかと思います。


2014年7月25日金曜日

「とりあえず働いてみよう」という気持ちになるための後押し


卒業学年で留年した学生が、今春は10万人を超えて6人に1人に上るそうです。
留年理由は単位不足のほか、企業の内定を得られなかった就職留年が多いようですが、今年は、不本意な内定を断り、あえて留年して「納得できる道」を目指す学生が目立ってきているのだそうです。
景気が上向いてきている中で、「就活は来年の方がさらに有利」という意識もあるのだと思います。

実は私自身も大学の卒業時、あえて留年するという選択肢を考えたことがあります。就活がうまくいかないというより、そもそも企業に就職して働くということ自体に魅力を感じられなかったためです。なぜ朝から晩まで、大して面白そうとも思えない仕事を、命令されてやらなければならないのかと真剣に思っていました。
少しじっくり考えようとした時に、自分がどこにも属していない状況は好ましくないと思ったので、とりあえず学生でいた方が良いだろうというような気持ちでした。

そんな私も、結局は企業に就職して、社会人生活をスタートしました。「実際にやったことも無いのにやりたくない言うのは説得力がないな」と、ある日ふと思ったからです。親の心配そうな様子、周りの人からのアドバイス、その他いろいろなことを感じているうちに、そんな気持ちに変わったのだと思います。
そして現在、順風満帆とはいかないまでも、自分なりに仕事ができているのは、この時に何とかスタートを切ることができたおかげだと、今になるとなおさら思います。

「だからまずは働いてみよう!」と学生さんたちに言うのは簡単ですが、彼らを取り巻く環境を見ていると、そう簡単に踏ん切れない気持ちはわかります。

入社してやっぱり合わなかったとしたら、辞めるか我慢して残るかの二つの選択しかない訳ですが、もし辞めたとしたら、また困難な就職活動をしなければならず、なおかつ前職を短期間で辞めてスキルも未熟な人材が、前職よりも良い会社に採用してもらえる保証はありません。
今の日本の環境では、新卒採用の枠組みから外れてしまうと、就職活動がやりづらくなることは間違いなく、留年しても新卒として就活する方が良いと感じるのは無理もないでしょう。

逆に多少嫌でも我慢して勤めるとして、初めはそれなりの覚悟を持って入社していたとしても、やはりモノには限度があります。
最近はブラック企業の話題もたくさんあり、ちょっとネットを調べれば、おかしな企業の事例がたくさん出てきます。「もしも内定先がそんな会社だったら・・・」と心配し、考えれば考えるほど入社を躊躇してしまうという気持ちも、これまた理解できます。

今の世代に見られる慎重さや消極性、失敗を恐れる心理などはあるでしょうが、一歩踏み出してみようという気持ちを萎えさせるような、環境要因や周辺情報も多いように思います。もしも当時の私が今と同じような環境に置かれたら、留年という選択をする可能性が高かったかもしれません。

留年を選ぶのは悪いことばかりではありません。ただ、今のようにネガティブ情報が多いからなおさら、「とりあえず働いてみよう」という気持ちになるための後押しも、いろいろな面でもう少しあっても良いのではないかと思います。


2014年7月23日水曜日

何でも「ハラスメント」と言い過ぎていないか


ある調査で、妻が家事に不慣れな夫に対して「やり方が違う」「やり方が雑、下手」「かえって手間が増える」などと指摘することを「家事ハラ」と定義して、自宅で家事を「手伝う」と回答した夫のうち、「妻の家事ハラ」を受けた経験があると答えたのは約7割、それで「やる気がなくなった」としたのは、その中のさらに約9割にのぼったのだそうです。

特に企業内で起こるセクハラ、パワハラの問題は以前から言われてきており、企業によって多少の差はあるものの、それなりの対策がされてきています。全体的な意識は、ずいぶん改善されてきたと思います。

私が企業内の研修などでお伝えするのは、「セクハラやパワハラというのは、相手が嫌悪感を持った時点で、それはハラスメントにあたるので、自分基準で甘い判断をせず、常に相手基準で考えること」「同じ言動や行動であっても、誰にやられるかで相手の感じ方は違うので、日頃からの信頼関係作りが大切であること」などをお話しています。

そういう意味ではこの「家事ハラ」も、嫌な思いをさせられたということでは、確かにハラスメントの一種なのかもしれません。

最近はセクハラやパワハラだけに留まらず、例えば

・女性が妊娠・出産をきっかけにした職場での嫌がらせや、解雇などの不当な扱いをいう「マタハラ(マタニティ・ハラスメント)」
・医者による患者への暴言や嫌がらせなどを言う「ドクハラ(ドクターハラスメント)」
・親子関係の中でのイジメや虐待、人権侵害などをいう「ペアハラ(ペアレント・ハラスメント)」
・精神的な暴力や嫌がらせで、主に夫婦間やカップルの間で起こるものをいう「モラハラ(モラル・ハラスメント)」
・学校や大学、研究室などで教員が学生や生徒に対していじめや嫌がらせを行うことをいう「アカハラ(アカデミー・ハラスメント)」
・嫌がっている相手にお酒を強要したり、酔っぱらって周りに迷惑行為を行うことをいう「アルハラ(アルコール・ハラスメント)」など。

さらに挙げて行けば、たぶんまだまだ限りなく出てくるのではないかと思います。他人からされて嫌だと思うことを、何でもかんでも挙げ出したら、これは本当にきりがありません。

最近の企業内では、上司が部下を少し厳しく指導したりすると、それだけでパワハラだといわれるようなこともあります。「褒められないとやる気が出ない」などとはっきり言う者もいるという話を聞きます。
しかし、叱られたり、指導されたり、注意されたり、忠告されたり、ダメ出しされたり、あえて苦言を呈してくれるということは、人が成長するためには絶対に必要なことです。
自分がそれを受け入れられずに嫌な気分になったとして、そのすべてを嫌がらせだ、ハラスメントだと言い始めたとしたら、それでは人間の成長が成り立たなくなってしまうと思います。

確かに、相手から不快な思いを感じたら、それはハラスメントかもしれません。あくまでその人の感じ方次第だからです。
それでも、最近少し「ハラスメント」という言葉が濫用され過ぎていないだろうかと思います。

「○○ハラ」と言われることには、実際にひどい事例が多々ありますし、これは正さなければなりません。ただ、自分にとって耳触りが悪いことを排除したいがために、それを指して「○○ハラ」と言っているとしたら、これは「ハラスメント」の濫用だと思います。

何でも安易に「ハラスメント」と言ってしまうことは、結局は自分の成長を阻害します。それが本当に「ハラスメント」に当たるのか、自分自身の捉え方も今一度を見直してみる必要があると思います。


2014年7月21日月曜日

女性“活用”という上から目線の言い方


政府の成長戦略や、企業での雇用や組織作りの取り組みに関する話題の中で、「女性活用」という言葉が頻繁に出てきます。

少子・高齢化や人口減少に伴う労働力不足、その他社会構造の変化への対策として挙げられることが、最近は特に多くなりました。
重要な課題でありながら、諸外国との比較などを見る中では、日本はまだまだ遅れている様子が見られます。
やはり、いくら表面的な制度を整備しても、企業社会ではまだまだ男性中心の意識を持つ人も多く、それが女性の社会進出を阻んでいる部分はあるのだろうと思います。

人の意識を変えていくことを、ただ自然に任せておくだけでは、やはりそれなりに時間がかかってしまいます。意識変革のスピードを上げるには、強制的にやらせるような施策も必要になってきますが、今はなりゆきと強制のバランスを取りながら、様子を見ている状況なのかもしれません。

私はこの意識変革がなかなか進まない原因の一つに、「女性“活用”という言い方への問題を感じます。今の企業社会の中で中心的な立場となっている人たち、主に男性側からの上から目線を感じるからです。

“活用”という言葉の意味を調べると、「物や人の機能・能力を十分に生かして用いること。効果的に利用すること」とあります。この「用いる」「利用する」という部分に、これを言う人たちの立場を、上に位置づけたニュアンスを感じてしまいます。

私は以前から“活用”ではなく“活躍”などの言葉の方がふさわしいと思っています。
実は最近、政府機関などから出ている資料でも、「女性“活用”という表現をしているものはほとんどなく、「女性の活躍」「女性を活かす」「女性の積極登用」などとなっています。実際に取り組みを担当している方々には女性も多いので、言葉のニュアンスを敏感に感じるところがあるのだと思います。

企業で新卒採用などを担当されている方々が、皆さん一様におっしゃるのは、昨今の女子学生はとても優秀であるということです。中には「評価が良い順に選ぶと大半が女性になってしまう」などとおっしゃる方もいます。
ただ、その評価が5年後も同じかといえばそんなことはなく、これは男女の特性から来る成長速度の違いなどもあるのだろうと思います。

企業の将来を考えれば、いかに優秀な人材を確保し、活躍の場をどのように作っていくかは重要なテーマです。もしも女性たちが、ただ単に男性と同様に扱えないという理由で排除されていることがあるとしたら、これは大きな損失です。

本当の意味で女性が“活躍”できる環境が、少しずつでも作られていくようになれば良いと思います。


2014年7月18日金曜日

主観も集まれば客観になる


採用面接を通じて応募者に向き合っていると、常に迷いが付きまといます。応募者の能力評価という側面はありますが、そればかりではなく会社の社風や既存の社員との相性、仕事の適性なども合わせて見極めるということなので、そうそうはっきりと線引きできるものではありません。

もちろん、問題なくOK、逆に絶対にNGということはありますが、大半の場合はその間のグレーゾーンに入ります。採用基準を客観的に表現するというのは、現実的にはなかなか難しいことです。

ある会社で、新卒採用での面接官を初めて経験する若手社員の数名が、「他人の人生を左右するかもしれないような重い評価をする自信がない」と言っていたことがあります。
自分の慣れや立場の勘違いから、ともすれば応募者を見下すようなベテラン面接官がいることを思えば、このような相手目線で、応募者の立場を尊重した上での責任感は、すばらしいことだと思います。

その時に私がこの若手面接官たちにお話したのは、「まず初めの評価は、自分が好きか嫌いかという主観でも構わない」ということでした。

「複数の面接官が会う中で、全員が自分の好き嫌いで判断したとしても、例えば5人のうち3人が嫌いと感じたとしたら、それは一緒に仕事をする仲間としては、何かしら問題がある」ということであり、「一つ一つの意見は主観であったとしても、それが多くの数集まれば客観になる」ということです。

「人」を相手にする場面で、特に面接のようなオフィシャルな場面であればなおさら、その人を好きとか嫌いとか、感情で主観的な反応をすることを避けようと考えるのは当然の心情だと思います。
ただ、すでに述べた通り、採用基準を客観的に表現するのは、実際にはなかなか難しいことです。「人」のことを理性的、論理的に判断することは簡単にはできません。

また理性的に対応しているつもりでも、それは結局自分の持っている思い込み(スキーマ)による結果ということが、かなりの確率で起こります。

例えば「体育会出身者だから根性がある」「営業経験が長いから交渉力がある」などというのは、仮にそういう全体傾向があったとしても、今まさに目の前にいるその人が条件に当てはまったからと言って、必ずしもそういう人とは限りません。一見すれば論理的、理性的な判断をしているように見えますが、実際には思い込みに伴う主観と言ってしまっても良いと思います。

中途半端な思い込みに左右された主観よりは、目の前の人を見た時の純粋な印象による主観の方が、面接などにおいてはよほど有用です。純粋な主観の数が集まれば、より一層客観に近づけることができるはずです。

論理的、理性的に判断しようとすることが、必ずしも客観的であるとは限りません。うわべだけで思い込みを含んだ、少々ゆがんだ主観を含んでいる可能性があります。

こう考えると、「主観も集まれば客観になる」ということを、さらに意識していくことが賢明なのではないかと思います。


2014年7月16日水曜日

「ワーク・ライフ・バランス」の言葉に以前から思う違和感


仕事と仕事以外の生活を調和させ、誰もが働きやすい仕組みをつくることを指す「ワーク・ライフ・バランス」という言葉は、もうすっかり定着した感があります。
とかく働き過ぎになりがちな日本のサラリーマンに対しては、今後もしっかり取り組んでいかなければならないテーマであると思います。

ただこの「ワーク・ライフ・バランス」という言葉について、もうずっと昔からですが、私はどうしても違和感が拭えません。
その理由は「ライフの一部にワークがあるのであって、ワークとライフがバランスする関係性であるはずがない」ということです。

「ワーク・ライフ・バランス」のそもそもの語源について、あまりはっきりしたことはわかりませんでしたが、1980年代に仕事と家庭の調和施策などが世界的に広がる中で、日本でも少子化対策の育児支援、男女共同参画といった施策への取り組みの中からの出て来たようです。

言葉としては定着した感がある「ワーク・ライフ・バランス」ですが、その実現度合いとして、少しずつ進んできたと思うものの、進み方が早いとは言えません。この理由として私が昔から思っていることは、「ワーク・ライフ・バランス」という言葉のニュアンス自体の問題があるのではないかということです。

そもそも「ワーク」と「ライフ」は、その大きさが全く異なる非対称なものです。これを並べて「バランス」といって表現しているということは、「ワーク」を大きく捉えすぎているか、「ライフ」をすごく小さく捉えているかのどちらかです。そうなると、やろうとすることや取り組み方が大げさになりすぎたり、逆に末端の枝葉のことになりすぎたりしてしまうのではないでしょうか。

もともとバランスを欠いた対象物のバランスを取ろうとすれば、どこかに無理が生じて物事が進みづらくなるように思います。「ワーク・ライフ・バランス」が思うように進まない原因の一つには、こんな要素もあるのではないかと思います。

ではどんな言葉が良いかというと、それもなかなか浮かびません。
「ワーク・プライベート・バランス」
「ワーク・ファミリー・バランス」
「ワーク・ホビー・バランス」
どれもイマイチな感じです。

その後いろいろ調べている中で、「ワーク・ライフ・シナジー」という言葉が目に留まりました。書籍も出版されているようです。
シナジーとは相互作用、相乗効果という意味ですが、こういう言葉の方が適切で、物事が進みやすくなるのかもしれません。

いずれにしても、どんな言葉で表現するかは、何事においても大切なことだと思います。


2014年7月14日月曜日

AO入試の退学率と新入社員の退職率に感じる共通点


読売新聞社の調査によると、志望理由書や面接を重視して合否を決めるAO(アドミッションズ・オフィス)入試で合格した学生の退学率が、入試方法別で最も高いことが明らかになったそうです。

記事では、「本来は学力試験で測れない意欲や能力を重視する試験だが、入学の半年以上前に合格が決まることなどで学習意欲を失わせているとの指摘があり、見直しを迫られる大学も出そうだ」と論評されています。

ただ、この調査の中身を細かく見ていくと、実は大学ごとに結構差があり、「準難関校」以上の退学率は総じて低く、選抜方法として一定の機能は果たしているという話や、数字を回答していない大学も90近くあるなど、まだ実態がつかみきれない要素が多く、一概に「AO入試は退学率が高い」とは言い切れない結果ではないかと思います。

この話題から感じたのは、新入社員の退職率にまつわる話との共通点です。
AO入試というのは、面接など学力検査以外の部分を重視するわけですが、これはまさに職歴がない学生を採用する新卒採用の場合と同じです。大学ごとの退学率に差があるのと同じく、企業ごとに退職率はまったく違います。

大学の場合は、「準難関校」以上の退学率は総じて低いとのことですが、この「準難関校」以上というのは、会社でいえば大企業にあたるのでしょうし、確かに大企業よりは中小零細企業の方が、退職率は高い傾向があります。また、一概に中小零細企業だからということではなく、会社間の差もかなり大きいです。

この大学ごとの差、会社ごとの差というのは、面接などで見極める力の差と、選考基準の線引きや受け入れ環境の違いに伴うミスマッチの可能性の差だと思います。

まず選考方法は、面接を中心に自己紹介書や志望理由書、エントリーシートといったもので行うので、AO入試も新卒採用もほぼ同じやり方です。ここで発生する差は、応募者が自分の学校や会社にフィットするかどうかを、面接などを通じて見極める力の差ということになります。

また、ある程度の人数確保を優先すれば、応募者の数に応じて選考基準は変わってきます。「準難関校」以下の学校や中小零細企業の方が、人数確保のために採用基準を下げたりする場合は多いでしょうから、その分ミスマッチの可能性は高くなります。

受け入れ環境ということでは、その人が持っているポテンシャルも含めた能力と、実際に与えられる環境との間でのギャップやレベル差が大きすぎると、これもやはりミスマッチにつながります。

「AO入試ではなく一般入試で」という話を採用活動に置き換えると、「面接ではなく筆記試験と適性検査重視で」と言っているのと同じことのように思います。これは採用活動では通用しない話です。

せっかく定着してきたAO入試です。簡単にやめるとか見直すなどと言わず、選考のノウハウを磨いて、より良い形で機能させることを考えた方が建設的なのではないかと思います。


2014年7月11日金曜日

批判すること自体が目的?


とある会社での出来事です。
その会社の社長は、あまり朝が得意な方ではありませんでした。社員の定時は9時出社ですが、会社に出社してくる時間は、どんなに早くても10時近くです。

またこの社長は、デスクにじっと座っているようなことは、あまり得意ではありませんでした。いつも誰か人と会う予定や会合の予定を作っては出かけていってしまいます。もちろん必要な事務仕事などはこなした上ですし、何かあれば常に連絡は取れるようになっていますので、会社の実務上で何か問題になるようなことはありません。

ただその会社の社員たちの目には、いつも会社に遅く来て、すぐにどこかへフラフラ出かけていくように映っているので、何かと批判の的になります。

みんなが皮肉たっぷりに、「重役出勤はいいよね」「勝手にフラフラできてお気楽だよね」「大した仕事もしていないのに高い給料で・・・」などと言われていました。

そんな中で、この会社の社長が交代することになりました。前社長は代表権のない会長に退き、会社にはたまにしか来なくなりました。新しい社長は外部から招かれた方でしたが、前社長とは行動パターンが正反対の方でした。

朝の出社はほぼ毎日8時前で、誰よりも早く会社に来ます。ただあまり社交的ではないようで、来客はそれほど多くなく、社外の付き合いや会合に出かけるようなこともあまりありません。ほぼ一日中社内で過ごしながら、社内の様子には気を配っているようです。

こんな新社長も、やはり社員たちは批判的に見ています。

「朝早く来たって何もしてないんじゃねぇ・・・」「経営者に社交性がないと困るよね」「少しは人と会って仕事でも取って来てもらわないと・・・」などと、やはり大いに批判されていました。

どちらの社長も、その行動には少々偏りがあり、問題がないとはいえませんが、社員からの批判の様子を見ていると、一見理屈は合っているようではあるものの、どうも批判する理由はそれだけではないように思えてしまいます。実は「批判すること自体が目的」だったりするのではないかということです。

最近、一部のメディアなどで、アドラーの心理学に関する記述を目にすることがありますが、この中に「原因論」と「目的論」という話があります。
一言で言うと、原因論は、その結果を引き起こした原因を探ることで問題を解決しょうとするのに対し、目的論は、意識・無意識を含めて「人の行動には目的がある」という考え方で、その行動で何を得られるのかを考えることで問題解決をしようとします。

この場合でいえば、原因論では「社長の行動態度が批判の原因」となりますが、目的論では「社長を批判する真の目的は?」ということになります。

原因論を取れば、社長の行動が正反対に変わっても、批判は変わらなかった訳ですから、原因は社長の行動とは言い切れません。目的論と取ったとして、この話だけでは真の目的はわかりませんが、会社の業績を良くしようとか、仕事の効率を上げようとか、少なくともそういう目的には見えません。もしかすると、社員同士の共通の話題として、単に悪口の対象になっているだけかもしれません。

実はこのように、批判すること自体が目的化していることは、会社の中では間々見受けられることです。そしてあまり建設的ではないことがほとんどです。

他人の批判というのは、ついつい口に出てしまうものですが、本当にそれが何か問題解決を目的としている建設的なものなのか、真の目的を今一度考えてみる必要がありそうです。


2014年7月9日水曜日

「やりたい仕事」と「向いている仕事」の違い


会社を退職してしまう人がその理由として言う中に、「この仕事は自分に向いていない」ということがあります。

こういう人に「では何が向いているの?」と尋ねてみて、明確な答えがもらえることはそれほど多くありません。なぜ答えられないかの理由は明らかで、「向いている仕事」というのは、自分の主観だけではなかなかわからないことだからです。

会社にいる限り、やりたくない仕事や理不尽な異動などに遭遇することはよくあることでしょうが、初めは命令で無理やりに振られ、イヤイヤで気は進まないが仕方なく始めたような仕事が、今になってみれば、自分の主要な経験の専門分野になっているようなことがあります。

仕事の適性というのは、実際にやってみなければわからないという面が多分にあります。自分の意志であれば絶対に踏み込まないようなことであっても、他人からの勧め、後押し、命令、強制などがあって、やらざるを得なくなるようなことがあります。

その結果、思ったほど嫌ではない、すんなりなじめた、他の人よりも飲み込みが早かったなど、意外に向いている仕事だったということは、結構あるのではないでしょうか。(もちろんこの逆の場合もあるでしょう。)

このように、本人がいう「やりたい仕事」というのは、結局は自分が好きなこと、興味があることであり、それが果たして「向いている仕事」なのかどうかは、自分だけでは判断できないこと、他人からの客観的な目が必要ということです。自分のキャリアというのは、意外に周囲の人や偶然の要素に左右されるものだといえるのではないでしょうか。

こういう見方をすると、辞める理由で「この仕事は向いていない」と、当事者である本人が言うのは、“向いていない”のではなく、“やりたくない”のだということになります。

事実、私がこれまで見てきた中でも、「この仕事は向いていない」といって全くの別業界に転職したものの、数年後に元の業界に戻り、前とほとんど変わらないような仕事をしている人に良く出会います。

「向いていない」と言って辞めてはみたものの、自分の経験が活かせるのも、周りから評価されるのも、結局はそれまでやっていた仕事で、もともとの仕事が実は自分の一番向いている仕事だったことに気づいてまた戻ってきたということでしょう。

これは、「やりたくない仕事」と「向いていない仕事」を混同していたということになるのだと思います。
「やりたい仕事」というのは、本人が自分の意志で決めることだと思います。
これに対して「向いている仕事」というのは、実は他人が決めるという要素が大きいということです。このあたりを理解できれば、自分のキャリアの見え方が少し変わってくるのではないかと思います。


2014年7月7日月曜日

「報告をしない部下」のいくつかの原因


「部下がちゃんと報告してこない」という話を、いろいろな会社のマネージャーの方々から聞くことがあります。

大きく分けると、「報告すること自体を忘れている」ということと、「あえて報告することを避けている」ということの二通りがあるようです。

「報告を忘れている」という人に聞くと、本人は本当に失念していて、ものすごく反省していたりするので、特に悪気は無さそうです。
忘れてしまうということは、物事の優先順位の捉え方に問題があったり、記憶力自体が不足していたりということなので、基礎能力に近い部分が原因ということになります。

これに対して「あえて報告することを避けている」というのは、ある意味確信犯ということです。
自分たちの立場ではどうしてもやらなければならない、それが間違っていないという確信があるような場合に、もし報告すれば確実に反対される、計画が実行できなくなるとなれば、あえて上司には知らせずに、自分たちで物事を進めてしまおうという気持ちもわからなくはありません。

また、必ずしも上司の判断が正しいとは限らないと考えれば、上司からの指示命令に自ら優先順位をつけて、「適度なやり過ごし」を行うことが、組織の強さにつながるという話もあります。あえて報告を避けるようなやり過ごしも、組織の中である程度は必要ということになります。

ただ、私がよく聞く内容は、どうもこれとは少し違う場合が多いように感じます。
それは「不備やミスを隠す」「自分に不都合なことを言わない」というような、言いづらいことを伏せていたり先延ばししているような内容が多いということです。

つい先日、修学旅行のバス手配を忘れ、旅行を中止させようと学校に自殺予告の電話をした旅行会社社員の話題がありましたが、これほどひどくはなくても、根本の心理としては似ているように感じます。

 私が、この手の「あえて報告することを避けている」という人たちに共通して感じるのは、その方法が口頭であっても文書であっても、自分が考えていることを相手に整理して伝えることが得意でないということです。要は「報告すること自体が苦手」で、苦手なことは避けようとしてしまうということです。

報告がないことを上司から指摘された時、忘れていたと言いながら反省の様子があまり無い、理由も言わずに一方的に謝るだけ、理屈が通らないような言い訳、逆ギレのようにふてくされるなどという感情的な反応は、だいたいがこの「報告が苦手」という理由ではないかと思われます。

こうなると、「報告を避ける」という原因は、コミュニケーション能力や論理性の問題ということになり、どちらも基礎能力に近い部分の問題ということになります。これは「報告を忘れている」場合と同じです。
「あえて報告することを避けている」という行動には、優秀な部下の自律的な判断の場合と、基礎能力の不足による場合の両方があるということです。

このように、「報告をしない部下」の多くは、基礎能力に原因ありということになりますが、中には優秀さゆえの自己主張の場合があります。これには、部下が進んで報告したくなるような上司としての対応を意識することも必要になります。

もう言い尽くされたことかもしれませんが、「聴く耳をしっかり持つ」「頭ごなしに否定しない」「一方的に言いくるめようとしない」などということが、上司として必要な行動になるのではないかと思います。


2014年7月4日金曜日

若手社員が「人並み」を好む弊害


日本生産性本部などの調査で、「人並みに働けば十分」と答えた新入社員の割合が、前年比4ポイント増の53%になり、バブル崩壊直後の過去最高の水準に並んだのだそうです。「将来が見通せず、リスクより堅実さを好む傾向の現れ」と分析しているようです。

もちろん、若い人たちのみんながみんな、「人並み」ばかりを好んでいるという訳ではありませんが、私自身が見ている範囲では、そういう姿勢を感じることは最近よくあります。

特に採用面接の場面などでお話をうかがっていると、「自分は参謀タイプ」「サポート役」「ナンバー2向き」という人が、ずいぶん多いという印象があります。

他のメンバーたちに背中を押されれば、リーダーとして動きますが、それを自分の意志だけで率先してやろうとすることはあまり多くないようで、自らリーダーシップを取ろうというタイプの人を見かけることは、ずいぶん少なくなりました。

どうも、自分が集団から浮いてしまうことを極端に恐れていて、そうならないようにと周囲に気を遣い、自分の意見や行動が突出しないように、できるだけ横並びでいようとする所があるように感じます。

よく言えば協調性があるとも言えるし、場の空気を読むことに長けているとも言えますが、和んだ雰囲気を保つことを優先するので、意見の衝突や議論、自己主張を避けることも多いように感じます。
まさにこの「人並み」ということが最も居心地が良く、最も好ましい状態なのかもしれません。

いかにも穏やかでギスギスしていない、現状を肯定的にとらえている俗にいう良い人という感じですが、一方で「人並み」を好む弊害かもしれないと思うのが、「上昇志向の弱さ」「目標設定の低さ」「安易な満足」という傾向です。

みんながみんなとは言いませんが、基本的に周囲と同じ状態が心地よい人が多いので、俗にいう出世などにはあまり興味がなく、高望みをしないのでそれほど高い目標を掲げることもありません。見切りが早く、世間一般から見ればまだまだ入門者レベルの状態でも、「もうできるようになりました」と満足してしまって、それ以上の取り組みをしようとはしません。

かくいう私自身も、それほどハングリー精神がある訳ではないし、何でも上へ上へ登りつめてやろうとも思いませんが、そんな私から見ても、もっと現状に疑問や不満を持って、それを課題として良い方向に変えて行こうというエネルギーが、もう少しあっても良いのではないかと思います。

堅実というのは、少し言い方を変えれば、想定できる変化の範囲におさめようとする、現状維持の意識です。いくら先行きが不透明だからと言っても、堅実というだけでは少々バランスを欠いているように感じてしまいます。

「人並み」も、行き過ぎてしまうと良いことばかりではありません。


2014年7月2日水曜日

学校のエアコン設置論争に感じる「やればできる」の強要


千葉市議会は、市立小中学校などの教室にエアコン設置を求める請願について、これを不採択にしたとのことです。
「トイレ改修が優先」など、主な理由は予算面のようですが、議員の中からは、「環境への適応能力をつけるにはある程度、耐える能力を鍛えることも必要だ」などという発言があったそうです。
要は「我慢させるのも教育で、やればできるということなのでしょう。

このところ話題の都議会のヤジ問題でも、「やる気があればできる」という発言があったようですが、発言者のメンタリティとしては似たようなものだと感じます。

こうした話は企業の中でもよくあることで、なかなか成果が上がらない部下に対して上司が「やる気がないからできないんだ」「やればできる」などと叱責し、「俺だってできた。だからお前もできるはずだ」などと言ったりします。

「やればできる」という人は、その根拠として自分の過去の経験を挙げることが多いようです。
前述のエアコンの件も、「俺たちの時代はエアコンなど無かったが、それでも平気だった」ということなのでしょう。さらには「すぐ熱中症になるのは体力がないからで、暑さの中で過ごせば耐えられるようになる」という感覚なのでしょう。

過去に学ぶことは大事なことですが、一方で、昔と今では環境が変わっていることも理解する必要があります。
やはり気温は年々高くなっていますし、産まれた時から空調された部屋で過ごすことが多い今の子供たちは、汗腺の数が親世代の半分程度なのだそうです。

汗腺の数は3歳までに決まると言われており、その時期までに汗をかく経験が少ないと、寒い地域で育った人と同様で暑さに弱いのだそうです。
こういうことを知れば、ただ耐えて鍛えれば改善するというには、根拠が薄いということになりますし、健康管理の上ではエアコン設置の優先度を上げる必要があるという考え方もできます。

これは企業においても同様で、上司は自分の経験が、今の環境の中でも当時と同じく再現性があるものなのかを、きちんと考える必要があるということです。

どんなことでも本当に「やればできる」のかというと、決してそうではありません。実行したからといって、必ず成果に結びつくわけではないでしょう。これはやる気についても同様で、やる気があれば成果に結びつくかといえば、必ずしもそうではありません。

やらなければできないのは間違いありませんが、やってもできないことはあります。それを「できるまでやり続けよう!」と自らの意志で続けることは良いと思います。
ただ、同じことを上司や他人が言うのは、それが論理的に達成可能という保証でもない限り、無責任なのではないかと思います。

どうも最近、根拠が薄いにもかかわらず、気合い次第で問題が解決するがごとき主張をする傾向が強まっているように感じて仕方ありません。