2017年2月27日月曜日

定着したらどうなるか?まだ時間が必要な「プレミアムフライデー」



先日の金曜日は、15時退社が奨励される「プレミアムフライデー」が初めて実施されました。実際に退社時間を前倒ししたという民間企業はまだまだ少なく、浸透度はいまいちという感じではありますが、それでもその恩恵を満喫した人、忙しい思いをした人、何も変わりがなかった人など、いろいろだったようです。

この「プレミアムフライデー」は、働き方改革の流れで語られることも多いですが、そもそもの旗振り役は経済産業省なので、どちらかといえば、やはり消費の喚起、経済活性化という意味合いが強いように思います。
そういう面から考えると、その時間を使って今までやらなかった新たな行動をするかといえば、あまりそういう感じではなく、土日で混みそうな場所に前倒しで行くとか、早めの飲み会で早く帰るとか、消費の時間帯が変わるだけで、全体規模の広がりにはなかなかつながりづらい感じがします。

個人的にそんな印象を持っている中、あるテレビの情報番組でこんな話題を取り上げていました。
それは、まだ週休1日だったころから週休2日制に移行し始め、それが定着してきた25年前の1972年に、内閣府がおこなった「週休2日・余暇に関する世論調査」というものです。

それによると、「もし休日が増えるとすれば、“週休が2日になる”と“まとまった休暇がいつでもとれる”とでは、どちらがよいと思うか?」という質問に対して、「まとまった休み」との回答が39.6%、「週休2日」が29.9%、「わからない・その他」が30.5%とのことでした。週休2日は必ずしも肯定されていない結果です。
さらに、「余暇とお金では、(しいていえば)どちらが欲しいと思うか?」には、「お金」が49.2%、「余暇」が18.2%、「一概には言えない・その他」が32.6%となっているとのことでした。
番組の中では、「今この調査をしたら、いったいどんな結果が出るのだろうか」と結んでいました。

この話に少し興味を持ち、他の設問も含めた当時の調査結果を調べてみましたが、全体的なニュアンスは、「働き過ぎは自覚していて休みも多少増えるに越したことは無い」が、「別に今のままでもそれほど困らず、休みや余暇を熱望している訳ではない」「休みよりはお金」「余暇はレジャーより休養にあてたい」という感じでした。

ここで私が思ったのは、もしも今これと同じような調査をしたとして、見えてくる結果は実は当時とあまり変わらず、「多少休みが増えればそれに越したことは無いが、仕事にしわ寄せがいくのも嫌だし、おおむね今のままでもよい」となるのではないかということです。

ただし、前提は今と当時ではまったく違います。
当時の方が、確実に労働時間は長く、休日も少なかったはずですが、週休1日が普通で当たり前のことだったので、特に違和感は抱いておらず、今より少しマシになればよいという程度の感覚だったのだろうと想像ができます。

ここで、例えば今、「まとまった休みが取れる代わりに週休2日を廃止する」と言われたら、それを認める人はかなりの少数派でしょう。週休2日はもうすでに、当たり前の前提として定着しているからです。
そして、今は当時よりも労働時間は短く、休みも多くなっていると思いますが、だからといって「余暇や休みはもう十分満足」という答えにはならないでしょう。
その反面、大きく変わってほしいとも思っておらず、やはり当時と同じように「今より少しマシになればよい」という感覚になるのではないでしょうか。

ですから、「プレミアムフライデー」についても、今は「国が口を出し過ぎ」とか、「効果がないのではないか」と言った批判の声がありますが、これが定着していったときにどうなっていくのかを見極めていく必要があると思います。

最終的には、これを前提に予定が組まれるようになり、「なくなっては困る」となるのか、あまり活用されることがなく「有名無実で意味がない」となるのかのどちらかですが、この答えが出るまでには、まだしばらく時間がかかります。

今はあまりとやかく言い過ぎずに、経過を見守る必要があると思います。
当初は批判的に見ていた私ですが、過去の調査結果を見ると、いつの間にかそれが定着して前提になっているような気がし始めています。

2017年2月24日金曜日

労働時間対策の手厚さを見て思う、それができる会社とできない会社の格差拡大の心配



「働き方改革」に関する取り組みを紹介する新聞記事の中で、いくつかの会社の事例が紹介されていました。

労働時間の短縮、定時退社を促す取り組みとして、こんなものが挙げられていました。
・18時の強制退社日が定められていて、上司の許可がなければ部屋の電気が強制的に消灯される。他の日は20時で同様の対応が実施される。
・毎朝無料のモーニングサービスが振る舞われ、朝型勤務へのシフトを促している。
・各自が毎月の残業時間や休暇取得を1年間計画し、チーム共有することで業務負担の偏りを防ぐ。
・高効率の工作機械導入や、仕事場近くにトイレを移して移動時間を減らすなど、多額の設備投資をする。
・月間の残業時間がゼロだった社員に「ノー残業手当(1万5千円)」を支給する。

ある食品大手企業は、人材獲得への強い危機意識を持っていて、特にグローバルで働ける人材が選ぶ他企業と比べて、働き方が国際標準に劣っているという問題意識があり、長時間労働の削減に取り組まなければ人材獲得ができないと考えているとのことです。

こういう取り組みが進んでいくのは、基本的には歓迎すべきことだと思いますが、私の正直な感想は「ここまで手間ひまをかけて手厚い取り組みをしなければ、労働時間を減らすことができないのか」ということです。
私は、もっと個人レベルの意識改革で進められる要素が多いと思っていましたが、実際にそれではまったく不足だということで、このような数々の取り組みが行われているのでしょう。

ただ、こうなってくると心配なのは、ここまで手厚い対応をしなければ労働時間短縮ができないのだとすれば、それができる企業とできない企業の間で、どんどん格差が広がってしまうのではないかということです。

この新聞記事で紹介されていたのは、みんなそれなりの規模の有名企業でしたが、そういう会社であれば、専任できるスタッフを配置することができ、効率化のために様々な投資するだけの資金も持っています。

一方、その他大多数の中小零細企業ではそうはいきません。そもそも人、モノ、金という経営資源のどれか、もしくはそのすべてが不足しているような会社がほとんどです。
ギリギリの人数で何とか収益を確保しようとしているような会社も多く、時短どころか有給休暇を消化させることすら難しいような状況が多々見られます。
良い設備や機械があることは知っていても、それに投資するだけの余力がありません。新しい手当を支給することなど、採算の見込みがなければできるはずもありません。

こうなると、労働時間をはじめとした働き方の部分でも、また企業間格差の問題が起こってきます。人材がいて投資ができる会社ではそれらの対策がどんどん進み、それができない会社はどんどん取り残されていくという現象です。
「働き方改革」という課題の中では、あまり意識されていないかもしれませんが、このままでは大企業優遇とか、弱者軽視と言われる結果になりかねません。
労働時間対策につながるような設備投資や、関連する取り組みを支援する制度もいくつか出てきているようですが、それだけではまだまだ足りません。

このままでは、手厚い対策ができる会社は今までのさらに上をいき、できない会社はまったく進展がないというように、企業間の格差がますます広がってしまうのではないかと懸念しています。
努力をする気がない会社は仕方がありませんが、努力をしたくてもできない会社が出てきてしまいます。
「労働時間対策」のこれからの進展のしかたをとても心配しています。

2017年2月22日水曜日

「責任を取って辞める」は正しいことなのか



少し前にある会社から聞いたお話です。
新規事業の立ち上げを主管していた部長が、「業績不振の責任を取って辞める」のだそうです。確かに当初の計画目標にはまったく達しておらず、事業がうまくいっていなかったことは間違いありません。

行動が遅れがちでタイミングを逸していることが多かったり、優先順位が低いと思われることに手をかけすぎていたり、仕事の進め方自体に問題があったことは否定できず、この部長に結果責任があることは確かです。

ただ、実際に事業を立ち上げてからはまだ一年弱で、見切ってしまうにはあまりにも早いタイミングです。実際に経験してきたことでのノウハウの積み上げはあり、それらをこれからどう活かしていくかという検討を始めた矢先の唐突な退職の申し出だったので、会社として大変困った事態になってしまいました。
ちなみに、この部長はすでに次の転職先を決めていて、そこで“一から”出直すのだそうです。入社日も決まっていて、退職を慰留する余地もありません。本人によれば、「引き継ぐようなことはほとんどないので、今すぐに自分が退職しても迷惑をかけることはない」ということだそうです。

この時は、何とか社内の別のマネージャーに兼務させることで、この事業は継続できることになりましたが、当初の計画からはかなり縮小方向での見直しをせざるを得ず、ケチがついた形になったこの事業は、その後もほとんど利益を生むことがなく、結局は別会社に事業売却することとなってしまいました。

ここで私が考えたのは、「仕事の責任」とはいったい何なのかということです。
この部長は「責任を取って辞める」と言っていますが、それが本当に責任を取ることにつながっているのだろうかということです。

確かに、社長や経営陣が、業績不振や不祥事の「責任を取って辞める」という光景は、ときどき見られることです。それまで責任を負っていた者が退場することでけじめをつけ、人心一新、心機一転で新たな人たちが取り組むことによって事態の改善を図ろうという方法は、十分に理解できますし、それなりに効果を生むこともあるでしょう。

ただ、この部長の場合は、これらとは少し事情が違っています。
まず、経営陣ではなく雇われている立場の部長が、誰からも辞めろと言われていないにもかかわらず、自分だけの判断で「責任を取って辞める」と言っています。さらに身の振り方まですでに決めていて、給料が大きく下がるようなことでもない限りは、自分が負う傷はたぶんほとんどありません。
これを周りの多くの人から見れば、「責任を取って辞めた」というよりは、「責任を放棄して逃げた」と言われても仕方がないでしょう。

私は「辞める」ということが本当に「責任を取る」ということにつながっている場合は、実はものすごく少ないのではないかと思っています。
「責任を取って辞める」という立場の人は、ほとんどがもうすでに社会的な地位を十分に築いた人たちであり、収入面や社会的な立場として多少のマイナスはあったとしても、それが致命傷になることはほとんどありません。一般社員がある日突然無職、無収入になるのとは訳が違います。

また、相応の高い地位の人であれば、辞めることでけじめをつけて後進に道を譲るというような効果はあるでしょうが、現場の実務にかかわっているような立場の人はそうではありません。自分の力不足がマイナスに働くことが明らかで、自分よりも有能な後任がいるというようなことでもない限り、辞めて責任をとれることはありません。

最近、大臣、議員、官僚といった人たちが、「責任を取る」という名目で辞める、辞めないという応酬をよく見かける気がします。実際に辞める人からしがみつく人までいろいろですが、それで「責任を取った」と言える人は少ないと思います。

世の中の大多数の人の場合、私は「周りの理解と支援を得る努力をしながら“続ける”ということが、責任を取るには一番ふさわしい行動のように思います。