2013年1月30日水曜日

多くなっている気がする“非主張行動”


「アサーション」という言葉、ご存知でしょうか。
直訳すると“主張・断言”などとなりますが、本来の意味として、“自他尊重の自己表現法”、“さわやかな自己表現”などといったり、“アサーション”とそのまま使われたりします。
要は「自分の考え、感情、欲求などを率直に、その場の状況にあった適切な方法で述べる」「相手の立場を尊重しながら、適切な自己主張をする」ということです。

中身をものすごく要約すると、コミュニケーションのタイプには
1.言うべきことを言わずに我慢する非主張行動(ノンアサーティブ)
2.自分の都合で言い過ぎて相手を犠牲にする攻撃的行動(アグレッシブ)
3.相手を尊重しながらも、言うべきことをはっきり伝える主張行動(アサーティブ)

という三つがあって、1ではその場は丸く収まるが、我慢は蓄積していつか爆発する。2は一瞬気分がすっきりするが、後で様々なトラブルや後悔を招く。なので3の方法を取ることが望ましいというものです。

私がコミュニケーションスキル関連の研修を行う際、このアサーションに関する部分を良く扱います。実行するのはなかなか難しいですが、知っているのと知らないのとは大違いなので、まず知ってもらうという目的で取り組みます。

 ケーススタディをやったりしますが、よく感じるのは、「非主張行動(ノンアサーティブ)の傾向が強い」という事です。どんなコミュニケーションの取り方が望ましいかを考える課題にもかかわらず、「黙って従う」「自分の都合を変更する」「そのままやり過ごす」など、コミュニケーション自体を避ける回答を出してくるケースが結構あります。

実際の仕事の場面での話を聞いてみても、「上司の指示通りにする」「反論しない」など、どうも自分の意見を言わないことが多いようです。よく、「今の若者はキレやすい」とか「自己中心で自分の都合ばかり」などと言われますが、これも非主張行動を続けて不満を溜め込んだ結果という面もあるので、同じつながりの中のことのように思います。

また、「とてもそんなこと言えない」「どうしても言いづらい」という言い訳が多いと感じます。自分の感覚ではそれほどハードルは高くないはずなのに、相手にとっては「言いづらい」「言えない」のです。たぶんお互いの距離感をつかめないことが、一番の問題なのだと思います。メンタルダウンを起こしたり、急に会社を辞めてしまったりというのも、こんなところに原因がある気がしてなりません。

思ったことを伝える行動をしないということは、本人にとっては無理難題だったり、不安でいっぱいだったり、意見や考えが違ったりしていても、表面上は素直に理解したように見えるので、周囲からは気づきづらいはずです。

幸いなことにコミュニケーションをうまくとりたい気持ちを持っている人は多く、どう接したら良いかがわからずに腰が引けている部分が強いので、研修などを通じて「言いたいこと」「適切な言い方」がわかってくると、徐々に相手との距離感もつかめるようになり、比較的早く改善してきます。

かつては「コミュニケーションスキルは自然に身につけていくもの」という意識が強かったと思います。しかし今はそんな昔の常識にとらわれず、必要な事はきちんと教えていかなければならないということだと思います。


2013年1月29日火曜日

求人件数と採用人数と採用基準の関係


最近、自分の周辺で「転職した」という話を聞く機会が少なくなった気がします。人材流出を減らすことが課題だった企業でも「最近めっきり人が辞めなくなった」という話を聞きます。今のような環境だと、転職願望はあっても実際に活動しようという意欲は薄れ気味なのかもしれません。

一方で倒産や雇用調整などで、必要に迫られての就職活動という方も沢山いらっしゃると思います。就活中の学生さん達も同じでしょう。就職活動をしている方々は新卒中途を問わず、皆さん一様に「厳しい」とおっしゃいます。活動中の方々にとっては、やはり求人状況というのは気になるものです。

少し前のことですが、求人媒体を扱う代理店の方にお話を伺った時、「ここへ来て企業からの問い合わせや依頼が増え、取り扱う求人件数が増えてきている」とおっしゃっていました。今まで採用を見合わせていた企業が再開したり、「新卒はムリ」とあきらめていた企業が取り組みを始めてみたり、という事が増えてきているとのことでした。

これで雇用環境も改善か?と思いたいところですが、その時のお話では、求人情報一件あたりの採用予定人数は1人とか2人とか、あまり多くないことがほとんどだそうで、全体の人数はそれほど増えているとは言えないのではないか、とのことでした。
またある人材紹介会社の方に伺った話では、「長い間募集している求人があるのだが、かなり吟味した上で紹介しても、なかなか決まらない」ということを聞きました。成功報酬の人材紹介だからという事情もあるでしょうが、それだけ採用基準も高く、企業側も採用には慎重なのでしょう。

雇用環境を判断する材料として、有効求人倍率や求人件数などの統計上の数字を用いることが多いですが、それだけでは測れない実態があります。求人件数が増えて求人倍率が求職者にとって緩和されても、実は採用基準がやたらと高かったり、「良い人がいれば」程度の採用意欲だったりと、その中身は実はいろいろです。

求人件数が増えれば、それが明るい傾向なのは間違いないですし、私のお付き合いしている企業でも採用意欲の高いところがたくさんあります。こんな複雑な状況を見ていると、つくづく企業と求職者のマッチングの重要性を感じます。
企業と求職者の間をつなぐ人たちの位置づけが、これからはものすごく重要になってくるのではないかと思います


2013年1月26日土曜日

制度で決めるか、運用に任せるか(2)


私は、人事制度への要望が“具体化”、“緻密化”、“詳細化”というような場合、「それで本当に運用できますか?」と尋ねます。制度の理念とか全体フレーム、実施手順などはしっかり決める必要がありますが、役割基準、職務基準、評価基準など、基準という言われる部分については、何でも細かくというのは実は現実的ではありません。

もしも制度で細かな決め事を作っても、多くの場合はすぐに制度と実態が合わなくなります。制度検討中に事情が変わって、初めから合わないなどという事もあります。それくらい変化が早いということです。(OAソフトの操作スキルを細かく定義したら、新システムが稼働して意味が無くなったなんてこと、あり得ますよね?)
また、部門の違い、職種の違い、役割の違い、その他すべてを網羅して基準を作ろうとすると、膨大なドキュメント量になり、メンテナンスも大変な労力です。見直しと言っても時間がかかり、制度が修正できた頃にはもうすでに時代遅れということもあります。

さらに別の視点として、一度細かい基準を作ると、運用する側である現場は、自分たちなりに考えることを止めてしまいます。人事制度に対して「基準が合わない、使いづらい、だから直せ」という要望が上がり、修正したものが出ても、やっぱり「合わない、使いづらい」の繰り返しになります。“運用”に問題があったとしても、“制度・仕組み”が悪いという意識になります。
「制度が悪い」と言って現場はやる気を失っていくわけですし、自分たちで考えなくなるのは人材育成上良く無いことですから、人事制度の目的とは正反対の方向に進んでしまいます。

ある会社では非常に大ざっぱな仕組みしかないにもかかわらず、個々の社員は評価に対する不満もなくイキイキと働いています。
ある会社は仕組みがないために、その時その時で対応が違ってしまい、社員が不信感を持っています。
マネジメントしづらいという同じ理由で、細かく制度を決めてくれというマネージャーもいれば、自分の裁量が無くなるから細かく決めないでくれというマネージャーもいます。やはり職種や仕事内容、社風や社員のキャラクター、その他いろいろな事情で“制度・仕組み”“運用”適切な比重やバランスは違うということでしょう。

その中で私が唯一言えるのは「制度、仕組みに委ねすぎるとロクな事がない」ということです。そこだけに意識が行って問題の本質を見失い、なおかつ他責の思考に陥りがちになります。
目的に沿って“運用”されてこその“制度・仕組み”です。ここでもやはり、“運用”の大切さということをあらためて考えて頂けると良いと思います。


2013年1月25日金曜日

制度で決めるか、運用に任せるか(1)


私の仕事の大きなテーマである人事制度構築は、その会社の人事の仕組みを作ることです。会社によって要望は様々ですが、初めにお話をうかがう段階では「基準や手順を細かく作り込んで欲しい」と言われることが多いです。

「いちいち考えなくて済むように」「誰でも同じように事務的に運用できるように」などと言われます。「うちのマネージャー連中は自分で判断できないから、決まりを作ってやらないと動けない」などと言われることもあります。“制度・仕組み”に委ねる比重をできるだけ高くして、“運用”を楽にしようという考え方です。

制度を作るというと、どうしても管理的なものをイメージするためにそんな話になるようですが、人事制度の目的は「人を活かして企業を発展させること」です。物事を決まった通りにこなす機械であれば、それをどうやって効率的に利用するかということなので、細かな事前の決め事や制度作りが最も重要ですが、人の場合は感情があり、人事制度の「人を活かす」をいう目的を考えれば、人材育成やる気といった部分にも目を向ける必要があります。

やる気のツボは個人の主観による部分も多く、どうやって盛り上げるかは人それぞれで、まさに“運用”の中での個別対応が必要になってきます。

人事制度構築において、“制度・仕組み”に委ねて“運用”を楽にしようと考えても、実際にはなかなかうまくいきません。その会社によって違いはありますが、やはり“制度・仕組み”“運用”適切な比重、バランスがあり、多くの場合は制度構築を依頼して頂く方々が当初考えていたよりも、思いのほか“運用”の重みが大きいはずです。
運用することの難しさと大切さにも、是非気づいて頂きたいと思います。


2013年1月23日水曜日

仕事とプライベートの境目ってどこ?


皆さんは仕事とプライベートの境目、はっきり認識できていますか?またはっきり区別したいですか?

私が新人で入社間もない頃、仕事とプライベートはできるだけはっきりさせたいという考えでした。やっぱり仕事は仕事でそれほど楽しいことばかりではないし、自分の自由になる時間はできるだけ多く持っておきたいと考えていたからです。

今はどうかというと、自分のやっていることが果たして仕事なのかプライベートなのかが区別できないことの方が多いですし、またそれを区別したいともあまり思っていません。もちろん100%仕事と言える時も100%プライベートと言える時もありますが、大半はどっちつかずの事のような気がします。独立しているという事はありますが、それ以前の会社勤務の時代から考えても、社会人経験を積む中で徐々にどっちつかずの比率が増えてきたように思います。

よくあることで言えば、仕事で知り合った人や取引先の人と飲みに行ったりゴルフに行ったりして、それは仕事と言えば仕事だし遊びと言えば遊びだし、でもその比率がどうかというのは本人の感じ方次第でしょう。

会社では勤務時間がありますから、上司の承認があれば良いとか、一次会までは勤務扱いでよいとか、経費は出すけど勤務時間扱いはしないとか、いろんな決め事があると思いますが、私たちのような立場ではそれは全く関係ありません。最近は本来仕事とは関係が無いつながりから仕事の話が出てきたりするので、仕事とかプライベートとかを区別する意味が無くなっています。

こう書くとON、OFFのケジメがない? 切り替えができない? のべつダラダラ仕事? などと思われるかもしれませんが、そこは自分なりの方法もあるので、切り替えは十分にできていると思っています。

なぜこんな事を書こうと思ったかというと、最近見かけた若手社員の中にこの区別にやたらとこだわる人がいて、無理矢理区別しようとするが故に、将来の糧になるたくさんのチャンスを逃しているように見えたからです。

区別にこだわる人ほど仕事の境目を厳格にしたがるので、結果として“仕事”の範疇を狭くしてしまう傾向があるように思います。極端になってくると「飲み会などの会社行事には出席しない」「会社の人と業務時間外は付き合わない」なんて人もいます。(それはそれで、その人の価値観ではありますが・・・)

私が入社直後の頃の意識から切り替わったのはその後間もなくでしたが、結局区別なんてできないと思ったことと、区別することに意味がないと思ったからでした。仕事上で出会っても意気投合すれば友達になるし、そうなれば仕事以外でも付き合うし、でも仕事も一緒にしているし、という状態を仕事とプライベートで区別しようとしたってできません。もし区別しようとすると、だいぶん不自然な事になるはずで、自分自身にとっても行動が制約されるマイナス効果の方が大きいです。

仕事とプライベートに区別には、人それぞれの考え方ややり方があると思います。会社で働いていれば就業時間がありますから、時間のけじめも重要です。ただ、自分の行動を分類することで仕事とプライベートを区別しようとすると、どうも無理が出て来るような気がします。(労働時間管理という面ではやむを得ないところもありますが・・・)

必要なのは、今やっていることが仕事かプライベートかを区別することではなく、今の自分の気分は仕事モードなのかプライベートモードなのかを区別することではないでしょうか。「行動では区別せず、気持ちの切り替えでは区別する」ということが大切なのではないかと思います。
そうすれば変に行動を制約することなく、良い形で上手に区別をしていけるように思います。


2013年1月22日火曜日

定期異動の功罪


今頃の時期から、そろそろ次年度の予算や組織を考え始める会社も多いと思います。
人事異動の中で、社内のいろいろな仕事を経験させ、ゼネラリストを養成するとの名目で、定期異動という形での異動があります。これには、癒着や不正、腐敗防止などの意味もありますが、多くは「いろいろ経験させるため」でしょう。

その意義は理解できますし、「いろいろな仕事を経験することで自分の幅が広がった」という成功体験も多々聞きますが、定期異動を今の世の中に照らしてみると、私の感覚では「よほど先まで見通している」「考えずに慣習としてやっている」かのどちらかだと思っています。本来であれば、終身雇用の組織でなければ、おかしなことになる手法だからです。

定期異動と称して多くの人を専門外の部署に異動したとすると、短期的には組織の戦力低下しかありません。本人にとってもスキルが身につかない、キャリアの一貫性が無くなるなど、デメリットになります。

終身雇用という長期スパンで社内キャリアを考えればこそ、定期異動は社内のゼネラリスト養成において意義があるでしょうが、会社命令で異動を繰り返し、年数を経た所で経験年数なりのスキルがない、専門性がないと指摘され、肩たたきの対象になる。・・・・これではあまりに理不尽ではないかと思います。

ただし、定期異動が全部悪いかというと、全く逆の例もあります。
異動なしでずっと同じ仕事を続けた結果、他に潰しが利かないキャリアになってしまい、いよいよ仕事が無くなった時に放り出されてしまうということです。例えば専門性の高い技術職などで、徐々に技術が陳腐化してしまう中で起こります。技術移行を考えながら、新たな技術を身につけられるように異動をし、経験を積んでいれば、こんな事にはならなかったはずです。

どちらにも共通しているのは、個人のキャリアをどう積むか、会社としてどう積ませるかを、きちんと考えていないということです。
プロフェッショナルな人間が、将来展望なしで、他の専門知識が要求される部署に行くような、キャリアに配慮しない異動。そこに発生するのは非効率、不要人材、中間管理職の余剰などです。

本来スペシャリスト集団であるべき組織が、そうではなくなる・・・。もしも定期異動を漫然と行っているならば、そこにはデメリットしかないと思います。


2013年1月19日土曜日

「厳しさ」の勘違い


以前も同じような内容を書いたことがありますが、最近もまた似たような場面に遭遇したので、あらためて書きたいと思います。(最近体罰の話がたくさん出ていますし・・・。)

ある組織のマネージャーの方ですが、「部下を育てるには甘やかしてばかりではダメなので、ビシビシ仕込むように配下のリーダーたちにもいつも言っている」とおっしゃっていました。

普通に聞けば何の異論もなく、「その通り!」と思えるのですが、こうおっしゃる方々を見ていると、この“ビシビシ”の中身に問題があることが結構多いと感じています。「厳しさ」を勘違いしているように思うのです。

どういう事かというと、「目標が高い」「要求レベルが高い」というレベルの厳しさではなく、「言い方がキツイ」「フォローがない」「威圧的」といった接し方や当たりの厳しさが前面に出てしまっていることが往々にしてあります。雰囲気をピリピリさせることを「厳しさ」と考えているのです。

一昔前の体育会系部活などに所属したことがある人ならば、先輩にはうかつに話しかけられない、理不尽なしごきや体罰など、多少なりとも経験があると思います。それを今になって思えば、上下関係を学べた、精神面が鍛えられた、チームにけじめがあったなど、それなりに良かったと捉えている部分もあるのではないでしょうか。

しかし、最近の流れはどうかというと、メンバー間のコミュニケーションを阻害するような上下関係は好ましくないとされますし、体罰などは当然厳禁、トレーニングにも論理的な裏付けが必要となります。メンタル強化も単なる根性論ではなく、その人に応じて意図を持ってやります。

もちろん「黙って言われたとおりにやれ!」ということが必要な場面はあるでしょうし、何でも理屈ばかりではありませんが、権威や恐怖で一方的に押さえつけて有無を言わさずにやらせることはなくなってきています。その方が結果につながるし効果的だからです。

部下や後輩への接し方というのは、どうしても自分の経験則に引きずられます。経験則を肯定的に捉えていて自信があるとすれば、なかなかそこから離れられません。自分がキツイ当たりの接し方をされてきて、今はそれが良かったと思っているとすれば、どうしてもそういう傾向が出ます。

また自分がリーダーのやり方に反感を持っていたとしても、いざ自分がリーダーの立場になると、いつの間にか同じことをしていたりします。意識していることは反面教師にできますが、そうでないと意外に同じことをしているものです。無意識のうちにノウハウとして、自分の引き出しにしまわれているのです。経験したノウハウがそれしかなければ、結局同じ事しかできません。

私自身ももともと体育会的な感覚が強いですし、それが良いと思っていた時代もありましたが、いろいろ経験する中で徐々に感覚が変わってきました。中にはキツイ雰囲気でも力を出す人はいますし、そういう人の方が扱いやすい面もありますが、それぞれのメンバーが最良のパフォーマンスを出すことがチームのためと考えれば、それぞれの人に対する接し方は違ってきます。
自分の感覚では“甘い”接し方でも、そうした方が力を出せるなら、その人に対してはそうするべきです。

いろいろなリーダーシップ論、部下育成論がありますが、方法は一つではありません。そう考えると、一人一人のリーダーが、いかに多くの引き出しを持つかという事が、実は一番重要なように思います。


2013年1月18日金曜日

後々気づく「新人研修」の重み


新入社員が入る会社では、期間の長短の差はあれ、何らかの新人研修を行うと思います。私とのつながりが深いIT業界では、2~3か月の集合研修をやる会社もたくさんあります。

いくつかの会社から人材育成上の課題についてのお話をうかがう中で、その内容を詰めていくと、「それって新人研修の段階でやっておくべきだったよね・・・」とか「新人研修でもっときちんとやっておけば良かった・・・」という反省や後悔の言葉が出ることが意外に多くあります。

IT業界の場合でいえば、技術面で教えなければならないことが多いために、どうしてもITスキル偏重になりがちなのですが、配属後に出て来る問題は、実はビジネスマインドやマナーにつながるところの方が多いのが実態です。(最近は業界問わず同じかもしれません。)

現場の人事担当の方々も、多くはそれに気づいていて、少しでも改善しようとカリキュラムを工夫するものの、時間的な制約も多いためにマナー研修やビジネスマインド系の研修を単発で数日入れるのがせいぜいで、結果として連続的な指導にならずに効果が出ないままになっていたりします。

そうなると、「もっと常識のあるやつを採用しろ」などと採用基準の話になったり、「新人研修なんて意味ないじゃないか」などと研修期間短縮経費節減を言い出す人がいたり、「研修内容が悪い」などと人事部門がやり玉にあがったり、いろいろな人がいろいろな事を言い出して、収拾がつかなくなった経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私は新入社員からの人材育成は、「採用段階」「内定者期間」「新人研修期間」「配属後1年目まで」は、全体をセットで考える必要があると考えています。
「採用段階」では自社の描く人材像にフィットする人、自社の育成方針に共感できそうな人、育成方法について来られそうな人を採用し、「内定者期間」ではお互いに信頼関係を作りながら会社のやり方や考え方を少しずつ伝え、「新人研修期間」で基本的なマインドを叩き込み、「配属後1年目まで」で継続的に指導していくということです。断片的にどこが悪いかという話にしてしまうと、本質的な解決になりません。

その中で「新人研修期間」というのは、実質は短い期間ですが、その後のやる気、組織への定着、成長度合い、さらには本人の職業観まで、影響する度合いが大きく重要度が高いと考えています。
皆さんも自分自身のことを思い出して頂きたいのですが、入社直後のこと、新人研修のことというのは、良きにつけ悪しきにつけ、鮮明に覚えているのではないでしょうか。
「俺は新人研修なんてしてもらえなかった」なんていう人であっても、新人研修がなかったという事実、代わりにどんな扱いをされていたか、どんな指導を受けたか、どうやって仕事を覚えていったかなど、初めの頃の事はよく覚えていると思います。

新入社員の入社直後というのは、緊張状態という事もあり、神経が研ぎ澄まされていて、何事もインパクトを持って捉える時期、印象に残りやすい時期です。個々に程度の違いはあっても、自分なりに何かを吸収しようと思っている時期ですから、この時期に良い指導を受け、「なるほどそうか」と共感すると、自分の軸ができて多少の雑音では揺らがなくなります。

私が新入社員の指導をする時は、「自律」「自責」「自ら行動」「感謝」などをキーワードにすることが多いですが、研修期間を通じてアプローチし続けると、考え方や行動は確実に変わってきます。
新入社員の成長速度が遅い、定着せずに辞めてしまう、不平不満が多い、というような企業では、特に「新人研修期間」の取り組みを見直してみる必要があるかもしれません。


2013年1月16日水曜日

不祥事と隠蔽体質の関係


企業や学校、行政機関といった「組織での不祥事」がときどき報道されます。

その記者会見の様子などを見ていると、不祥事が発覚してもなお、できるだけ余計なことは言わずにその場をしのごうとする態度が見えたりして、大変腹立たしく思うことがあります。
不祥事そのものが発生する原因、それが大きくなってしまう原因には、この隠蔽体質という問題が大きく関わっているように思います。

このブログでも折に触れて“伝えることの大切さ”について書いていますが、不祥事の様子を見ていると、また改めて情報公開、情報共有の大切さを感じます。

出てくる不祥事のそもそもの始まりは、現場の日常業務の中で起こったことが大半だと思います。始めは小さなことだったのかもしれませんが、どんどんエスカレートして、気づいた時には今さら表に出せない状況になっていたりします。上から隠せといわれている場合もあるでしょうし、現場でわかっていながら放置していたという場合もあります。

誰でも情報が得られるオープンな環境になると、隠し事をしづらくなり、不正や不祥事は発覚しやすくなります。そうなると、日々の業務への取り組みは、誰に見られても問題ないようにしなければなりません。逆に日々の業務に誠実に取り組んでいれば、情報公開がしやすくなるとも言えるので、まさにニワトリと卵のようです。

組織の情報公開は、経営者や校長、首長といった、最上位のリーダーの資質や姿勢に大きく影響されるテーマですが、すべてがリーダーのせいではなく、現場でも日々の業務を誠実にこなし、問題は表に出していく姿勢で取り組んでいくことが必要だと思います。
また、「隠す」という行為に対して仕組みだけ対処しようとしても、なかなかうまくいかないことも多く、やはりそこに関わっているすべての人間の意識というものが重要になってきます。

経営者、責任者、リーダーの立場からは情報公開への意識を持ち、問題があれば表に出てくる雰囲気や仕組みを作って社員、メンバーを教育していく。現場の立場でも当事者意識を持って情報公開や共有に取り組んでいく。その両方の取り組みがあって、初めてオープンな風土の良い組織になっていくのではないかと思います


2013年1月15日火曜日

全体を知れば“やる気”につながる


 年の初めに合わせて、今年の目標や計画、過ごし方などを考えた人も多いと思います。一年全体のことを考える時だと思いますが、これはとても大切なことです。全体を考え、知ることで自分がしていることの意義や意味を明確にすることができるからです。

これは仕事でも同じで、全体像を知ることによって、本人のやる気や効率的な動きにつながったりします。昔聞いたことがある例え話ですが、ピラミッド建造の石材を運んでいる労働者に何をしているか尋ねたところ、ある人は「石を運んでいる」と言い、ある人は「王の墓を建てている」と少し自慢げに言い、ある人は「国の歴史を作っている」と胸を張って言ったという話があります。

目先の日常に追われていると、自分がしていることの意義を感じられなくなりがちですが、自分の仕事の先につながっている全体を知ることで、モチベーションは大きく上がります。

全体を知らしめる、全体を理解させる方法はいろいろあります。

私が経験した中でいえば、
・社員参加で経営理念の見直しプロジェクトを行うことで理念が共有できた。
・それまでスローガン程度しか出していなかった事業計画を詳細に出すことで、目標共有できるようになった。
・小さなことまで情報開示を徹底することで、社員の不平不満が減った。
など。

一人ひとりが時々立ち止まって全体へのつながりを意識するとともに、経営者、リーダー、マネージャーという立場の方々は、現場の“やる気”を盛り上げ、効率的な行動ができるようになるために、日々の仕事がどのように全体につながっているのかを、各社員、各メンバーに伝えていってあげることも大切だと思います。


2013年1月12日土曜日

専門家と呼ばれる人達のこだわり


私の家の最寄駅近くに、キューバ好きのバーテンダーさんがいるBarがあります。
「モヒート」というキューバのカクテルにこだわりがあって、キューバから持ってきた品種のミントを自家栽培して、それがなければ注文しても出してくれません。

お砂糖を使うのですが、キューバの砂糖でないとダメなんだそうで、こちらに輸入されている物では上等すぎるらしく、スーパーで売っているような、“安い”砂糖が良いそうです。もうすぐストックが無くなってしまうらしく、「キューバに砂糖を買いに行かないと・・・」と言っていました。でもこれって“安売りの砂糖を買いにキューバのスーパーに行く・・・”ということ??。要はそれくらいのこだわりがあるということで、話を聞きながら感心していました。

いろいろな専門家の方々(必ずしも仕事上の専門ばかりではありません)にお会いすると、みなさん専門分野に関しては、必ずこだわりを持っています。

「食」であれば素材や調理法のこだわり、スポーツであれば道具やトレーニング法へのこだわり、他にも車のパーツや運転技術、釣りの仕掛けやえさ、音楽の楽器や演奏技術、写真の機材やテクニック、などなど。挙げればきりがありません。
これは、専門家だからこそこだわりがあるのと、こだわっているから専門家になれたという両面があるのだと思います。

私にももちろんこだわりはあります。趣味はともかくとして仕事に限れば、やっぱり多くの人がハッピーと思える職場づくりにかかわりたい、今よりちょっとだけでも「良くなった」と感じるような仕組みづくり、場づくりを、人事という切り口で支援したいと思っています。
「かかわって下さる方々には絶対に誠実に!」です

やっぱり高圧的な経営者の片棒を担ぐような仕事はしたくないし、相手をリスペクトしない態度の人は嫌です。自分が共感できる人、尊敬できる人、自分を信頼してくれる人、困っている人を手伝いたいです。(もちろん相手の事情を理解して共感しよう、信頼を得ようという、できる限りの努力はします。)
私のこだわりなんて、一流の人たちから見れば全然チョロイものなので、もっとこだわりを持とうと自分にはいつも言い聞かせています。

こだわりというのは、物事を進める上での推進力であると感じます。こだわることが、いろいろな形でやる気につながります。こだわりがないということは、言い方を変えれば何でもいい、どうでもいいということで、人任せ、投げやりになります。

仕事でもプライベートでも、もしもいまいち張り合いがないならば、自分なりのこだわりを持ってみると良いと思います。まずは小さなこだわりでも、それが発展して大きなやる気につながっていくこともあるでしょう。こだわり続けていて気づいたら、いつの間にかすごい専門家になっているかもしれません。


2013年1月11日金曜日

「ほどほど」という幸せ


以前、たまたまインターネット上で見た記事に関するお話です。(精神科医で立教大学教授の香山リカさんがおっしゃっていたものです)

それは、特に東京で働くビジネスマンには、「もっと頑張らないといけない」「もっと成長しなくては」と自分を追い詰めている人が多いけれど、地方の「5時半帰宅サラリーマン」の方が、それでほどほどの安定した生活が送れるなら幸せではないか、それも「成功」と考えて良しとすべきではないかという内容でした。
日本人の「人生の成功モデル」には大きな収入を得ることしかなく、あまりに貧弱すぎるとのことでした。

少し話は変わりますが、「262の法則」はご存じの方も多いと思います。会社や組織は“出来る2割”、“普通の6割”、“出来ない2割”でバランスがとれているという説です。この“出来ない2割”を排除しても、残った中から新たな“出来ない2割”が生まれてくると言う話も聞いたことがあると思いますが、一見無駄に見える“出来ない2割”にも、実は意味があるといわれています。

例えば自然界であれば、アリでもハチでも、自分たちの巣が攻撃されたり、天候その他の自然現象などで、群れの多くが死んでしまうことがありますが、それでも巣を維持するための余力として存在するのではないかということです。言い方は悪いですが、サボっている者も一定比率で組織に存在していないと、何か緊急事態が起こった時に、組織を維持することができないということです。

香山さんの記事によると、優秀な企業では、「部下の面倒見だけが良い上司」とか「やたら明るいだけが取り柄の社員」というような、数値的な業務成績だけで判断されていない人たちが必ず確保されているそうです。そういう会社の方が、メンタルヘルスや健康上の問題で休業する人が出ても、無事にまた会社に戻って仕事が出来ることが多いそうです。

これは、業績や成果だけによらない多様な価値観のもとに、組織で一定の余裕が認められているということです。最近はこのような動きも増えてきましたが、実際には極端な成果主義で縛っていたり、自分の意志に反して無理して働かなければならないようなケースが、まだまだ多いようです。

どうも日本的な価値観だと、余裕を持とうとすると、一生懸命やっていないとか頑張っていないとか、良くない見方をする傾向があるように思いますが、厳しい厳しいと言って余裕を認めず、ギリギリを要求し続けていると、何かのきっかけで組織全体がつぶれてしまうことになりかねません。

東日本大震災や、タイでの洪水被害後の状況などを見ていても、設備も在庫も物流も、企業が目一杯の効率化を進めた結果、一カ所ダメになるとそれが全体に波及し、全部が機能できなくなるようなことが多かったように思います。やはり組織の健康維持のためには、一定の余裕や余力がなければダメだということだと思います。

会社は社員を単なる成績だけで評価せずに多様な価値観を認め、社員も自分なりの価値観を見出し、自分なりに余裕、余力を生み出し、自分なりの組織貢献をする努力が必要ではないかと思います。

何事においても、成長のためには「ほどほど」という考え方も大事なのではないでしょうか。


2013年1月9日水曜日

セキュリティと組織の情報共有のお話(2)


昨日のブログに書いた通り、「情報を制限すること」だけによらない「適切な情報共有」は、セキュリティの話と同じように、円滑な組織運営をするという点についても言えます。

組織の情報共有ということですが、俗に官僚的といわれる組織ほど、階層ごとに与える情報を制限し、その情報格差によって権威を保とうとしたり、相手が判断できるだけの情報を与えずに、部下を思い通りに動かそうとしたりする傾向があります。自分たちにとって都合が良い情報だけを流し、全体の意識を誘導するなんてこともあります。

しかし、多くの情報が流通し、一般の人がそれらに簡単にアクセスできる今のような世の中となっては、どんなに情報統制しても、システムのセキュリティの話と同様で、完璧に思い通りに行くことはありません。

最近でいえば、震災や原発事故に関する一連の動きなどは、この典型のように思います。とりあえず隠す、後でつじつまが合わなくなる、中途半端に情報が漏れる、などで信用を失っています。初めから適切な情報開示と共有をしていれば、今ほど信用されない状況にはならなかったのではないでしょうか。

企業内での不祥事や不正といった事でも、今はインターネットなどを通じてあっという間に情報が拡散します。隠す、制限する、小出しにするなんてことはほとんど不可能で、いかに世間が納得するように情報開示をしていくかという事の方が重要になっています。

会社において、より多くの社員が自分たちで適切な判断ができて、それに基づいて適切に行動するようになれば、会社にとっては非常に良い事のはずです。

もしもあるシチュエーションにおいて、社長が判断しても、部長が判断しても、一般社員が判断しても、すべて同じ結果になるのであれば、その場にいる人(現場の一般社員)が判断した方が、即断即決で時間もかからないし、仕事は効率的に進みます。
理想的で究極の権限委譲ということになるのでしょうが、社員がそのように行動するためには相応の情報が必要で、情報共有、意識共有、価値観共有がなければ、このようなことは望むべくもありません。

また、社員が会社から何か大事な事を隠されていた、知らされていなかった、嘘をつかれていたと感じたとしたら、会社のことを二度と信用しなくなり、社員の心は離れていってしまいます。円滑な組織運営などできるはずもありません。

私は、個人情報やその他機密と言われる情報以外は、原則すべての社員が共有できるのが良いと思っています。役職者などでなくても、きちんと知らせることで適切な自己判断と行動ができる社員はいるはずで、情報共有しないということは、こういう人たちからその機会を奪っていることになります。

「不安を与えないため」「誤解を与えないため」と称して、あえて知らせないという場面を多々見かけますが、結果的には逆効果だと思います。不安や誤解を与えないように「どうやって知らせるか」を考えるべきだと思います。

組織の情報共有においても、「情報を制限する」より「情報を適切に開示して共有する」ということが、組織が力を発揮する上でも、組織内の信頼関係の上でも、とても大切だと思います。


2013年1月8日火曜日

セキュリティと組織の情報共有のお話(1)


重要な機密情報が、サイバー攻撃によってシステムから流出する事件が起こっています。ウィルスを仕込んだメールを開かせるために、実在の人物からのいかにも本物と思えるような内容を装うなど、特定の組織向けでなおかつやり方も巧妙なので、ハッカーから本気で狙われると、防ぐのはなかなか難しいようです。

最近クラウドシステムが話題ですが、そちらの専門家の方々にうかがうと、多くのユーザーが導入を考えるにあたってはセキュリティを気にすることが多く、「外部のサーバーにデータを置くのは心配」なのだそうです。

ただ、これは「銀行に預けるのは心配だからタンス預金」と言うのと同じような話で、家に現金を置いておく方が盗難や火災や天災などで生じる危険も大きいはずなのに、自分の手元に現物がある方が何となく安心と思う心理と似ている気がします。また、実際に起こる情報流出というのは、システム上の問題よりも、利用している人間に原因があることが多いということでした。

こんな話を聞いた後のある日のこと、私が電車で移動中の事ですが、隣に立っていた女性があわてた様子で何か資料を広げていて見ていました。その後すぐに打合せか何かがあって、事前に資料に目を通す時間がなくて移動中に、という感じでした。
自分の目の前なので、資料の中身が自然と目に入ってしまったのですが、某居酒屋チェーンの店舗の細かな売り上げ状況表でした。「これって見る人が見れば大変な重要情報?」と思ってしまいました。

またある取引先企業の近くのカフェにいた時、横に打合せ中の人達がいたのですが、どうも聞いたことがあるような部署名や個人名が聞こえてきて、多少の内部事情を知る身としては、どんな人たちが何の話題で打ち合わせをしているのかが、何となくわかってしまったということがありました。
「聞く人によっては利用できてしまう情報かもなぁ」と思いました。

最近はいろいろな場所でパソコンやタブレット端末を開いている人に遭遇しますが、たまたま目に入った画面が某社への提案書だったり内部資料だったり、その他いろんな事がわかってしまうことがあります。

もしもこれをシステム的な観点だけで防ごうとすると、結局昔と同じように、使える場所やアクセス権限や参照できる情報自体を制限するしかなくなってしまうでしょう。
しかしそれでは、仕事に要する時間、効率、その他あらゆることの生産性に影響してくるので、今さら簡単にできることではないでしょう。

結局セキュリティを保つには、利用する人の意識づけに委ねる部分が大きいということで、ただ「情報を制限すること」だけでは難しいということです。
もちろん、最悪の事態を考えての制限は必要でしょうが、基本的には適切な情報を与えながら、その利用の仕方をしっかり教育するということになってくるのだろうと思います。

この「情報を制限すること」だけによらない「適切な情報共有」という点は、円滑な組織運営をするにあたっても同じ面があります。
明日はこの切り口から少し書いてみたいと思います。



2013年1月5日土曜日

内定者に考えてもらった将来の夢


ある会社で、今年4月入社の新卒内定者への研修をやらせて頂いたときのことです。

内容を一言で言ってしまえば、「自分自身のキャリアプラン作成」となるのですが、まず「自分の将来の夢」仕事以外も含めて考えてもらい、そこから落とし込んでいく形で行いました。

初めに作文の形で自分の夢について書いてもらったのですが、初めにテーマを振った時には、「夢・・・ですか・・・?!」というような反応で、“あまり考えたことないなぁ”というような感じでした。

改めて思うに、彼らは厳しい就職活動を乗り越えてきた中で、何をどうやってアピールしようかと一生懸命自己分析をしてきていますから、今の自分を見つめることにはとても多くの時間を使っています。自分自身に良く向き合っていると感心することもあります。

一方で、就活中は先のことまで考える余裕はありませんから、改めて「自分の夢」と問われて、一瞬キョトンとしてしまったのでしょう。時節柄、仕方がない事なのかもしれません。

初めはキョトンとしていた彼らも、ゆっくり時間を与えて考えてもらうと、忘れかけていたことや漠然と思っていたことなど、いろいろな事が徐々に芋づる式に浮かんでくるようで、挙げられる夢の数がどんどん増えていきました。予想以上の反応だったのは、彼ら、彼女らの表情が、夢を考えているうちにどんどん明るくなっていったことでした。(本人たちは気づいていないかもしれません。)

最近は私自身もそんな傾向があるのですが、先のことを考えると何となく気が重かったり、不安だったりということが多いように思います。これも今のご時世では仕方がないのかもしれません。でも先のことを考えるということは夢を持つということで、本来は楽しいこと、ワクワクすることのはず・・・。これから社会に出る若い人達が「自分の夢」を考える様子を見ながら、改めてそんなことに気付かされました。

「将来の可能性の広がりは若い人達ほどではないけれど、自分ももっと“夢”を持って先のことを考えて行こう!」。意外に“夢”が少なかった気がする自分を振り返りながら、そんなことを思っています。


2013年1月4日金曜日

日本人は上意下達が心地よい?


明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
最近自分も含めて「日本人とは・・・」ということを考える事が増えました。新年早々はそんな中で思っていることを一つ。

私がいろいろな企業で社員の方々からお話をうかがうと、「会社が○○してくれない」「上司が○○してくれない」という言い方に時々出会います。私も若い頃はそう思うことが多々ありましたが、最近これにはちょっと違和感を持ちます。

少し前になりますが、ある会社で研修した時に、「会社からの制約が多くて自由にやらせてくれない」という話が出たので、研修の場ではテーマも進め方も、すべてを自分たちで決めてもらう形にしたことがあります。

でもいざ自分たちで決めるとなると、何をどうして良いかがわからなくなってしまうようで、結局ほとんどすべてのことで「どうしたら良いのか」と指示を求められてしまいました。実は自分たちが会社に強く依存していて、指示されないと意外に何もできないという事実に気付いていないのです。

テレビのニュース映像などを見ていると、「国が○○してくれない」「国や行政に○○してほしい」というコメントをよく聞きます。それぞれ大変な事情があって、本来は国や行政が行ってしかるべきなのかもしれません。でもその言葉に私はどこか人任せな印象を持ってしまいます。

特に日本人は、昔からの気質なのか、常にお殿様がいた政治体制のせいなのか、「お上の言うことには逆らえない」という所があるように思います。お上の批判はするけれど、いざ自分たちの責任に降りかかってくると意外に何もできない・・・。お上が何かしてくれるのを待っている・・・。上意下達であることが、実は心地よいのではないかと思うことがあります。主体性や自立心が足りないと感じます。

一方でこれは強みなのかもしれません。強くて有能なリーダーがいれば、その人を頂点にまとまれるからです。ここに更に主体的な考え方ができるメンバーが揃ったら、本当に強い組織になるはずです。

しかし、これまたその反面で、主体的に考える人が増えれば、強いリーダーは生まれにくい環境なのかもしれません。昔ながらのカリスマ的なリーダー像を求めるのではなく、今の時代なりのリーダー像を見出す必要があると思います。

上意下達をすんなり許容できる特性を保ちながら、自分たちの主体性を磨き、新たなリーダーシップの発揮の仕方を考えていくことができれば、日本の組織ってとっても強くなると思うのですが、皆さんはいかが思われるでしょうか。