2017年2月17日金曜日

「残業時間上限」の議論が条件闘争になってしまう違和感



最近の報道で、残業時間の上限を年720時間(月平均60時間)とすることを、経営側が受け入れる方針を決めたというものがありました。これで労使の足並みがそろい、今後は繁忙期に例外として認める月単位の上限時間の調整と、現在は残業時間規制から除外されている運送業、建設業、研究開発の扱いが焦点になるということです。

今までは法規制がなかったことからすれば、それなりに前進したと見ることはできますが、私はこれまでの議論から見えてくるニュアンスについて、どうしても違和感をぬぐうことができません。

それを最も強く感じるのは、「上限を年720時間(月平均60時間)とすることの“受け入れ”を決めた」という部分です。これまでの議論で月100時間や80時間といった案が出ていた経緯からして、“受け入れた”という部分に、「本当はもっと上限時間を引き上げておきたかったが、この案で妥協した」ということが本音だったのではないかという様子が見えてしまうのです。

さらに、繁忙期に関する議論がこれからされるようですが、それは月単位の上限時間を超えても良い条件を決めるということですから、上限規制に抜け道を作るということであり、さらに規制はゆるくなるということです。

この「月平均60時間」という数字は、「毎日コンスタントに3時間残業する」ということです。これは長時間労働が常態化している人たちにとっては改善なのかもしれませんが、毎日20時過ぎまで働いて、家に帰り着くのは22時近く、それがコンスタントな平均値というのは、私は決して適正な勤務時間だとは思えません。

そもそもこの残業時間の上限規制は、長時間労働による健康被害や過労死、過労自殺といったものを防ごうという目的で始まったはずです。しかし、それがいつの間にか、時間数をどうするかの「条件闘争」になってしまっています。
こんな「条件闘争」に陥るということは、働き方改革などといいながらも、経営側の本音は「残業時間が減ると業績が下がる」という認識であり、「社員を長時間働かせられる余地を残しておいた方が都合が良い」と考えているということです。さらに労働側も、同じ「条件闘争」の土俵で物事を考えているということになります。

この手の話を聞くと、私はいつも「モラル」と「ルール」という話を思い出します。
それは、「“モラル”は目指すべき中心点、“ルール”は中心点からこれ以上離れてはいけないという境界線をいい、“ルール”を設けると、中心点からかなり離れていても、“ルール”さえ守れば問題ないとなって、“モラル”を軽視し始める」というものです。“ルール”が増えると手続きも増え、組織の効率が落ちるとも言われます。

今までの議論で見えるのは、本来の目的のために目指すべき中心点に近づけようとする話ではなく、どこまでなら許されるのかという境界線の話ばかりです。それも、中心点からできるだけ離そうという流れの議論に見えます。

仕事の大変さは、残業時間だけに集約されるものではありませんが、それが大きな要素であることもまた確かです。それに対して、今の日本で行われている最高峰であるはずの議論がこういう話では、私はあまり好ましいとは思えません。
本来の目的に立ち返り、そこに向かうための議論が進められることを切に願います。

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