2014年4月30日水曜日

守りの姿勢が気になる「定年まで働きたい新入社員」


日本能率協会が新入社員に向けて行った調査で、独立・転職志向について聞いたところ、「定年まで勤めたい」との回答が、1999年の調査開始以来初めて、50.7%と過半数に達したのだそうです。

新卒者が3年以内に辞める割合が3割などと言われ、この調査結果とは相反する実態もある訳ですが、会社にとって未経験で採用する新入社員は多大な投資ですから、多くの会社が若年層の退職抑制策をいろいろ実施していることから考えても、簡単に辞めないで勤めようという姿勢が増すことは、好ましいことなのだろうと思います。

ただ、私はその理由が何なのかということが、少し気になります。
この調査によると、就職活動に際しては、「自分の希望よりもまずは就職すること」を最優先に考え、入社を決めた理由は「会社の雰囲気の良さ」との回答が過半数を超えているそうです。
今の新入社員は、安定重視で居心地のよさ求める傾向があるという分析がされていました。

厳しい就職活動を反映したものだと思いますが、この分析の見方によっては、「もうこんな大変な思いはしたくないから、入った会社に何とか居続けよう」と思っているようにも捉えられます。

もしそういうところがあるのだとすれば、そこで問題なのは、「定年まで勤める」ということが目的化してしまっているということです。

これから仕事をして行く中では、就職活動での苦労など比べ物にならないような、厳しい場面に遭遇することはあり得ます。「勤め続けることの大変さ」がありますが、これを理解しないで、定年まで勤めることをただの安定と捉えていると、厳しさに耐えきれずにメンタルダウンなどを起こしてしまったり、責任回避や逃避の行動を取るようになってしまったりするかもしれません。

「無理して会社にしがみつく」「失敗を恐れて守りの姿勢になる」ということになってしまわないかが気になります。

「定年まで勤めたい」という気持ちの中身が、「縁をもらった会社に長らく貢献したい」「時間をかけて実力を身につけ、発揮したい」「腰を落ち着けてしっかり仕事をしたい」などということならば良いですが、「同じ会社に居続けた方が楽だろう」という感覚があるのだとしたら、これはあまり好ましいことではありません。

彼らの安定志向の中身を良く見た上で、これからの指導の仕方を考えて行く必要があるように思います。


2014年4月28日月曜日

結構異なる「コミュニケーション能力」のニュアンス


今までいろいろな会社で新卒採用、中途採用に関わる機会がありましたが、その人材要件として「コミュニケーション能力」というのは、ほぼすべての会社で高い優先順位で挙がります。

ただ、この「コミュニケーション能力」の中身をくわしく聞いていくと、会社毎に持っているニュアンスは、思った以上に違いがあります。

例えば、現在採用活動をお手伝いさせていただいているある会社では、必ずしも自分たちに接触されることを歓迎しない相手に対して、とにかくよく話を聞いて、相手の立場をしっかり受けとめるような粘り強いコミュニケーションが重要だそうで、一般的な営業職やサービス業に要求されることが多い、ハキハキした応対や、受け答えの反応の良さというたぐいのコミュニケーション能力とは、少し違うのだそうです。

また他の会社では、接し方、振る舞い、態度といったところがコミュニケーションの内容よりも重要で、とにかく人なつっこく接して、相手の懐に入って行くようなコミュニケーションの取り方が望ましいというお話でした。

どんな会社でも「コミュニケーション能力」が要求されることは、応募者の側でも当然わかっている訳ですが、面接などを通じてこの捉え方を見ていると、会社の思惑とは少々食い違っていることが多いという気がします。

特に新卒の学生さんなどは、「コミュニケーション能力」を、“自己表現力”、“アピール力”、“冗舌”、“話し好き”といったことと混同しているように感じることが多々あります。

これは、厳しい就職活動状況もあって、自分の思いをいかに相手に伝えるか、いかに自己アピールをするかが強調されているせいがあるように思います。

20~40代のビジネスパーソンを対象にしたある調査によると、「雑談力」に自信がないと答えた人が、新入社員レベルでは7割に及んだそうです。そもそも話すということ自体が苦手な傾向なので、その弱点をカバーしようとするあまりに、話す力ばかりに意識が集中してしまう部分もあるのでしょう。
聴く力よりも話す力の方に重点を置かれ、そういう指導や訓練を受ける頻度が多いのではないかと思います。

ただ、先に述べたように、「コミュニケーション能力」の捉え方のニュアンスは、会社によって結構違いがあります。にこやかにハキハキ話せれば、誰にでも良い印象を与えることは間違いないですが、それぞれの会社で望ましいと考えているコミュニケーションスタイルは、必ずしもこういう形ばかりではありません。

実際の仕事上のコミュニケーションは、相互理解、共感、信頼関係作りといったフレンドリーなものから、対決、自己主張、クレーム対応といった厳しい局面でのものまで様々で、それぞれの要求のされ方は仕事内容によって違ってきます。
「コミュニケーション能力」に対する、会社毎のニュアンスの違いというのは、たぶんこういうところから出てきているのだろうと思います。

こうやって見てくると、自分のコミュニケーションスタイルを今一度見直し、相手が望んでいるコミュニケーションスタイルと合わせて考えて行けば、「コミュニケーション能力」に自信がないと思っている人でも、活かせる力が意外に見えてくるのではないかと思います。


2014年4月25日金曜日

コンサルタントなのに「先生」と呼ばれる違和感の理由


コンサルタントとして仕事をしていると、クライアントから「先生」と呼ばれることがあります。コンサルタントが上から目線で一方的に教え始めたりしようものなら、それは確実にロクなことにならないので、「私なんか先生じゃないですよ」と言いますが、油断しているとまた「先生」になってしまいます。

他の士業の方々などにも話を聞いていると、私と同じように「先生」と呼ばれると何となく違和感があるとか、くすぐったい気分になるとか、心地良い捉え方をしていない人が大勢いらっしゃいます。

ただ、その中でも弁護士さんだけは、「先生」を受け入れている方が多いかもしれません。また、教師やお医者さんで「先生」と呼ばれることを嫌がっている人は、あまり聞いたことがありません。
その違いが生まれてきた背景は、あまりよくわかりませんが、個人の捉え方の問題と社会的な捉え方の違いの両方があるのだと思います。。

私自身は、なぜ「先生」と呼ばれることに違和感があるかと言えば、「そもそも教えるという立場ではないし、そんなに偉い訳でもない」ということです。「先生」なんて呼ばれて、調子に乗っているようではダメだという思いもあります。

要は「先生」などと呼ばれるに足る人間ではないし、そういう仕事柄でもないということですが、では「先生」とは本来どういう意味なのか、ちょっと調べてみました。

辞書にあったのは、
1.学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。
2.教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。また人名に付けて敬称としても用いる。
3.親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。
4.自分より先に生まれた人。年長者。
ということで、この中でも4の「年長者」という意味が、そもそもの原義ということらしいです。

そう考えると、確かにクライアントより年長になる場合はあるので、別に呼ばれても不思議ではありません。
また中国では、お互いを「先生」と呼び合ったりするそうですが、これは「○○さん」と呼んでいるのに近いのだそうなので、もともとの意味に近いのでしょう。
どうも「先生」という呼び方を毛嫌いするのは、大きく持ち上げられている呼び方だと勝手に思い込んでいるようなところもありそうです。

それでもやっぱり、自分が「先生」と呼ばれることへの違和感は変わりませんが、本来の意味を考えれば、あまりこだわりすぎる必要はないのかもしれません。

ただ、「先生」扱いされないことで怒り狂ったという政治家さんがいたという話を聞いたことがあります。
私とは正反対に、それほど「先生」という呼び名にこだわる人もいるということですが、少なくとも自分はそういう人にはなりたくないし、まぁなろうとしてもなれないのだろうとも思います。

いずれにしても他人の呼び方、呼ばれ方は、考え出すとなかなか難しいもののようです。


2014年4月23日水曜日

おせっかいがアドバイスになった瞬間


あるお店で食事をしていた時のことです。
40~50代くらいの女性客二人組が、近くにいた若い女性店員さんを呼んでいます。

その店は出入り口の一か所をクローズにして、別の出入り口に誘導する案内が出ているのですが、女性客お二人はそのクローズした出入り口の近くの席に座っていて、どうもその案内がわかりづらいと言っているようです。「間違う人がたくさんいるわよ。これじゃあ分かりづらいのよ」という声が聞こえます。

私はこの手の指摘はついつい「ああ、おせっかい!」と思ってしまい、もし自分が言われていたとしたら、あまり聞いていなかったり、その場だけでやりすごしたりしがちなところがあるのですが、この時の女性店員さんは違っていました。

「こちらに書いてあるだけでは見づらいでしょうか?」
「お客様も気になって落ち着かなかったですね。申し訳ありません。」
「ご指摘いただいてありがとうございます。」

そう言って数分後、案内を大き目に書いた張り紙を新たに作って持ってきて、その出入口に貼り付けていました。女性客二人組も満足そうに見ています。
言われたことをそのまま放置していたら、ただのおせっかいか苦情になってしまっていたことが、きちんとしたアドバイスになった瞬間でした。

私もコンサルタントという立場なので、自分の専門分野に関するアドバイスをすることが仕事の一部でもあります。自分なりに良いアドバイスができたと思った時には、それなりに達成感も満足感もありますが、今回の件で思ったのは、良いアドバイスというのは必ずしも自分の力だけでなく、相手のおかげで良いアドバイスになっているという部分がずいぶんあるのではないかということです。

自分ではアドバイスと思っても、相手の受けとめによっては、ただのおせっかい、大きなお世話になってしまうかもしれません。
逆にこちらの言い方で良くない点があっても、相手が謙虚な広い心で肯定的に受け止めてくれれば、結果的に良いアドバイスになっているということもあるでしょう。

良いアドバイスができたとしたら、それには相手がうまく受けとめてくれたおかげもあるのだということを、あらためて肝に銘じておきたいと思います。


2014年4月21日月曜日

面接は「準備が大事」か「成り行き重視」か


いろいろな会社で採用面接をお手伝いすることがありますが、最近感じるのは、すごく時間をかけて面接の準備をしてきたと思われる人が増えたことです。

かつてはどう見ても何か準備をしたような形跡がなく、まったくのぶっつけ本番と思われるような人に出会うことがありましたが、最近はめっきり減ったように思います。

基本的には就職活動が難しくなっていることに原因があるのだと思いますが、これを面接官の立場から見ると、特に新卒の学生さんなどに顕著なのは、「こういう質問にはこう答える」「こういうことをアピールする」ということをいろいろ考えすぎていて、逆にマニュアル的な回答に終始してしまっているように感じます。
そのせいであまり有益な会話が成り立たず、お互いの理解が深まらないと感じることが多くなりました。これは面接に向けての「準備のし過ぎ」と言えるのではないかと思います。

一方で、ほとんど準備をしてこないような人は、少なくなったとはいっても今でもいます。実は私自身も、どちらかといえばあまり事前準備をしないタイプです。人事の仕事をするようになり、頻繁に面接に立ち会うようになってからも、しばらくの間は「面接準備なんてあまり意味がない」と思っていましたし、よけいな準備をするせいで、その人の良さが表現できないと思っていました。

ただ、自分が実際に面接される機会があり、そこでいろいろな人のアドバイスを聞く中で、かなり考え方が変わりました。やはり成り行きまかせの会話だけでは自分の考えが整理できておらず、とっさに思いつく反応しかできないために、相手の質問に的確に答え切れないということです。
これが面接官に対しては、言葉足らずの横柄な態度、大事なことなのに準備をしない不真面目な態度に見えてしまう場合があるということです。

確かに自分が面接官の立場であったならば、会話がかみ合って良いコミュニケーションが取れたと感じれば、事前準備をしていようがいまいが気になりませんが、そうでないと急に準備不足の態度が気になり始めます。定番の質問の答えも準備していないとか、言っている内容がうわべだけだとか、そんな指摘が出始め、不真面目な印象にもつながってしまいます。

そんな中での私としての結論は、準備は必要だが想定問答のシミュレーションまでするような、やりすぎは良くないということです。準備がなさすぎると真面目さや誠意のなさとして相手に伝わってしまい、かといって形を決めすぎると、実際の会話をする上での妨げになってしまうということです。

やりすぎもやらなさすぎも良くないということですが、最近は少々準備をし過ぎる傾向があるように思います。これは昔に比べて就職指導や支援をしている機関や業者が増え、周りが世話を焼き過ぎるせいもあるのではないでしょうか。

やはり何事も、ほどほどがうまくいくような感じがします。


2014年4月18日金曜日

怒鳴る部長に真意はなかった


少し前になりますが、ある会社の部長さんに関するお話です。

この部長さん、とにかく自分の部下を怒鳴るのです。私のような外部の人間が近くにいたとしてもお構いなしです。今であればどんな事情があってもパワハラとして扱われてしまい、普通ならば通用しないだろうと思うレベルでしたが、それが何となく通ってきてしまっていたようです。

偶然その場に遭遇した時に聴いていると、話の中身は大事なことも些細なこともいろいろですが、普通に話せばよいだろうと思うことでも、何となくきつい口調で話し始め、すぐに怒鳴り口調に変わっていきます。

だいたい会社の中での怒鳴り声などというのは、必要以上によく聞こえるもので、まったく関係がない人間まで気になってしまい、社内の雰囲気もどんどん悪くなっていきます。

当然のように、この部長は周りからは避けられるような存在になっています。たぶんご本人もその状態をわかっているはずですが、自分の振る舞いは変えようとしているようには見えません。

そんなある時、この部長と直接お話する機会がありました。私がその時扱っていたテーマとは直接関係がなかったものの、人事コンサルタントの立場として話を聞いておく必要があると考え、お願いしていたのが実現したということでした。

実は私がその部長を見ている中で思っていたのは、「部下たちから嫌われるのをわかっていて、それでもあえて怒鳴るのは、何か意図している理由があるのではないか」ということでした。
話し方に問題はあるものの、言わんとしている内容は、それほどおかしなものではありませんでしたし、何か真意がなければ、あのようなコミュニケーションの取り方はあり得ないだろうという思いもありました。

そして部長とお話した結果、私の思っていたことは、すべて見事に裏切られました。別に真意などは何もなく、結局は「ただそういう人だった」ということでした。

意図していることがある訳でもなく、部下や周りから嫌われていることも、雰囲気を悪くしていることも自覚していませんでした。ただ「自分の思い通りに運ばないことに耐えられず、そうなるとつい感情的に反応してしまう」というだけのことでした。管理者になってはいけない人、組織で共に働くのは難しい人、結局はそういうことでした。

後から聞いた話ですが、この部長さんは、経歴上の実績を買われて中途採用された人だそうで、そこの会社で管理職を中途採用したのは初めてのことだったそうです。

面接という場では自分の合否がかかっていますから、怒り出すようなマイナス行為はしないでしょうし、普通にきちんと話す力があって、職務経歴もそれなりとなれば、面接だけで見抜くことは難しかったのだと思います。

その後入社してからの振る舞いに周囲もびっくりしてしまい、どう対応するかを上層部で検討していたということでした。間もなくこの部長は、退職勧奨の形でお辞めになりましたが、過去にいた会社でも同じようなトラブルがあったようです。

このことでの私の学びは、「事情を考えたり善意に捉えたりせず、ダメなものはダメだと毅然として制する態度が必要」ということです。いつも怒鳴り散らしている人なんて、どんな事情があったとしてもやっぱりダメなのです。

人を見るときには、過去の経歴、自分の常識、その他思い込みに引きずられるのは禁物だということを、あらためて肝に銘じる必要があると感じた一件でした。


2014年4月16日水曜日

自分の「自然体」はどこにある?


つい最近のことですが、ある人の仕事ぶりを見ていて、「この人の自然体ってどこなんだろうか?」と思ってしまうことがありました。

一生懸命にいろいろな活動をしている方で、頑張っているのがわかるし行動力も感じます。でもどこか無理をしているような、背伸びをしているような、人からなめられないようにバカにされないように、弱みを見せないようにと振る舞っているような、そんな印象がありました。

一見すれば、何事も順調にうまく行っているように見えますが、本当にそうなのかと思ってしまうような、そんな風に感じてしまう部分がありました。

あくまで自分の勘のレベルですが、「この人の本来の姿、自然体は違うのではないか」「本音は別にあるのではないか」と感じてしまったということです。

ご本人に直接「実は無理してる?」などと聞くことができる間柄でもなかったので、自分の勘を確かめることはできませんでしたが、これをきっかけに「自分自身の自然体ってどこにあるんだろうか・・・」ということを、ちょっと考え始めました。

思えば私自身、最近周りの人から言われるのは、「バイタリティがある」「誰とでも話せる」「人の懐に入るのがうまい」「わりと毒舌」なんてことですが、自分の自然体を考えてみると、毒舌以外はたぶん自然体とは言えない事ばかりです。

これを昔からの知り合いに聞けばまた違うことが出てくるでしょうし、その中にも自然体と捉えられるのことと、そうでないことの両方があるのだろうと思います。

もしも私が自分の本音のままに、好き勝手に行動しても良いとなったら、いちいち知らない人と機嫌よく話すのは面倒だし、自分から声を掛けるのは実はあまり好きでないし、自分の気分次第で出歩くのは良くても、そうでなければ意外に一人でじっとしているのが好きだったりと、周りから見た印象とはきっとだいぶん違うのではないかと思います。

では周りから見えている姿が虚像かというとそんなことはなく、自分としては全部それほど無理せずにやっていることです。そういう意味では自然体とも言えますが、本当の本音ではちょっと違う、そんな感じです。

たぶん、初めはイヤイヤだったことが、経験するうちにあまり苦にならなくなり、それがいつの間にか、自分の自然体の一部になって行ったというような感じかもしれません。
ここで思ったのは、自然体には先天的に持っていることと、後天的に身についたことがあり、ある時間を経過すると、その区別がわかりづらくなるということです。

そうは言っても、先天的な自然体と後天的な自然体では、やっぱり初めの受け止め方が違います。先天的な部分は本音で自然に行動できますが、後天的な部分だと、「よし行こう!」と思わなければ行けないようなところが、今でもあります。
きっとこのあたり、初めの一歩の出方が違うでしょうし、継続する度合いも違うと思います。

偶然のきっかけで考えた「自分の自然体」ですが、自分自身の行動特性を押さえておくために、たまにはこんなことを確認してみることも必要なのかもしれません。


2014年4月14日月曜日

「あうんの呼吸」に頼るマネジメントの弊害


あるウェブ記事に、『新人に「分かった?」と聞けば、「分かった」と答えるに決まっている』というものがありました。

教えたり指示したりした後、「分かった?」という言葉で簡単に終わらせず、理解度をきちんと確認することが大事で、その言い方も否定的、威圧的に受け取られないように工夫する必要があるという内容でした。

書かれていることはその通り、実践していかなければならないという内容で、私が現場でのマネジメントを見ている中でも、実際にはなかなかできていないことが多い部分です。

その理由はいろいろあるはずですが、その一つとして私が思うのは、今まではそこまでいちいち理解度までを確認しなくても、あまり問題がなかったのではないかということです。このことに限らず、特に日本人同士のコミュニケーションであった場合は、「あうんの呼吸」で済んでしまう場面が多かったということがあるのではないでしょうか。

例えば、「あの件、うまく進めておいて」なんていう、およそ具体的なことは一つも言っていないような指示命令でも、お互いの共通認識があるおかげで、何となく通じていることがあると思います。マネージャーの立場からすれば、あまり細かいことを指示したり確認したりしなくても、部下たちが「あうんの呼吸」で良きに計らってうまく仕事を進めてくれるので、これほど楽なことはありません。

ただ最近言われるのは、様々な価値観を持ったグローバル人材と一緒に仕事をする機会が増え、同じ日本人同士でも価値観が多様化している中では、その「あうんの呼吸」では通じないことが大幅に増えているということです。

「普通は通じるだろう」というような、思い込みに基づくアバウトなコミュニケーションでは、誤解や勘違い、間違いが起こりやすくなっているので、きちんと伝わっているかどうかをその都度確認することが、今まで以上に必要になってきているということです。

ただ、マネジメントを担っている管理職クラスの方々からは、「最近の若手社員はいちいち指示しないと動かない」「自分たちとは常識が違う」といったような、部下に対する批判的な話をときどき聞きます。

確かにそういう面があるとは思うものの、リーダーやマネージャーの役割は、その時の状況を的確に判断して、部下に指示命令を出して動かすことですから、指示をしなければ動かないのは当たり前です。逆に指示もしないのに動かれたら本来は困るはずですし、常識うんぬんを理由に、それをせずに済まそうというのは、実はちょっとおかしな話です。

これこそ、今まで「あうんの呼吸」に頼ってきていて、それでどうにかなっていたという弊害のように感じます。「あうんの呼吸」で通じるのは、共通認識で話せる同僚や部下にたまたま恵まれていたということで、そういう環境の方が偶然でラッキーだったということです。

「いちいち言わなければ通じなくなった」のではなく、「きちんと言わなければ伝わらない」という、ごく普通の形に戻ってきただけではないかと思います。


2014年4月11日金曜日

巻き込んでいるのか?、振り回しているのか?


私が関わる事が多い人事制度構築のように、企業内の仕組みづくりの場面では、「他人を巻き込む力」というのはとても重要になります。

それに限らず、会社の中で何かを変えよう、何かを直そう、何かを始めようといった時には、できるだけ多くの周りの人たちから賛同され、直接間接を問わずにサポートしてもらう事がほぼ間違いなく必要になります。そうやって周りの人を「巻き込んでいく力」を持った人がいてくれれば、様々な課題を少しずつ良い方向に進めていく事ができます。

「巻き込む力」がある人の特徴を見ていると、ありきたりですが“周りの人との信頼関係作りがとてもうまい”と感じます。
やっていることもありきたりに言われることで、「直接話して筋を通す」「嘘をつかない(結果的にウソになってしまいそうなことも、事前にきちんとフォローしている)」「相手を否定しない」「罵倒したり攻撃したりしない」など、要は「あいつが言うなら仕方ない」「あいつがやるなら応援するか」などと思わせてしまう人で、俗にいう「人望がある人」ということなのだと思います。

またこの人望というのは、イメージ的には経験豊富な年上の人の方がありそうな気がしますが、「巻き込む力」ということで見ると、あまり年令には関係なく、できる人はできるし、できない人はできないようです。

このように大事な「巻き込む力」ですが、最近よく見かけて問題だと思うのは、この「巻き込む」ということと、「振り回している」ということを、混同している人が増えているように感じることです。

こういう人は、ご本人としては「自分は信頼され、自分の考えはみんなから賛同されている」と思っていますが、実はそうではなく、権威や強引さを理由に、周りは仕方なく合わせているようなことが往々にしてあります。
ビジネスではスピードが大事ですが、それを重視するあまり、合意を取ったり納得を得たりという、信頼関係を作るプロセスを省略してしまっています。一見サポートしているようだけど、本音は違うというようなことです。結局はただ「振り回している」だけということです。

実は巻き込んでいても、振り回していても、ある時点に限って見れば、わりと同じような状況に見えてしまいます。ある人の周囲に人が集まって動いているということでは変わりがないからです。

ただし、その後の向かう方向は正反対に大きく違います。「巻き込んでいる」ということは、求心力が働いているということなので、周囲のサポートがその後もどんどん増えていきますが、「振り回している」という場合には、遠心力が働いているので、周りの人のサポートは時間とともに減っていきます。また一度離れていった後は絶対に戻ってきません。

注意して状況をよく見ないと、「巻き込んでうまくやっている」と思っていたのが、実は「振り回していただけ」なんていうことがあり得ます。
 「巻き込んでいるのか」、それとも「振り回しているのか」を見誤ってしまうと、その影響は意外に大きいかもしれません。


2014年4月9日水曜日

「スイッチオフ」が早い気がする新人さん


今はちょうど新人研修真っ盛りの頃だと思います。私もいくつかの会社でお手伝いをさせて頂いています。
 私は基本的に、新入社員を含む最近の若手社員は、素直で能力がある人たちだと思っていますが、その一方で「ゆとり世代は・・・」との言い方に代表されるような、批判的な話も耳にします。

先日ある会社にうかがった際も、そこのご担当者からさっそく、「今年の新人に態度のよろしくない者がいる」とのお話がありました。何でも、研修初日から何の躊躇もなく思いっきり居眠りしていたとか、先輩との雑談でポケットに手を突っ込んだままでタメ口をきいていたとか、おおむね礼儀に関わることが多いようです。他の会社で聞くのも、だいたいがそのようなたぐいのことです。

このあたりは個人差が大きいところですが、私自身もいろいろな会社の新人研修で感じる時があります。
例えば、研修後にアンケートを書いてもらう事がありますが、それを回収する時、ソッポを向いたまま片手で渡す人がいたかと思えば、立ち上がってお礼の言葉とともに、賞状を渡すように両手で紙の向きを変えて渡してくれる人もいます。別にそこまでしなければならない決まりはありませんが、気分が良いのは当然後者の方です。

こういうことを「その人次第だから」と言ってスルーしてしまうと、できない人はずっとそのままになってしまうので、最近はそれとなく、「あの人みたいにすると相手の印象が良いよ」などと声をかけるようにしています。そうすれば気がついて、同じように行動するようになります。気づいて意識することができさえすれば、やる気はあるのです。

ただ、そうやって注意される人は、ほとんど同じと思われるような場面でも、何かがちょっと変わっただけで、やっぱりできなくなってしまいます。前段のアンケートの話でいえば、渡す相手が社外講師ではなく社内の先輩に変わった、アンケートでなく事務書類に変わったなどということで、また元に戻ってしまいます。

こればかりはいちいち言うしかないのでしょうが、なぜかといろいろ理由を考えた時、ちょっと思ったのは、どうも「気を抜くタイミング」が早いのではないかということです。周りの様子を見ていたり、空気を呼んだりしていればそれなりにできるものの、ちょっと状況が変わるともうOKと思うのか、「スイッチオフ」するタイミングが早いので、結果的に気が利かないと言われてしまっている気がします。

これは、採用面接で非常に応対が良かった学生が、その後会社の近所で偶然見かけたら、「面接だり~ぃんだよ・・・」なんて悪態をついていたということがありましたが、本来なら油断大敵な場所での「スイッチオフ」も、同じような根っこがあるように感じます。もしかすると、よく「淡白であきらめが早い」と言われる部分も、この「スイッチオフ」の早さと通じているのかもしれません。

結局、「意識すればできる」という段階は、まだ習慣化はされていないということです。その後も続けるように、根気よく指導するしかありません。
そのためには、簡単に「スイッチオフ」をされないように、刺激を与え続ける工夫も必要なのかもしれません。


2014年4月7日月曜日

無連絡で欠席する経営者たち


人脈づくりの一環として、ときどき異業種交流会に参加します。
かつてはいろいろな会に参加していましたが、最近は経営者だけしか参加できない会や、懇親会などがあって、より親睦を深められそうな会だけを選んでいます。その方が一方的に営業されるようなこともなく、その後の息の長いお付き合いにつながりやすいということがわかったからです。

つい先日も、ここしばらくご無沙汰していた経営者のみの交流会に参加したのですが、そこで少し気になることがありました。主催者の方から聞いたところでは、当日ドタキャンの方が10数名いて、その8~9割は欠席の連絡すらないのだそうです。

以前、就活生の会社説明会でも連絡なしのドタキャンが多く、それはやはり問題であるし、きっと結果に関係する部分もあるだろうと述べたことがありますが、どんなレベルの人であれ、立場が変わってしまうと、どうも同じことをするようだということです。

学生の場合はまだ社会経験が少ないし、やむを得ないところもあるでしょうが、こちらは曲がりなりにも経営者という方々ですから、それなりに社会的地位も信用もある方々です。
そういうレベルの方々であっても、学生たちと同様の状況であることを聞き、少し驚きを感じました。

この理由を考えてみると、たぶん「特に知っている人が開催している訳でもないし、キャンセル料がかかる訳でもないし別にいいだろう」という程度の感覚だと思いますが、そうは言ってもビジネス上の約束で、それを自分の都合で変更するのであれば、少なくとも連絡くらいするのがビジネス上のマナーだと思います。準備をして待っている“相手の事情”を考えれば、当然のことでしょう。

これもきっと、相手が自分の顧客や関係先であれば、きちんと対応するのだと思いますが、それをしないということは、やはり相手との関係性によって相手を見下したか、もしくは自分に損はないと見て態度を変えているということです。

どんな人でも、お互いの力関係や上下関係、性格的な得手不得手、好き嫌いなど、相手によって態度が変わることは多少なりともあるものですが、どうも最近は、自分の都合中心で態度を変える傾向が、世代を問わずに強まっているような気がします。

やっぱり怖い上司には気安く話しかけられないし、苦手な人とのコミュニケーションは、なかなか難しいものですが、その一方で、上司や仲間内にはいい顔をするが、それ以外には威圧的、攻撃的だったり、サービスを受ける側になると途端に横柄になったりするなど、相手との関係性によって、はっきり態度を変えるような人に出会うことが増えた感じがします。

いくら相手によって態度が変わることはあり得ると言っても、経営者として人をリードしていく立場にある人が、“相手の事情”に対して無頓着なのは、やはり問題だと思います。最終的には会社の業績に影響している部分もあるのではないでしょうか。

実際のビジネス上の取引では、確かに相手との駆け引きもありますし、相手との力関係を推し量ることも必要だとは思います。ただ、その時々で態度を変える人とは、一緒に仕事がしづらいのも事実です。少なくとも私は、どんな良い条件の仕事であったとしても、そういう人とは取引をしません。

経営者は、他人から指摘を受けたり指導されたりということは、自分で相当に意識して求めでもしない限り、あまり言われることがないものです。周りにチヤホヤされたりでもすれば、自分の行動には甘くなってしまいがちです。

今回のことは、自分への戒めとしても、心に留めておきたいと思います。


2014年4月4日金曜日

「管理」と「マネジメント」の微妙で大きな違い


「マネジメント」という言葉を日本語で表現しようとした時、一般的には「管理」と訳されることが多いと思います。「マネージャー」といわれれば、「管理者」「管理職」と言い換えられることが多いでしょう。

この「管理」という言葉の意味を調べてみると、「ある規準などから外れないように、全体を統制すること」とあります。
組織マネジメントにおいて、確かにそういう側面はありますが、「マネジメント」という言葉の本来のニュアンスからすれば、決してそれだけではありません。

”現状評価・分析“、“計画立案・実行”、“判断・選択”、“人員配置”、“部下指導・育成”、“関係調整”、“指揮・統制”、“動機づけ・モチベート”その他様々な要素を含んでいます。
これら組織運営に必要な概念を統合したものを、本来の「マネジメント」と考えるのが実態に近いはずです。

多くの要素を駆使して組織を回していくことが「マネジメント」だと思いますが、実際のマネージャー、管理職の中には、本来の意味での「マネジメント」ではなく、限りなく「管理」に近い仕事が自分の役割と理解し、それに終始している方がいらっしゃいます。

「マネジメント」という言葉が「管理」と訳され、自分は「管理者、管理職」と呼ばれれば、そう考えてしまうのも無理はありませんが、それでは組織を「マネジメント」するマネージャーの役割としてはかなり不足です。

もしも「ある規準などから外れないように、全体を統制すること」だけがマネージャーの役割だとすれば、人間があらかじめ決められた通りにきちんと動いているかををチェックする、確認することが仕事ということになり、そこで働く人間に対する捉え方は、工場のラインで動く機械、その機械の歯車と同じ認識になります。

しかし実際にはそうはいきません。人間は個人個人で能力も性格も違い、同じことを言えば同じように働くとは限りません。能力が高い人も低い人も、やる気がある人もない人もいます。そんな人たちをすべて含めて、手元にいる人材リソースを駆使して業務に当たることが求められるのが、マネージャーの本来の姿です。

そういう意味では、「管理」というのは、“見張り”に近く、「マネジメント」“やりくり”に近いでしょう。そして、ただ見張っているだけが本来の「マネジメント」ではありません。

言葉というのは、その表現のイメージによって、捉え方が変わってきます。「マネジメント」の場合は、これを「管理」と言ってしまうことで、本来のニュアンスとは微妙に違ってしまっている印象があります。またその違いは意外に大きいようにも感じます。

特に人と関わる中での言葉での表現のしかたというのは、とても大事な位置づけにあるものだと思います。


2014年4月2日水曜日

見せしめと感じてしまう懲戒処分


あまり好ましいことではありませんが、組織の秩序を維持するために、懲戒などの罰則が必要になることがあります。私の経験でも、かなりひどいと思われる服務規律違反などを見たことがあり、そんな時ほど、懲戒処分に関する規定はきちんと整備しておく必要があると感じます。

ただ、最近あるところから伝え聞きをした話で、少々疑問に思ったことがありました。
ある社員が、地域的にも遠方への異動を命じられ、いろいろ事情があって、初めは無理だと拒否したそうです。その後結局は命令を受け入れて異動したそうですが、それが企業の秩序を乱したとして、社内の懲罰にかけられ、降格という懲戒処分にされてしまったそうです。

法律的にいえば、配置異動の権限というのは会社に対して広く認められているので、相当な無理や嫌がらせの要素でもない限り、ほぼ一方的に命令することはできます。
ただ、最終的に異動を受け入れたにもかかわらず、懲戒処分にされてしまうというのは、さすがにちょっとどうなんだろうと思います。

私の考えが甘いと言われれば、その指摘は甘んじて受けますが、もしも私が経営している会社であったならば、そんなことは絶対にしません。この例のような懲戒処分は、不正行為や不当行為、他の社員への迷惑行為などを罰するというよりは、「会社の命令にたてつくと、こういう目にあうぞ」という見せしめでしかないように感じるからです。
異動命令に際して、それなりの話し合いはしたのかもしれませんが、社員との間に信頼関係はなく、それを権限で押し切った上に、重い罰まで課したということです。

異動に関しては、いくら会社側に権限があるからと言っても、私はお互いにしっかりと話し合って、お互いに納得した上で行うのが普通だと思います。会社と社員の関係は、相互に依存している“お互い様”の関係だと思うからです。

最近は、ブラック企業などと言って、社員から搾取することを当たり前のように考えている会社の話を聞きますが、社員を粗末に扱う会社は、同じように社員からも粗末に扱われます。
今のような厳しい雇用環境にあるおかげで、働いてくれる社員がいますが、このバランスが少しでも好景気の方に転換すれば、そんな会社で働こうという社員はあっという間にいなくなります。

最近は会社側が強い状況がずっと続いているので、感覚がマヒしているかもしれませんが、会社と社員の力関係のバランスは、常に揺れ動きます。揺れ動くからこそ、自分の立場が強いからと言って、一方的に相手ばかりに押し付けず、常に“お互い様”の関係が必要なはずです。

この話の会社は、その時点での会社としてのプライドは保ったのかもしれませんが、社員との信頼関係は確実に崩れたと思います。この手の話は社員の間にはすぐに広がり、その影響は悪い方向しかありません。

この会社が、今の強気な姿勢のままで、これからもやっていけるのかと考えると、私はとてもそうとは思えません。