2016年3月30日水曜日

一見良さそうだが、やろうとすると難しい「同一労働同一賃金」



首相が施政方針演説で、「同一労働同一賃金」の実現を目指すと表明したことで、これに向けた具体的な議論が始められています。

「同一労働同一賃金」とは、同じ価値の労働に対しては同一の賃金が与えられるべきであるという考え方で、この原則は、欧米では一般的に導入されているものです。

日本の場合は、主に正社員と非正規労働者の賃金格差を是正する目的があり、この格差は諸外国でも無い訳ではありませんが、日本の方がかなり大きいのだそうです。正社員の賃金を100%とした場合、フランスは89%、ドイツは79%に対し、日本は57%ということです。

2015年9月には「同一労働同一賃金推進法」という法律が成立していますが、同じ仕事であれば賃金も同水準にする「均等待遇」の規定は弱められ、同じ仕事でも責任などに応じたバランスが取れていればよい「均衡待遇」に修正されています。
職種別賃金が基本である欧米とは異なり、日本は賃金を決定する要素が多様で、職種が同じでも賃金が異なることが一般的であることが大きいのでしょう。

私は「同一労働同一賃金」が、不当な賃金格差を解消することにつながるならば良いことだと肯定的に思っていましたが、具体的にいろいろな状況を考えはじめると、難しい課題がたくさん浮かんできます。

例えば、同じ製品を同じ設備で作るとして、1時間で50個しか作れない人と100個作れる人では、それが同じ職種だから“同一労働”というのは少し違和感があります。
また、総人件費の関係では、非正規労働者の賃金を上げれば正社員の賃金は下げざるを得なくなるでしょう。
さらに、日本は企業規模による賃金格差が諸外国に比べて大きいとされ、これも「同一労働同一賃金」のハードルになります。

一番大きな問題は、そもそも何をもって「同一労働」と定義するのかということで、これは相当な割り切りをしない限り、線引きは難しいと思います。
「総論としては良さそうな感じがするが、各論を考えるとかなり難しい」というのが私の印象です。

それでも議論しようというのは良いことですし、必要なことだと思います。日本の雇用慣行を踏まえた、慎重で実りある議論を望みます。


2016年3月28日月曜日

「高校生が結んだ労働協約」の話題で大人たちの反応を見て思うこと



ある大手コンビニで、アルバイトとして働く高校生が、労働組合を通じて労働協約を結んだという話題がありました。
「賃金支払いは1分単位」とすることが柱で、それに見合った過去2年分の未払い賃金の支払いや、売上計算が合わないときに自腹で補填した分の返還なども認めさせたとのことです。

学生を中心とした若者のアルバイトに不当労働を強いる、「ブラックバイト」といわれる企業に対抗する行動として称賛される意見がある一方、1分単位での賃金支払い要求を「やりすぎだ」「本当に真面目に働いているのか」「大人になってもそんなことがいえるのか?」などという批判が散見されるなど、この行動に対しては両極端の意見があります。

私のつながりがある人たちでも、経営者や管理者といった立場の人が多いせいか、主にSNS上での書き込みなどで、どちらかといえば批判的な意見を多く目にしました。
「初めにもっと話し合えなかったのか」
「働かせてもらっている感謝はないのか」
「権利主張するだけの義務は果たしているのか」
「そんな主張をする人は雇いたくない」
などという言葉でした。

私が多くの会社や経営者を見てきて、「人を雇う」「雇用を産み出す」ということがいかに大変なことかは、いつも思っていることです。法律違反はいけないことですが、そのギリギリの境目のところで、社員の協力を得ながら経営している会社もたくさんあります。
そういう人たちから見て、今回のことが一方的な権利主張と思ってしまう気持ちはわからなくもありません。

ただ、私はこの一件については、アルバイトの高校生という非常に弱い立場にもかかわらず、勇気を振り絞って権利主張をした行動の方が、素晴らしいことではないかと思っています。こういうことへの感度が鈍い経営者は、私が見てきた中でもまだまだ存在するからです。

これはある会社でのお話ですが、休日である土曜日に研修を企画しようとしたことがあります。研修の企画は社長の一存で、講師も社長自身がやるつもりでした。
始めは「全員参加だが仕事ではないから給与を払うつもりはない」ということでしたが、配下の部課長から「それでは法律違反に問われる」という批判を受け、その後は任意参加という建前で実施することとしました。
 
それでも社長は「自己のレベルアップを考えるならば自主的に参加すべきだ」などと、社員個人個人に直接参加を促すような話をし、「参加した者の方が評価は高くなって当たり前」などとも言っていたようです。

あまりに露骨な問題発言も多いので、私からも自重するようにお話をしましたが、それでも「会社がせっかく自己研鑽の場を作っているのに、参加意欲の低いことが理解できない」「自分のためになることなのに、それは仕事だとか給料を払えとか、権利主張ばかりすることに納得ができない」とおっしゃっていました。
そこで見られたのは、ただ純粋に「社員にレベルアップしてほしい」という自分の思いが、社員たちには受け入れられないことに対して葛藤しているような様子でした。

この方もそうですが、経営者や上位の管理職のような立場になるほど、仕事とそれ以外のことをはっきり区別することは難しくなっていきます。私もそうですが、今やっていることが仕事なのか、遊びなのかということは、とにかくあいまいになってしまっています。

そして、その感覚のままで雇われている立場である社員たちに向き合ってしまうと、こんな行き違いが起こってしまうのではないかと思います。会社が求めるならば、仕事として給料も支払うべきですし、そうでないならば、任意参加ということで徹底しなければなりません。

一連の批判を聞いていると、自分自身が雇われた経験がないか、雇われていた頃のことを忘れてしまっているか、そのどちらかのような感じがします。
“義務を果たさない権利主張”というのは確かにあります。ただ、それを批判するならば、やはり法律という義務は、厳しくても果たさなければならないのだと思います。


2016年3月25日金曜日

運がいい人ほど「自分は運がいい」と思っているらしい



「運をよくするには」とか「運が良い人の共通点」といった話は、いろいろな方がいろいろなことをおっしゃっていますし、「運」をテーマにしたような書籍も、書店ではかなりたくさんの物を目にします。

本当にたくさんのことが言われていて、ちょっと目についたものを挙げてみると、
・人生の岐路で迷った時に、困難な方を選んだ方が運はついてくる。
・楽観主義の方が運がよく成功しやすい。
・夢や目標がかなった状態をいつも頭のどこかで思い描いていると、幸運が目の前に現れたときにキャッチできる。

などというものがありました。

言われていることは、人としてあるべき行動とつながっていることが多いので、それぞれ納得できるものばかりです。

そんな中、最近身近な人たちの何人もから、同じように言われて気になったことがあります。それは、「運がいいと思っている人ほど運が良い」ということです。確かに成功していると見られる人ほど、「自分は運がいい」とおっしゃっているような気がします。

調べてみると、多くの著名人も同じようなことを言っていて、有名な話では、松下幸之助さんが社員の採用面接のとき、よく「あなたは運が良い方だと思いますか?」と聞かれたといいます。ご自身でも、「自分は運がいい」と一日に何度もおっしゃっていたのだそうです。

その理由の一つは、そう自分に言い聞かせて思い込むと、自身が持てるようになり、自分から積極的に行動できるようになるということ、もう一つは「自分は運がいい」と思う人は、今を肯定的に捉えて、悪いことが起こっても他人のせいにしない人、逆に良いことがあれば、それは他人のおかげだと謙虚に思える人なのだそうです。

私自身も自分勝手に「運がいい」と思い込んでいるタイプですが、それで運がよくなっているなら、それに越したことはありません。
私の昔からの知り合いの一人に、これとは正反対の「自分は運が悪い」と言い続けている人がいます。会社の愚痴、仕事の愚痴が多いですが、思い通りの仕事はなかなか担当させてもらえず、いつも火を吹いた大変なプロジェクトばかり、一生懸命やっても大して評価もされず、給料も一向に上がらないのだそうです。

お金を落としたとか、買ったものが不良品だったとか、本人にはどうしようもなさそうな話もあるので、確かに運が悪いと言ってしまえばそれまでのように思いますが、仕事のことに関して言えば、自分にそういったことが降りかかってくるのは、必ず何かしらの理由があるのだと思います。それはたぶん本人にも原因があることです。それを真面目に考えようとせず、ただ「運が悪い」といって思考停止しているように感じます。

運という一見自分ではどうしようもなさそうなことでも、自分の行動や考え方次第では、良い方向に変えていくことができるような気がします。
たかが運、されど運という感じですが、いろいろ言われる「運がよくなる方法」も、何か実践してみると良いことがあるかもしれません。