2015年3月30日月曜日

「10年後になくなる仕事」という記事に思う無意味さ


「10年後になくなる仕事」「10年後に消える仕事」、その反対に「10年後も残る仕事」「10年後も食える仕事」といった内容の記事を、ときどき目にすることがあります。

調べてみると、何かの調査結果や雑誌記事や書籍など、いろいろなところからこの手の情報が出てきていて、なおかつそれが発信された時期もまちまちという感じでした。
中には、3年前に発表された「10年後になくなる仕事」などもあって、そこからすれば、“あと7年後・・・”にカウントダウンされている訳ですが、そこに挙げられたものを見たところでは、本当に終わりが近づいているのかはまだ何とも言えません。

こういう記事を見ると、何がなくなって、何が生き残るのか、自分の今の仕事はどうなのかをついつい確かめようとしてしまいます。仮に自分の今の仕事が「なくなる仕事」と名指しされていれば、それを見る心理は不安感と危機感でしょうし、記事の論調自体も、どちらかというと不安を助長しているような感じがします。

私は、「10年後になくなる仕事」を名指しすることは、実際にはあまり意味がないと思っています。

一つは単純な考え方として、“本当にそうなるかはわからない”ということです。
なくなる仕事とされているのは、主に機械化や自動化が可能だろうと思われているものがほとんどですが、過去をみれば、例えば自動販売機のおかげで商店が無くなったかといえば、決してそうではありません。

また、必要とする人がいる限りは、それがどんなに小さかったとしても、マーケットは存在します。数は少なくなっても、今でも氷屋さんはいるし、草履屋さんも提灯屋さんもいます。それがなくなるかどうかを予測して、今から心配することにはあまり意味がない感じがします。

もう一つは、「なくなる仕事」があれば「産まれる仕事」もあるということです。
10年前から今のスマートフォンの存在を見込んでいた人はそれほど多くないはずですし、今のSNSビジネスやアプリビジネスの状況も、この数年で急速に出て来たものです。技術の進歩やイノベーションによって、これからもどんどん新しい何かが産まれ、何かが廃れていきます。そこには自分ができそうな仕事も出来そうもない仕事も両方あるでしょう。ただ、それを今から正確に予測して準備することは、かなり難しいことだと思います。

私は「なくなる仕事」と「残る仕事」に一喜一憂したり、それを今から見極めようとしたりするのではなく、変化に対応できる準備をしておくことが大事だと思います。変化の激しい時代の中で、何か狭い目標を掲げてそこだけにターゲットを絞ったり、今の状況に固執して守ろうとするなど、変化を最小限にとどめようとするような姿勢の方が、よほど危ないのではないかと思います。

実際にはなかなか難しいことなのかもしれませんが、「今の仕事が無くなったら、次はこんなことをしよう!」などと、ワクワクして考えられるようなマインドを持つことが、実は一番必要なことではないかと感じています。まずはそんな「心の準備」が、一番大切なのではないでしょうか。


2015年3月27日金曜日

会社が気をもむ「一人だけの新入社員」の帰属意識


それぞれは全く別の二つの会社から、全く同じような懸念を聞きました。様々な事情から、「一人だけ」を採用することになった新入社員についてです。

どちらも30名規模の中小企業ですが、一社は過去に新入社員を採用した実績はあるものの、経営体制が変わるなどの事情があったために、この数年間は新卒採用を行いませんでしたが、今期たまたま紹介された学生を一人だけ採用することになったという会社、もう一社はこれまでコンスタントに新卒採用をしてきたものの、業績が厳しく今期は見送りを考えていましたが、それでも世代の断絶は良くないと考え、結果として一人だけを受け入れることにした会社です。

どちらも、受け入れるからにはしっかり研修をして早く一人前に育てたいという意識がある会社で、これまでは社内でじっくり新人研修をやっていましたが、今回は社内で研修体制を組めないこともあり、3か月ほどの期間の外部研修に行かせることにしたそうです。

ここでの心配が、新入社員の会社への帰属意識です。どちらの会社もとても心配していて、私にもアドバイスを求められ、うち一社は送り出す前日に、意識付けの研修をやってほしいという依頼を受けています。

今回、私が大事なこととしてアドバイスしたのは、心理学でいう「単純接触効果」もしくは「単純接触の原理」などといわれることです。
これは「個体間の親密さは、接触回数、接触頻度が多ければ多いほど増す」といった事を指し、人間関係で言えば「顔を会わせたり、話したりする回数、頻度が増えるほど、相手に対して好感を持つ」ということです。

これに基づいてやることは明らかで、外部研修を受けている新入社員の様子を見に行く、メールをする、電話をする、食事などに連れ出すなど、いろいろな方法でできるだけ頻繁に接触するように心がけるということです。

これはある会社であったことですが、配属直後から客先に1人で常駐することとなってしまった新入社員の上司が、その新人に「用事があってもなくても、毎日17時に必ず電話連絡をしてくるように」と指示をしたそうです。

初めは話すこともないし、いちいち面倒だと思っていた新入社員ですが、それが習慣になってくると、「ああ、今日はこの話をしよう」などと、その日にあったことを考えるようになり、ふとしたある日、自分の会社、自分の上司をはっきりと意識するようになったそうです。

毎日電話の相手をした上司は大変だったと思いますが、会社への帰属意識という点では好ましくない環境でも、その新人の気持ちをしっかりとつなぎとめることができたのは、とても素晴らしいことだと思います。

この「単純接触効果」、「単純接触の原理」は、離れたところにいる新入社員でなくても使えるものです。信頼関係を作る、コミュニケーションを円滑にするなどというために、接する回数を増やすというような単純なことは意外に効果的です。

共通の話題がない、世代や価値観が違うなどといって、お互いが接することをついつい避けているせいで、コミュニケーションが悪くなり、仕事の上でも影響が出ているようなことがあるのではないでしょうか。

折り合いが今一つ良くない上司や部下がいるならば、まずは単純に接する頻度を増やしてみることが、意外に良い方法ではないかと思います。


2015年3月25日水曜日

「部下の研修をジャマする上司」という話


内容や形式はいろいろだと思いますが、何らかの社内研修を実施する会社は多いと思います。

社内研修の企画というのは、実は結構難しいところがあります。会社として研修したいテーマがあっても、それが対象者すべての興味に合致するとは限りませんから、どうしても無理矢理受けさせる“強制”という部分が出てきてしまいます。

最近は、自分のキャリアに対する意識が高まってきていることもあり、どんな内容の社内研修であってもわりと肯定的に捉え、積極的に取り組む人が増えてきましたが、それでも全員が高い意識を持って研修に臨むことは、残念ながらありません。これは“強制”という要素がある限りは仕方がないことです。

興味がないことを無理やり学ばせても、それが効果的でないのは当然ですから、研修企画をする中では、できるだけ多くの人が興味を持って受講できるテーマや内容を考えたり、いくつかの選択肢で選べるようにしたり、環境作りのために、研修に送り出す側の上司とコミュニケーションを取ったり、様々な工夫をします。

先日ある会社の役員の方と話している中で、「上司が部下の研修をジャマする」という話がありました。
本来であれば、上司には研修の事前事後に、どんな内容だったのかを話題にしてもらったり、持ち帰った内容を活用できる場を作ってもらったりというフォローをしてもらうことが、研修を行う側にとっては一番有り難いことです。そこまでではなくても、普通に気持ちよく送り出してくれればよいのですが、一部に「そんな研修はムダだ」「受けても意味がない」「業務では役に立たない」などと言って、部下の意欲を萎えさせるような上司が実際にいるのだそうです。

聞いた様子から感じたところでは、そういう上司の態度には、どうも二つの原因がありそうです。
一つは上司自身に自己啓発や研修の場を好まず、誰でもそういうものだと思っている場合、もう一つは、自分が知らない知識やスキルを、部下だけが学ぶことに対する嫉妬のような感情がある場合です。
どちらも共通しているのは、上司自身には学びの姿勢がないということです。

お話をうかがったこの会社では、「上司にも部下の研修をジャマさせないような教育が必要だ」などとおっしゃっていました。
「部下にこんな内容の研修をする」というさわり程度の内容をレクチャーし、嫉妬を薄めたりプライドを汚さないようにしたり、できれば自分でも学ぼうという興味を持ってもらったりということも、社内研修を実施する上での前さばき、環境作りとして必要だということでした。

社内研修に対する文句や意見というのは、あまり学ぶ姿勢がない人ほど強く主張する感じがします。それが上司であったりすると、意外に扱いに困るものです。
社内研修で効果を得るためには、一筋縄ではいかないことがいろいろあります。


2015年3月23日月曜日

今度は就活で「おわハラ」? 採用数ばかり追う企業姿勢に問題あり


セクハラ、パワハラならぬ「おわハラ」というものがあるそうです。「就活終われハラスメント」を略した言葉とのことです。
売り手市場となった今年の就職活動で、就活生に対して企業の人事が、「就活を終わらせてウチに決めろ」と、様々な嫌がらせをすることを指していて、最近これが問題になってきているそうです。

そのやり方は、「他社を辞退すれば、この場で内定を出す」「受けている他社に辞退の連絡を入れろ」など、内定辞退を強要するパターン、連日面接の日程を入れるなど、他社の選考を妨害するパターン、内定を辞退しようとした人に、絶対に入社するように脅すパターンなどがあるとのことです。

○○ハラスメントは言うに及ばず、モンスター○○や一方的な逆ギレなど、自分の都合を他人に強要する態度には、最近少々目に余るものがありますが、企業の採用活動の中でこういうことが起こってしまうのは、とにかく採用数ばかりを追いかける、企業の姿勢にもかなり問題があると思います。

以前ある会社であったことですが、新任の採用マネージャーが自分の評価を上げたいがために、とにかく採用予定人数の達成ばかりに注力していたことがあります。そのために、少々要件が足りない人材でも、現場を説得して無理矢理採用してしまうなど、マッチング度合いを無視したり、採用基準を軽く扱うような活動をしていました。

結果的に採用人数は達成し、マネージャーはその功績が認められて別部門に栄転していきましたが、無理な採用がたたり、その後数年でその期間に採用した人の8割以上が辞めてしまうなど、会社として大きな痛手になってしまいました。

 採用担当者に立場からすると、自分が評価される指標として、「採用人数」が最も重要という会社は多いのではないかと思いますが、私が企業の採用活動にかかわる中で感じていたのは、「採用人数」にこだわりすぎることには、あまりメリットがないということです。

ビジネス用語で、KPIKey Performance Indicator:重要業績評価指標)と、KGIKey Goal Indicator:重要目標達成指標)の違いが言われます。

簡単に言えば、最終的な定量目標(KGI)を定め、その目標を実現するためのプロセスを決め、そのプロセス毎の中間的な測定指標(KPI)が必要ということで、まずはKGIを明確にしたうえで、プロセス毎のKPIを設定することが重要であると言われます。

これに照らしてみれば、企業の採用活動において、採用人数という最終目標(KGI)はあるとして、その途中の活動を評価する中間指標(KPI)がきちんと設定されていないケースは、意外に多いように思います。

先ほどの例のように、採用数水増しのために採用基準を甘くするなどというのは、途中経過が問われなかった証明ですし、「おわハラ」などと言われる無理強いが横行するのも、企業イメージへの悪影響など、プロセス評価として考慮されていないからでしょう。

ビジネスの中で、結果が大事というのは当然のことですが、私は適切なプロセスがあってこその良い結果だと思います。特に最近、企業は社会の公器として、今まで以上にモラルが問われる時代になっています。
“適切なプロセスは何か”ということにもっと目を向ければ、「おわハラ」などというものは、自然になくなっていくはずだと思います。


2015年3月20日金曜日

「経営者の傲慢は人格障害の一種」という話に思い当たる節あり



傲慢なトップが暴走して、経営につまずくような例はときどき見かけますが、先日の新聞記事によると、英国では「傲慢」を「人格障害」と捉え、これを「傲慢症候群」と名づけ、対策を考える研究が始まっているのだそうです。権力の座に長くいると性格が変わる人格障害の一種なのだそうです。

「傲慢症候群」については、以下の14症例というものが挙げられています。
1.自己陶酔の傾向があり、「この世は権力をふるって栄達をめざす劇場だ」と思うことがある。
2.何かするときは、まずは自分がよく映るようにしたい。
3.イメージや外見がかなり気になる。
4.話しているうちに気が高ぶり、自分がまるで偉大な指導者だと錯覚することがある。
5.自分のことを「国家」や「組織」と重ね合わせ、考え方も利害も同じだと思ってしまう。
6.自分のことを王様のように「私たち」と気取って言ったり、自分を大きく見せるため「彼は」「彼女は」などと三人称をつかったりする。
7.自分の意見には過大な自信があるが、他人の意見の批判は見下すことがある。
8.「私には無限の力がある」など、自分の能力を過信する。
9.「私の可否を問うのは、同僚や世論などのありふれたものではなく、審判するのは歴史か神だ」と思う。
10.「私の正しさは、いずれ歴史か神が判断してくれる」と信じている。
11.現実感覚を失い、ひきこもりがちになることがある。
12.せわしなく、むこうみずで衝動的な性格である。
13.大きなビジョンに気をとられがちで、「私がやろうとしていることは道義的に正しいので、実用性やコスト、結果についてさほど検討する必要はない」と思うことがある。
14.計画を進めるとき、基本動作や詳細に注意を払わないので、ミスが多い。

世の中を戦争に引き込むような歴史上の指導者や、最近であれば、リーマンショックでも利益追求を止めずに巨額の損失を出したファンドの経営者、乗務員のサービスに激怒して飛行機をひきかえさせた「ナッツ騒動」なども、この傲慢症候群に当てはまるとのことです。

「傲慢症候群」にかかりやすいのは、年齢を問わず「権力の座についてからも、成功をおさめてきた人」で、実権をにぎってから、ある程度の年数が経ってから発症するのだそうですが、こう言われると、私が接してきた経営者の中にも、思い当たる節が多々あります。

例えば、、当初は謙虚さや他者尊重の様子が感じられた経営者が、その後しばらく経ってからお会いした時に、社員へのマイナス評価の愚痴ばかりになっている、人の助言や意見を聞かなくなっている、強引に自分の意見を押し付ける、他者に対して攻撃的になっているなど、まさに「傲慢症候群」と言われる状況に変わってしまっていることがあります。

その一方で、自信無さげにおどおどしていた経営者が、数年後にお会いすると、自信満々で会社を率いている、落ち着いた風格を身につけているなどといったこともあります。良い意味での自信や傲慢さを身につけたということだと思います。

人格障害などと言いながらも、このような特性を持っていたおかげで大きな成功をおさめた経営者はたくさんいます。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、最近ではイーロン・マスクなど、大きなイノベーションをもたらすような人には、この傲慢に当てはまる要素が必ずあります。傲慢のすべてが悪いのかというと、必ずしもそうではないように思います。
いずれにしても、権力は良くも悪くも人の心理を変えてしまうということでしょう。

経営者にある種の傲慢さは必要だとしても、この行き過ぎは間違いなく経営リスクです。これを避けるためには、本人が意識することはもちろんですが、権力の分散などの仕組みも必要だと思います。例えば、経営トップと同等に近い権限を持ち、トップに対して苦言を呈する事ができる人の存在です。よくナンバー2の重要性が言われるのも、こういうことではないかと思います。

企業の健全性を保ち、悪い意味の「傲慢症候群」に陥らないために、経営者自身が自分を律すること、ナンバー2の育成など、自分を律するための仕組み作りといったことも、これからは大切な取り組みになるのではないかと思います。


2015年3月18日水曜日

「自分のキャリア」を会社まかせにしていて平気なのか


企業内のミドル層からシニア世代の、キャリア自律を考えるというイベントに参加しました。

特に大企業に属している人、安定した職業についている人ほど、自分自身のキャリアを自分では考えず、会社まかせにしている傾向があります。
こんな人たちのマインドチェンジをするべく、主に大企業では、年齢の節目ごとに自分のキャリアを考える研修を実施したり、キャリアカウンセラーを配置して相談窓口を設けたり、その他いろいろなプログラムが設けられています。国のレベルでも、ミドル、シニア層のキャリア自律を支援するいくつかのプロジェクトが動いています。

これから少子化の時代を迎え、労働人口自体が減っていく世の中に入り、限られた労働力を適正に活用する上で、人材の流動化や再配置が必須となってくる流れの中で、これらが重要な取り組みであることは間違いありません。

ただ、こんな動きに対して私が思うのは、自分のキャリアというまさに自分自身のことなのに、それほど手間をかけて会社や周囲から注意喚起されなければ、自分で考えようとしない人がたくさんいるという事への驚きです。
本来は自分自身のことなのに、これほど会社まかせで平気でいるのかという事への疑問とともに、会社や世間の対応も、当事者に対してあまりにも過保護という感じがしました。

裏を返せば、それほど会社をあてにしていても平気だという意識が、過去からの積み重ねで浸透しているという事です。仕事は上から降ってくるものだから、自分でどうこうできる物ではない、やりたい仕事や部署異動なども、自分の意志ではどうにもならない、そんな自分で決めないという意識が定着してしまっているということなのかもしれません。

ただ、はっきり言って、今はそんな人まかせで安泰の時代ではありません。どんな会社でも、今後5年くらいのうちにどんな展開になるのか、本当のところは誰にもわかりません。
将来を見通すことはいろいろな面で難しくなっており、今後がどんなシナリオで進むかによって、関わる人たちのキャリアには、大きな影響があります。

これまでの日本企業におけるキャリアの積み方というのは、マラソン型と言われています。長いレースに参加し続けることはできますが、、一度集団から脱落すると、その後の挽回は難しく、序列が固定してしまいます。
これが例えばインドなどであれば、毎日が100m競争のようなイメージだそうです。日々の結果によって序列が常に変わっていくような形で、次のレースに必ず参加できるかどうかの保障はありません。

キャリア自律という事は、自分のキャリアを継続的に考え、行動をし続けるということなので、それぞれの当事者である個人が考えるのは当然なことだと思いますが、実際にはなかなかそうなってはいません。問題意識は持っていて、考えようとはするものの、何をすればよいのかわからないという人もいます。

 そんな人も、まずはそれほど難しいことではなく、自分の好きな事、得意な事を整理してみるようなことから始めてみてはいかがと思います。多少は周囲に手助けしてもらった方が良い場合もあるでしょう。

いずれにしても、自分のキャリアを会社まかせにして自分で考えていないということは、とても怖いことだと思います。


2015年3月16日月曜日

やはり大切だと思う「自分の素性」を表現すること


最近、家の近所に新しいお店がオープンしました。
ちょっとオシャレな黒系の店構えと内装で、「○○チキン」という店名だったので、てっきり焼鳥屋さんか何かと思っていたら、どうもカレー屋さん?らしいです。
そのうち行ってみようと思いますが、何のお店かという素性がわかりづらいと、行こうにも何となくちょっと身構えてしまいます。

私たちのようなコンサルタント同士でも、同じようなことがあります。
私が接する方々の中でも、それなりに付き合いがあるような相手であるにもかかわらず、未だに何が専門でどんな活動をしているのか、よくわからない方がいらっしゃいます。
ご本人からは「専門は○○」「○○を手掛けている」などとお聞きしますが、いったいどんな場面で何をお願いすることができるのか、どんな場面で力をお借りできるのか、いまいち理解できないことがあります。

こういう私自身も、“人事・組織コンサルタント”として活動していますが、中には「何をする人なのか良くわからない」「あやしい」などと言われることがあります。人事の仕事に縁が無い人であればそう思われても仕方がないですし、私自身の表現の仕方にも問題があるのかもしれません。

話は少し変わりますが、私がご支援させて頂く企業では、人事制度構築や組織改革、採用支援などがテーマになりますので、その会社の強みや弱み、その他特徴を必ずお聞きする必要があります。

私がお聞きするお相手は、経営者かそれに準ずる経営幹部の方が多いので、必ず何らかの自社の評価を聞くことができますが、中には「はっきり言える特徴がない」「強味と言えるほどのものがない」「その他大勢の他社と同じ」などと言う会社があります。
 謙遜もあるのかもしれませんが、何もないと言われるのは、会社の事情を知る必要がある立場である私としては少々困ったことです。

このように自己評価が苦手な会社には、共通点があります。
・固定の顧客とずっと付き合っていて、新規営業の場面があまりない。
・採用活動をしていないなど自社のことを社外に説明する機会がない。
・競合他社を意識しないで済んでいる、または競合自体が存在しない。
など、要は「自分の素性」を見直す必要も、その機会もなかったというような会社です。

“そんな会社はめったにあるはずがない”などと思われるかもしれませんが、狭いマーケットで固定客相手に商売をしているような企業では、意外にこういうことがあります。
また、会社全体はそうではなくても、担当顧客が全く変わらない営業職、社外と接する機会がほとんどない管理部門など、社内で局所的に「自分の素性」が表現できない人たちがいることがあります。
こういう人たちを経由すると、相手に自社の素性が伝わらなくなり、相手が身構えてしまったり、コミュニケーションが十分に深まらなかったりします。

こうやって見ていくと、「自分の素性」が理解できていない、それを周りに表現できないというようなことは、少なくともビジネス上ではデメリットしかないように思います。

「自分の素性」をはっきりと表現できる言葉を持つということは、やはり大切なことだと思います。


2015年3月13日金曜日

「希望通りの研修」で本当に効果が上がるのか?


多くの企業では4月から新人研修が始まるでしょうし、それ以外にも様々な研修が実施されると思いますが、その効果が思い通りに上がっているかというと、なかなかそうはいかないことが多いのではないかと思います。

私もいろいろな企業の研修を、受講者、企画担当、講師など、様々な立場で長らくかかわってきましたが、そんな経験から思う研修効果を上げる方法はたった一つだけ、「本人が学びたいと思うものを学ばせる」という当たり前のことです。

これは、私自身がある外部研修に、自費でなおかつ休日に受講した時、はっきりと思ったことです。
その研修では、他の受講者も私と同じく自費で自分の意志で参加している人たちばかりで、そのためか私がいろいろな形で経験してきた研修のどれよりも受講者が熱心で、やはりそういうものかと確信してしまったということです。

「学びたいものを学ばせること」が効果的なのは、あまりにも当たり前のことですし、多くの企業で研修を企画している人たちも、ほとんどが意識していることだと思います。

ですから、研修企画担当者の多くは、社内研修で「学びたいもの」「必要な知識やスキル」が何かを現場に問い合わせたり、希望を出してもらったりということをします。
また、研修カリキュラムをカフェテリア方式で本人に選ばせたりする方法も、「自分の意志で学ぶ」という形をとって研修効果を高めたいということでは同じ主旨だと思います。

しかし、ここで研修内容の希望を聞いたり本人に選ばせたりすることで、研修効果がそれまでよりも大きく向上するかといえば、それほどのことはありません。
 
あるIT企業で、現場に研修内容の希望を聞いたところ、「プログラミング言語研修」などと言ってきたことがありました。会社としては「そんなものは必要な人が自分で学ぶべきもの」と思いますが、本人たちが「それを学びたい」と言うこと自体は否定のしようがありません。ただ、希望を聞かれたのにそれが通らないとなると、かえって不満につながったりします。

また、部門長やマネージャーなどに尋ねてみると、「マネジメント」や「マインド」や「リーダーシップ」などと言われることが多いですが、これはあくまで“上司がやらせたいこと”で、受講者本人たちの希望ではありません。上司自身は意外に自分のことを棚に上げていたりしますので、それを見ている部下たちは「自分たちより上司の研修の方が先でしょう!」などと不満を持ったりします。

さらに「カフェテリア方式の研修」も、ある選択肢の中から選ばせていること自体が「学びたいもの」からはズレますし、一定の受講義務が課されることが多いですから、これも「自分の意志で」という形にはなかなかなりません。

私は、何とか「自分の意志で学ぶ」という形を取ろうとする取り組み自体を否定はしませんが、会社で行なう研修は、どんな形をとったとしても結局は強制です。

社内研修には、学校でいう必修科目のように、知識、スキル、マインドとして、「社員であれば最低限身につけていてもらわなければならない」というものが必ずあります。それは興味があろうとなかろうと、本人の意志とは関係がありません。

選択科目で希望を聞くことは良いですが、必修科目は本人に意志に関わらず、必ずやらせなければならないし、身につけてもらわなければなりません。強制であっても一定の効果を得なければなりません。

最近は、研修効果うんぬんから「本人が学びたいもの」を重視しすぎて、社内研修での必修科目と選択科目の区別があいまいになっている感じがします。
そんなメリハリをあらためて考える必要があるのではないかと思います。


2015年3月11日水曜日

一人で全部はなかなかそろわない「リーダーに必要な3つの目」


すでに耳にしたことがある方はたくさんいると思いますが、リーダーには、その物事の見方として、3つの目が必要であると言われます。「鳥の目」「虫の目」「魚の目」です。

「鳥の目」は、大所高所からマクロ的、大局的に物事全体を把握する俯瞰の目、
「虫の目」は、物事に近づいて様々な角度から細部を見つめる複眼の目、
「魚の目」は潮の流れのような周りの変化、時代の流れようなものを敏感に感じ取る目、
といわれます。

経営者をはじめとした組織のリーダーは、この3つの目をバランスよく持っていることが欠かせないと言われます。
ただ、そんなリーダーが、どの会社でも十分に育っているかといえば、残念ながらそういう状況ではありません。多くの場合、「虫の目」は持っているが、他の二つに不足があるというような、要は自分の身の回りの関すること以外の視点は、非常に欠けがちということがあります。さらには、自分の身近な細部を見る「虫の目」すら怪しいという人もいます。

 主に「鳥の目」と「魚の目」が欠けやすい要因は、もちろん本人の能力的な問題もあるでしょうが、他にもいろいろなことが考えられます。
 例えば、周りからそういう視点を要求されない、その視点を持てるだけの情報が準備されていない、短期成果の優先度が高くてそれどころではない、などということです。
 
「鳥の目」は周辺事情まで含めた大局的なこと、「魚の目」は市場動向やこれからのトレンドなどといった中長期的な将来に向けた視点ですが、これらがなぜ欠けるかと言えば、結局は直近の自分に直接関係がないので、その視点を持つ必要性が希薄だということです。

 ですから「リーダーは3つの目をバランスよく持つ意識が必要だ」となる訳ですが、こんな周りの環境の影響もあることを考えると、ただ本人に意識しろと言うだけでは、事態はあまり改善しないように思います。

私が思うのは、リーダー自身が「3つの目」を身につける努力は当然することとして、やはりその人によって得意な見方というものがあるということです。
ある人は「鳥の目」は鋭いが、大ざっぱで「虫の目」が苦手、またある人は、トレンドに敏感で「魚の目」は優れているが、その全体の中での位置づけを見る「鳥の目」が欠けているなど、人ぞれぞれの得意不得意があるはずです。

組織の目的は、属している者がお互い協力し合ってシナジーを産むことですから、何でも一人でやる必要はありません。「鳥の目」「虫の目」「魚の目」という3つの目も、それぞれが得意な視点を発揮して、それぞれをつなぎ合わせれば良いことです。

優秀なリーダーは、確かにこの「3つの目」をすべて兼ね備えています。それぞれに得手不得手はあったとしても、すべてが一定以上の高いレベルにあります。
ただ、世の中にいるリーダーの大多数がそうなることは、なかなか難しいと思います。

リーダー自身が意識して努力することは前提として、その一方で、一人で「3つの目」のすべてを兼ね備えるのは難しいということも、同じく前提に置いて考える必要があるのではないかと思います。


2015年3月9日月曜日

飲みニケーションでも大事な「仕掛けること」と「成り行き任せ」のバランス


最近は、会社帰りに軽く一杯など、俗にいう「飲みニケーション」の機会が減っていると聞きます。
いろいろな調査結果を見ても、「プライベートの時間を犠牲にしたくない」「仕事の延長で楽しくない」など、あまり積極的に参加したいと思わない人の比率が増えているようです。

つい先日お話したある女性も、「最近、会社の人と飲みに行く事なんてないですよ!」と言っていました。
その人は、決して飲み会が嫌いな訳でも、人付き合いが苦手な訳でもありませんが、どうもお互いの人付き合いを敬遠するような雰囲気が社内にあり、会社に対する自分自身の不満もあって、気づくとそんな感じになってしまっていたのだそうです。

何も飲み会ばかりである必要はありませんが、コミュニケーションが希薄になる方向に会社の雰囲気が傾いてしまうのは、、あまり良いことでないのは間違いありません。
ただ、「飲みニケーション」の好き嫌いが言えるのも、いつも決まって顔を合わせる同僚や仲間がいて、あえて意識せずに「成り行き任せ」でいても機会を作れるからということはあります。

もしも会社で毎日顔を合わせる以外の人と交流しようとすれば、ただ「成り行き任せ」という訳にはいきません。自分が会いたい人には自分で会う約束をしなければ、誰とも会うことができません。受け身の比率を減らして自分から行動する、自分から「仕掛けること」を意識しなければ、何かが動く機会はとても少なくなります。

私自身も、会社員時代には何となく誰かが誘ってくれたり、「成り行き任せ」でよかったことが多々ありましたが、今はなかなかそうはいきません。そんな環境にいるためか、「自分から行動する」ということの方が当たり前の感覚になっています。

ただ、何でも自分から仕掛けて行動することが良いのかといえば、こちらも必ずしもそうではないと思います。
「自分から行動する」「自分から仕掛ける」ということは、見方を変えれば「自分の都合を相手に押し付ける」という面があります。“ゴリ押しの営業や押し売り”“Win-Winにならない商談”“気乗りしないことへの誘いや無理強い”などはこれに当たると思います。

例えば、成績の良い営業職の人などは、何でも仕掛けるばかりでなく、実は結構相手の様子を見たり、待つということをしています。相手目線で相手の心理を考え、押す時は押し、引く時は引くということで、「仕掛けること」と「成り行き任せ」のバランスを取っているということですが、これは「飲みニケーション」でも同じではないかと思います。

部下たちが飲み会の誘いを断ると嘆く上司の話を聞きますが、もしも突然の強引な誘いや説教モードの会話、お酒の無理強いなどがあったとすれば、それは最近の若手社員が最も嫌がることです。お金と時間の無駄だと感じて誘いに応じなくなってしまうのは当然でしょう。
逆に「どうせ来ないから」と誘うことを止めてしまっている上司がいますが、これも余計に物事が動かなくなってしまう原因です。
「飲みニケーション」の衰退には、「仕掛けること」と「成り行き任せ」のバランスが崩れているという部分が大いに影響していると思います。

ビジネスの上では「自分から行動する」「自分から仕掛ける」ということが常に良いことであるようなイメージがありますが、ここにはやはりバランスが必要です。
先ほどの調査結果でも、会社での飲み会を「上司や先輩と親しくなれる」「いろいろな経験談が聞ける」「他部署の人とも気軽に話ができる」など、肯定的に捉える意見も多々あります。

「飲みニケーション」であっても、誘うというような「仕掛けること」と、誘われるように仕向ける、誘われるのを待つというような「成り行き任せ」の部分のバランスが必要だろうと思います。


2015年3月6日金曜日

意識しないとなかなかできない「全体をみる」ということ


たまたまあるホテルの宴会場に立ち寄った時のことです。

たぶんどこかのクラス会か何かだと思いますが、「○○の傘寿の会」という看板を見かけました。
傘寿と言えば、年齢80歳のお祝いのことです。何の気なしにふと会場をのぞいてみると、100名近いお年寄りが会場に詰めかけています。皆さんお元気そうで、とても80歳とは見えないような方もたくさんいらっしゃいます。

その時私と同行していた人がそんな様子を見て、「いやぁ、最近のお年寄りは80歳でもみんな元気だね!」と言い、私もなるほどそうだと賛同していました。

ただ、このことを後からよくよく考えてみると、そもそもそんな会場に出かけてこられるお年寄りは、自分一人でも出歩くことができる健康なお年寄りが大半であるに決まっています。
 もしも体調が悪かったり病気があったりする人が、そこに参加している人の何倍もいるのだとしたら、「今どきのお年寄りがお元気だ」とは必ずしも言えません。

ただ、「みんなお元気だ」の言葉に何の違和感も持たなかったのは、様々なメディアや自分の実体験を含めて、「最近は年齢の割に元気で活動的な方が増えている」という先入観があったからです。

自分が実際に触れ合う人や街中の様子を見ていると、まさにお元気なお年寄りが大半ですが、これは私が出会う人たちが、たまたま元気な人ばかりに偏っているということはあり得ます。本当に全体を見ることができていて、状況を正しく把握できているのかは何とも言えません。

こんなことを考えながら思ったのは、よくリーダーには全体を俯瞰してみる目が必要だと言われますが、これは相当に意識をしていないと難しいということです。

やはり人間は、私も含めて自分が実際に体験したことの方が、心に強く印象付けられます。しかし自分が体験できることというのは、おのずと偏りが出て来ます。
自分が直接かかわるのは、自分が興味あることや好きなことがほとんどですし、付き合う相手もそれなりに気が合う人であることが大半です。
メディアが発信する情報や、書籍に書いてあることなども、印象に残るのは自分が共感したこと、なるほどと思ったことですが、これも触れ合う情報を自分が選択しているということでは偏っている可能性があります。

そうやって、印象に残りやすく、なおかつ偏りがちな自分の体験をもとに「大局」を見ているとしたら、それはそもそも「大局」ではないということです。

自分が興味ない情報であってもアンテナを張る、自分と気が合わない人とでもそれなりに付き合う、面白そうとは思えない本も読む、自分とは興味の範囲や意見が違う人を身近に置くなど、かなり意識をしないと、本当の意味で「全体を見る」ということはできないと思います。

ただ、自分が苦手なことや興味を持てないことに取り組むのは、自分の努力だけではなかなかできることではありません。そんなところをカバーしてくれる、自分とはちょっと違うタイプのパートナーに身近にいてもらうということが、「全体を見る」ためには一番現実的な方法のように思います。


2015年3月4日水曜日

街中の名刺交換が本当に研修だとしたら、どんな効果を狙っているのか


「すみません。新人研修中なんですが、よろしければ名刺交換をして頂けませんか?」
街中でこうやって声を掛けられた経験がある方がいると思います。

でもこの実態は、その後電話などがかかってきて、しつこく営業されるということらしいです。相手が本当に新人なのかはどうもよくわかりませんし、理由をつけて名刺をもらって、それを営業先にしてしまうのであれば、これは研修ではないでしょう。

私は、相手がどんなに真面目そうな人であっても、道端で知らない人に名刺を渡すことはしませんが、新人研修などといわれると、ついつい渡して「頑張れ!」の一言も言ってあげたくなる人もいると思います。そんな人の善意に付け込んで、半分欺いたような形で行う営業スタイルは、それをやらせている企業の見識を疑いますし、それに巻き込まれている社員の人たちも、気の毒な感じがします。

今回はそういうモラルの話はさておき、もしもこれが本当に研修だとしたら、いったいどんな研修効果を狙っているのだろうかと考えてみました。

「知らない人に声を掛ける訓練」

「名刺交換の練習」
これは別に街中で名刺交換をさせなくても、どちらも他にやり方はありそうです。

「寒い中、暑い中など、つらくても頑張る」

「人から冷たくあしらわれることに挫けないメンタルを作る」
これらも仕事の大変さを思い知るためなら、やはり他にやり方があるでしょう。例えば実際の営業活動の中に飛び込み営業などがあるならば、そういう実践の場を使った方が、後々でよほどためになると思います。

要は、街中の名刺交換が研修だったとしても、どんな効果を狙っているのかが良くわからず、研修として成り立っていないという事です。

世の中に研修と言われるものはたくさんあります。軍隊のように、とにかく肉体的、精神的に厳しい団体行動を課してカルチャーショックを与えるようなもの、高度な研究テーマを課して、とにかく頭が疲れるもの、論理を知るためのもの、スキルを学ぶもの、その他いろいろです。

私もその企画や講師として研修をお手伝いすることがありますが、本当の意味での効果を得るのはとても難しいことです。
多くの研修では、実施直後はなるほどと納得して、次への取り組みを思い描いていたりしても、時間の経過とともに刺激を忘れて意欲は下がり、最後は元と変わらないこととなってしまっているのではないでしょうか。
特に人の行動を変える、マインドを変えるといったことは、なかなか時間がかかることですし、どんなことがその人の心に響くかは、人によって違います。受講後のアンケートなどを見ても、同じ研修の中でためになったと思うことや印象に残ったことは、人それぞれまったく違います。

研修に関してよく言われるのは、「研修で上乗せの効果を得るのは難しいが、やめると確実にレベルダウンが起こる」ということです。レベルを維持するために、研修を継続的に実施する必要があるということですが、最近は予算削減の企業も多く、研修はどうしても後回しにされがちになっています。

よく「研修効果が見えない」ということをやらない理由にしていますが、効果が見えない一因には、何をどれだけ求めるのかを事前に明らかにしていないということがあります。

企業研修での様子を見ていると、結果を急ぎ過ぎたり過大な期待をし過ぎたり、求める結果自体が曖昧だったりということが見受けられます。研修をやること自体が目的になっていると感じることもあります。
最近は短い時間軸で具体的な数値に見える効果を期待されたりしますが、それほど簡単に人の意識や行動が変わることはありません。

研修効果を得るためには、事前に期待する効果を明らかにし、それに向けて様々なパターンを網羅した学びの場づくりをするということだと思います。
何のための研修かをはっきりさせなければ、街中の名刺交換とあまり変わらないことになってしまうのではないかと思います。


2015年3月2日月曜日

「敗者復活」がなかなかできない社会や企業


あるテレビ番組を見ていて、“敗者復活”という言葉が耳に残りました。
今の社会は、勝つか負けるかのギスギスした社会になっており、さらに一度負けるとなかなか“敗者復活”ができないので、それが心の病や人を傷つける犯罪や、他人のことを顧みない風潮の一因になっているのではないかということでした。何となく納得をしながら聞いていました。

ここで言っていた社会を企業に置き換えてみた時、例えば私がかかわることが多い人事制度であれば、人の評価というものが必ずついて回ります。この人事評価の仕組みとしては、評価基準を設けたり職務基準を作ったりして、ある程度の客観性に基づいて、ゼロベースで評価できる形を整えようとします。

ただ、これを運用していくと、その人その人の評価というのは、実際にはあまり変わるものではなく、固定化していく傾向が強いと感じます。
「仕事ができる人もできない人も、そんなには変わらない」「仕事の能力は急に変わるものではない」ということも、ある面では真実だろうと思いますが、一方で、一度貼られたレッテルはなかなか剥がすことができないという面を感じます。

特に中小零細企業の場合は、個別の人間同士の相性も絡んで、その人の評価や組織内での序列といったものは、いつまで経ってもなかなか変わりません。少人数の固定化した集団では、ある程度はやむを得ないことなのかもしれません。

また、例えば役職任命に関してであれば、昇格も降格も、栄転も左遷もあるでしょうが、どちらかといえばよほどの失敗や責任問題、能力不足といったものでもない限り、外す、降ろすという処遇はしないことが多いと思います。これは裏を返せば、一度役職から外れると再度戻すのが極めて難しいということの証明で、要は「敗者復活はしづらい」ということなのだと思います。

これはある会社で聞いた話ですが、もともとはシステム開発部門の部長だった人が、あるプロジェクトを大失敗させて部長降格になったそうです。
その人はその後管理系の部門に異動し、そこで徐々に実績を認められて部長職に返り咲き、その後もさらに評価を高めて執行役員を務めるまでになったそうです。
これはまさに“敗者復活”といえるように思いますが、こうなるには本人の努力だけでなく、周りもその人を見捨てずに、環境や役割を変えるなどしてチャンスを与え続けたからということがあると思います。

“敗者復活”は、本人の努力だけではなかなか難しいことだと思います。それが可能な環境や、周りから何らかの後押しが必要だと思います。人が人を評価する限り、初めの印象が強く作用することは避けられませんが、これが固定化することで、本当は育つかもしれない可能性の芽を摘んでいるかもしれません。それは社会においても企業においても、あまり好ましいことではないと思います。

「“敗者復活”ができる環境作り」。
簡単にできそうにはありませんが、取り組んでいかなければならないテーマではないでしょうか。