2022年9月26日月曜日

経営者の「運」と「勘」の話

 知人の社長と話していて、自身の会社が最近手掛けている仕事の話になりました。

偶然のつながりやタイミングがうまく重なって始まった仕事が、急激に成長して予想していなかったような大成功だそうです。社長自身は「自分は運を持っている」「勘が良かった」としきりに言います。自画自賛が過ぎるのもどうかと思いますが、話を聞いていると、成功要因は確かに運や勘でしか説明できないところがあります。

 

ビジネスにまつわる「運」や「勘」の話は、特に経営者からはよく出てくるものです。

「運」の話はほとんどが幸運に関することで、「自分の運が悪かった」というような話に出会うことは少ないです。不運を嘆いているようでは経営者としてやっていけない、続けられないということかもしれません。

「勘」については、良いことに働いたものと、悪いことに働いたものの両方の話があります。どちらかというと、危険察知のような第六感的な話が多いかもしれません。

 

ビジネスを成功させるために、この「運」と「勘」は、どうも必要条件のように感じます。

では、これを高めることができる方法があるのかを考えてみると、絶対というものではありませんが、うまくいっている人たちの様子から参考になることがあります。

 

「運」で言えば、やはり幸運を持ってくる人は何かしら行動しています。特に「誰かと会うこと」に多くの時間を割いているように見えます。また、そこで会っている相手は、一言でいうと「良さそうな人」ばかりです。多くの幸運は他人が運んできてくれるものと考えれば、これは意味があることのように思います。

 

もう一つの「勘」ですが、これが良い人に共通するのは、それを常に働かせていることです。データや統計、過去事例などは見ていますが、それだけに頼らず、自分の感性も合わせて使っています。「勘」を働かせ続けることで、それを研ぎ澄ましている感じがします。

これは前述の「運」と関連しますが、周りに集まってくる人は、必ずしも良い人ばかりとは限りません。自分の都合だけを考えている人や、中には悪意を持って近づいてくる人もいるかもしれません。そういう相手を、自分の「勘」に基づいてうまく排除しています。

 

これはあるところで聞いた話ですが、まったく同じ設備で同じ製品を作っているにもかかわらず、不良品率が他に比べて圧倒的に低い工場があったそうです。

そこにはベテランの工場長がいて、何か少しの違和感があれば、機械の整備や原材料の確認、その他対策によって、不良品発生を未然に防いでいたそうで、これはどんなにデータを駆使しても、他の工場で同じことは再現できなかったといいます。またベテラン工場長自身も、違和感の理由を明確に説明することはできなかったそうです。まさに職人の「勘」で、第六感と言ってもいい危険察知能力ですが、データだけに頼らず「勘」を働かせ続けてそれを磨いていったのでしょう。

今はスマホのような便利な道具がたくさんありますが、それらに依存しすぎると「勘」が鈍っていってしまうことがありそうです。

 

「運」と「勘」は、教わったり勉強したりすることで身に着けられるものではありませんが、ビジネスには確実に必要なものです。良い出会いを増やし、感性を働かせ続けることが、その一助になるのではないでしょうか。

 

2022年9月19日月曜日

「管理職にはなりたくない」が加速している?

 あるテレビ番組で、「頑張らない働き方」「出世したくない20代」という話題が取り上げられていました。「管理職の多忙さを見ていて、自分はそれが耐えられない」「大変な割に報酬は低い」「そこまでしてお金は欲しくない」など、管理職にはなりたくない理由が挙げられています。

この話自体は、もうずいぶん前から言われていることですが、最近はこれが日本だけの現象ではないということでした。

 

アメリカの若者たちの間では、「静かな退職(クワイエット・クィッティング)」といって、積極的に熱意を持って労働するわけではないが、完全に働くのをやめるわけでもなく、「必要以上に一生懸命働くのをやめる」というワークスタイルがあるそうです。

 

また中国では、「寝そべり族」といって、過酷な競争社会に立ち向かうことをあきらめて、結婚もせず、子供も持たず、消費をせず、仕事の時間を減らし、最低限の生活を送ることを志すという生活スタイルの若者たちがいるそうです。「資本家の金儲けの材料となって搾取されることを拒否する」というポリシーがあるそうです。

 

これらに共通するのは、経済的な成功や他人との競争、人を動かす地位に就くことなどには、魅力も必要性も感じていないということです。金銭や地位といったものが、モチベーションにはつながらないことを意味しています。

 

もちろん、管理職になりたい若者や、競争に勝って地位を得たい若者は、今でも間違いなくいるでしょう。ただ、そういう志向の人が管理職に適任かというと、必ずしもそうではありません。

そもそも「競争心の強い管理職」が、「競争することを軽視、もしくは軽蔑する若者たち」から認められて、良いチームを作ることができるかというと、それはなかなか難しそうです。こういう人たちを扱わなければならない管理職の仕事は、さらに難易度が高くなって、適任者も少なくなっていくのではないでしょうか。

 

この番組では、若者たちには競争・格差社会への反発もあって、逆に横並び意識の強さが増しているとされていました。上下関係、弱肉強食、勝ち組負け組ではなく、決定権や分配など何でも平等を求める傾向があるそうです。みんなで食事するときのお店やメニュー決め、役割や当番決めを、ルーレットアプリでやっていました。

 

また、最近の若者は「社会の役に立ちたい」という意識が強まっているともいわれていました。自己満足よりは周囲からの感謝、社会貢献といったことの方が、仕事のモチベーションにつながるようです。

そうだとすれば、個人的な昇進や金銭的なインセンティブがどうこうというよりは、自分の仕事がどのように社会とつながっているかを意識させることや、会社としてそういった取り組みをおこなっていくことが必要になってきます。

 

こういう志向がこれからも強まってくるのだとすると、会社での組織の作り方も、大きく考え方を変えていく必要があります。階層構造を持たないティール組織などの導入を、本気で考えていかなければなりません。

もしかすると、「管理職が存在しない会社」が当たり前になる時代が来るのかもしれません。そういう変化に対応できるような企業だけが、生き残っていけるのではないでしょうか。

 

 

2022年9月12日月曜日

やっぱり大事な「幸運な偶然」に出会いにくくなっている

 最近、あらためて「セレンディピティ(Serendipity)」という言葉を耳にする機会がありました。

「偶然の産物」「幸運な偶然を手に入れる力」などを意味する言葉です。

イギリスで生みだされた造語で、ある物語の主人公が、優れた能力や才気によって、有益なものを偶然発見して手に入れていく話が語源になっているそうです。

ただの「偶然の運」ではなく、「偶然をきっかけに幸運をつかみ取る力」「幸福を引き寄せる力」とも言えるでしょう。

 

この「幸運な偶然」に、コロナ禍の中では出会うことが難しくなっていると感じます。

私自身のことで言えば、人との偶然の出会いやただの雑談のような話から、まったく意図していなかった大きな仕事の話につながることがときどきあります。経営者や営業職の方々であれば同じ経験があると思いますが、たまたま出会った人から仕事を紹介されたり、別件で訪問した会社で、たまたま顔を合わせた別の担当者から仕事の打診を受けたりします。予定されていない偶然の出会いや、立ち話のような非公式な雑談は、営業活動の中では必要なことです。

しかし、この予定されていない偶然は、リアルの対面でなければなかなか難しいという感覚があります。

 

テレワークとの両立が進められる中で、計画されたことを着々と確実にこなす仕事では、テレワークの方が確実に効率が良いと感じます。しかし、これが営業活動となると必ずしもそうとは言えません。

既存顧客との継続的な案件であれば、リモート会議などでも十分ですが、新規営業の活動をリモートだけでこなすのは難しさを感じます。確かにオンライン上にも様々な出会いの場はあり、難しいという思い込みがよくないのかもしれませんが、物理的な距離が近くないと、偶然の回数はどうしても減ってしまいます。

テレワークが定着する中で、リアルとの使い分けが大事なことを、明確に感じるようになってきました。

 

少し違う話題ですが、ラインなどのメッセンジャーアプリでのコミュニケーションで、ボイスメッセージ機能を使う若者が増えているという話を聞きました。言葉でのコミュニケーションには温かみを感じるという理由だそうです。手書き文字の文章を画像で送るという話も聞きますが、こちらも温かみがあるからとのことです。これらはどんな世代にも共通する感覚なのでしょう。

ただ、これらも基本的には既に面識があって、ネット上でつながっている者同士のコミュニケーションであり、新しい出会いということではありません。

将来的には「幸運な偶然」に出会えるような新しいフラットフォームが現れるかもしれませんが、今のところはやはりリアルが必要と感じます。

 

どんなに時代が変わっても、人間同士が直接対面で出会うことは、私にとって重要なことです。

 

2022年9月5日月曜日

「帯に短しタスキに長し」のとらえ方

 企業での人材の配置や役職任命、その他役割分担の中で、「帯に短しタスキに長し」という言葉が上司から発せられることがしばしばあります。似た言葉では「あちらを立てればこちらが立たず」「痛し痒し」など、両立が難しいことを言っているようです。

 

基本的には「役不足」を意味していて、まだ任せられないとするのか、それでも任せてみようとなるのかは、状況によって様々です。ただ、この言葉が出てくるとき、多くの場合では「短し」に注目しているように感じます。「これができないから全部無理」という判断です。

 

ふと、この「帯に短しタスキに長し」という言葉の意味を、いろいろと考えてしまいました。

思ったのは、短いものを帯に使うことは100%無理だが、長いものをタスキに使うのは、いろいろ目をつぶればできるということです。人材に活かし方として、もう一歩進んで「ではその長さで使えるものは何か」と考えると、さらにいろいろなことが見えてきます。

 

「できない人にそこまで目をかける必要はない」との意見もあるでしょうが、私がなぜこういうことを考えるかというと、今いる人材をどうにかして活かしていかなければ、会社の仕事が回らないというケースを、最近よく目にするからです。「能力不足があるから別の人に」ができる人材豊富な会社は、どんどん減ってきています。

 

例えば、役職定年は世代交代を促す仕組みの一つで、年長者が権威を盾にして居座ることができないのはメリットですが、どんなに能力が高い人材でも一定年齢で役職から外れる必要があります。そこで適切な後任者がいなければ、組織全体の力としてはたぶんマイナスに働きます。そして、「適切な後任者がなかなか見当たらない」という話をよく聞きます。

ここでできることは二つしかなく、役職定年を踏み越えて能力が高い人材に続けてもらうか、多少のことには目をつぶって後任者を選んで託すかのいずれかです。そこで出てくる言葉が、まさに「帯に短しタスキに長し」です。

 

気を付けなければならないのは、能力が高い年長者に役職を任せ続けても、これから先の伸びしろはあまり見込めないということです。やはり新たな人材に託した方が、組織の将来を考えると健全なことでしょう。

この時に、短いものを伸ばすには一定の時間がかかります。その一方、長いものは切ればよいことで、こちらはすぐに対応できます。「短し」にあたるのは主に能力的なもの、「長し」にあたると思われるのは心構えなどの意識的な問題と、これまで能力発揮する必要がなかったなど機会の問題です。

この切り分けをして、次の人材を選んで託すことが重要ですが、意外に見極めができていないと感じることがあります。

 

「短し」は対応に時間がかかり、「長し」は環境を変えるだけですぐに対応できる可能性があります。これからは、そうやって身近な人材の力を最大限に発揮させることを考えなければならない時代です。新たな人材の採用はどんどん難しくなります。

そもそも、ぴったりの適任者は、そう簡単には見つからないものです。